15:たとえ、彼が、●●であっても
母親のマンションを出て、タクミくんは父親と仮住まいをしているウィークリーマンションを目指すことにした。まだ時間は夕暮れ前、四時過ぎだ。念の為に父親のユキノリさんに『ユウコと揉めたからそっちに帰る』とメッセージを送った。たぶんだけれど、いま現在の恋人とデートか、あるいは一緒に過ごしている可能性があるからだ。
タクミくんが物心ついた頃、つまり小学校に入るあたりから、父親と母親はよそさまのパパママとはちょっと違うようだ、ということをタクミくんは悟っていた。ふたりとも、ゲーム製作者とかいう職種についていたせいもあるのかもしれないが、それだけではなかった。
父であるユキノリさんは穏やかな性質で、タクミくんが興味をもつものを否定せず、与えられるものはできる限りは与えてくれた。
ユウコさんは母親というより、どちらかといえば困った姉のようなところがあった。
ふたりは両親ではあったが、どこかお互いよそよそしい気配を常にまとっていて、タクミくんから見ても不思議な夫婦であった。
だから、ふたりが離婚すると切り出したとき、タクミくんは「なるほど」と納得したのだ。そもそもこのひとたちは、同じ巣で暮らせる動物ではなかったのだ。同じ人類という生物だからと、同じ水槽に入れて飼ってはいけない。当たり前のことだ。なのでふたりが別れるというのは、仕方がない。タクミくんは理解した。では、どちらについていくか。
タクミくんは母親があまり好きではなかった。選択に躊躇はなく、父親を選んだ。ふたりとも繊細な人だが、ユウコさんはずぶとくてしたたかなところがある。ユキノリさんは作風にもにじみ出ているのだが、孤独を愛するようでいて、さみしがりな面倒な人だ。
ユウコさんをほめてやれるとするなら、自分を生んだことだとタクミくんは思う。
ユキノリさんに必要な、世間一般的に愛情を注ぐべきとされる対象をこの世に生み出したこと。そうすることでユキノリさんが浮世に縛られること。
それだけは母親のおこなった、唯一ほめられる偉業じゃないだろうか。
そうでないと、ユキノリさんは、ある日ふいっとどこかに消えそうな男だ。しかし、タクミくんという『息子』がいることで、輪郭がしっかりしている。そんな気がする。
と、いうような見解を述べると、アラタさんはびっくりしたようなまなざしでタクミくんの頭から足先までを見た。
「きみ十歳だよね?」
「うん、まあ、いちおう」
ウィークリーマンションに帰ると、そこには父の仕事仲間で、母の部下である瀬名アラタがいた。ソファに座ってノートパソコンを膝にのせたまま、難しい顔をしている。彼がタクミくんの家を訪れているのは珍しくもないことなので、冷蔵庫を開けて「アラタさんなにか飲む?」とちょっと大きな声を出した。
「炭酸ちょうだい」
「はいはい」
炭酸水のボトルを二本手にすると、タクミくんはリビングへ戻る。アラタさんは難しい面持ちでパソコン画面を見つめているので、邪魔しないように彼の前のローテーブルにペットボトルとグラスをおいた。男所帯なので、ペットボトル直飲みでもいいのだけど、なぜだかアラタさんに対してはグラスを出してしまう。
「ありがとう」
アラタさんは厚手のコットンのTシャツにワークパンツというラフな格好で、すっかり関家の仮住まいに溶け込んでいた。いつからだろう、このきれいな男の人が、うちによく訪れるようになったのは。
瀬名アラタという人は、線の細い顔と、アーモンド型の黒々した目、すっとのびた鼻梁、うすい唇、それらをバランスよく配置した顔を持ち、細すぎず均整のとれた身体を持つ男の人だった。ゲームクリエイターには割と珍しいんじゃないだろうか、とタクミくんは思い、実際彼にそう告げたこともあるが、アラタさんは「そうでもないよ」とうすく笑っていなしただけだった。そんなことないだろ。こんな美形そうそういない。
案の定、母親は新入社員である当時からアラタさんがお気に入りだったが、彼は仕事とプライベートの一線をユウコさんに対してはきれいに引いていた。そのくせ、ユキノリさんとタクミくんには甘かった。もう、手ひどいほどにユウコさんとの格差があった。オンラインゲームで一緒に遊ぶようになって、余計そう感じた。ユウコさんにはキャラネームはおろか、遊んでいるサーバーも、ゲーム名も教えていないらしい。そこまでうちの母親が嫌いか。笑えてくる。
「頬、赤くなってるよ。証拠残したなら冷やそうか」
アラタさんはペットボトルの栓をゆるめて開け、シュワシュワ音を立てる透明な水をグラスに注ぎながら言った。そこには同情も怒りもなく、ビジネスの提案のような平坦さだけがあった。
「自撮りだけだから、いちおう、アラタさん撮ってくれる」
「いいよ」
スマホを渡し、間隔を空けてアラタさんの隣に座る。頬を良く見えるように角度を調整して、何度か撮影してもらう。アラタさんはスマホを返し、立ち上がってキッチンへ行くと、すぐに戻ってきた。
ぺた、と冷たいものを頬にはられて「ひゃ」と声が出た。しかし薄い薄荷に似た匂いに覚えがあるので、タクミくんはこらえる。ひんやりした感触がじわじわと頬を冷やす。特に腫れた感覚も痛みもなかったのだけど、冷却シートをはってもらうという行為がうれしかった。誰かに何かをしてもらう。
「ありがとう、アラタさん」
「タクミくんだって、さっき僕に炭酸水出してくれたでしょ」
当たり前、という様子でアラタさんはタクミくんの隣に座って、またノートパソコンに意識を戻した。
他人であるはずの彼が、どうして我が家によく居て、どうしてこんな風に過ごしているのか、うすうすタクミくんは理解していた。
でも、恋というものはたぶん、発生したら自力で消すことはできない。
タクミくんは、アラタさんが好きだ。
たとえ、彼が、父親の恋人であっても。