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午後21時。20時以降から23時までは自由時間であり、またアルトの影に術を仕込んだリーゼロッテは、ひとまず今日起きたことの報告書を制作していた。アルトが無詠唱で魔術を行えること、それが『日常』で『当然』になっていること。リーゼロッテが見たのは薄い痣程度だったものの、どの範囲が治癒可能対象であるのか検証する価値はあるだろう。
この孤児院は個々人の自主性を大切にする方針を取っているようで、おやつの席で全員に挨拶をしたときは、誰もが新しい家族が増えたと喜んでいた。こういった場合、一人か二人は露骨な警戒心を抱くようなものだから、やや拍子抜けした覚えがある。あんなにも邪気の薄い歓迎など本当に稀だ。
ひとまずアルトの影に術を仕込んだ旨を告げ、今後も監視を続行するという文章で締め括ると、ポケットに入れていた針のない懐中時計を開く。報告書を丁寧に折りたたみ、蓋を閉め、カチ、と音がしたのを確認してからもう一度開けば、既に報告書は消えていた。
対になる報告書はカイナの持つ懐中時計に繋がっているため、定時報告に彼が開くと同時に転移は成功するだろう。気を張っていたのか適度な疲労を感じ、影から伝わる情報としてアルトに違和感がないことを確認してから階下へ降りると、明日の朝食当番だというアルトと出くわした。どうやら休憩がてらにホットミルクを作っているらしい。
「リズさんもいかがですか?」
「共犯者なら喜んで」
「あはは」
軽口を応酬できる程度には、信頼があると思っていいのだろうか。ふんふんと口ずさむ優しい音階の鼻唄に顔を上げ、その整った横顔を見つめていると、きょとんとした視線を返された。
「……聞き慣れない歌ですね? アルトさんの自作でしょうか」
「ああ、ええと……、祖母、が作ったらしいです。と言っても、僕も母から聞いたものを覚えているだけで」
タイトルも、聞いた覚えがあるのにどうしても思い出せないらしく、リーゼロッテは聞きながらも温かいマグカップを受け取って礼を告げる。横並びの椅子に並んで腰かければ、どこか物憂げにアルトの長いまつげが伏せられた。白金髪と同じ色のまつげは蒼い瞳を縁取るほどに長く、まるで頬に影を落とすようである。美少年の憂い顔はカイナに負けず劣らずうるわしかった。
「リズさんは、僕のことをどこまでご存じなんですか?」
「ほとんどのことは知りませんよ。せいぜいがお名前や年齢、性別、属性のことくらいです」
これは嘘ではない。むしろ、それ以外を見極めるために派遣されているのだ。血筋や出自などに拘り、誰よりも知りたがっているのは、身柄を引き受けたいばかりの騎士団なのだから。
「……失礼でなければ、聞いても?」
「……そんなに、たいしたことじゃないですけど」
「ふむん。では、報告書は終わったので、この先はオフレコということで」
冗談めかしてホットミルクに口をつけると、ふとアルトが笑った気配がした。拳一つ分空けた隣で小さく笑うアルトと、忍ばせた影から伝わる独特の感覚。悪意はない。無邪気、というわけでもない。リーゼロッテも親を知らないが、やはり難しい問題なのかもしれない。
「生まれが違う国らしいっていうことはわかっていても、どうやってこの国に入ったのかは、あんまり覚えてないんですが……」
幼いころの記憶は断片的であり、途切れ、巻き戻り、溶け、混ざり、曖昧に、おぼろげに、うやむやになっている。そんな中でも、この優しいメロディだけは忘れなかったのだと言った。
母の腕に抱かれて聞いた音階。おばあちゃんがよく口ずさんでいたの、そう微笑んだ母の顔すら思い出せないのに、不思議とそういった細部だけは覚えている。アルトの記憶ではその際にタイトルを教えられたはずなのだが、そこだけがどうしてもわからないのだと少しだけ寂しそうに呟いた。メロディもすべてを覚えているわけではなく、同じ部分を延々とループしているのだそうだ。もしかしたら歌詞があったかもしれないというのも、一曲まるまる完成していた可能性も、あくまで推測の域を出ないのだろうが。
アルトの血筋を明確にするのなら、過去の背景を踏まえてこの優しい曲のこともカイナに――騎士団に伝えるべきだ。けれど、リーゼロッテは「この先はオフレコ」だと、最初に口にした。依頼人との契約。目の前にいる少年との誓約。信じてもらうためにはどうしたらいいのか。優先順位を間違えれば、なにを失うのか。
マグカップで手のひら全体を温めながら、リーゼロッテはややあって、いまはまだ少しだけ伏せようと視線を落とした。アルトの母、引いては元王女の可能性が極めて高い祖母の情報は最優先事項として伝える必要はあるが、たとえほんの口約束程度のものであっても、守ろうとする姿勢はあってもいいはずだ。たとえただの自己満足だとしても。
「リズさんの、ええと、クロックムッシュ? では、なにをしているんですか?」
ちょっとだけ気まずい雰囲気を感じた、というのは影で通じた。アルトが話題を変えるようにぱちんと手を叩き、どこか大げさに振る舞って見せるのは、おそらくは院内で年上という立場から生じるものなのだろう。だからリーゼロッテもその話題転換に乗ることにする。なんとなく、素朴な彼を騙しているようで気が引けたから。
「うちは十年の記録はありますが、特に目立ったことはないですねえ。仕事がないときはエデンに出向くとか」
「え! エデンって、あの大迷宮ですよね? 大丈夫なんですか?」
「凄腕の治癒術師がいるから、まあ。ちょっとアレなんですが腕は確かですかですからね」
それからは、ギルドの深部に触れない程度に、なんの益体のない話をした。
それは仲間がやらかしたうっかりミスだとか、顔でほとんど値引きされる頭領との買い物の話だとか。ころころと笑うアルトは年相応の少年で、もっと聞かせてほしいというお願いは、本日は終業時間ということで後日に持ち込むことになった。マグカップを片づけ、並んで歯を磨き、また明日、と手を振る。それでもこの平穏はリーゼロッテの手によって壊される。いつか、必ず、きっと。
そのとき、アルトはいまのように笑ってくれるのだろうか。
「……感情移入も、罪悪感も、一番よくないんだけどな……」
孤児院出身、カイナとメーヴィンによってクロックムッシュに引き抜かれた自身と重ねてしまっているのか。
所属して十年経っているというのに、甘ちゃんな部分が抜けなくて嫌気が差すのも、結局のところはただの自己嫌悪でしかないのだ。アルトもリーゼロッテも、生い立ちからなにからすべてが違っているのに。
「……はあ、今日はもう寝よ」
最長で半年。アルトの監視はまだ始まったばかりだ。
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