第0話 「世界が変わるまで」
それからの僕の行動は早かった。
どれくらい早かったかというと、少なくとも5Gよりは速かったと思う。
彼女の影が一切見えなくなってから僕はすぐさまこの夏休みの計画を立てた。
残り一か月近い夏休みを使って彼女との距離を縮めよう、そういう計画だ。
そんないきなり何言ってんだ、こいつ?っていう計画を練りに練った。
そのためにまず宿題を終わらせようと考えた僕は必死になって課題を終わらせることに尽力した。
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉおおお!」
答えなるものを見てしまえば、きっと数日あまりで苦も無く負荷なく終わらせることができるのはわかっていた。
だがそれをやることは彼女の思いに不誠実ではないか?
と、自分でも何言っているのかわからないが、必死にやった。
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉおおお!」
もともと成績が中の下だった僕にとって夏休みの課題はかなり強敵だった。
教科書とテキトーに板書を写したことがわかる落書き付きノートを開いて、必死に取り組んだ。
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉおおお!」
こんなことならもっと授業をしっかり聞いておけばよかったと後悔の連続。
何度も答えをミチャイナヨーという囁きに折れそうになりながらも、なんとかペンを動かし続けた。
―――宿題開始から六日後。
「よっしゃあああぁぁあああああ!」
その成果もあって、ものの六日で夏休みの課題は全て終了。
祖父ちゃんと祖母ちゃんはいきなり目の色を変えて勉強に取り組む孫を珍しいものでも見るかのように見ていた。
が、それもどうやら寝ていないとばれると二日目までは注意喚起。
三日目からは、いいから寝ろ!と本気のお叱り。
それでも強情にいっそ強かに布団を被さり、その中にスタンド付きの電灯で照らしてペンを滑らせたのはいい思い出である。
五日目に入ると孫が何かの病気、もしくは呪いに罹ったのではないかと町の病院で診察、近くの神社でお清めをされそうになったが阻止。
六日目の早朝、こうして晴れて全ての課題を終わらせた。
夏休みの計画についてだが、とりあえず彼女を誘う。
きっとなんとかなる自信だけはあった。
その後は山だろうが、川だろうが、海だろうが。
エベレストだろうが、ナイアガラフォールズだろうが、バミューダトライアングルだろうが。
彼女が行きたいというところならどこでも行く。
以上だ。
決意と覚悟と興奮と期待と疲労と睡眠不足を胸に玄関の戸を開いて。
意識が飛んだ。
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目を覚ますと病院だった。
きったない天井だ。
到底、白とはいえない。
それに全く知らない天井だ。
マジで知らん。
上体を起こすのがだるくて、よっこいしょと爺臭いこと言いながら体を起こして周りを見る。
すると目の前、僕の正面にはベッドがあった。
それと知らないおっさん。
見たことのないその人は推定40代中間で、物語の初めに概要とかある程度の情報を教えてくれそうな風体のあごひげを伸ばした男性だった。
「お、坊主。
ようやっと起きましたか。
よかったですねぇ。
命に別状はないらしいんで、早速退院できるかもしれないですよぉ」
「あ、はい。
どうもー」
ちょっと何を言っているのかさっぱりわからない。
ここが見るからに病院なのは傍らにある丸椅子とか点滴とか、そういうのでわかる。
だが僕の状態を一番最初に教えてくれたのは目の前の今、少年雑誌をげらげらと読んで笑う中年。
一先ず落ち着いて何が起こったのか。
整理しようと思ったが記憶は数瞬前のことで止まっていた。
玄関の戸を開いて。
そこでプッツン。
どうして玄関の戸から病院にいるのかがわからない。
起承転結の起と結しかない。
「あっ、明夜やっと起きた!」
そこでようやく知った声がきこえてきて安堵。
病室に入ってきた祖母ちゃんはパタパタと少し大きめのスリッパを選んでしまったのか、短い歩幅でこちらにやってきた。
「あんた、ほんと、心配かけて!
何日も徹夜したから、こうなるんよ!」
ああそうだと、そういえば僕は徹夜をしてその脚でそのまま彼女のもとに行こうとして倒れたんだ。
ふと思い出した玄関口の固い床の感触と頭部をぶつけたことによる、一瞬の痛みを思い出した。
我ながら一週間近く徹夜してそのまま炎天下の元外出しようとは、無謀極まりない。
「ほんとうにごめん。
もう二度としないように気を付ける。
心配かけて本当にごめんなさい」
ベッドに腰を預けたままだったから、あんまり下げることはできなかったけど心は精一杯に頭を下げた。
「まったく、どうしよもない子だね。
ほら、頭上げて。
祖父ちゃんにも早く伝えないとね。
ああ、お父さんとお母さんにも念のためって、今さっき連絡しちゃったところだよ。
まったく、あんたは……」
祖母ちゃんはそう言うと、こと切れたように張り詰めた糸が切れるようにボロボロと涙を溢れさせた。
自分が思っている以上に迷惑を掛けていたと深く反省する。
それに父さんや母さんにまで心配をかけて……。
……父さんと母さんにまで?
「祖母ちゃん、さっき父さんと母さんにまで連絡したって言った?」
「……そうだよ。
だから、このあと、もう一回、連絡しないと、いけないんだから。
あんた、本当に、もう……」
祖母ちゃんはそこでまた、持っていたハンカチでヨヨヨと涙を拭っては泣き始めてしまった。
正直両親の仲はただいま不仲絶交真っただ中で、僕も概ねそれがあってこうして逃げるように祖父ちゃんの家に転がり込んだわけで。
その二人に自分が意識を失っていたことが伝わっているとなると、何かしらのアプローチが来ること間違いなしなわけで。
これから彼女と忙しくなる僕にとって今はそれどころではないと、ほっぽってしまいたくなるような話会いが設けられるだろうと予想された。
というか。
「あのさ、正直、本当に、いや本当に僕が言えたことじゃないんだけど……。
どうして、二人に言っちゃったの……」
祖母ちゃんも祖父ちゃんもあの二人が怪獣大戦争をしているのは知っているはずだ。
二人の戦争は日に日に激化しこうして、不憫に思った祖父ちゃん祖母ちゃんが孫である僕に衣食住を提供しようと言ってくれたのだ。
ゴウゴウと燃えさかる炎に油を注いだら、まさしく火を見るよりもなんとやらなわけで。
「ばか!
あんた、私だって、最初は、あんたのことだから、ひょっこり起きてくるんじゃないかって……それなのに。
それなのに……」
「……それなのに、なに?
祖母ちゃん」
額に冷や汗が流れた。
今更になって聞いてないことがあったことに気が付く。
それは僕の容態。
もしかして病気?
実は重篤な病気に体を蝕まれていて、余命数日なのかもしれない。
「ばあちゃん、もしかして、僕ってなにかの病気なの?」
「……ん、いや、病気ではないって、体は健康そのもの。
目、覚めたら早く退院してほしいぐらいだって……」
「あ、そう」
いや、体が絶好調だからそんなことはないだろうなとは思ってたけどね。
ちょっとだるい感じはするけどそんな今すぐ死ぬってほどではないし。
それじゃあ後遺症?
でもないのは、先ほどの祖母ちゃんの答えからわかっている。
というか、目覚めたら早く退院してほしいって、一応患者に向かってそれはないだろう。
だとしたら。
「僕ってどのくらい寝てたの?」
倒れた瞬間にぶつけた頬も頭もこれっぽっちも痛くないし、倒れた際に傷つけて出血した痕があるわけでもない。
それにミンミンとあれほどうるさかったアブラゼミだか、クマゼミだか知らないけれど、それがもうほとんど聞こえなくなっていた。
病院という空間だからというのもあるかもしれない。
それでも記憶の中の今さっきと、今を比較するとどこか同じ夏でも違いがあるように感じた。
予感が的中したのだろう。
祖母ちゃんの顔はみるみるうちに沈み、どう答えればいいのかわからないような顔になる。
「明夜、驚かないできいて」
「……うん」
「あんた、あの日、あの日倒れてから三週間も意識がなかったんよ」
「え」
こうして。
僕の高校一年生の夏休みはちょっとの怠惰と一目惚れと全力と意識喪失と療養。
つまるところそれだけで始まり、終わりを迎えた。
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