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これを恋と呼ばずして  作者: 日高 仁
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 舞高では文化祭当日の二日間は全校生徒朝七時半までの登校が義務付けられている。部活の朝練等で慣れている生徒もいるが、慣れない生徒にとっては早起きというだけでつらい。

 真雪は颯太の早朝団欒に付き合わされているおかげで早起きは得意だ。もともと朝はぼんやりしがちだったが、思わぬところで兄のわがままが役に立った。

「遥、おはよう」

「おはよう」

 教室に入ると文化祭実行委員の井田がいた。

 今日の井田はこの文化祭のためだけに作られた黄色いオリジナルTシャツを着ている。

 文化祭のたびに毎回生徒がデザインするもので、Tシャツが黄色いのは実行委員のみだ。

 一般の生徒は同じものの白であり、真雪ももちろん今日はそれを着てきている。

 明るい黄色は井田の性格そのもののようで、今日は一段と溌溂として見える。

「早いな」

「あー俺、実行委員だし。あと家遠いから。昨日と今日は市根井んちに泊めてもらってる」

 市根井というのは同じ一年の、別のクラスの実行委員らしい。市根井の家は学校のすぐ近くにあるのだが、井田はつい、いつもの調子で起きてしまい、ほかにすることもないので書置きを残して先に来たという。

「まいったよ、学校に来てもまだ鍵が開いてないんだもん」

「何時についたの?」

「五時四十五分」

 にやりとした井田と真雪は声を合わせて笑った。

「遥も早いじゃん。まだ七時過ぎたばっか」

「あー、うちも近いといえば近いから」

「何中だっけ?」

「白河第二」

「ああ、じゃあ新井とか西脇とか加藤とか奈良とか手島とかと一緒?」

「すごい井田っち、よくそんなに覚えてるな」

 新井はともかく、井田が名前を挙げたほかの四人とはクラスが違う。

 同じ中学出身といっても、例えば真雪は加藤という女子生徒とは話したこともないというのに、井田はたった二か月で真雪の三年をあっという間に追い抜かしている。

「だって俺、同じ中学でこっちまで来てる奴なんていないもん。通学の電車だってひとりだし、学校行っていろんな奴に話しかけてそいつのこと知って、こっちを知ってもらって世界を広げるしかないじゃん。そうしなきゃ俺の毎日が楽しくなんないんだもん」

 ほう、と感嘆交じりの相槌を打つ真雪の肩を井田が笑って小突く。

「今度なにかあったら遥ん家泊めてくれよ。市根井、いい奴なんだけど朝弱くてまだ起きてないし」

 教室にぽつぽつ他の生徒も登校してきた。その中には可児優菜もいて、井田と話す真雪の姿を見つけるとごく自然に目をそらす。

「お、優菜、おはよう。すげーな、モデルみたい」

 なあ、と言われて真雪も頷く。

 文化祭Tシャツに制服のスカートといった、ほかの女子と同じ格好も、井田が言う通り、すらりとした優菜が着ると殊のほかさまになっている。

 井田の言葉が聞こえているのかいないのか、仏頂面の優菜は無言で席に着いた。

「なんかあいつ今日様子変じゃない?」

「そう?」

 首を傾げる井田に、となりに自分がいるせいだとは言えるわけもなく真雪は曖昧にごまかした。

「うーす」

「新井、おはよう」

 登校するなり、新井がこちらに合流する。

 もうほぼ全員が来たようだ。教室はいよいよ始まる文化祭の興奮に包まれている。

 開場は10時だが、すでに展示の解説の練習をしたり、自発的に舞星ダンスを踊ったりする生徒たちもいる。もうすぐ7時半だ。今日はチャイムも鳴らない。担任が来る前に自席に戻ろうとした真雪たちの前に優菜がやってきた。

「あのさ、ちょっといい?」

 腕を組んだ優菜がぶっきらぼうに言う。

 真雪は思わず一歩引いてしまうが、新井と井田は不機嫌そうな優菜にたじろぐこともなく、笑顔で彼女を見上げた。

「どうした?」

「今日、愛梨熱出ちゃって休むって。たぶん明日も」

「え?」

 ぽかんとする真雪たちに、優菜はつづける。

「だから昨日のなし。私ずっとブースいるから、あんたたち自由行動でいいよ」

「うわ、まじか。愛梨具合は?」

 訊ねた井田に優菜は首をふる。

「今朝、急に熱出たって連絡きて。開く時間になったらすぐ病院行くって言ってた。本人は大丈夫って言ってたけど、熱高いからたぶん明日も無理だと思う」

 井田がまだ何か話したそうだったが、教室のドアが開き、担任の姿が見えたのを合図にみんな一斉に席へ戻る。優菜もまた自席に座る。頬杖をつくと自然に溜息がもれた。

 愛梨、昨日まであんなに元気だったのに。

 今朝早く電話口で「たぶん知恵熱だよー」なんて言いながら笑っていたけど、やはり少ししんどそうだった。

「咳もないしどこも痛くないし心配しないで。ママうるさいから一応病院行くけど」

「熱って何度でたの?」

「三十八度」

「だめじゃん、おとなしく寝てなよ」

「大丈夫だってー」

 やがて電話の向こうで娘をたしなめる愛梨の母と言い返す愛梨の声がして、優菜は「こっちはいいからしっかり休んで」と言って電話を切った。

 優菜の口からふたたび小さな溜息が漏れた。

 もちろん愛梨が体を大事にしてくれることが第一だが、愛梨がいなくてがっかりしていないと言えばうそになる。

 今日と明日、自分はいったいどう過ごせばいいのだろう。

 せっかくの文化祭だけど、いつも愛梨とばかりいたから、今さらほかの子と一緒に回る気も起きない。あんなに一緒にいたのに愛梨がいないと新井と真雪ともどんな風にしゃべっていたかすら思い出せず、今朝もあんな風にしか話しかけられなかった。

 出席確認と簡単な連絡事項のみで朝の会はすぐに終わり、黄色いTシャツを着た井田は本部と呼ばれる生徒会室へ慌てて出て行った。朝の会の間は静かだったのに、今や学校中のスピーカーから文化祭のテーマソングや舞星ダンスの曲やらが大音量で流れている。

 考えていても仕方がない。優菜は立ち上がる。

 いよいよ文化祭が始まる。いらない机と椅子を教室から運び出したあとは各々の班でブースを設置し、手が空いたものは戻ってきた井田を中心に黒板にイラストを描いたり、廊下の壁を飾り付けたりと既に目が回る忙しさだ。

「優菜、お前ほんとにどこも行かなくていいの?」

 埴輪を並べながら新井が訊ねる。

「いいって言ったじゃん」

「でもさ、お前愛梨と科学部のお化け屋敷だのバンドコンテストだの三年のクラス展示だのいっぱい回るって話してたじゃん。愛梨いなくてそんな気分じゃないのかもしれないけどお前が楽しまないとあいつも気にするんじゃねえの?」

「愛梨には適当に話すからいいよ」

「そうはいってもさあ・・・」

 こちらを見ようともしない優菜に新井は食い下がる。

「じゃあさ、どっか行きたくなったら俺たちで二人ずつペアになって行こうよ。俺とお前と、お前と遥と、俺と遥のパターンで」

「は?」

 思わず振り向いた優菜に新井が笑ってみせる。

「な、そうしよう。せっかくここまで頑張ったんじゃん、ちゃんと楽しもうぜ。な、遥もいいよな」

 ジオラマ設置作業中の真雪も新井の言葉に頷く。

「俺は、優菜さえよければ」

「ほらいいって。」

 ぱちんと手を鳴らした新井の後ろで、真雪が遠慮がちに笑う。

 入学式の日、桜吹雪の中で見たあの笑顔を思い出して、優菜は思わず目をそらした。控え目だけどまっすぐな優しさがにじむ、あの微笑み。

 今朝の電話が脳裏によみがえる。

 熱のせいで愛梨の声はいつもより少し上ずって、なんだか子供じみていた。

「あのね、優菜」

「うん」

「ごめんね、休んじゃうけど。優菜は気にしないで楽しんでね。二年に一回の文化祭なんだから」

「うん、わかってる。ありがとう」

「あのね、いろいろ回るの、遥くん誘ってみたら?」

「は?」

 突然の言葉に優菜の心臓は大きく波打った。

「なに言ってるの?熱あがっておかしくなった?」

「おかしくなんてないよ。ずっと思ってたよ、優菜と遥くんお似合いだなって」

「何それ。だって」

 だってお似合いなのはそっちじゃん。

 そう言おうとして優菜は口をつぐむ。頭には浮かんでいるのに、喉に貼りついてしまったみたいに言葉が口から出てこない。胸の中にまた黒い波が押しよせる。体中の血が顔が集まってきたみたいに熱い。耳がじんと痛くなる。

「冗談やめてよ」

 やっとのことで口にすると、愛梨が怒ったように言う。

「冗談じゃないよ。だって優菜、遥くんのこと好きじゃん」

「は?何言ってんの、それは愛梨じゃん」

 言い返すと、はあ?と愛梨が大きな声を出す。

「そっちこそやめてよ。私、好きな人いるし。三年の岩見沢先輩って前言わなかった?」

「え、何それ。知らない」

「ひっど、言ったよ?中三の時に。舞高に好きな人がいるから絶対受かりたいって。3年4組の展示行きたいのも岩見沢先輩いるからだよ」

「ああ、『知られざる農業王国・舞星の未来のアグリカルチャー』なんてテーマ見に行きたがるから愛梨そっちに興味があるのかと思ってた」

「んもー」

 布団に突っ伏したのか、愛梨の声が少しくぐもる。愛梨はそうやってわざとふざけて、優菜の素直な気持ちを引き出そうとしている。

 それでもまだ優菜は本心を喋ることができない。動揺がひどくて、愛梨の言っていることを頭が理解しても心がまだ追いついていない。

「でも、だって愛梨、遥のことしょっちゅうかっこいいだのなんだの言ってたじゃん」

「それは優菜がなかなか素直にならないから言いやすい雰囲気作りしたんじゃん」

「そんなん知らないよ」

「何それー。優菜のために遥くんと同じ班になるようにしたりいろいろ頑張ったのにー」

「だからじゃん。愛梨は積極的だなって思ってた」

「違うよ、もー」

もー!と言い続ける愛梨を、はいはい、と優菜がなだめる。

「とにかくやめてよ。私べつにそんなんじゃないから」

「なんで?だって優菜の言ってた桜の王子様って遥くんでしょ?」

「桜の王子様?」

「話してくれたじゃん、入学式で会った男の子のこと。そんな運命的な出会いをしといてさ、何もないなんて嘘でしょ」

「は?私それが遥だなんて一言も言ってないけど」

焦る優菜に愛梨が笑う。

「わかるよ、そんなの。遥くんを見る優菜の目、明らかに違うもん」

あ、でもハートになってるんじゃなくて獲物を狙うっていうか、睨みつけるみたいな目になってるからやめた方がいいよ、と愛梨が付け加える。

 電話越しでも愛梨が微笑んでいるのがわかる。向こうもまた優菜が真っ赤な顔をしているのがわかっているようだ。胸の黒い渦がとつぜん小さな泡になって融けていく。体中熱いのに、指先だけは冷たくて優菜は思わずぎゅっと手を握った。

「何それ、みんなにバレバレってこと!?」

「私にはバレバレってこと」

優菜の足から力が抜けた。

 本当は恥ずかしさのあまり大きな声で叫びたいくらいだけど具合の悪い愛梨にそんな刺激を与えてはいけない。必死に我慢するが、唇が震えてしまう。

「あの、愛梨、」

「とにかく、応援してるからね」

ふふっと笑う愛梨の後ろから長電話を咎める母の声がし、二人の通話はそこで終わった。

 そして今、愛梨が予言した通り、自分のとなりには遥真雪がいる。

 新井と三人で話し合った結果、優菜が行きたい、というか、愛梨への土産話として行くべき3年4組の展示には遥真雪がついてきてくれることになった。

 午後のバンドコンテストは新井も行きたかったそうで、そちらは真雪が留守番をする。

 道すがら、気を遣ってくれているのか、真雪は「三年生の教室に行くの初めてだな」とか、「農業に興味あるの?」とか、いろいろ話しかけてくれる。

 優菜も脳をフル回転させて、なんとかその話に適当であるだろう返事を探しては、緊張を気取られないように注意して答える。もう脇が汗でびっしょりだった。

 運命的に出会った。頭の中で優菜は愛梨の言葉を反芻する。

 桜吹雪の中で二人きり、何かが始まるしかないはずだった瞬間。

 顔を伏せた自分がむざむざ逃したあの運命を愛梨はもう一度掴めと言っている。

 それなのに今日もまた自分はひとりでブースに残るとかいじけたことを言ってしまった。それではダメなのだ。

 終わったことだとか後の祭りだとか言って、その次は親友のためとか言い訳して、そういう逃げ道ばかり選んで自分の心にまともに向きあわずに過ごそうとしていたあの時と一緒ではダメなんだ。

 本当はまだ何も始まっていないのに。始まるはずの祭りを予感だけで握りつぶした自分に、愛梨はしっかりしろとずっとお膳立てをしてくれていたのだ。真雪の横顔をそっと盗み見て、優菜は小さく深呼吸した。

 舞高は大学受験を見越して二年生から理系と文系に分かれたクラス分けがされる。

 3年4組は理系クラスで、展示もバイオテクノロジーの観点から農業を論じていた。

 正直、文系の自覚がある優菜にはとっつきやすいものではなく、本来の目的である岩見沢先輩の様子を中心にしっかり見た。

 聞いた覚えのない愛梨のあこがれの君は確かにかっこよく、そしてそれ以上にどこかしらの魅力がある人物なのだろうが、となりに遥真雪がいる今、それがなんなのか優菜にはまったくわからない。

 今日、優菜は久々に周りの視線をよく感じた。入学して二か月もすれば学校一の大女という存在に周囲が慣れてさほど目をひかなくなるのだが、今日は普段来なれない三年生のクラス棟にいることに加えて、外部から文化祭に遊びに来る入場者もたくさんいる。

 いつもならそういった不躾な視線はただただ不愉快なのだが、今日はなんだか違う。

 となりには遥真雪がいる。こちらを見てくる人の中には真雪に目を留める人もいるようだ。やっぱり優菜の贔屓目じゃなくて、ほかの人から見ても真雪はかっこいいのだ。すれ違いざまだけでなく、わざわざ振り返ってこちらを見てくる人々の目に羨望を感じて優菜は少し得意な気持ちにさえなる。

 結局3年4組の展示は見たような見ていないような、そぞろな気分で優菜はそこを後にした。

「優菜、おもしろかった?」

「あ、うん」

なら良かった、と真雪が笑う。

「まだ少し時間あるけど、ほかにも行きたいとこある?」

「うーんと・・・」

ずっと「別に」で済ませてきたツケか、こういう時とっさに何も思いつかない。

 さっきからずっとそうだ。つっけんどんにならないように注意するのに精いっぱいで、気の利いた事どころかほとんど何も言えず、せっかく真雪が話しかけてくれても沈黙が続いてしまう。

「じゃあ新井におみやげのジュースでも買って帰ろうか」

何も言わない優菜に業を煮やしたのか、しばらくするとそういって真雪が歩き出した。

 優菜は焦る。

 ダメだ。これじゃ何も変わらない。なにか言わなくちゃ。でも何を言えばいいんだろう。

 呼び止めなければ真雪はどんどん行ってしまう。いやでも、むしろ早く戻って新井も一緒にいた方が話は弾むのかもしれない。いや、ダメだ。それじゃ結局いつもと同じだ。せっかく二人でいられるチャンスなのに。何かしなくちゃ。気持ちばかりが焦る。とにかくいったん真雪を止めなければ。そう思った優菜はとっさに真雪の袖をつかんだ。

「どうした?」

「あの」

「うん?」

自分の行動のあまりの大胆さに優菜は半ば気を失いそうになる。

 真雪が怪訝そうに優菜を見つめた。

 遥真雪はとてもまっすぐに人を見る。その瞳に自分の姿がうつっているのだと思うと、優菜はますます緊張してしまう。一気に顔がほてり急いで顔を伏せた。動悸がおさまらず、袖をつまんだ手を離すタイミングも失っている。

 怪訝そうではあるのに、真雪はそれを振り払ったりしない。そのことが優菜の緊張をさらに加速させるが、言いようのないうれしさもまたこみあげてくる。

「そうだ、さっき言ってたけどお化け屋敷も行くつもりだったんでしょ?それ行く?」

沈黙に耐えかねたのだろう真雪がわざと明るい声を出すが、優菜は首を横に振った。

 もう真雪に無理をさせたくない。

 私は、愛梨が休みで落ち込んでいるだろうとずっと気を遣われているのに返事もろくにしないし、いつも仏頂面で自分を睨みつけてくるような女だというのに、真雪は優しい。そんな彼にずっと甘えていては何も変えられない。まずはけじめをつけなければ。

「そうじゃなくて」

袖をつかむ手に思いを込め、優菜は思い切って顔を上げる。

「あのさ」

「うん」

「この間はごめん。この間って言ってもずっと前なんだけど、入学式のとき。その、せっかく、声かけてくれたのに」

「え?」

真雪がきょとんとする。

「私、緊張してたっていうか、あの時ちょっとおかしくて。だから、なんか変なところ見られちゃったなって恥ずかしくて、ずっと遥に嫌な態度とってたと思う。ごめん」

まくしたてるように喋る優菜を不思議そうな顔で真雪が見ている。優菜はどうしていいかわからず、勢いにのせて深く頭を下げた。

「優菜!?」

「今まで本当にごめん」

「いや、あの、その、俺の方こそ知り合いでもないのに不躾に失礼なことしたと思ってたから、その、だから、顔あげて、ね?」

 頭を下げ続ける優菜と、しどろもどろになっている真雪に気づいた周囲がひそひそと声を立てはじめる。いけない、これではまた真雪に迷惑をかけてしまう。慌てて顔を上げた優菜の目の前で、真雪は優しく微笑んでいた。

「とにかく良かった、優菜が嫌な思いをしていなくて」




「きゃー、それでそれで!?」

「それでじゃないよ。その後は普通に教室戻っただけ」

学校から帰宅した優菜は、愛梨とかれこれ一時間ほど話し込んでいる。愛梨の熱は今も三十八度台で季節はずれの風邪らしい。

「明日は行くつもりだったのに、お医者さんもママもやっぱりダメだって」とむくれる愛梨に、優菜は励ましをこめて3年4組で見た岩見沢先輩の様子を話した。

 最初、なんとなく気恥ずかしくて真雪と行ったことは濁していたのだが、「うそ、ごめん!私のために優菜ひとりで行ってくれたの!?」と言われたことを発端に「それで優菜は?」「遥くんはなんて言ったの?」等、愛梨に導かれるまま結局今日真雪との間にあったことをすべて話してしまう。恥ずかしさでついつっけんどんな口調になる優菜とはうらはらに愛梨の声は明るく弾んでいた。

「じゃあさ、明日は告白だね」

「なんでそうなるのよ!?」

つい大きな声をだしてしまった優菜に愛梨がくすくす笑う。

「だってチャンスじゃん。文化祭って非日常でしょ?遥くんも入学式のこと覚えてたんでしょ?それで優菜が怒ってなくて良かったーって笑ってたんでしょ?」

「じゃあ愛梨も元気になったら岩見沢先輩に告白しなよ」

「ふふ、そうする」

「絶対しないじゃん、その言い方」

からかう愛梨に優菜が言い返す。

「だって私の恋はそんなのじゃないもん」

「そんなのって何よ」

「私はなんとなく岩見沢先輩を見つけて、なんとなく好きなだけ。なんていうかな、パンダに対する気持ちみたいな?かわいいし、機会があるなら見るけど、別にパンダとどうこうなりたいわけじゃないじゃん。クラス知ったのも最近だし、好きな相手のことならもっとちゃんと追いかけるでしょ?ああでも、もし岩見沢先輩も私を好きとかなら話は変わってくるけど、実際接点ないしね。だからさ、なんとなくいいなって思ってるし、舞高受かった時は一緒の学校行けてラッキーとも思ったけど、今のとこそのぐらいのテンション。優菜はさ」

愛梨が思わせぶりに言葉を区切り、優菜は焦れる。

「何よ」

「遥にドキュンじゃん」

「はあ?」

「文化祭テーマ、『郷土にドキュン』にかけてみました」

「何を急にぶっこんできてんの」

「だって行きたかったんだもん、文化祭」

え~ん、と愛梨が泣きまねをし、はいはい、と優菜がなだめる。

「とにかくね、特別なんだよ。優菜と遥くんは」

「だからそういうのやめてってば」

「やめないよ。優菜がわかるまでは」

「わかったから、大丈夫」

「じゃあ告白する?」

「それとこれは別」

「もー!」

優菜と愛梨が声を合わせて笑った。

 そろそろやめないと、元気そうでも愛梨は体を休めなければならない。わかっていても二人の話は尽きない。結局それからまた一時間ほど話したところで、今朝と同じく、とうとう愛梨が母に咎められるかたちで二人はバイバイをした。

 愛梨の声が消えた部屋で優菜はひとり、天井を見つめた。

「告白、か」

思わずひとりごとが漏れる。

 笑顔の真雪に見つめられた興奮がまだ冷めない。否、一時は落ち着いたというのに、愛梨に話したことでまた再燃してしまった。つい昨日まで自分の頭の中だけにあった淡い思いだったのに、口に出して話すだけでこんなに世界が変わるものなのか。愛梨の言う「告白」という言葉になんとなくその気になっている自分がいる。

 いやでも、と優菜は首を振る。

 これまでの不安と焦燥が一気に晴れたとはいえ、じゃあ次は告白だ!なんていうのは短絡的すぎる。でも、たしかに私たちは特別なんじゃないだろうかという思いもある。

 桜舞い散るあの路で、私と真雪は二人きりだった。できすぎなくらいよくできたあの日を真雪も覚えてくれていた。

 明日、後夜祭の後に四人で打ち上げをするために予約したお好み焼き屋を、愛梨はキャンセルしなかったそうだ。

「人数変更だけ連絡しといたから、せっかくだしみんなで行って」と言って笑っていた。本当は遥くんと二人がいいんでしょうけど、といたずらっぽく付け加えながら。

 思いだして苦笑してしまう。愛梨は小さくて可愛くて、いかにも守ってあげたいような女の子だというのに、実際は自分なんて比べ物にならないくらい優しいしっかり者だ。    

 優菜は腕組みをして目を閉じた。

 今日、たしかに自分と遥真雪の新しい時間が動き始めた気がする。

 打ち上げの後、もし真雪とゆっくり話せることができたら、そうしたらこの胸の鼓動を少しでも真雪に伝えることができるのだろうか。あるいはその先まで加速させることも?いや、それはいくらなんでもいきなり図々しい。でもあのときの真雪の笑顔は本物だったと思う。「嫌な思いをさせてなくて良かった」と遥真雪は言っていた。自分だけに向けられていたあの笑顔に、もし安堵以上のものがあったら?もし愛梨の言う「運命」や「特別」が自分に訪れているのだとしたら?

「やだ、あんた何ひとりで難しい顔してんの」

「ママ!?ちょっと勝手に部屋入らないでよ」

はっとして見上げるといつのまにか優菜の脇に母が立っていた。

「何度もノックしたのに返事しないからでしょうが。何?考え事?あんたそんなボーっとして、今日愛梨ちゃんいなくてそんなに寂しかったの?」

「違うし。ていうか何?」

「あんたが探しといてって言ったんでしょうが、お兄ちゃんの制服」

「ああ」

 つっけんどんに言い返した優菜に母もまた憮然と言い返す。その手には進学のために兄が家を出た一年前からと思しきクリーニングの袋に入ったままの学ランがあった。

「あー、どうしようかな、それ。もういらないんだよな」

「何それ」

「明日のミスコンでさ、愛梨が出るから私もウケ狙いで彼氏役みたいな感じで出るつもりで着たかったんだけど愛梨休みじゃん。だから私も欠場しようかなって」

 優菜は手短に実行委員の井田に出場を誘われたことや、ミスコンとは名ばかりで、良識さえ守れば男女どちらの生徒がどんな扮装をしても良い企画であることを説明する。

「えー、これママすごい探したんだから。充弘ったら家出る前に部屋片づけろって言ったのに全然なんだもの。結局どこにあったと思う?パパのクローゼットに混じってたのよ」

「ふーん」

「ふーんじゃないよ。それに愛梨ちゃんは仕方ないけどあんたまでいきなり出ませんじゃ主催の人たち困るんじゃないの?」

「平気だと思うけど」

 人当たりの良い井田なら本気で拒否すれば、なんだかんだで許してくれそうな気が優菜はするが、母はあきれて首を振る。

「平気じゃないかもしれないじゃない。とにかく一度はやるつもりだったんだからその井田君を困らせないように。断れたらいいけど、やっぱりやることになった時にそなえて明日これ持っていきなさい」

「えー」

「えー、じゃないの。それにそんな楽しそうなの、ママも見に行きたいし」

「えー」

「えー、じゃないのってば」

 母に怒られて、優菜はしぶしぶ頷く。

「ちゃんとお兄ちゃんに貸してくれてありがとうって連絡しなさいよ」やら、「一回着てサイズ確認しといた方がいいんじゃない?」などとうるさい母親をようやく追いやって、優菜はまた一人、腕組みをする。

 明日、真雪は知り合いが来る予定だから案内して回りたいと言っていた。一方の優菜も愛梨が休みだと知った紗耶香や美南たちがどこか行きたいときは一緒に行こうと誘ってくれている。

 ミスコンは明日の午後に開催される。井田によると毎年かなり盛り上がるイベントで、その熱気をもって文化祭はクライマックスまで突っ走り、そのまま後夜祭へとカタルシスするそうだ。カタルシス、自分もその流れに乗れたら何か奇跡が起きるかもしれない。

 優菜は母が持ってきてくれた兄の制服を袋から出す。

 一年以上パパのクローゼットに入れっぱなしだったというそれは、なんとなく湿気った臭いがして、慌てて消臭剤を振りまく。

 明日はいい日になるといい、というか、したい。ミスコンは悩みどころだけど、紗耶香たちとブースを回るのも打ち上げも楽しみだ。明日が終わったら今日みたいに愛梨と話そう。裏地までまんべんなくスプレーしながら優菜はよし、と気合をいれた。





 遥真雪は動揺していた。

 文化祭二日目、今日は聡子とひかると五十嵐を案内することになっている。

 パンフレットを見ながらどこへ行くべきかああだこうだ言っていた二人だが、結局、「五十嵐がよくわかんないって言ってるし、雪兄のクラス見て舞星まんじゅうを食べる以外はその場のフィーリングでってことになった」とひかるが言っていた。

 五十嵐のやる気のない態度に不満なのか、あるいは五十嵐が来ること自体に不満なのか、なんであいつ興味ないのに来るんだろうね、やら、舞星まんじゅうなんて雪兄の学園祭じゃなくても食べられるのに、やら、昨夜からぶつくさ言っていたひかるだったが、今日着る用に最近お気に入りのワンピースをハンガーにかけていたぐらいなのでお出かけ自体は楽しみらしい。

 しかし、曲者なのはこの舞星まんじゅうというシロモノだった。文化祭のオープンが10時なのに対して生徒会が担当する舞星まんじゅうの販売は11時開始となっている。

 舞星まんじゅうとはいわゆるご当地名物で、長い竹串に直径10cmほどの平べったい皮だけの炭酸まんじゅうを3~4個刺したものである。串にささっているのは焼き鳥のように直火にさらすためで、表面に塗られた甘辛い味噌だれがあぶることで香ばしく香る。

 この舞星まんじゅう、たしかに美味しいのだが、いかんせん食事としては物足りないし、オヤツにしては胃にかさばる、味も量もどうにも惜しい立ち位置にいる食べ物だ。

 舞高文化祭ではほかに飲食物の提供はなく、「午前中から行ってブランチ的に食べる」「昼ごはんを軽く済ませてから行き、余裕のある胃にオヤツとして迎える」どちらにするかを聡子とひかるは悩み、とりあえず「そこもフィーリング」ということで11時に校門で待ち合わせとなった。

 真雪が動揺しているのは、なぜかその待ち合わせ場所に颯兄もいたからだ。

 紅白のペーパーフラワーで飾られたはりぼてのゲートの呑気な明るさとは裏腹に、腕組みをして仁王立ちをする颯太は鬼の形相だった。

 その視線の先に気まずそうなひかると五十嵐がいる。

 状況がわかっているのかいないのか、聡子はその間に立って平然と微笑んでいる。

 真雪は頭を抱えた。

 あの様子では近づき方を間違えると火に油を注ぎかねない。颯兄をうまくやり過ごす方法はないか、慎重に考えて行動せねば。

「あ、ゆきちゃん」

 真雪に気づいた聡子がひらひらと手を振り、颯太が素早くこちらを向いた。

 早いよ聡子!真雪は志半ばで膝をつく。なんの策も思い浮かばぬまま突っ立っていないでどこかに隠れれば良かった。そんな真雪の心情など全く思いも及んでいないだろう輝くような聡子の微笑みが今は死の宣託に思える。仕方がない。覚悟を決めた真雪はぎこちなく片手をあげる。

「えーと、颯兄も来てたんだ」

「うん、偶然会ったの。でももう帰ろうとしてたところなんですって」

「へえ、そうなんだ」

 無言でこちらを睨むだけで返事をしない颯太に代わり、聡子が答える。

 真雪もなるべく何でもない風に返事をするが、ビンビンに満ちた兄の怒りは無視してごまかせるような代物ではなさそうだ。

 真雪はひかるを見やる。助けてくれオーラをひしひしと感じる。でもどうすればいいのかわからない。さすがの五十嵐も颯兄の鬼目線が怖いのか、一瞬真雪を見ただけですぐにうつむく。颯太が二人を見つめたまま、すぐ近くまで来るように、真雪にむかって顎をしゃくった。

「真雪、お兄ちゃん聞きたいことあんだけど」

「はい」

 やばい、一人称がお兄ちゃんになっている。真雪の経験上、こういう時の颯太はいつにもましてたちが悪い。

「聡ちゃんが言うにはこの五十嵐君はお前の友達ってことなんだけど、それは本当か」

「あ・・・はい」

 そんな風に説明したの!?と一瞬だけ聡子を見ると、聡子はにこにこしながら頷く。

 責めるわけにもいかない。おそらくひかると五十嵐を守るためにとっさにした説明としてはそれが最適解だろう。

「お前は高校生なのに小学生と友達で、その子が偶然ひかると同じクラスで、今日はお前のためにこの五十嵐君がわざわざ文化祭に行きたいっていうのを一人じゃなんだしと思ったひかると聡ちゃんがどうせ私たちも行くんだし一緒に行く?ってことになったってことでいいのか」

「はい、そうです」

 颯太の鬼目線が真雪に焦点を絞った。恐怖で目が泳ぎそうになるのを真雪は必死でこらえる。

「あの、珍しいね。颯兄がこういうところ来るの」

「今お兄ちゃんが話してるだろ」

「はい・・・」

 話題を変えてしのごうとしても取り付く島もなかった。

 真雪を詰ることに関しては、こと颯太の矛先は鋭い。それは理知とか道理とか、あるいは兄弟愛とかをそぎ落とした鈍器のような論法であり、タコ殴りで相手を再起不能にする。

 心の中の真雪はもはや恐怖で号泣していた。こうなった時の兄のしつこさと人の話の聞かなさは尋常じゃない。

「お前なんで小学生と友達なんだよ」

「それは・・・」

 ぎこちなく真雪は天を仰いだ。

 もう、本当に、こういうの苦手だ。自分みたいに不器用な奴が五十嵐と出会ったきっかけを話せば、芋づる式にすべてを話してしまうだろう。それでは墓穴だ。聡子やひかるや五十嵐をうまく話題から逃がして、颯兄の気もおさまるような名案はないか。ない。小学生と俺がどうやって友達になるのか。脳をキリキリいわせて考えるが「なに黙ってんだよ」という颯兄の脅しにさらに考えが浮かばなくなる。

「えっと、それは」

 しまった。つい焦って口を開いてしまった。それはの後、なんて続けよう。

 真雪の背中を冷たい汗が伝う。どうしよう、誰か、なんでもいい、なにか名案はないか。というか聡子は五十嵐を俺の友達と紹介したことになにか勝算があったのか。

「そんなの颯太が真雪くんにひかるちゃんのお迎え行かせたからでしょ。何度か行けば仲良くなる子のひとりくらい、いてもおかしくないわよ」

 突然、淡々とした声がして颯太の視線が真雪の背後へとゆるんだ。

 真雪が振り向くと、颯兄と同い年くらいの目元の鋭い女性が立っている。

 体つきは華奢だが、傲然と顔を上げる姿には威厳さえ感じる。その女性は颯太を一瞥すると真雪たちに会釈した。その見た目も、つかつかと歩み寄ってくる正確な足取りも、かつて真雪は見た覚えがあった。

「あれ?もしかしてみのりさん?」

「久しぶり、真雪くんもひかるちゃんもおっきくなったね」

 思いがけない再会に真雪の声が弾んだ。

 みのりも優しい顔ではにかんでいる。

 真雪がみのりと会うのは五年ぶりくらいだ。

 今思えば毎日のように不登校気味の颯太を迎えに来てくれていた頃以来ということになる。面倒見の良いみのりは颯太を説得する傍らで、折を見ては真雪やひかるの遊び相手もしてくれていて、当時の真雪はみのりが頻繁に家に来る理由もわからずに、あの非道な颯兄にも優しい友達がいるんだな、と思っていた。

「わあ、どうしたんですか。あ、もしかして颯兄が来てるのって」

「私が誘ったの。用事があってしばらく帰ってきてたんだけどもう戻るから最後に母校の文化祭に寄ろうと思って。ついでに駅まで送ってくれるっていうし」

「そうだったんだ。きょう朝から颯兄いなかったから、俺てっきりまた何か単発バイト入れたんだなって思ってました。ほら、ひかる。みのりさん、覚えてない?すごくよく遊んでもらったんだよ。ひかるはみのりさん大好きで、帰ろうとするといっつもしがみついて行かないでって泣いてたぐらい」

 腑に落ちてない様子のひかるに真雪は説明する。

 当時3~4歳だったひかるはおぼろげな記憶しかないようで少し緊張した面持ちで、はしゃぐ真雪とみのりの会話を見守っていた。

「えっと、お久しぶりです」

「いいよ、ひかるちゃんまだ小さかったし覚えてなくても仕方ないよ」

 よそよそしいひかるにみのりがにこっと笑いかけた。

 みのりはたしか今は都内の美大に通っていると聞いた気がする。うちに来ていたころはセーラー服の真面目そうな人だったけれど、今は当時の面影を残しつつ、きれいな化粧も着こなした流行の服も都会の女性といった感じで、以前にもましてかっこいい。

「みのりさん、紹介します。こちらは」

「まず俺にお前の友達だっつう五十嵐君を紹介しろ」

 突然、颯兄が会話に殴りこんできた。

 つかまってしまった。真雪は歯噛みをする。みのりと話しながらうまく場を濁そうと思ったに。 

 しつこい兄はやはりそれを許さない。

「だからその、それはみのりさんの言った通りだよ」

 へどもどしながら言うと、みのりがうんうん頷いてくれる。

「颯太、自分でやらせておいて『高校生のくせに小学生と友達なんておかしい』はないわ。それならもうお迎えなんてやめれば」

「は?」

 肩をすくめたみのりに颯太の鬼目線がうつった。

 まずい。真雪は焦る。

 真雪の知る限り、颯兄はへらへらしているか怒っているかの2つしか情緒がない。

 殊にひかるがらみの話題のときは怒りまでの沸点がやたら低く、このままではいくらみのり相手とはいえ怒りだしてしまうかもしれない。うまく割って入らなければ。真雪は意を決するが、みのりは目の据わった颯太にひるむこともなく、平然とあしらう。

「怖い顔してもだめ。颯太はむかし学校サボって失踪するのにハマってたみたいに今はひかるちゃんを育てるのにハマってるんでしょう。でもよく見てみなよ、ひかるちゃん、こんなに大きくなったし、しっかりしてるじゃん。闇雲に守ろうとして自立のチャンスを奪うことはむしろ子供に悪影響、自分の支配下に置くことは育児なんかじゃないよ」

「支配ってなんだよ。俺はただひかるが心配なだけだ」

「心配だけじゃなくて、信頼してあげることも大事なんだよ」

「お前に何がわかんだよ」

「颯太が異常なのはわかるよ」

 みのりさんすごい。真雪は目を瞠る。

 自分だったらあんな風には言えないし、まんがいち言えたとしても返す刀でボコボコにされているだろう。真雪はみのりの歯に衣着せぬ物言いに羨望さえ覚えるが、当のみのりは相変わらず淡々としていて、怒り心頭の颯太に一歩も退かない。

「もう6年生でしょ。颯太、自分が12歳の時は親御さんが迎えに来てくれないと学校から帰れなかったの?違うでしょう」

「俺とひかるは違うだろ。女の子だし、親がいない今、いざってときは俺が親代わりに守ってやらないと」

「女の子だからって男の子よりか弱いわけじゃないし、『いざ』に備えすぎてあんたが今一番ひかるちゃんたちの恐怖になってる。見て、真雪くんの顔。ひかるちゃんとそのお友達だってお兄ちゃんと偶然会ったくらいで普通はあんなにおびえない」

 みのりがきっぱりと言い放つ。思わず拍手をした真雪とひかるを颯太が睨みつけるが、その視線も「ほらそれだよ、何やってんの」とみのりが諫める。

 その後も「だから」や「それは」を駆使して繰り広げられる颯太の反論を、みのりは的確に切って捨てる。ほぼ独断と偏見の屁理屈しかない兄の意見を、みのりは怒らず宥めず、ただ冷静に矛盾を指摘し、正論を言い続ける。

「すごいね、みのりさんて」

 キラキラと目を輝かせて囁くひかるに真雪も頷く。

「みのりさんは颯兄の中学の同級生でさ、颯兄たちが中三のときよく家に来てたんだよ」

「そうなんだ」

 うーん、とひかるが首をひねる。やはり思い出せないようだ。

「前に陽兄たちが来たとき、颯兄の失踪癖のこと言ってたじゃん。俺、あとでその頃のこと海兄に聞いてみたんだ。みのりさんは颯兄のクラスの学級委員で、不登校にみんなお手上げだった颯兄を、みのりさんが最後まで説得してくれたんだって。その頃はまだまともだったけど高校行ってからはもう全然って。みのりさんと同じ高校行けば颯兄はもっとちゃんとした人間になれたかもって言ってた」

「みのりさん舞高なんでしょ?颯兄無理じゃん」

「うん、海兄それも言ってた」

 ひかると真雪は顔を見合わせて苦笑いした。

 昔、颯太を訪ねて毎日のようにやってくるみのりのことが真雪も不思議だったのだ。

 いかにも真面目そうで賢いみのりが、真逆の颯兄とどうして友達なのだろう、と。その理由が今やっとわかった気がする。

 家族でさえ面倒に思うくらい傍若無人な兄を、みのりは自分と対等に扱ってくれている。

 だから全然違う二人なのに今でも一緒にいられるのだ。

 淡々と話すみのりの言うことは遠慮なく辛辣であるにも関わらず、颯兄もまた、いつもみたいに怒って会話を投げ出したりしない。「颯太には何を言っても無駄」ではなく、「颯太とわかりあおう」という努力をみのりさんは決してあきらめない。そんな人の言葉だからこそ颯兄にちゃんと届くのかもしれない。

 ふと気配を感じて横をみると聡子が真雪の袖を引っ張っていた。

 しまった、聡子は颯兄の怒りモードを見るのは初めてだったかもしれない。ひかるに対してもそうだけど基本的に女子には優しくあろうとする颯兄の、いまの姿は聡子を怖がらせているのかもしれない。

 聡子に不愉快な思いをさせるのは嫌だ、真雪は焦るが、意外なことに聡子はいつもの調子でにこにこしていた。

「ゆきちゃん、颯兄ちゃんはみのりさんのことがとても好きなのね」

「え?」

 あの二人が?目の前で熾烈な言い争いをしている二人を見てから、聡子に目を戻すと、聡子がうん、と頷く。

「すっごい言い争ってるけど」

「だってほら見て。ひかるちゃんのワンピース、みのりさんが着ているものにそっくり」

「え?」

 真雪はひかるとみのりを見比べた。

 確かに、言われて初めて気が付いたが、今日ひかるが着ているお気に入りのワンピースはサイズこそ違えど、色もデザインもみのりが今着ているものと似ている。

「本当だ・・・え?でもそれが何?」

「ひーちゃんが教えてくれたの。いつもは服は海兄ちゃんが買ってきてくれるのに、少し前に突然あのワンピースだけは颯兄ちゃんがプレゼントしてくれたって。きっとみのりさんが着ていて素敵だったからね」

 ふふ、と聡子が笑う。

「え?そうなの?」

 にこにこする聡子に真雪もにこにこしながら声を張る。

「颯兄意外にセンスいいんだなって思ってたらそういうことか。みのりさんと同じ服買ってきたんだ」

「あ、でももしかしたら颯兄ちゃん、ひかるちゃんとみのりさんの好きな女の子両方に自分好みの服を贈ったのかも」

「いや、ない。颯兄、全然服とか興味ないから。俺の中学のジャージ着て平気で外行くもの。みのりさんが可愛かったからその真似したんだよ、絶対」

 真雪たちのやりとりを聞いて、颯太とみのりの丁々発止がいつのまにかやんでいた。

 勝負あった。真雪は胸をなでおろす。

 聡子が気づいたワンピースの秘密を颯兄に聞こえるようにわざ大げさに話してみたのだ。

 耳まで赤くなってしまったみのりには申し訳ないが、これは颯兄の弱点かもしれないという読みが当たった。

 颯兄はなんともいえず腑抜けた顔でぽかんと口を開けている。

 その様子に真雪はあ、と察する。

 どうやら颯兄は無意識であのワンピースをひかるに買ってきたらしい。

 あの顔は海兄に言わせると「バカがキャパオーバーの時にするやつ」で、聡子に指摘されるまで本人もその意味に気づいていなかったのだろう。いま颯太は戸惑いのさなかで混乱しているに違いない。

 聡子がぽん、と真雪の背中を叩いた。不意打ちに思わず足が一歩前に出る。

 何?と言おうと振り返った瞬間、聡子が小さな拳を握り、ふわっと笑う。今だ、という声が聞こえた気がした。

「あのさ、ごめん颯兄。みのりさんの言う通りだよ。俺、もうひかるのお迎え行かない」

 勢いで言ってしまうと、ひかるも「そうだよ、私、大丈夫だから。颯兄ももう来ないでね」と続く。「いざとなったら五十嵐君もいるしね」と聡子が言い、五十嵐が慌てた様子で「よろしくお願いします!」と叫ぶ。その一連の流れに呆けたままの颯太があいまいに頷く。言えた。頬を上気させる真雪とひかると五十嵐に聡子が小さく拍手する。

「みのりさん、今日は会えて光栄でした。颯兄ちゃん、帰るところを引き留めてごめんね。みのりさんを駅まで送っていくところだったんでしょう?電車の時刻は平気?」

 聡子が言うと、みのりがハッとしたように時計を見て呆けたままの颯太を急かす。

「あ、こちらこそ何か変なとこ見せちゃって。じゃあごめん、真雪君たち、またね」

 と、慌ただしく颯兄を引っ張って校門を出ていく。真雪たち4人は大きく手を振ってそれを見送った。

「聡子ちゃん、ありがとう!」

 颯兄とみのりの姿が見えなくなった途端、ひかるが聡子に抱きつく。

「ふふ、なんか急にそんな流れになっちゃったけど、みんな頑張って自分の気持ちが言えたね」

「俺、あれで良かったのかな」

「大丈夫だよ、たぶん。颯兄、ああ見えて約束にはうるさいタイプだし、きちんと守ってくれるよ」

 興奮する五十嵐の肩を叩き、じゃれあうひかると聡子に「そろそろ行こう」と真雪は声をかける。 気が付けば派手にやりあう颯兄とみのりの声につられた野次馬に周囲を囲まれてしまっている。早く離れた方が無難だ。もし颯兄に連絡先を聞けたら改めてみのりさんにはきちんとお礼を言おうと真雪は思う。まだまだ無邪気に喜びあう三人を半ば引っ張るようにして、真雪は好奇の目からそそくさと逃げ出した。




 舞高文化祭「郷土にドキュン」は二日目も盛況だった。

 玄関からほど近い一年一組の展示はとりあえず立ち寄る人も多い。そのおかげか最初は手探りだった接客にも徐々に慣れ、次から次へと来るお客さんを優菜と新井はてきぱきと案内していた。

「でもさ、『郷土にドキュン』なんてよくわかんないタイトルだっつうのに、意外に人来るよね」

 忙しさの合間に優菜がぼやくと、

「そりゃ在校生以外にしてみれば舞高入れる数少ない機会だしな。俺も二年前に来たもん」

 と新井が言う。

 要は舞高に憧れている中学生やその保護者、舞高に入ることはなかったが興味本位で中を覗いてみたい他校の生徒、また母校愛の強い舞高卒業生など、仮にも県内トップを自負する進学校として注目を浴びるのは当然だと新井は言いたいようだ。

 愛梨ほどとまではいかないものの文化祭準備を通して優菜は新井ともずいぶん仲良くなれた気がする。

 なんだかんだ言って紗耶香や美南の次くらいには仲良しかもしれない。最初は暑苦しそうなやつだと思ったけど、明るいし、話しやすいし、リーダーシップはとるけど押しつけがましくない。

 今も話し上手な新井が率先してお客さんを案内してくれるおかげでみんな楽しそうにブースを進んでいく。

「新井、遊園地のお兄さんみたい」

「まあな、こういうのは楽しんだもん勝ちだろ」

 からかい半分で言うと、新井が白い歯を見せて笑う。

 本当に遊園地の人みたいだ。そう言っている間も新井の眼は次のお客さんの影を素早くとらえていて、「こんにちは」と言いながら素早く笑顔をつくる。

「あれ?遥じゃん、何?お前ひとり?」

 するっと入ってきた遥真雪を見て新井が素っ頓狂な声をあげた。

 真雪は知り合いを案内するために11時に待ち合わせをしているといってしばらくブースを離れていたのだが、周囲に連れらしき姿はない。優菜は時計を見た。時刻はもうすぐ11時40分になろうとしている。

「なんだ、あんなこと言ってたから絶対誰か一緒に連れてくると思って待ってたのに。どうした、その知り合いは」

 新井に肘で軽くつつかれた真雪が、うーんと首をかしげる。

「ちょっといろいろあって手間取っちゃって。とりあえず舞星まんじゅう食べたいって言うから先に中庭の屋台に案内したんだけど、もう新井が休憩に入る時間だろ。こっちには後で来るように言って、とりあえず戻ってきた」

 文化祭の期間中は生徒が各自で休憩時間を決め昼食などを取るようになっている。

 優菜の班では11時半から1時間交代で昼休憩を取ることにしており、今日は新井、優菜、真雪の順番だ。

「そんなん別にいいのに。会いたかったな、遥の知り合い。結局誰なの?」

「いやいや。遅くなってごめんて。ほら、早く休憩行って」

「白河第二中の奴じゃないんでしょ?」

「行ってってば」

 にやにや食い下がる新井の背中を真雪があきれたように押す。

 そのまま互いにふざけながら真雪は新井を廊下まで押し出していった。

 新井は何を聞き出したかったのだろう。

 急に優菜の胸がざわつきはじめた。二人が出ていくのと入れ違いに数人の客が入ってくる。他校の制服を着た男子たちだ。妙な胸騒ぎを押し隠して優菜は慌てて笑顔をつくる。

「こんにちは」

「あれ?お前、カニじゃん」

「え?」

 優菜の顔を見て、ひとりが言った。

 その顔にかすかな嘲りが浮かんでいる。

 うわ、コイツ。一瞬で、優菜の体から血の気がひいた。逆に顔は怒りでぼっと赤くなる。

 舞高に入ってからは思い出すこともなかったが、忘れられるはずもない。中学の同級生でしつこくカニとからかってきた男子の一人だ。

「こいつ同じ中学でさ、カニっていうの」

「うわ、でけー」

「まじかよ、こんな女いんの」

 連れている男たちは知り合いではないが、考え方は似たり寄ったりらしい。

 全員優菜より身長が低く、優菜のことを頭からつま先まで遠慮のない目でねめまわす。

 でけーでけーとうるさい彼らと目を合わせると殴ってしまいそうなのでなるべく視線を泳がせて優菜は耐える。

「なんだよお前、顔まで赤くしてマジでカニだな」

「カニってなに?あだ名?でけーからもっと別のがいいんじゃん?」

「ちがうって。カニって名前なの」

 げらげら笑う彼らに優菜は埴輪をぶん投げたくなるのを必死にこらえた。

 落ち着け。みんなで一生懸命作った埴輪をそんなことに使ってはいけない。

 わかっている、うまくやり過ごすには耐えるしかない。これまでの経験上、言い返せば言い返すほど、この手の輩は面白がってヒートアップする。心を無にして、この不快な奴らが立ち去るのを待つのが一番だ。

 そう思うのに、怒りで頭にどんどん血が上って顔が熱い。お前の価値観ほんとクソだな。そう叫んでやりたい。優菜は冷静になろうと鼻から深く呼吸をした。

「久しぶり。まず簡単にこの展示の説明をすると」

「あ、いい。そういうの。ぶっちゃけ舞高来てみたかっただけだし、あんま内容興味ないし」

 案内をはじめた優菜を、バカにするように男たちが言った。「え?」という優菜を無視して彼らは思い思いにうろつきはじめた。興味がないというのは本当なのだろう、展示をちらりと見て「意味わかんねえ」やら「なんか頭いいぶってるってかんじ」などとつぶやく。

 何言ってるんだコイツら。優菜の顔がまた熱くなる。

 頭いいぶってるわけじゃない。

 「郷土にドキュン」なんてポップな体にはしているけど、舞高文化祭のテーマは要するに斜陽の地方都市である舞星市を、魅力を再発見したり、新たな価値を付加したりして未来へとつなぐにはどうするかということを舞星に暮らす若者である自分たちが考えてみようということなのだ。

 そのために色々調べて、考察した結果を、なるべくわかりやすく展示できるように工夫した。

 確かに他校の文化祭に比べたら地味なテーマだし、興味をひかないかもしれないけれど、こんな奴らにバカにされるいわれはない。いい加減にしろよ。何がおかしいのかずっとニヤニヤしている彼らに優菜はついに我慢ができなくなった。

「あのさ、あんた達」

「優菜」

 怒りがピークに達する瞬間、突然、男と自分の間に遥真雪がするりと体を滑り込ませてきた。そのまま盾になるように、優菜を自分の後ろに隠す。

「ここからは俺が代わります」

 真雪がいつになく過剰なくらいに明るい口調で話している。

 もともと真雪も人当たりがいいけれど、新井みたいな遊園地のお兄さん然とした接客はしない。いつもは一歩ひきながら場に応じて話す感じなのに。優菜の胸が熱くなる。

 今の真雪には明るさの奥に隠れた攻めというか、断固とした強さがあった。相手の男たちのたじろぐ気配がする。結局、真雪に気圧されたのか、彼らはそれ以上何も言わず、足早に去っていく。彼らが教室から出ていくのをしっかり見送って、優菜は安堵のため息をつく。心なしか、目の前の真雪の背中も緊張がゆるんだ気がする。

「ごめん、優菜。ひとりで任せちゃって」

 振り向かずにそう言った真雪の耳は真っ赤だった。

 優菜もまた、さっきまでとは違う思いで赤くなる。気のせいじゃなかった。真雪は私があいつらにからまれているのを助けてくれたのだ。

 いま上を向いたら二人の間に「運命」と書かれているかもしれない。そんなことを思ってしまう自分にますます優菜は顔を赤らめる。

「おい、どうした、二人とも赤くなって」

 突然、話しかけられて真雪と優菜ははっと我に返った。

 黄色のTシャツを着た井田が不思議そうな顔をして立っている。

 その横では同じTシャツの上に赤い法被を着た女生徒がニコニコしていた。会釈する彼女に優菜と真雪も軽く頭を下げる。

「この人、実行委員長の亘先輩」

「あ、はい、どうも」

 井田に紹介された亘というこの三年生に優菜は見覚えがあった。

 小柄な体に似合わず声が大きく、全校集会の後にすかさず時間をもらって文化祭の方針を説明したり、各教室を回って生徒たちを激励したりとパワフルな女性で、きのうの前夜祭でもおおいに気炎をあげていた人だ。

 また、優菜にとってはミスコンのオーディションを受けた時に愛梨とのコンビを褒めちぎってくれた人でもある。

「良かった、きみたち昨日3年4組に来たでしょ。私、四組なんだよ」

「ええ、まあ」

 困惑した優菜と真雪が井田を見つめる。話がよくわからない、という無言の訴えを井田が少し待て、というように片手をあげて制す。

「友達がさ、昨日いい感じのカップルがいたって教えてくれてね。ひとりは背の高い女の子っていうからもしかして優菜ちゃんかなって思って、で、一緒にいるならその子も同じ1年1組かもって思ったから井田っちに案内してもらったんだよー」

「はあ」

 真雪の生返事を聞いているのかいないのか、亘は優菜に笑いかける。

「井田っちから聞いたよ。愛梨ちゃん休みなんだって」

「あ、はい」

 優菜が少し気まずそうに答える。亘はニコニコした表情のまま、次は真雪を指さす。

「きみ、名前は?」

「えっと、遥です」

「そう、いい名前ね」

 そういって亘は何かの用紙を取り出した。

「ハルカは苗字?どんな字?下はなんていうの?」

「あの?」

「先輩ストップ、勝手に書いちゃダメです。ちゃんと説明しないと、遥、困ってますよ」

 ぐいぐいと真雪に迫る亘を見かねて井田が割って入った。

「あのな遥、単刀直入に言うと今日の『誰でもミスコン』にお前に出てほしいんだよ」

「はあ?」

 真雪が呆気にとられた顔をする。

 優菜もまた驚いて真雪を見つめた。愛梨に言わせると「きれいだけど眠そう」と言われる目をいつになく見開いた真雪は、なぜ自分に声がかかるのかわからない、といった風情で亘と井田を見比べている。

「いやだって、ミスコンって女の人がでるやつじゃないの?」

「違うよー。やだ、全校集会の時に説明したんだけど聞いてなかった?厳密にいうとミス&ミスターコンテストなんだけど、長いから略してミスコンって呼んでるだけ」

 井田が持参したパンフレットを真雪に見せた。

 そこには確かに『誰でもミス(タ)コン ~舞高自慢の美男美女をとくとご覧あれ!』と表記されている。その下には前の文化祭のときの写真が載っていて、どうやって作ったのか体育館に設置された即席ランウェイの上を男女混じって闊歩する姿が収められていた。

「『誰でもミスコン』は女の子も男の子も一緒に舞台に上がってその中でナンバーワンを決めるの。体育館にランウェイ作ってさ、もちろんそのまま出てもいいし、過度な露出さえしなければ女装も男装もアリで毎回すごい盛り上がるんだよー」

「はあ」

 本当に何も知らなかったんだろうな。

 真雪の気の抜けた返事を聞きながら優菜は思う。

 もともとぼんやりしているし、ミスコンなんてはなから自分には関係のないことだと思って亘の話も聞き流していたのだろう。

 そんな真雪に亘と井田は『誰でもミスコン』は文化祭の中でも目玉イベントで毎回多くの来場者を集めていることを口々に説明する。

「その分出場者も厳選してるんだよ」

 と亘が言う。

「もちろんただ目立ちたいって子もウケ狙いの子もナルシストな子も大歓迎なんだけど、やっぱりミスコンっていう手前、ある程度そうじゃない出場者も確保しておきたいわけ。そうじゃないと『出たとこ勝負』との差別化ができないし」

「出たとこ勝負?」

「ええ?これも集会で説明したのに。ハルカくんて本当にボーっとしてるね」

「すいません」

 真雪は気まずそうに下を向いた。

 あきれる亘に代わって井田がパンフレットをめくり、今度は『出たとこ勝負』の紹介ページを見せる。

「『出たとこ勝負』は演芸大会で、お笑いとかものまねとかそういうネタをやりたい奴が出るんだけど、あえてこっちじゃなくてミスコンで笑いを取りたいってやつもいるんだよ。どっちもオーディションをやって持ち時間と人数をきっちり計ってスケジュールを組むんだ」

「そ。で、ミスコンは文化祭でも最終のイベントで一番盛り上がるし、出場者が一人でも欠けるのは実行委員長としては避けたいってわけ」

「すいません」

 今度は優菜が下を向き、井田が慌てて首をふった。

「あ、いや、ごめん、優菜。そういう意味じゃない」

「そういう意味も何もないじゃん。私だって悪いとは思ってるし」

「ほら、俺、愛梨と優菜に出場頼んでたんだけど、愛梨が休みだろ。優菜もひとりじゃ気乗りしないみたいで」

 優菜と井田の間に突如漂う不穏な空気に戸惑う真雪に井田が説明する。

 優菜は下を向いたままちらりと視界の端で亘を見た。

 赤い法被の背筋をしゃんと伸ばし、自分たちのざわつきの成り行きを平然と見ているようだ。

 なんなんだろ、この人。

 忙しいのにわざわざ実行委員長がここまで来た理由を悟って優菜は溜息をつく。

 今朝、井田に「できれば出たくない」と直訴してみたのだが、その結果がこれだ。辞退した分の時間を短縮したり、オーディションで落ちた人に声をかけたり、いくらでもやりようがあるだろうと思っていたけど、まさか自分の代わりに真雪に白羽の矢を立てるとは。

「ごめん、井田っち。急にやりたくないって言って悪かったってば」

「いや、俺たちも嫌がってる人を無理矢理出すわけにはいかないから」

 観念した優菜に井田は首を横に振る。

「でも困るんでしょ。いいよ、出るし。朝もそう言ったじゃん」

「いやいや」

「だって私の代わりになんにも知らない遥にやらせるなんてできないよ」

「うん、いやだからそうじゃなくて」

「そうなのよ、優菜ちゃん。そこでね、ハルカくん」

 突然話の矛先が真雪に向いた。

「ハルカくんが優菜ちゃんと一緒に出てくれればいいじゃんって思ってスカウトしに来たんだけど、どう?」

「え?」

「は?」

 真雪の眠たげな目が大きく見開かれた。優菜もまた突然のことに唖然とする。

「それってどういう・・・」

「だって優菜ちゃんはペアなら出ても良かったんでしょ。私としても優菜ちゃんのウォーキングはぜひミスコンで披露してほしいし、ならハルカくんと出ればいいんじゃないかなって」

「いや、でも」

「だって出ないなんてもったいないよ。オーディションでは優菜ちゃんが学ラン着て愛梨ちゃんとカップルになるって言ってたけど、優菜ちゃんが女子役にスライドしてハルカくんが男子役でさ。あ、もちろん優菜ちゃんが学ラン着たいならそれでもいいけど」

 食い下がる優菜に亘が言う。

 その口調には妙な説得力があり、熱のこもった声で亘にそういわれると優菜もなんだかそれが最良の選択のような気がしてきてしまう。オーディションで愛梨とやったみたいに真雪と手をつないだり時々見つめあったりする自分を想像して優菜の体は一瞬で熱くなった。

「というわけなんだわ」

 井田が呆然としたままの真雪の肩をぽんと叩いた。

 真雪ははっとした様子で、つかの間、何故かいつも以上に眠そうな顔になるが、すぐにいぶかし気に眉をひそめる。

「えっと、それじゃもしかしてさっきのエントリー用紙?それに名前書こうとしてたんですか?」

「だってハルカくんならいけると思って」

「いけないですよ!?」

 遠慮がちに非難の声をあげた真雪にも亘は動じない。

「いけるよー。大丈夫、昨日みたいに優菜ちゃんと一緒に歩くだけでいいから。それでじゅうぶんサマになるから、ね」

「いや、そんな歩くだけっていっても・・・」

「な、頼む。遥、人助けだと思って!」

 間髪入れず、ぱん、と井田が手を合わせた。

「ええ~・・・」

「優菜もさ、遥が一緒なら一人じゃないしいいよな、な?」

「ううんと」

 井田と亘に一斉に見つめられ、優菜はたじろぐ。

 真雪も困った顔でこちらを見ている。それに気づいてはいたけれど、さりげなく優菜は気づかないふりをしてしまう。

「まあ、それなら」

 優菜の返事を受けて井田と亘の視線が今度は真雪に注がれた。

 優菜も真雪を見る。

 三人の遠慮ない視線にさらされて真雪は居心地が悪そうだ。やる、と言わざるを得ない雰囲気。こんなのに真雪が耐えられるはずがない。

 自分のずるさを感じても優菜は視線をそらせなかった。

 見つめれば見つめるほど優しい真雪は「やる」と言ってくれるとわかっていたから。

 きっと真雪はミスコンみたいなものは得意じゃないだろう。嫌な思いをさせてしまうかもしれない。それでも二人で同じランウェイを歩く誘惑は抗いがたく魅力的だった。やがて根負けしたように、真雪は天を仰ぐ。「いいのか?」と聞く井田に小さく頷いた。

「じゃあ15時半に体育館集合ね。優菜ちゃん、ちゃんとハルカくん連れてきてね」

 エントリー用紙を受け取った亘がニコっと言い残すと井田を連れて去っていった。





 舞星高校第二体育館は多くの人でごった返していた。

 これから開催される『誰でもミス(タ)コン』のために壇上からは鉄骨の台を組んだ手作りのランウェイが続き、左右には観客席を設けている。時刻はまだ15時をすぎたところで、開催まではまだ30分以上あるというのにもうほとんどの席が埋まっている。整然と並べられたパイプ椅子の後ろには立見席も設けられていて、このイベントの人気をものがたっていた。

 三森聡子はパイプ椅子に腰かけて鞄の中から文庫本を取り出す。出かける時はいつも持ち歩いているのだが、まさか今日役に立つとは思っていなかった。

「ね、ね、聡子ちゃん。日曜日にミスコンやるって。これ行きたい」

と言っていたひかるは隣にいない。みのりさんを駅まで送って戻ってきた颯兄ちゃんが、「五十嵐くんと話したい」といって、五十嵐くんもろとも連れて行ってしまったからだ。

「お迎えをしないのはOKだけど、五十嵐くんがひかるの友人としてふさわしいかどうかは知っておきたい」と颯兄ちゃんは言っていた。

 聡子もついて行こうと思ったのだが、いつになく気の抜けたような颯兄ちゃんと「大丈夫だから心配しないで」と笑うひかるちゃんに勧められるままなんとなく居残ってしまった。

 母が迎えにくる約束の時間まであと一時間強、こんなに長くひとりで過ごすのは初めてかもしれない。

 ゆきちゃんの教室には、二人が連れ去られる前に一緒に行ったのだが、ゆきちゃんとはあまり話せなかった。

 忙しそうだったということもあるけれど、小学生の頃から女子校で過ごしてきた聡子には男女が同じ教室にいることや、同年代の男子がいっぱい集まっていることが衝撃的で気後れしてしまったせいもあるかもしれない。

 自分のような環境のほうが特殊だと頭ではわかっているのだが、たくさんの男女の中できびきびと立ち働くゆきちゃんを見ていたら、なんだか急に緊張してうまく言葉が出てこなかったのだ。

 ゆきちゃんのクラスの展示は盛況で、聡子たち以外にもたくさんのお客さんが来ていた。

 ゆきちゃんたちの班はひとりが急なお休みでほかの班より少ない三人で担当をしていると言っていたし、さらに聡子たちが行ったときはその三人のうちのひとりがお昼休憩だったそうで、ゆきちゃんは「本当は自分のクラスの展示くらいは全部案内したかったんだけど、ちょっとここ離れられなくて。ごめん」と恐縮していた。

 ひかるちゃんや五十嵐くんは、ゆきちゃんに無邪気に話しかけ、その隣でニコニコしている男の子に挨拶をし、展示について質問したりしていたのに、自分は後ろで軽く会釈するくらいしかできなかった。

 帰ってしまおうかな、と聡子は思う。

 ミスコンを見たがっていたひかるへのお土産話になればと思っていたが、なんだかさっきから胸がざわついてしょうがないのだ。

 ここにはこんなに人がいっぱいいて、舞高生はもちろん、それ以外の人もほとんどが自分と同じくらいの年頃の子たちだというのに、なんだか自分がひどく場違いなところにいるような気がする。

 周りが賑やかであればあるほど、反比例して自分の孤独をつきつけられているような気がする。

 舞高から家までは歩いて帰るには少し遠いけど、バスを使えばいいのかもしれない。しかし実を言えば聡子は路線バスというものに乗ったことがなく、乗り方がよくわからない。

 小学生のひかるちゃんのほうがよっぽどしっかりしているな、と聡子は思う。

 ひかるちゃんならこういう時さっさとひとりで帰れてしまうのだろう。颯兄ちゃんのお迎えに断固抵抗し続け、通学路ダッシュでしのいだ果てに、今日ついに自由を手に入れたひかるちゃん。彼女の強さに聡子は憧れる。

 聡子は本を閉じ、時計を見た。きっと連絡をしたらお母さんは約束前でも迎えに来てくれるだろう。しかしそれはしたくなかった。

 十年前、聡子は誘拐された。

 四月の初め、最期の桜が見頃で聡子と母は遥家を誘って少し離れた大きめの公園へお花見に行ったのだ。

 珍しく陽兄ちゃんも帰省していて、大人数で敷物を広げ、用意したお弁当をみんなで食べた。

 公園は広く、訪れている花見客は多かった。おなかいっぱいになった聡子はひとあし早く遊ぼうと一人で遊具のある広場まで歩いた。そこで見知らぬ男に手をひかれた。

 あの時、車に押し込まれる自分を見つけたゆきちゃんが大声を出してくれなかったら、ゆきちゃんの傍らにいた海兄ちゃんがすばやく警察に連絡してくれなかったら、連れ込まれた車を陽兄ちゃんが追いかけてくれなかったら、自分はどうなっていたかわからない。

 あの事件は聡子自身よりも周囲の人をひどく傷つけてしまった。

 あれ以来、聡子の身を案じた両親は高校生になる今でもひとりでの外出を許してくれない。

 どこかへ行くときはもちろん、毎日の通学も送迎し、自分たちが難しい場合には信頼のおけるタクシードライバーの斉藤さんにお願いしている。そんな風だから、聡子は友達と遊ぶこともあまりない。

 それでも小さい頃はまだ良かった。市立と違い、私立の聖羽良に通う生徒たちは住む場所もいろいろだ。だから遊ぶときにはみんな送ってもらうのが自然だった。疎外感が生まれたのは小学校高学年ごろからで、みんな自転車で集まって自由に遊ぶようになったのに、いつも車で送ってもらう自分は異質だし、遊びに行きたいというのが親にも友達にも気が引けた。

 事情をわかった上で仲良くしてくれる友達もいるし、そういう子たちには本当に感謝しているけれど、やっぱり踏み込んだ人間関係を築くことにどうしても消極的になってしまう。

 それに、颯兄ちゃんがひかるちゃんを過剰に心配するのも元はと言えばあの事件のせいではないかと聡子は思っている。

 事件のあった公園と家は離れているけれど車に乗ってしまえばすぐだ。

 あの時の犯人は結局、大した罰は与えられなかったし、今どこにいるかもわからない。

 あの犯人でなくても、非道な犯罪者予備軍はどこに潜んでいるのかわからないのだ。

 心の傷は見えない。両親も颯兄ちゃんもきっとあの時のショックから完全には回復していない。だから過剰に万が一を恐れている。

 あの時、犯人はすぐ捕まった。サッカーで鍛えた俊足の陽兄ちゃんが信号待ちをする犯人の車に追いつき、鬼の形相でドアを開けようとしてくれたからだ。犯人がまごついて発進できずにいたところに海兄ちゃんが呼んだ警察がかけつけてくれた。聡子は運が良かった。連れ去られた瞬間の恐怖はあったが、かすり傷ひとつ負わなかった。でも傷ついた人々にとってそれは心の安定剤とはならない。もし次があったら?もし今度はひかるちゃんが狙われたら?両親や颯兄ちゃんはそれが不安でたまらないのだろう。

 でも、と聡子は思う。

 本当にいつまでもこのままでいいのだろうか。

 ひかるちゃんはついに颯兄ちゃんの不安の膜を打ち破って自由になった。それだというのに、自分は何なのだろう。もう高校生なのにひとりで帰ることもできない。かといって開きなおって現状を受けいれることにも抵抗がある。

 突然、耳を震わせる大音量が流れ、同時に電気が消された。

 暗幕が閉じられた体育館は真っ暗になる。いよいよミスコンが始まるのだ。

 壇上に黄色いTシャツの上に赤い法被を羽織った女子生徒と、緑の法被を羽織った男子生徒がライトの輪とともに現れ、会場を盛り上げる。

 二人は司会者で、今度はその手の導く先にスポットライトがあたる。

 二階のギャラリー席には左に三人、右に四人ずつ審査員が座っていて、そのうち三人は校長先生をはじめとする舞高の教師たちで、残りの四人は舞高の生徒会長、舞高のライバルである美加崎高校の生徒会長に加えて、つい先ほど校内でスカウトした一般客のお兄さん、お姉さんだそうだ。

 盛大な拍手と歓声とともにミスコンは幕を開けた。聡子も思わず楽しくなって大きく拍手を送った。どうせならあまりないこの機会を楽しもう。

 絶え間ない音楽にのせて出場者は次々にランウェイを歩いてこちらにやってくる。普通の制服姿の子もいるが、中には個性的なファッションに身を包み、大いに飾り立ててステージを盛り上げている子もいる。ラメが輝くジャンプスーツに孔雀のような羽を背負った子、ファッション誌からそのまま抜け出してきたような今どきのおしゃれに身をつつんだ子、フランス人形みたいにフリルがいっぱいの裾が大きく広がったスカートを履いた子、髪の毛をリーゼントに固めて制服の裾をわざとひきずって歩く子、アニメキャラらしいコスプレをした子、どの生徒も堂々と歩き、ある者は微笑み、ある者は魅惑的な流し目を送りながら壇上へと戻っていく。出場者が現れるたびに観客席は大きく沸いた。友達らしき生徒たちの声援もそこかしこから聞こえる。みんな熱狂していた。聡子もまた、さっきまでの孤独感が嘘みたいに華やかなステージを楽しみ、いつのまにか夢中になっていた。だから余計に、ゆきちゃんの姿がそこに現れた時は心臓が止まるかと思った。

 ランウェイを照らすライトの輪の中をゆきちゃんは真面目な顔で歩いていた。

 隣にはすらりと背の高いきれいな女の子がいる。

 二人は制服のズボンとスカートにお揃いの文化祭Tシャツを着ていて、少し見つめあってから歩き出した。その姿に大きな歓声があがる。

 ゆきちゃんの顎が少し上がっているのは緊張しているせいかもしれない。そうだ、こういうことは苦手なはずだ。それでもすごく絵になっている。ゆきちゃんも女の子もかっこいいのに気取ってなくて、派手なパフォーマンスがなくても観客を飽きさせない。

「誰あれ、いいね」「ほらあの一年生だよ」「遥じゃん、あの二人付き合ってたんだ」周囲にいた舞高生からそんな声が聞こえる。

 聡子の胸がふたたびざわつきはじめる。

 本当に周囲の言う通りだ。ランウェイを歩く二人はごく自然な雰囲気で、とてもお似合いだった。もしかしたら普段からゆきちゃんとあの子はあんな風に一緒に過ごしているのかもしれない。だからあんなに自然なまま素敵なのかもしれない。

 聡子は食い入るようステージを見つめる。

 そうなのだ。私は何もできないし、何も知らない。

 だからここから逃げ出すこともできずにこれを見続けるしかない。

 一瞬だけ、ゆきちゃんと目があった気がした。

 ゆきちゃんは少し驚いているように見えた。じゃあ私は?体がすくんだまま動けなくなっている私はゆきちゃんの目にどんな風に映ったのだろう。

 ランウェイの二人が優雅に踵を返した。BGMの重低音が容赦なく胸を穿つ。スポットライトの中に次の出場者が現れた。ゆきちゃんの姿が見えなくなった途端、金縛りが解けたように聡子は下を向いた。




 舞星高校『誰でもミスコン』は大盛況のうちに幕を閉じた。

 亘先輩の言った通り、文化祭はそのまま怒涛の勢いで後夜祭へとなだれこみ、舞高生たちのテンションは浮つく熱気の果てなく高まっている。

 ミスコンの最中は写真も動画も撮影禁止だったから、優菜はここぞとばかりに紗耶香や美南と一緒に写真を撮りまくり、舞星ダンスを踊りくるった。

 ミスコンではなんだかんだで三位入賞を果たした。

 一位はランウェイで見事なタップダンスを披露した三年生男子で、井田が言うにはあまりに激しくステップを踏むので急ごしらえのランウェイが壊れるんじゃないか肝を冷やしたそうだ。

 三位入賞と自分たちの名が読みあげられた瞬間、優菜は驚きと喜びで真雪をみつめたが、真雪の目がこちらを向いたのはずいぶん遅れてからだった。

 緊張の糸が切れたのか、あるいは慣れないことをしたせいで疲れているのか、真雪はいつにもましてボーっとした顔をしていた。それでも優菜の視線に気づくと慌てて笑顔を見せてくれる。

 無理もない、と優菜は思う。自分は仕方ないが真雪は完全にとばっちりで付き合ってくれたのだから。

 それでも、つい先ほどまで自分たちを包んでいた歓声と羨望を思い出すと優菜は喜びがこみ上げるのを抑えられない。

 ランウェイを一歩踏み出した瞬間、真雪と心が通じ合った気がした。

 束の間だけとはいえ自分たちは完全にカップルだった。

 仲睦まじくお似合いの二人として大勢の人の視線を浴びたあの高揚を真雪もきっと感じたはずだ。だからこそ最後まで堂々と歩き切り、三位入賞もできたのだと思う。

 後夜祭が終われば打ち上げも待っている。優菜は愛梨の顔を思い浮かべる。話したいことはいっぱいあった。真雪が昼間いやな奴から助けてくれたこと、ミスコンのこと、そしてこれから迎える打ち上げのこと、どれもこれも落ち着いて話せる気がしない。

 優菜はさりげなく視線を巡らせる。

 ずっと探しているのだが近くに真雪の姿は見えない。校庭でキャンプファイヤーを囲みながら行われる後夜祭はクラスも学年も入り乱れて盛り上がる。とはいえ大体は友達同士で固まっているからそんなに遠くにいるとも思えない。視界に入った新井やクラスの男子の周囲を注意深く観察しながら優菜は軽く身じろぎした。

 ミスコンが終わって壇上を降りた瞬間、紗耶香と美南が駆け寄ってきてくれた。抱きついて喜ぶ二人と写真を撮り、「あれ、遥くんは?記念に写真撮りたかったのに」そう美南が首を傾げた時にはいつのまにか真雪の姿は人混みに消えていて、そのまま他の生徒たちの流れにのって後夜祭の校庭に出てきてしまった。

 今日は帰りのホームルームもなく、片付けも明日なので、ここで真雪に会えないのはさみしかった。

 ついさっきまで一緒にいて、この後も打ち上げの約束があるというのに、さみしいだなんて自分でも可笑しくなってしまう。

 ミスコンの高揚に優菜は突き動かされている。真雪とあのランウェイでの胸の高鳴りを確かめあいたかった。それは新井もいる打ち上げの席では遅すぎる。二人だけで密かに、お互いの心の繋がりを感じたかった。

 優菜の視線に気づいた新井がこっちにやってくる。笑顔で片手を挙げる彼に優菜はハイタッチで応えた。

「優菜すごいじゃん、見てたぞミスコン」

 新井と一緒に来た、同じクラスの千木良と伊能が言う。

 ミスコン中は留守番だった新井も千木良たちにいろいろ聞いたらしく、おめでとうと言ってくれた。

「すごかったよな、もう二人で歩いてる姿がキマッちゃって。お前ら実は付き合ってるのかと思った」

 からかう千木良に、「ばーか」と言って優菜は笑う。本当は動揺のあまり心臓が爆発しそうだったけれど、うまくごまかせたようだ。

「もともと愛梨と出る予定だったんだけど、急な代打を遥が引き受けてくれただけ」

 なるべく何でもないように続けると、みんな気にした風もなく頷く。

 もとより今までの自分の真雪への態度を考えれば、誰も本気ではそう思っていなかったのだろう。それはそれで残念な気持ちがしないでもない。

「そういえば遥は?」

 優菜は気を取り直して、真雪の不在にさも今気が付いたかのように訊ねる。

 すると意外そうな顔で新井が答えた。

「あれ、聞いてなかった?具合悪いってミスコンが終わった後すぐ帰っちゃったんだよ」

「え?」

 驚く優菜に新井が続ける。

「急な体調不良って言ってたけどな」

「遥ああいう性格だし、ミスコンの雰囲気にあてられて疲れたんじゃねえの」

 なー、と伊能が言い、周囲が頷く。

 優菜の顔から一瞬で血の気が引いた。やばい。真雪はなんだかんだ要領がいいから、そこまでミスコンを負担にしていたなんて考えもしなかった。そんなにきつかったなんて。一緒に歩けるうれしさが勝って全然気づいていなかった。

「やばいじゃん、私、無理強いしちゃったんだ」

「まあ、別に大丈夫だろ」

 血の気が引く優菜の背中を、新井がわざと明るく叩く。千木良と伊能も「そんな深刻になる話じゃないって」と笑い、「ダッシュで帰ってったし、元気だよ」と付け加える。

「そうそう、どっちかっていうと元気そうだったんだよ。いつもはボーっとしてるのにやけに機敏でさ。カバン掴んで『とにかく帰る!以上!』みたいな感じで、遥でもあんなにハキハキ喋ることあるんだって思ったもんな」

「たぶんさ、恥ずかしかったんじゃねえの。お前らすごく目立ってたし、みんなにからかわれるのが嫌で舞台直後のアドレナリンが出てる勢いで帰ったんだと思うね、俺は」

 伊能が言うと新井も頷いた。

「そっか。じゃあ俺も遥に対してはカップルとか言ってからかうのやめよ」と千木良が言うのに、「私にもやめてよ」

 と優菜はつっこんだ。

 新井たちが真雪の早退を自分が気にしないように気を遣ってくれているのがわかって優菜は胸が熱くなった。

 紗耶香と美南も「遥君かっこよかったのに。胸張っていいのにね」と暗に優菜は悪くないとフォローしてくれる。

 優菜はなるべく明るく「そっかー」と言い、大きく頷いた。頭を振って自分なりに気持ちをきりかえるスイッチを入れる

 真雪のことが気にはなるけれど、こんなにいい友人たちがいるのにいつまでも暗い顔はしていられない。真雪が元気ならとりあえず良しということで、今はみんなと後夜祭を思いっきり楽しむことにしたのだ。

「でさ、打ち上げどうする?俺とお前の二人で行くのもあれかなって思ったんだけど。キャンセルするなら早い方が店にも迷惑かかんないだろ」

「ああ、そっか。確かに二人じゃね」

「打ち上げどこなん?」

 残念そうな優菜に美南が口を挟む。

「そこのお好み焼き屋。関西亭」

「いいじゃん、うちら行きたくない?」

 美南が言うと紗耶香も頷く。

「お前らの班、打ち上げないの?」

「ないよ、つうかみんなないよ」

「俺らのとこもないな」

「そうなんだ、愛梨が当たり前みたいに打ち上げ設定してたからみんなやるのかと思ってた。じゃあお前らも来る?人数変更OKか聞いてみるけど」

 新井の提案に全員が賛成し、新井はいったんお好み焼き屋へ連絡をとるためその場を離れた。

 校庭中に響く爆音から逃れるためにはだいぶ遠くまで行かなければならないだろう。

 途中でふり返り、「人数変更ダメって言われたら女子三人で行くか?」と聞く新井に優菜たちは大きく手で丸をつくる。

「新井やさしーい」

 美南に合わせて優菜も歓声を上げた。

 優菜は今、心の底から楽しかった。真雪や愛梨がいないのは残念だけど、ここにいるみんなも同じ気持ちで楽しんでいるような気がする。

 文化祭をやりとげたことでみんなと通じ合うことができた。入学式の時から持ち続けていた不安がいつのまにかさっぱり消えている。私は舞高生だ、と自信をもって言える。

 ふと、昼間きた元同級生の「頭いいぶってるってかんじ」という揶揄を思い出して、優菜は鼻で笑う。そうだよ。私は頭いいぶっている。だって頑張ってるんだから、背伸びしているのは当然だ。そうじゃなきゃ次の高みが見えない。

 明日からまた怒涛の勉強の日々が始まる。けれど、これまであった漠然とした不安はない。

 みんな天才なわけじゃなくて、頑張っているからここにいるんだし、一緒に頑張ればいいのだ。

 目標はいつだって手を伸ばした先にあるから止まることはできないと私もみんなも知っている。

 真雪のことも、きっとこれから始まる。

 次に会ったら、むりやりミスコンにつき合わせたことをまずは謝ろう。そして、大切な思い出になったこともちゃんと伝えよう。そうしてひとつずつ気持ちを重ねていくのだ。

 舞高に入って本当に良かった。みんなに会えて本当に良かった。

 校庭はクライマックスはここだと言わんばかりにエンドレスで流れる文化祭のテーマ曲と、うねるような生徒たちのざわめきに包まれてだれもが興奮している。

 キャンプファイヤーの火が爆ぜ、組木の一部が崩れた。近くにいた女子生徒の悲鳴混じりの嬌声が聞こえる。朝礼台に実行委員を従えた亘が姿を現して拡声器を持つ。いよいよ高校生活最初の文化祭が終わるのだ。実行委員長の姿におもむろに生徒たちは鎮まるが、亘の口から感謝と労いと称賛の言葉が聞こえるとまた一様に大きな盛り上がりを見せた。

「では皆さん、これより最後の舞星ダンスを踊って本文化祭は終結となります。本当にお疲れさまでした!最後まで目いっぱい楽しんでください!」

 亘の言葉に生徒たちは歓声を持って答えた。ダンス曲のイントロがスピーカーから割れんばかりにあふれ出す。「前、行こうよ」、優菜と紗耶香と美南はそろって駆け出すが、後に続かない千木良と伊能に気づいて足を止める。

 怪訝な顔で振り向いた女子たちに千木良は片手を振り、「ここで新井を待ってるよ」と叫ぶ。文化祭を十分楽しんではいたが、千木良も伊能もダンスにはあまり積極的なたちじゃない。楽し気に人混みに消えていく女子たちの背中を見送りながら、ふと思い出したように千木良が口を開いた。

「そういえば遥といえばさ、今日来たの彼女かな」

「ああ、あの昼頃に妹ちゃんと一緒に来た子?」

 そう言って伊能が頷く。

 千木良が言っているのは、今日、遥の妹とその友達という男児と一緒に来た女の子のことで、凛とした清楚な雰囲気の、人目をひく美少女だった。遥の妹もまた可愛らしく、「いつも兄がお世話になっています」とはにかみながら挨拶して、一気に教室のアイドルとなった。妹の友人男児も元気な子で、二人とは会話も弾んだのだが、件の美少女はうつむきがちに微笑んでいるだけで結局その正体はわからずじまいだ。

「でも妹とその友達と彼女一緒に来るかなー。不自然じゃない?」

「そうかもな」

「案外イトコとか?あ、遥、姉ちゃんいるとか?でも同い年くらいに見えたし、そもそも姉ちゃんなら妹より姉ちゃんのほうが率先して挨拶するよな、普通」

「いや、知らんけど。お前そういう話好きな」

 声をひそめる千木良になかばあきれて伊能が笑う。

「新井に聞いてみれば?仲いいし、遥と同じ中学だろ」

「いや、白河二中の奴に聞いたことあるんだよ、遥って目立つ奴じゃないし、ボーっとしてるけどさ、けど今日のミスコン見たらなんかいい感じだったじゃん。で、中学時代もやっぱりモテてたらしいんだわ」

「ふーん、で?」

「でさ、中でもが積極的な女子が友達みんな巻き込んで遥に告白したけど断られたって。で、遥サッカー部にいたらしいんだけど、時々練習サボって帰ることがあって、その女子がいろいろ問い詰めたら『迎えに行かなきゃいけない子がいるから』って言ったって。で、他校に彼女がいるって噂になったらしくてさ。だからあの子がそうなのかと思ったんだけど」

「ああそう。じゃ、そうなんじゃない」

「え~、伊能、気にならないの?もうちょっと乗ってこいよ」

「知らねえし。遥本人に聞けばいいじゃん」

「聞いたけどさ~、いや~とか言って答えないんだよ。なんか遥って態度がほわほわしてるじゃん。ウサギの赤ちゃんみたいな。突っ込むのがかわいそうであんまり聞けないんだよな~」

「あっそ。じゃ諦めろ」

「え~」

「お前、ゴシップ好きも大概にしとけよ」

 肩をすくめた千木良に伊能が笑う。

 ダンスは一番と二番の間の間奏に入った。踊る人々の群れに紛れて優菜たちはもうどこにいるのかわからない。新井が戻ってくる姿が見えて男子たちは大きく手を振った。




 遥真雪はもつれる足で自転車のスタンドを蹴った。

 校舎裏の自転車置き場から一番近い出口である北門に向かって全速力で自転車を漕ぎ出すが、すぐにスピードを落とす。

 ミスコンが終わったばかりの校内にはまだ多くのお客さんがいた。帰り支度のまばらな人波にぶつからないよう、逸る気持ちを必死にこらえて慎重にペダルを踏む。

 みんなこの文化祭を楽しんでくれたらしく、朗らかな顔をしていた。中にはさっきのミスコンを見ていたのだろう、真雪に気がついて指さしてくる人もいる。手を振られたような気もするが、真雪には構う暇もない。

 ミスコンが行われた体育館で、真雪は聡子を見つけた。

 妙なものだ。よけいに緊張するからなるべく客席は見ないようにしていたのに、聡子の姿だけはたぐりよせたみたいに目に飛び込んできた。

 色とりどりの稲妻みたいなスポットライトの端に聡子の顔が映し出された時、真雪の中でなにかがきれた。

 急にランウェイを歩くことになって緊張していたのは本当だが、その実、大したことではないとも思っていた。所詮自分は優菜のおまけで、愛梨の代理であり、亘先輩の言うようにただ歩いて戻ればいい。

 そう思っていたのに、聡子の顔を見た瞬間、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。

 真雪の知る聡子はいつも笑っていた。

 やさしくて、ほのかな光に満ちた微笑みはいつだって真雪の胸にあった。

 たとえば、夏休みに暑さを逃れて訪れた山の木漏れ日を見たとき、青空の下、樹氷で覆われた湖畔の森を見たとき、そういうとき、真雪は聡子を思い出す。花を見ても月を見ても真雪は聡子を思う。聡子の笑顔はそんな感じなのだ。この世のすべてを肯定するような美しさがある。

 誘拐された時でさえ、聡子は笑っていた。

 保護された直後だというのに聡子は警察官の足の隙間を縫って、ショックで大泣きする真雪を「大丈夫だよ、ゆきちゃん」と笑顔で抱きしめたのだ。

 大丈夫なはずがない。誰よりも怖かったのに、それを押し隠して笑う聡子に甘えた自分は最低の弱虫だ。

 自分は聡子の隣にいる資格なんてない。そう思い知った。それから間もなく、幼いながら聡子にはすでに婚約者がいることも知って、真雪はますます自分の気持ちに蓋を閉じた。

 ランウェイから見えた聡子はさみしそうだった。

 澄んだ瞳でしんと真雪を見つめていた。

 あのとき、聡子がどんな気持ちだったのか真雪にはわからない。ただ、すごく怖かった。この気持ちを伝えられなくても、そばにいる資格がなくても、やっぱり自分は聡子が好きだ。だからずっと彼女を見続けてきた。いつか聡子の心に触れる男が現れるまで、少しでも長く「親しいお隣の幼なじみ」でいられるように。危ういバランスで聡子につながる糸を細心の注意を払って守り続けてきた。

 本音を言えばあのとき自分がしでかしてしまった何かが真雪にはわからない。

 それでも闇雲に走り出した理由は、歓声の響く熱狂の体育館で聡子はひとり、泣いているみたいだったからだ。ランウェイから舞台袖に戻った時、聡子の姿は見えなかった。位置的に見えていないだけなのか、帰ってしまったのかはわからない。けれど、もうミスコンなんてどうでもよかった。優菜への義理立てで結果発表までは付き合ったが、そこからは無我夢中で体育館を抜け出した。

 ようやく歩く人の姿もなくなり、真雪は北門めがけてスピードを出す。

 あのときすぐに帰ったのなら、聡子を乗せた車はもう家かもしれない。

 とにかく早く会いたかった。

 北門からしばらくは校舎の塀沿いに植えられた桜並木になっている。四月にはむせ返るように咲き誇っていた桜も、今は青く生い茂る葉だけになり、日の伸びた6月の歩道の上に広がっている。角を曲がり、正門の前まで来たとき、真雪はすぐ数十メートル先を歩く聡子の姿を見つけた。

「聡子!」

 思いがけず、大きな声が出た。聡子が足を止め、ゆっくりと振り返る。

「ゆきちゃん?」

 真雪の姿を見つけるといつものように微笑む。

 真雪の鼓動が速くなる。夕暮れのない初夏の道で聡子は体育館で見たのとは別人みたいに凛としている。

「どうしたの?まだ終わりの時間じゃないでしょう?」

 真雪は自転車を降りた。ゆっくりと深呼吸をする。

「聡子こそ、ひとりで大丈夫なのか?篤子ママは?てか、ひかると五十嵐くんは?」

「ひかるちゃんたちは颯兄ちゃんが先にお迎えに来たの」

「颯兄が?」

 ぎょっとした真雪に聡子は微笑む。

「大丈夫、ひかるちゃん、とっても頼もしかった。自分のことは自分で話をつけるって。五十嵐くんもうんうん頷いてて。ひかるちゃん、颯兄ちゃんがきちんと約束を守ってくれるって信じているのね」

「そうだったんだ」

 そういったきり、真雪は言葉が続かなくなる。

 なぜだろう。あんなに早く会わなければと思っていたのに。無我夢中で追いかけていた時は無限に湧いてきた言葉が今はひとつも出てこない。

「私ね、すこしひとりになりたかったんだと思う」

「え?」

「本当はひかるちゃんたちが帰った時点で私も帰ろうかと思ったの。でもなんとなくもう少しいてみようかなって」

 聡子の言わんとすることがよくわからず、真雪は曖昧に頷く。

 聡子がふっと細い腕を上げ腕時計を見た。

「あと十分でお母さんとの約束の時間なの。いろいろ考えて、少し歩いてみようと思ったんだけど。でも全然だめね、時間はあったのに逡巡しちゃって結局舞高から離れられていないもの」

「聡子はだめじゃないよ」

 真雪は思わず答える。

 聡子の話していることの意味はわからなかったけれど、反射神経で言葉が出ていた。

 だってそうだ、聡子がだめなことなんてない。いつも笑顔でいることがどれだけすごいことか。何があっても聡子は笑っていてくれる、そう思えることがどれだけ心強いか。

 そうなのだ。自分は聡子の笑顔しか知らない。その奥のことなんて考えてみたこともなかった。彼女にも怒りや不安や悲しみがあって当然なのに。ずっと笑顔でいられる人間なんて本当は誰もいない。だけど聡子はそれをやってのけている。それは本当にすごいことなんだ。そう言いたいのに、うまく言葉にならない。聡子がまたさみしそうな顔をしていたから。何を言えばいいのか、どうすれば聡子を安心させられるのか、真雪はわからない。

「これは桜の木でしょう?」

 上をみあげる聡子に真雪は頷く。

「春はきっときれいなんだろうな。聖羽良の桜はもっと小さいの。小学校から高校まで同じ敷地にするのに土地をだんだん増やしていったところに植えたから。舞高は歴史もあるし、さすが桜も立派ね」

「うん」

「ゆきちゃん」

「うん」

「どうしたの?これから後夜祭もあるんでしょう?打ち上げにも行くから夕ご飯はいらないってゆうべお母さんに言ってたじゃない。ここにいていいの?」

「うん」

 聡子が不思議そうに首をかしげる。

 小鳥みたいに無垢な仕草に真雪は思わず目を伏せた。青々とした桜の木陰の下、聡子といると胸が苦しくなる。

 あのとき、花見に訪れた公園で老木に隠れて幼い聡子に手を伸ばした男は自分を桜の精と偽った。「大人には秘密で桜の国を助けてほしい」そう、いたいけな優しさと正義感をあおって聡子を連れ去った。

 あの頃聡子はとても小食で、まだ食べ始めたばかりだというのに早々にお弁当を持て余して遊びに行ってしまった。真雪も聡子と遊びたくてすぐに後を追いかけたのに、広場まで走っても聡子の姿はなかった。道のりはほんの50メートルくらいで迷子になるような場所じゃない。みんなの元へ戻って聡子がいないと言うと、篤子ママと真雪の母がすぐに駆け出した。大人は父が残り、まだ赤ちゃんだったひかると颯兄もそこに留まった。

 真雪は陽兄と海兄と一緒に聡子を探した。「お前まで迷子になっちゃ困るから」としっかり手をつないだ海兄の背後、桜並木の向こうの駐車場に聡子の姿が見えたときは意味がわからなかった。

 穏やかな風が桜を揺らし、はらはらと花びらが舞い散っていて、なんだか夢の中の出来事みたいだった。花の舞の向こうで、聡子は男をいぶかしげに見上げ、戻るそぶりを見せたとたん強引に車に押し込まれた。

「さとこ!」

 驚いて叫んで以降の記憶はあまりない。窒息しそうに美しい桜の花びらが悪夢のように胸にこびりついているだけだ。

「ゆきちゃん?」

 黙り込んでしまった真雪を聡子が見上げる。

 真雪は焦る。ますます聡子にかけるべき言葉が見つからない。だめだ、どうすればいいんだ。自分は何をしにここまで走ってきたんだ。

「もしかして私がひとりだったからひかるちゃんのことが心配で聞きに来たの?」

「いや、違う」

 思いのほか大きな声が出て聡子はもとより、真雪自身も驚く。

 次の言葉を探して真雪は深く息を吸った。

 心臓は動悸と呼びたいほどに爆裂な早鐘を打っている。腹に落ちた空気が痺れた頭をめぐる。

 弱気に泳ぎそうになる視線を真雪は聡子に打ち付けた。落ち着け。背筋を伸ばせ、覚悟を決めろ。

 どんなに考えても言うべきことはいつだってわからない。それでも言いたいことはわかっている。だからここまで走ってきたんじゃないか。細く長い息を吐き、まなじりに力を込めると、聡子の姿がくっきりと目に映った。

「そうじゃなくて聡子のことが心配だから来たんだ」

「心配?」

「その、ミスコンのとき、聡子の様子がいつもと違ったから」

「そっか。ごめんね、私のせいで」

「違う、そうじゃな・・・」

 真雪が二の句をつぐ前に、聡子の顔が曇る。

 しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐ「大丈夫だから。後夜祭、行って」といつものように微笑む。いつものように。そうだ。聡子はいつも先回りする。真雪は胸が苦しくなる。

 聡子は知らないのだろう。完璧な思いやりというものが逆に人を不安にすることを。

 だから真雪が愚かな子羊みたいに聡子の導きに従っていることにも聡子は気づいていない。羊飼いたる聡子は真綿の柵で真雪を囲い、優しい囁きで安らぎへ導く。

 本当は真綿の柵の向こうは茨の森かもしれないのに聡子は真雪にそれを感じさせないできた。真雪だってそうだ。自分が聡子の心地よい導きに従って自ら羊になりさがったことに今気が付いた。

 深く細やかな思いやりは自分を対等な人として扱わず、信頼していない証ではないかという疑念、否、彼女に限ってそんなはずがないという希望、そしてそれらが混ざったどうしようもない憧憬を抱えながら、楽な方に流されたから。

 「隣の幼なじみ」が聞いてあきれる。庇護された羊だから聡子の涙を今まで知らずに過ごしてきたんだ。真雪は深呼吸する。人はそんなにすぐ変われない。それでも、とにかく今だけでも聡子の優しさに甘えてはいけない。

「違くて、俺が大丈夫じゃないんだ。聡子をひとりにしたくないんだ」

 言った途端、一気に顔が赤くなった。そんな真雪に驚いたのか、聡子はこちらを見上げたままきょとんとしている。

「俺、聡子にはいつも笑っていてほしい。でもそれは悲しい顔を見せてほしくないってことじゃなくて、そうじゃなくて、もちろん聡子は絶対だめじゃないし、でも、もしだめそうなら俺が一緒に受け止めるから安心してほしいっていうか」

 自分はさっきから何を言っているんだろう。

 喋りながら、真雪は気が遠くなった。安心してほしいもクソもない。いつも助けられてばかりの意気地なしのくせに。守ったことなんて一度もない弱虫のくせに。

 口にしたそばからあまりの軽さに滑りまくる言葉たちに冷や汗をかいてはいるものの、もう止められない。聡子は大きく目を見開き、不思議そうに真雪を見ている。そういえばさっき、聡子はなんて言っていたっけ?どうしてここにいるんだっけ?

「ゆきちゃん」

 そっと手を伸ばして聡子が真雪の髪に触れた。そのまま小さい子をあやすように頭を撫でてくれる。

 不意に涙が出そうになる。いや、本当はもうすでに泣いていた。どうしようもなく自分が不甲斐なくて。涙こそ出ないが、ペラペラで中身のない言葉に溺れて、結局どうすればいいのかわからなくて、泣いていた。聡子はそれを見透かしている。

「聡子」

「うん」

「一緒に帰ろう」

 やっとの思いでそれだけ言う。

 いろいろこねくり回してみたが、結局、真雪の中にあったのはこれだけだった。

 ランウェイから聡子が見えた瞬間、すべてを差し置いて聡子のそばに行きたくなった。正直、聡子に言われるまで後夜祭だの打ち上げだののことも忘れていた。まっすぐ見つめた先で聡子は困ったように苦笑している。

「でもゆきちゃん、自転車でしょう?」

「聡子が乗って。俺は走るし」

「ううん。私、たぶん乗れないと思う。子どもの頃に練習で乗ったきりだもの」

「じゃあ一緒に歩こう」

「でも、もうお母さんも来るし」

 戸惑う聡子の横をすり抜けて真雪は歩き出す。

 横に並ぶのは少し怖かった。家族にでさえこんなにあけすけな物言いをしたことなはないのに、勢いに任せてずいぶん大胆に我を通してしまった。

 聡子は怒っているかもしれない。だけど、聡子が言っていたことがなんとなくわかって、余計に一緒にいなければと思ったのだ。

 当たり前すぎて気づいていなかったけれど、聡子はひかると同じなのかもしれない。

「ひとりになりたい」「お迎えが来る前に歩こうと思った」という聡子。ひかるが颯兄のお迎えを嫌がっていたみたいに、聡子も心のどこかでそうなのかもしれない。聡子みたいな家の子はそういうものだと思っていたものの、もし真雪がその立場だったら、確かにどこへ行くにも送迎付きというのはいい加減過保護で息が詰まる。言い出せなかったのは、聡子の優しさと負い目のせいだ。

 篤子ママの愛情を突っぱねるような気がして言えないのだとしたら、自分はその味方になりたい。でも、やっぱりいきなりはみんなにとって酷だと思う。だから一緒に帰りたい。劇的な改革より、徐々になじむ変化のほうが篤子ママだって受け入れやすいだろう。とりあえず、そんなに遠いわけでもないが近くもない舞高から家までの距離を女の子をひとりで歩かせるわけにはいかない。

「ゆきちゃん」

 小走りで追いかけてくる聡子に真雪は振り向く。

「俺、これから聡子が学校いくとき送り迎えしていい?入学式のときみたいに。あ、でも俺の始業時間もあるから行くとしても舞星駅までにはなっちゃうけど」

「え?」

 驚いて見上げる聡子に真雪は頷く。

「舞星から電車に乗って学校へ行くんだ。最寄り駅から聖羽良はすぐだろ。俺、どうせ颯兄に付き合って早起きしてるし、舞星駅まで一緒に行こう。電車通学している友達はいる?」

「うん」

「じゃあ駅からはその子と行けば篤子ママも聡子のお父さんも安心できるよ、きっと」

「でも、」

「だからさ、今日は一緒に帰ろう。篤子ママには俺から話すし。それで、もし良かったら少しずつそういうの増やそう。で、聡子もみんなももう大丈夫ってなったらひとりで行けばいい。そういうんじゃだめかな」

「でも、それじゃゆきちゃんの」

「迷惑じゃない。俺は聡子が何をしても絶対、全然迷惑じゃない」

 断言すると、不思議に力がわいた。

 心臓は相も変わらずオーバーヒートな鼓動を打っている。

 でももう大丈夫だ。見つめる聡子にしっかり頷いてみせる。白い花束のような聡子。どんなに近くにいても、手を伸ばしても届かなかった彼女が、初めて自分のそばにいるような気がする。

 少し先の信号のところに、こちらへ来ようとしている銀のアウディが見える。篤子ママの車だ。驚いた顔をしているのは、待ち合わせ場所じゃないところに聡子がいるせいかもしれない。赤信号がもう少しで変わる。

「ゆきちゃん、ありがとう」

 進もうとした真雪の袖をそっと聡子が掴んだ。舞高の塀沿いの桜並木の端っこで、聡子はにっこりと微笑む。

「私もそうしてみたい。でもお母さんたちには自分で言う。気持ちをちゃんと話して、わかってもらえるようにする」

 聡子がまっすぐ前を見た。

 動き出したアウディがハザードランプを点けながらこちらへやってくる。

 力強く頷く聡子に真雪もうんうん頷く。夏の初めの夕暮れ、この時期には珍しいほどの涼しい風が吹く。青い桜がそよそよと二人の頬をなで、真雪はポン、と軽く聡子の背中を押した。振り向く彼女に、小さく拳を握ってみせると、少しはにかみ、きゅっと眉をひきしめる。運転席から顔を出した母に、聡子は勇んだ足取りで近づいて行った。


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