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これを恋と呼ばずして  作者: 日高 仁
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  舞星高校1年1組の教室は湧き立っていた。

 もう放課後であるが、部活動などの用事がある者をのぞき、ほとんどの生徒がまだ教室に残って話しこんでいる。さっきまで行われていたロングホームルームのせいだ。 

 議題は6月半ばに行われる文化祭について。舞高では文化祭と美加崎高校との定期戦が一年ごとの交代で行われる。今年は文化祭の年にあたり、学校全体のテーマは「郷土にドキュン」であった。

「何だろうね『郷土にドキュン』て」

ぼやく優菜に愛梨も同意する。

「うち今年創立150年じゃん。舞星が市になったのとほぼ同時で舞高の歴史は舞星の歴史ってことで気合入ってるんじゃない?OBも招くみたいだし」

「講演会は誰が来るんだっけ?」

「名前なんだっけ。紛争地帯の、戦争止めさせる交渉人のひと」

「ああー、国連の人・・・?」

だっけ?と優菜と愛梨は顔を見合せた。正直よくわからなかった。いかにもお堅そうなOBの講演より、前夜祭・後夜祭と全校で踊るダンスや、軽音部主催のバンドコンテスト、生徒会と実行委員会合同主催の少年の主張、それぞれ男女のどちらがどう参加してもOKな舞星のミスターとミスのコンテストなど二人の興味をひくものはいろいろあったのだ。

「それにしてもダンス部は大変だね」

「ああ、うちのクラスにもいるよね。すごいよね、まだ入部したばっかなのに」

舞星高校が全校生徒で踊る「舞星ダンス」なるものは、それぞれその当時の流行歌にダンス部の生徒たちがオリジナルの振付を創作してきたもので、懐メロから最近の曲まで計3曲がある。これから朝と昼休みと放課後と、その他折にふれてダンス部員たちが各教室をまわって生徒たちにこれを教え込み、文化祭本番と前・後夜祭には全校生徒でこのダンスを踊って士気を高めるのが舞星高校のしきたりらしい。

「おい、二人ともそういう話はあとにして、とりあえず内容をどんな感じにするか決めようぜ」

とりとめのない優菜と愛梨の話に同じ班の新井卓也が割って入る。

 1組では「舞星市の暮らし」を展示することになっており、古墳時代からはじまり戦乱の世に栄えた城下町、江戸時代から近代、戦後の混乱から復興と現在にいたるまでの人々の暮らしを調べて教室に展示する。教室内を迷路のようにしきって、お客さんが順路をすすむごとに時代が進み、出口にはすべての展示を見れば答えられる簡単なクイズコーナーを設けることに決まった。

 一班ずつそれぞれ六つの時代を担当し、その内容は立体展示でも模造紙に貼りだす形でもいいことになっており、優菜たちの班はスタートにあたる古墳時代をやる。

「郷土にドキュンだからさ、ほんとの郷土資料館みたいに等身大の人形とかいたら面白くない?」

新井が言う。

「担当は古墳だし、しょっぱなだからインパクト欲しいよね。あ、埴輪は?埴輪いっぱい作る方が人形より簡単だし、お客さんの心を掴めるかも」

愛梨の意見に新井も頷く。

「何気に舞星は古墳多いんだよな。出土品の状態もいいって聞いたことある」

「じゃあ埴輪をメインに、当時の様子は模造紙で説明がいいかな」

「うんうん、ボール紙でジオラマの古墳を作って、その前に立体の大きな埴輪を並べて、その流れで展示を読ませる」

「模造紙の方にも埴輪のイラストとか描いたらいいんじゃない?」

活発に意見が出て話し合いはトントン拍子に進む。

「でも埴輪、どうやって作る?本物みたいに粘土使うのは無理でしょ」

優菜が言う。

「確かに。ベストは粘土だろうけど時間も予算もそんなにないし」

腕を組んだ新井がぱっと顔を横に向け

「遥は?何かいいアイディアある?」

と言う。声をかけられた遥真雪が、ああ、ととぼけた返事をしてこちらに顔を向けた。

 ほんの一瞬優菜の体が強張る。それまで話し合いを聞いているのかいないのか、真雪は頬杖をついてぼんやりと遠くを見ていた。そんな遥真雪を、優菜は盗み見ていたのだ。

「針金で型作って紙を貼りつければ比較的ラクじゃない?色合いもそれっぽく塗ればいい感じになると思う」

真雪の言葉に新井が膝を打つ。

「いいじゃん、模造紙なら何枚でも学校から支給されるし」

「でも針金っていくらするかな」

優菜が言うと

「クリーニングでもらう針金ハンガーをうまく使えばいいんじゃない。クラスのみんなに声かければ量もあつまるだろうし」

さっきまでのぼうっとした態度が嘘のように、真雪がてきぱきと、しかしどこか遠慮がちに返す。これに愛梨も新井も賛成し、さっそく全員でハンガー集めに声をかけて回る。

 優菜が真雪と同じ班になったのは偶然じゃない。愛梨が積極的に新井と真雪を誘ってくれたのだ。新井卓也は真雪とよく一緒にいる男子で、ふたりは同じ中学の出身らしい。

 愛梨いわく成績優秀だという頭脳とは裏腹に真雪はおっとりとした性格をしていた。対照的に、新井は熱いリーダーシップに溢れたタイプだ。新井がその資質を遺憾なく発揮してくれるおかげで、いまのところ班の話し合いは順調に進んでいる。

「よし、ハンガーは集まりそうだし、埴輪は後に回してとりあえず先に資料調査からしよう。みんな今日から残れるか?」

新井の提案に優菜と愛梨がうなずく。

「遥は?」

「あー、ごめん。今日は」

「なんだよ、付き合い悪いな」

言葉はきついが新井に責めた様子はない。真雪も笑って手をゴメンの形にする。

 今週が終わればもうゴールデンウィークだ。入学して一カ月近くが経つというのに優菜は相変わらず真雪と口をきいたことはない。新井と話すのも今回が初めてだが、思ったよりは話しやすい。ちょっと暑苦しいけどいい奴っぽい気がする。

「あ、お前ら二人もさ、用事ある時はちゃんと言えよ。まだ時間あるし」

「うちらは火・金で塾あるけど、20時からだから平気」

と優菜の腕に自分の腕をからませた愛梨が言う。そのまま「遥くんはいつが空いてるの?」と聞く。

「うーん、なんというか、べつに忙しいわけじゃないんだけど」

真雪が困った様子で口ごもるが、愛梨は食い下がる。

「今日はなんでダメなの?部活はしてないよね?」

「うん」

「なにか用事?」

「うーん」

「おい、橋本、いいじゃん別に。人それぞれ事情ぐらいあるだろ。遥、いいよ。空いてる日わかったら教えて」

「ごめん、明日以降でなるべく都合つけられるように調整してみるよ」

愛梨に気圧されたのか、言うなり真雪は鞄を持ってそそくさと教室をでていった。その後ろ姿に愛梨が、ばいばーいと明るく手を振る。

「逃げられちゃったね」

こちらを見上げ、いたずらっぽくささやく愛梨に優菜は肩をすくめる。

「なにそれ。大丈夫でしょ、てかだいぶ順調に進んでると思うよ、うちの班」

「もう、そうじゃなくて」

きれいな眉根をよせて愛梨が苦笑する。

「優菜ってばわかってないな」

愛梨が目を細めた。それでも瞳はキラキラ輝いている。

 あ。突然、優菜の心臓が黒く波打った。

 なんで今まで気がつかなかったのだろう。

 ひょっとして、いや、しなくても。これまでの態度から考えてみれば全然そうだ。愛梨は遙真雪が好きだ。たぶん、いや、絶対。こんな近くにいて親友とか自負しておきながら一カ月も気づかないなんて。

 黒い波は寄せたまま返すことなく、怒涛の渦になって優菜の心をかき乱した。

 そんなまさか。でも。いや、まさかじゃない。まったくもって有りうることだ。人はそれぞれの事情を抱え、同じ時を違う心で生きている。私がぼんやりしている間に、愛梨の心はしっかりと道筋をつけて望む未来へと一歩ずつ歩み始めている。

 4月の終わりの教室。愛梨はすでに制服である紺一色のダサいベストを脱ぎ、自分で買ったベージュのニットベストを着てくるようになっている。指定とされている丸襟のブラウスの代わりに、男子が着るような硬い襟のワイシャツを第二ボタンまであけて、丈を詰めたうえ腰のところを一度丸めた短いスカートから華奢な足をつきだして。

 クラスメイトの間を愛くるしい笑顔で歩きまわる、明るくて人気者の愛梨。可愛くて頭も性格もいい愛梨は自慢の友達だ。私が男だったらすぐに愛梨を好きになる。真雪はおとなしいけど秀才で、きれいな顔をしている。愛梨と真雪、美男美女の二人はお似合いのカップルになると思う。

 優菜はそっと自分の髪に触れる。

 中学で部活を引退してから伸ばしはじめたけれど、まだ肩につかないくらい短い。指にからまることなくこぼれてしまう硬くて黒くてまっすぐな髪。視線を落とせば男子みたいに角ばった自分の膝小僧が目に入る。

「よし、じゃ、とりあえず図書室に行こうか」

新井の提案に、優菜と愛梨は連れだって立ち上がる。

 声をかけておきながら女子たちを待つつもりは毛頭ないらしく、新井の姿はすでにドアの向こうだ。優菜は鞄から適当なノートとペンを探す。愛梨はその脇でにこにこしながら待っている。

 開けっぱなしの教室の窓から、校庭を走る野球部の声がする。発音は不明瞭ながら、やけにはつらつとした掛け声だ。優菜の胸の中を不意にあの日の桜吹雪がよぎる。泣きたい気持ちを抑えるために優菜は眉をしかめた。空はぽっかりと晴れ、夕暮れはまだ先だ。

「ね、これから楽しみだね」

軽やかに腕を組んでくる親友に優菜はぎこちなく笑ってみせた。




 遥家の朝は早い。

 4月後半。空気は肌寒いが空はそこぬけに高く、朝露に濡れるつつじは固いつぼみも産毛の生えた葉もつやつやと光っている。

 ごく一般的な4LDK一戸建て。二階6畳間の弟の部屋を遥颯太はノックもせずに開ける。時刻は5時。颯太は30分ほど前に帰宅したばかりだ。

「朝飯だ、起きろ」

「・・・うん」

下からうすいコーヒーの匂いがする。

 両親が家を空けるようになってからは仕事終わりの颯太が朝食を用意してくれているのだが、8時前に家を出れば余裕で学校に着く真雪にはいかんせん早すぎる。

 せめてひかるに対してくらいの優しさが自分を起こすときにもあればいいのに。隣の部屋を穏やかにノックする音を聞きながら真雪はのっそりと起き上がった。

 食卓にはすでに次兄の海里がいた。むくんだ顔をしてこちらもまた眠そうだ。

「おはよ」

「おはよう。なに?飲み過ぎ」

キッチンから全員分のカップを運びながら真雪が尋ねる。

「めんどうな客がいて、なかなか帰んなかった」

結局閉店まで、と海里があくびをしながら青白い顔をしかめる。

 家から自転車で30分ほどの繁華街で海里は自分の店をやっている。夜7時に開いて翌3時に閉まる小さな飲食店で、寂しいながらも夜にはそれなりに賑わいを吹き返す舞星の街で一応は繁盛しているらしい。らしいというのは酔客が主だという理由で店の開いている時間には真雪とひかるがそこへ近づくのを海里が禁止しているため颯太の話からのまた聞きだ。颯太のバイトは酒屋の配送で、毎週定期的に海里の店へも商品を卸している。

「ちゃんとタクシーで帰ってきた?」

「当然だろ、大丈夫だって」

心配そうな弟の鼻をつまんで、海里はだるそうに前髪を掻きあげた。海里は客がいなければ、いや時にはいたとしても自分の気分次第で店を閉めてしまう。酒も飲んだり飲まなかったりで、めったに酔わないのだが、その分、飲んだ時に自転車に乗って帰ってこないかを真雪は気にしている。颯太とは違うタイプだが海里は海里で常識には囚われない人間なのだ。

 ぺたぺたと階段を下りる足音がして、目をこすりつつひかるが姿を現す。その後ろからエプロン姿の颯太もやってきた。

「よし、みんな揃ったな」

母のおさがりのエプロンをつけた颯太について、真雪とひかるも配膳を手伝う。

 今日の朝食は男たち用のコーヒーとひかる用の牛乳、そして圧力鍋いっぱいのお粥だった。

「なにこれ、すごい。パンとかじゃないの?」

驚くひかるに颯太が胸を張る。

「中華粥だ。干し貝柱と小松菜の」

「へー、そんなの今まで作ったことなかったじゃん。すごいね、颯兄」

にっこり笑うひかるとは対照的に海里は眉をひそめる。

「コーヒーに合わねえ」

「二日酔いにはいいだろ」

悪びれずに言った颯太がいきおいよく手を合わせた。

「では皆さん!いただきます!」

いただきます、と三人が続く。

「あーあ、ほんとはいただいてる場合じゃないんだけどな」

海里がぼやく。

「仕事終わってこれからやっと寝れるっていうのにカフェインと炭水化物取るって、何したいんだが我ながら混乱するわ」

傍目にはわからないのだが海里は自分の体型の変化に敏感だ。食べ過ぎた時は二時間くらい外を歩いているし、食後はいつも一時間はがんばって起きている。

「お前だってそうだろ、颯太」

隣で粥をすすりつつあくびをする颯太を、海里はじっとり睨む。

「別に。俺いつでも食えるし、食っても太んねえし」

「そういうこと言ってんじゃないよ。ほんとバカだなお前は」

海里が粥のレンゲを振りかざした。

「何度も言うけどな、こんな時間に全員たたき起こしてわざわざ飯食う必要はあんのかって話だよ」

「仕方ねえじゃん、うちの団欒はこの時間にしかできないんだから」

海里同様、颯太の働く時間も夕方から翌早朝であり、酒屋の配達がない日はビルの深夜清掃をし、つかの間に帰宅しこうやって朝食をとった後はまれに午前中だけオフィス警備のバイトをしている。

「仕方なくねえわ。お前が昼間働けばいいだろ。昼働いて18時くらいに帰ってくれば、仕込みのない日なら俺の出勤前に団欒できるじゃん」

「なに言ってんの海兄、団欒は毎日すべきだろ」

颯太が口をとがらす。

「団欒の頻度よりもだな、毎日真雪とひかるの未成年ふたりだけで夜を過ごしている方が俺としては気がかりだ」

憮然とする弟に海里は大きな溜息をついてみせる。

「颯太、お前はかわいい弟と妹を夜に留守番させて何とも思わないか?天災とか犯罪とか心配じゃない?お前もいちおう成人だろ?いないよりはマシって程度だけどさ。バイト変えて、あわよくば就職して、いろよ、夜、家」

「大丈夫だよ、それは」

「なんで」

「ここのどかだし、真雪もひかるもしっかりしてるし」

こともなげに颯太が言った。

 それならひかるのお迎えもやめて大丈夫なんじゃないだろうか。そう思った真雪だが、口に出すと面倒なことになるので黙って粥をすする。ひかるも同様らしく、黙々とレンゲを口元に運んでいる。海里が肩をすくめたのがすべてである。朝っぱらからこれまで幾度となく繰り返されてきた不毛な言い争いだ。

「そういえば海兄、颯兄、俺しばらく帰り遅くなる」

ふと思い出して、真雪が口を開いた。

「なんでだよ」

「6月に文化祭があってその準備。ゴールデンウィーク明けには徐々にやってかないと」

「ああ、そういえばもうゴールデンウィークか」

忙しくなるかな、と言いながら海里がカレンダーを見る。いわゆる祝日と呼ばれる日は掻きいれ時になるため、海里は基本的には店を閉めない。

「お母さんたちは?帰ってくるって?」

「んー、今年もだめだって。あったかい時期は向こうも観光客が増えるからやっぱり手が離せないみたい」

真雪は昨晩の両親との会話を兄たちに伝える。

 離れてはいるが、よほどのことがない限り兄弟の両親は毎日連絡をくれる。よほどのことというのは、母がたったひとりの医師として働く離島の診療所に急患や重篤な患者があるときであり、そんな時は母はもちろん、看護助手兼主夫である父も忙しく、翌日、あるいは翌々日に疲れた顔で連絡しなかった旨を詫びてくる。症状の厳しい患者はすみやかに本土の病院へ搬送する手続きをとるが、台風などの天候不良でなかなかそれも難しい場合は島で対処するしかなく、遥家の親子は一週間近く話せない時もあった。

 白くて甘い匂いの花が咲く小さな離島に赴任して3年、両親が舞星に帰ってこられるのは南の島に穏やかな冬が訪れる年末から正月にかけての一週間ほどというのが兄妹たちの認識だ。逆にこちらからは学校の長期休みの時期に、真雪とひかる、あるいは都合がつけば他の兄たちも二人と一緒に数日は行くようにしている。

「そうだ!聡子ちゃんがね、夏休みに一緒にバーベキューしないかって言ってた」

ひかるが兄たちを見渡す。

「え?もう夏休みの話?ゴールデンウィークじゃなくて?」

「だってゴールデンウィークもう明後日じゃん。聡子ちゃんち、旅行の予定あるからって。早くきめとかないと次の予定もどんどん入っちゃうからって夏休みになったの」

「あーなるほど。さとちゃん家っぽいわ」

海里が頷く。

 三森家は家族旅行以外に、親族の集まりやら、企業あるいは個人のパーティーやら、家族同伴の会食やらといった予定が多く、学校のある時はともかく、休日は聡子もそれらの付き合いに律儀に参加している。

「ね、雪兄。篤子ママ、良ければ陽兄たちも誘ってみてって言ってたよね」

「ああ、うん」

真雪が慌てて頷く。

 あの日、五十嵐の解放日の提案を聞いたひかるはすぐに聡子の元へ行った。そこで二人がどんなことを話したのかはわからない。ひかるが行ってからそう時間が経たないうちに聡子が来て、誘われるまま夕飯にお邪魔した。食卓では解放日の話題は全く出ず、篤子ママと4人、カレーを食べながら何故か聡子親子とひかるはバーベキューをやろうと盛り上がっていたのだ。

「なら、今度陽斗たち来たときに言ってみ」

「じゃあついでに陽兄と菜々子ちゃんにひかるの預かりもお願いしなきゃだな」

颯太が唐突に言った。菜々子ちゃんとは長兄・陽斗の奥さんで、二人は遥家にほど近いマンションで1歳になる娘のあかねと一緒に暮らしている。

「え?なに?なんで私預かられるの?」

ひかるが慌てる。

「だって真雪しばらく遅くなるんだろ?その間ひかるをひとりで家に置いとけねえじゃん」

「大げさだよ。ね、雪兄、遅いって言っても深夜とかじゃないんでしょ?」

「うん、まあ。いつもより1〜2時間遅くなるくらいだと思うけど」

「十分じゃん。そんな時間まで女の子置いとけるか」

「勘弁してよ」といった顔のひかると、「わかってんだろうな」といった顔の颯太に挟まれて真雪の喉が鳴る。

「え、でも颯兄さっきひかるはしっかりしてるから大丈夫って」

言ったばかりじゃん、という語尾まで言えず真雪は黙る。弟をギッと睨む颯太の頭を海里がひっぱたいた。

「怖えよ、顔」

「だってお前ら、ひかるをひとりにして何かあったらどうすんだ」

「でもさ、陽兄に頼むならともかく、菜々子さんに頼むのは悪いよ。あーちゃんまだ赤ちゃんだし、菜々子さん大変になっちゃうよ?陽兄そんなに早く帰ってこないでしょ。よくないよ、それは」

真雪が言うとひかるもうんうん頷く。

「そうだよ。それに私べつに平気だよ?雪兄遅くなるって言ってもせいぜい19時くらいでしょ。ね?」

「お前心配性もいい加減にしろよ。小6ならひとりで留守番くらいできるだろ」

口々に言われ、颯太がむくれて黙った。そうしながらふたたび鋭く真雪を一瞥する。

 時刻は朝5時半。食べ終わった海里がおもむろに立ち上がり、大きく伸びをする。

「ああ、ねっむい。ごちそうさん、ちょっと外歩いてくるわ」

「あ、じゃあ俺も予習しよ」

兄に続いて真雪も食器をさげる。その背中に相変わらず鋭くしつこい颯兄の視線を感じながらそそくさと二階へ上った。




 春眠暁を覚えず、といってももう初夏の気配もなくはない。

 西日の当たるしめきった部屋は少し暑くて、深い海のようなまどろみから遥海里はようやく目を覚ました。遮光カーテンの隙間から洩れる明るすぎる光。颯太の粥を食べた後、腹ごなしに散歩した後、いい加減疲れてそのままベッドに倒れこんだのだ。タオルケットを足でずらしてゆっくり起き上がる。枕元の時計は午後三時すぎを指している。海里は無造作に頭を掻いた。

 だいぶ寝過ごしてしまった。

 キッチンに行き、朝からいれっぱなしのコーヒーを飲む。冷めていてまずい。もとより豆も水もまともに計らない颯太が淹れたものだから温かくてもたかが知れているのだが。

 家には誰もいない。あと一時間もすればひかる、およびその迎えに行っている颯太、まれに真雪が帰ってくる時間になるが、さすがにそれまで居ては遅刻になってしまう。

 そういえば、と海里は今朝の会話を思い出す。文化祭の準備で真雪はゴールデンウィーク明け後のしばらくは遅くなると言っていた。颯太の強引な朝の団欒には辟易しているが、そんな時くらいしか弟たちの話をまともに聞いてやれないのは確かで、だから酔っぱらっていてもどんなに眠くても必ず食卓につくようにしている。

 ねむけの残る頭で海里は明後日に迫ったゴールデンウィークの仕入れをぼんやり考える。海里の店は長期休みの時期のほうが忙しい。帰省がてら集まった連中が適当に呑むのにちょうどいい場所なのだろう。

 シンクにおかれたまま、乾いた米がこびりつく鍋を見て海里は顔をしかめる。一方的な朝の団欒の譲歩として朝食づくりとそれにともなう食器洗いは颯太にやらせているのだが、往々にしてあいつはさぼる。今朝、急に中華粥なんて作り出したのは今度のあいつの彼女がそういう料理をふるまってくれる中華圏出身の女性だからだろう。

 颯太の恋は長続きしない。というかおそらく二・三度親密に過ごすだけで、決して深入りせず、あと腐れのない関係になっている相手が複数いるようだ。真雪ならともかく、20歳を超えた颯太の異性関係なんて知ろうとも思わないものの、あいつがもてるのは知っている。海里の店と同じ酒屋を使っている界隈の店、つまり颯太がアルコールを届けている店舗に勤める女性たちの、弟への色めき立った話を聞くことは少なくない。

「おい、鍋きたねえぞ」 

リビング横の、颯太が自室としている和室の襖を海里は開ける。しかしそこに弟はいなかった。いつもならここでひかるのお迎えギリギリの時間まで寝ているのだが、今日は出かけているようだ。

 仕事だろうか。そう考えて海里は溜息をつく。そうだといいけど、そんなわけがない。ひかるのお迎えを第一義としている颯太はこの時間に働かない。本当にあいつはどうするつもりなんだろうか。

 颯太は海里が忙しく、且つ自分の仕事がない時などは気軽に店を手伝ってくれたりもするので重宝な部分もありはするのだが。基本的には海里は颯太が非正規で働き続けるのを良しとしていない。

 現在の遥家の暫定家長として、海里は未成年の真雪とひかるより、颯太を一番心配している。あのアホは何を考えているんだか、高卒で進学も就職もせずフリーターになり、もう三年が経つのだ。

 颯太が高3でフリーター宣言をしたとき、その理由を両親はもちろん陽斗も海里も真雪も、当時小3のひかるでさえしつこく問い詰めたのに、颯太はのらくらかわすだけでまともに答えようとしなかった。挙句、ひかるの迎えに行ける時間帯は家にいたいと午前中と夜の時間帯でバイトをはじめたせいで、夕方以降は真雪とひかるの子どもたちだけで留守番をすることになってしまった。

 それこそ家族が心配じゃないのかと聞けば、弟的にそれは良いのだそうだ。今朝も言っていた通り、「真雪しっかりしてるし、ひかるいい子だし」などとのたまう。だというのに、ならばひかるの迎えは行かないんでいいんじゃないかという説得は無視する。

 妹のことを信じて、どこかへ就職なり進学なりして自分のためにその時間を使う方がよいという意見を颯太はきかない。結局、嫌がるひかると毎日追いかけっこをしているのだから本当にアホだと思う。

 もちろん、海里自身も働く時間が遅いことで真雪とひかるに後ろめたさはある。自分に弟妹を任せて夫婦で僻地への赴任を決めた両親に対しても申し訳ないと思う。こんな状態でも真雪とひかるがまっすぐ育っているのは、彼ら自身の資質や努力はもとより、お隣の三森家や、近所に住む陽斗、そのお嫁さんの菜々子ちゃんといった面々が助けてくれているからだろう。

 軽くシャワーを浴びて、パンにバターをぬっただけのものを食べる。家事は1日ごとの当番制で、一カ月の内7割は海里、残り2割が颯太、1割を真雪とひかるが協力してやることになっている。

 今日は真雪とひかるの番だ。真面目な二人のことだから冷蔵庫をチェックしてから学校に行っているだろう。質素な腹ごしらえはあまり中身を減らさないようにしようという気づかいだった。

 髪をてきとうに乾かした海里は、小さな折りたたみ自転車に乗って家を出た。家から舞星の繁華街までおよそ30分。あまり飲酒することはないが、飲んでしまった場合はタクシーに載せられるようにわざわざ折りたたみを買ったのだ。

 寂しいながらも夜にはそれなりに息を吹き返す舞星の小さな飲み屋街に海里の店はあった。夜7時にオープンして翌3時に閉まる小さな店で、人によってバーとかバルとかパブとかさまざまに呼ぶが、海里としては酒場という名称がしっくりくる。

 酒も大した品揃えがなく、料理も中途半端な店だ。開くかどうかも適当で、定休日のほかに臨時休業もあるし、客がいなければ12時前でも閉めたりする。こんな有り様だが四年前に始めて以来、大繁盛はしていないがまあまあ食ってはいけている。

 いくつか仕込み用の買い物に寄ってから海里は店に到着する。そこから着替えを済ませて、ちょうどカウンター内のキッチンに立った時、店の扉をたたく音がした。時刻は午後5時、オープンにはまだ早い。

「誰?」

 鍵はかかっていない。袖をたすき掛けにしながらぞんざいに返事をすると遠慮がちに小さなドアが開く。

「わ、みのりちゃん久しぶり。どうしたの、急に」

海里が明るい声を出す。

 古いドア枠に夕陽をうけて、逆光のシルエットがぎこちなく笑う。

「こんばんは。海里さん」

みのりは颯太の中学時代の同級生で今は都内の大学に通っている。進学してからもこうやって時々顔を見せに来てくれている女の子だ。

「いつ帰ってきたの?」

「ついこの前。もうすぐゴールデンウィークでしょ?課題も終わったし、単位も順調だし、早めに帰って来ちゃった」

「そうなんだ。いつも来てくれてありがとうね」

微笑んで海里はみのりを招き入れた。

「ごめんなさい、まだオープンじゃないのに」

「いいよ、そんなの」

カウンターの隅に大きなリュックを置いたみのりちゃんが微笑む。

「代わりに準備、私も手伝うよ」

「本当?助かるわ~」

海里が笑った。とは言ってもこの狭い店ですることなどあまりない。

 みのりが掃除をしてくれるというので海里は改めてキッチンに立つ。料理の仕込みをするのだが、面倒なのでそもそもあまり手の込んだものは作らない。一応看板メニューはローストビーフだが、今日はあまりいい肉が仕入れられなかったので無しにする。代わりにいっぱいあった卵を半熟に茹でてから白だしに漬けて煮たまごにする。残りはオムレツにする予定で、トマトソースときのこのクリームソースも作る。サラダや付け合わせ用にレタスもちぎっておく。生ハムとチーズはあるし、バジルは家庭菜園のを持ってきた。冷凍しておいたピザ生地も、いわしの缶詰も、フランスパンもある。これぐらいあれば大丈夫だろう。足りなければあとはその場のノリで作ればいい。

 そこそこに仕込みを終えた海里がメニューボードの黒板に向かっているとみのりちゃんがやってきた。

「私、書いてもいい?」

「うれしい、みのりちゃんのボード評判いいから」

海里がメニューを伝えると、角ばった几帳面な文字といっしょに可愛らしいイラストを描いてくれる。みのりの通う大学は都内の美大だ。彼女の手にかかると単調なチョークの線がいきいきと浮き立って見える。すごいわ、と海里は目を細めた。

「あ、今日きんぴらあるの?やった」

チョークを寝かせたり立てたり、線に微妙な強弱をつけながらみのりが言う。

「昨日の残りだけどね。店の雰囲気に合わないっていう人もいるから小さめに書いて。裏メニューみたいな感じで」

「そうなの?海里さんの和食、美味しいのに。今日なんてお着物だからすごく合ってるよ」

「そりゃどうも」

振り向くみのりに海里はウィンクし、髪をかきあげてみせた。今日のウィッグは栗色の長めボブで、淡い紫の着物と臙脂の帯を合わせている。メイクは目尻にだけ濃い紫のつけまつげをあしらい、リップは逆に明るいオレンジだ。

「海里さん、美人」

「みのりちゃんも今日もすてき」

海里が微笑む。

 みのりはいつも黒い服を着ていた。夏なら黒のTシャツ、冬なら黒のセーターで、下は黒のスキニ―パンツ。靴も黒で、染めたことのない綺麗な黒髪を長いポニーテールにしている。

 初めて会った時は中学の制服だったが、大人になって店に来る時はずっとそんな格好で、今日は黒のTシャツに大きめの黒いパーカーをはおっている。

「いま何年生だっけ?」

「三年。来年は就活だよ」

それぞれに立ち働きながら二人で他愛のない話をしていると無言で店のドアが開く。ノックもしない不躾な訪問者に海里は反射的に舌打ちをした。兄の非難などどこ吹く風で暮れかけた街の光を背にドリンクの入ったケースを抱えた颯太はずんずん入ってくる。

「こら、挨拶」

「ちわーす」

「あんたね、いくらお兄ちゃんの店だからって挨拶くらいちゃんとしなさいよ」

「したじゃん。何だよ海兄、今日女かよ」

颯太が興味なさげに言う。

 女装は海里の趣味で、普段の生活はほぼ男装で過ごしているが、店には今日のように女の姿で出ることが多い。

 これまで一度だけ男とも付き合ったことがあるので性的マイノリティといえなくはないかもしれないが、いわゆる性同一性障害とは違う。男と付き合ったのも相手のあまりの熱意に負けたからであり、こんがらがったアイデンティティをほぐしていけば、ただ気づいた時には女の子の服も好きだっただけというのが海里の自認だ。

 まだ物心がつく前のことだが、親が選んだ男児用の服を素直に着る陽斗に対し、海里は泣いてピンクのスカートを欲しがったという。両親は面くらいつつも、基本的に着たいものを着させてくれた。当時も今も海里は自らを女性だと思ったり、あるいは女性になりたいという思いを抱えてはいない。ただ、女性の服に多い鮮やかな色合いをきれいだと思うだけだし、ひるがえったスカートが足を撫でる瞬間が好きなだけだし、リボンやレースをかわいいと思うだけだし、和服の繊細な濃淡や大胆な筆致を美しいと感じるだけだし、それらを気が向いた時に着るだけなのだ。

 それだけの話なのだが、こういう性分ではいろいろと生きづらく、結果的にこんな店を開くことになった。

 自分がオーナーで、着たい時に着たい服を着て、気ままに飯や酒を出す。たぶんこのあやふやさが店の魅力でそれなりに流行っている要因だと海里は分析している。女性の格好のときは自然と振る舞いも女性らしくなるため誤解をうけることもあるがそれは仕方がないと諦めている。ただ、陽斗みたいに普通の結婚は難しそうなのは残念だ。結婚して子どもを持ちたい願望は、今のところひかるや、姪っ子にあたる陽斗の娘のあかねをかわいがることで満たしてはいるが、我が子をこの手に抱くことは他に代えがたく魅力的だ。

「颯太あんた今日ひま?みのりちゃん来てくれてるよ」

「ああ?なんだよ、みのり、海兄のとこ来てたの?」

弟のぶっきらぼうな物言いに海里は目くじらをたてる。

「何よ、その言い方」

「こないだ会ったばっか。映画行きたいっつうから付き合ったんだけど突然帰るって言いだして。まあ俺も仕事あったから別にいいんだけど」

言いながら乱暴に瓶をカウンター内へ運ぶ。

「よう」

端っこで居づらそうにしていたみのりを見つけ、颯太が手を振る。みのりは黙って頷いた。不穏な空気だ。海里はみのりに向けてさっと笑顔をつくる。

「お手伝いありがとうね。座って、なにか飲む?きんぴらも食べて」

「じゃあレモンビールください」

「ええ?きんぴらと合わねえじゃん」

颯太がからかうがみのりは硬い表情を崩さない。さすがのアホでも何かを察したらしく、颯太は大人しく持ってきたドリンクを冷蔵庫にしまいはじめる。

 ひととおり作業を終え、「あと二軒配達すれば暇だけど店に入ろうか」と聞く颯太を海里はいそいそと追い返す。カウンターに戻り、レモンビールの栓を抜く。

「はい、どうぞ」

瓶の口にくし型のレモンを差し込んでみのりに出す。店の中は砂漠みたいに静かだ。海里はごく小さな音量でバルトークをかける。

 本当に我が弟ながらあいつは。メイクが崩れないようにそっと海里はこめかみを揉む。女の子がデートの途中で突然帰って何もないはずがない。みのりがここへやってきた気持ちを思って海里はいたたまれなくなってしまう。他人の、ましてや弟の色恋沙汰に口をはさむなんて考えるだけでうんざりしてしまうが、いろいろ世話になったかわいいみのりのためだと思えばそうもいかない。

「ごめんね、あのアホと何かあった?」

「ううん、何にも」

みのりは慌てて首をふる。

「ごめんなさい、私こそ変な感じにしちゃって」

そう言ったきりみのりはビールをあおる。

 いつのまにか夜はふけ、もうすぐ開店の7時だ。海里はおもての看板を点ける。黒地に浮かびあがる白いゴシック体の「Gardenia」の文字。ここはどんな花でも美しく咲きほこる自由の庭をイメージした海里の小さな城だ。

「本当に、何もないんだよなあ」

みのりの溜息まじりのつぶやきを海里は聞こえなかったふりをする。心細い声音が誰にも聞いてほしくないと響いていたから。うすぐらい店の中、小さな声はどこへも届かず、澱になって沈んだ。




 赤ちゃんには独特のエネルギーがあると真雪は思う。

 日曜の昼、ゴールデンウィークに菜々子さんの実家に帰省した際の土産だという魚の干物と一緒に、テイクアウトの寿司やらサラダやら唐揚げやらをどっさり抱えた陽斗一家が来たとたん、なんとなく家がいつもより活気づいたような気がする。

 1歳のあかねはまだ大して喋りもしないし、いつもよだれだらけでその辺のものをなんでも口に入れてしまうし、癇癪を起こした時の遠慮のない大泣きには閉口してしまうのだが、それでもまぶしいくらいに可愛い。

 あかねがいると、真雪が物心ついたときには十分に大人側の存在だった陽兄のことも違った風に見えてくる。物静かで、自分の兄ながら武骨でとっつきにくそう、もっと言えば子どもになんて興味のないタイプの人間だと思っていたけど、赤ちゃん言葉であかねをあやす兄はデレデレで、真雪としてはこれまでとのあまりのギャップに少しひいてしまうくらいだ。どちらかといえばいつもはかわいらしい菜々子さんのほうが育児に関しては落ち着いていて、「きちんとした言葉で話しかけないとあかねが間違って覚えちゃうでしょ」と兄を咎めていた。

 もしかしたら忘れてしまっただけで陽兄は赤ちゃんの自分ともあんな風に遊んでくれていたのかもしれない。食卓に皿や箸を並べながら、ひかると一緒にあかねと遊ぶ兄の姿を見て真雪は思う。幼い自分が海兄とじゃれあう写真は少なくないのに、早くに家を出た陽兄との写真は3枚しかない。大雪の産院から家に戻った直後のものと、寮生活を始める陽兄を見送る家族で撮った一枚。あとの一枚はひかるが生まれた時のもので、そのどれも陽兄は大人じみた真面目な顔でレンズを見つめていた。

 真雪のいるリビングに薄い鰹節のにおいが漂ってくる。キッチンに立った菜々子さんが、あかね用に離乳食のほうれん草とササミを柔らかく煮こんだうどんを作っているのだ。「真雪くんかひーちゃん、どっちかあかね用のお皿どこにしまったか教えて」という菜々子さんに、ひかるが立ち上がる。

「雪、海里は?」

あかねと一緒に古い積み木で遊んでいた陽斗が顔を向ける。

「まだ寝てるよ」

颯太のことは聞いてこない。離れて暮らしていても陽兄は颯太がお迎えの必要がない土日祝日はスーパーの品出しや駐車場整理など昼間の単発バイトを入れていることを知っている。親がいないことを気にかけているのか、陽斗一家は月に一度の頻度で様子を見に来てくれているのだ。

 飯だと呼んで来いと言われて、真雪は二階の海里の部屋をノックする。三年前までは両親の寝室だったところだ。真雪が一人部屋を与えられたのは小学校に入った頃だが、きっと元は陽兄か海兄どちらかのものだったろう。

「海兄、起きて。もう昼」

んー、とくぐもった声が中から聞こえるが、起き上がる気配はない。基本的に週末のほうが忙しい仕事だから、昨日も遅かったのかもしれない。

「もう陽兄たちきてるよ」

再び声をかけると、んー、と唸った後に、すぐ行くーと寝起きのしゃがれ声がした。

「お!あーちゃん、おはよー!」

真雪から遅れること数分、ぼりぼり頭を掻いて海里が下りてくる。そのまま陽斗の腕からあかねを抱っこしようとするが、陽斗に拒否される。

「お前なにその顔。汚いから先に洗ってこいよ」

「えー、いいじゃん。ねー、あーちゃん。おじちゃんとパパ、同じ顔だもんねー」

「同じじゃねえわ。そもそもそういうことじゃねえから」

あかねに向かってちゅっちゅと口をとがらす海里に、陽斗がシッと手を振る。

 実際のところ、双子だというのに二人はあまり似ていない。小さい頃は瓜二つだったそうだが、互いの性格や生活が異なっていくにつれ、だんだんそれぞれの個性が容貌に表れたのか、今では兄たちはよく見ないと双子とはわからない。

 顔を洗い、ついでに着替えた海里はいつになくはしゃいであかねに高い高いをしてやっている。今日のように颯太が昼に働く日は無理やり朝の団欒に付き合わされることなく眠れるぶん、海里は機嫌がいい。冗談で「私は?」というひかるのことも抱き上げ、二人できゃあきゃあ騒いでいる。

「真雪もやる?」

「いや、いい」

細い腕に力こぶを作ってみせる海里に真雪は苦笑いし、そんな兄妹のやりとりをキッチンにいる菜々子がおかしそうに笑った。

「海里くん、最近仕事どう?忙しいの?」

「んー、ぼちぼち」

「いつも遅いのか?日曜のこんな時間まで寝てるなんて」

「すいませんね、規則正しい公務員と違ってこっちは昨日も今日も夜仕事なの」

ジジイみたいな小言ね、と海里が笑い、陽斗がムッとする。陽斗は舞星に戻った三年前に市役所職員になった。菜々子によると残業も少なくて休みもしっかり取れるおかげで育児も積極的にやってくれる良いパパらしい。

「はい、もういい大人が兄弟げんかしない!食べるよ」

あかね用のうどんを持った菜々子が朗らかにキッチンを出てきた。

 真雪とひかるは陽斗たちが買ってきてくれた寿司のラップをはぐ。入れ替わりにキッチンに立った海里は人数分の緑茶を淹れ、氷を入れたピッチャーに注ぐ。あかねは陽斗の膝の上に行儀よく収まり、一番乗りに食卓についていた。

「菜々子ちゃん、お家どうだった?」

いただきますの唱和の後、ネギトロをほおばったひかるが聞く。

「ゆっくりできたよ、こういう長い休みの時くらいしか実家帰れないから」

菜々子がイカを噛んで答える。菜々子の実家は四国にあり、舞星からは電車で都内まで行き、そこから飛行機に乗ってトータル7時間くらいかかるという。

 あかねを里帰り出産したとき、三か月向こうにいた妻子に会うために週末ごとに通う陽斗は幸せそうだが大変そうでもあった。

「あかね生んで以来だし、親も喜んでた。ね、陽ちゃん」

菜々子の笑顔に、あかねにサラダを取り分けながら陽斗が頷いた。

「いいな、うちは何もなかった。お母さんたちも帰ってこないし」

「ひかる、そんなこと言って別にお出かけ好きじゃないくせに。お母さんたちのとこ行くときも準備めんどくさがって全部真雪にやらせてるじゃん」

海里がからかうと、「海兄だってそうじゃん」とひかるが口をとがらす。

「だってそういうの雪兄が上手なんだもん。行っちゃえば楽しいけどさ」

ねー、と言うひかるに真雪は「別に上手いわけじゃなくて誰もやらないからやってるだけだよ」と苦笑いした。

言いながら、そういえばそろそろ夏休み用に飛行機のチケットを取らないと、と思う。

「あいつは?最近どうなんだ」

ぼそりと陽斗がつぶやく。

「いるよ、当然」

「家出は?」

「全ッ然」

海里が肩をすくめる。

「むしろどっか行ってほしいくらいずっといる」

「それって颯太くんのこと?」

たずねた菜々子に陽斗と海里が頷く。

「大変だったよな、あれも。初めての時は中3だっけ、急にふらっといなくなっちゃうんだもん」

「でもあの時は毎回すぐ警察に保護されたろ。タチ悪いのは高校入ってからだな。なんも言わずにヒッチハイクとかでどこでも行っちゃってさ。親も大変だよな、毎回失踪届出してさ。5回くらいだっけ?最後の方はいい加減恥ずかしかったと思うよ」

「そんな子だったの、颯太くん」

「そうなのよ、菜々ちゃん。金魚すくいの金魚だってそんなに逃げないってくらいあいつ逃げてたよ」

「逃げてたって何から?」

「それがわからないのよ」

「え?」

怪訝に訊く菜々子に陽斗と海里が同時に頷く。

「たぶん逃げるのがあの頃のあいつらしさだったんだろうな」

つぶやく陽斗に海里も頷く。

「そうね。うちさ、俺が女装しても親なんも言わないくらいだし、あいつだって結構やりたいようにやってきた奔放な子供だったわけよ。だってそうでしょ?親自身がまだ未成年の子が二人もいるっつうのに夢を追いかけて離島に移住しちゃうような奔放さなのよ?俺の女装、陽斗のサッカーみたいなもんが、颯太は失踪だったわけ」

「そうそう、そんで見つかったとか金がないとかで保護されると俺たちが迎えに行ってた」

菜々子がへええ、と気の抜けた相槌を打つ。真雪とひかるもきょとんとして顔を見合わせた。

「なにそれ。俺、知らないんだけど」

「私も」

ああ、と陽斗が頷く。

「ひかるはまだ小さかったからな。雪はさ、教育上よくないからって父さんたちがわからせないようにしてたんだよ。俺が四国いた時だし、その頃まだ小学生だろ」

「そうそう、俺が都内だから、東日本は俺で西は陽斗の担当でさ。父さん母さんはなるべく普段通り生活してお前らに心配かけないようにって」

「そうなんだ・・・」

言われてみればたしかに高校生の頃の颯太はあまり家にいなかった気がする。その頃は兄は不良で、それゆえに家によりつかないのだと思っていた。

「それが何であんなになっちゃったの?失踪どころかこの三年、颯兄、舞星からも出てないんじゃない?」

「ほんとだよ、もう」

真雪の言葉にひかるが嘆く。

「相変わらず毎日迎えに来てるの?」

菜々子の言葉にひかるが頷く。

「もう毎日。あ、そうだ菜々ちゃん、ありがとね、颯兄の話、断ってくれて」

「なんだそれ」

陽斗が口を挟む。

「いま文化祭準備で雪兄の帰りが遅いんだけど、その間、私を陽兄ん家に預けるって言ってたの」

「ごめん、陽ちゃんに言ってなかったっけ?ほんとタッチの差だったのよ。ひかるちゃんから連絡があってさ、その翌日に颯太くんから預かれないかって聞かれて、ちょうどあかねが癇癪起こして泣いてたから、いかにも育児大変ですーって感じ出して断っちゃった」

菜々子とひかるが声を合わせて笑う。

「でも結局、雪兄が押し切られて聡子ちゃんちに行くことにはなっちゃったんだけどね」

「ごめんて」

じっとり睨むひかるに真雪が謝る。あの後、結局真雪は颯太に脅されるまま二人で三森家に行き、篤子ママにひかるをお願いする羽目になってしまった。篤子ママが二つ返事でOKしてくれたことと、なんだかんだで三森家での時間をひかるが楽しんでくれていることは不幸中の幸いだ。

「そうなんだ、それなら別にうちも構わなかったんだけど」

「私が構うの!もう小6なのに留守番もさせてもらえないっていい加減うんざり」

そりゃそうね、と菜々子が頷く。

「でもさ、陽ちゃん、ちょっと颯太くんの気持ちわかるんじゃない?」

「え?なんで」

あかねの口元をふいてやりながら陽斗が聞く。

「だっていっつも、あかね可愛いあかね可愛いって言ってるじゃん。そんなのずっと先なのに嫁にやらん!とか」

「それはまあ、言いはしたけど。半分くらい冗談の話だろ」

家での親バカぶりを暴露されて恥ずかしいのか陽斗が少し赤くなる。ふふ、と菜々子が笑った。

「そうだよね。でも颯太くんには冗談の余白がない気がする。ねえ真雪くん、真雪くんだってさ、どっか知らない世界に行きたいとか思うことない?」

「知らない世界、ですか」

うーん、と真雪が唸る。

「あるような、ないような」

「私ある!颯兄が学校に迎えに来なくて友達と遊びに行くときもついてこない世界!」

ひかるの言葉に、菜々子が笑う。

「でもひかるちゃんは家出したりしないでしょ。それは『家族に心配をかけるかも』とか『怖い目に合うかも』とかその先を考えられるからなんだよ。颯太くんは思い立ったら良し悪しとか、それがどういう未来に繋がるかを考えることなく突っ走っちゃうんじゃない?だから家出したりお迎え行き続けたりするんだろうなって」

「なるほど、菜々ちゃんすごい分析力」

海里が感心して拍手する。

「確かにあいつは今だけを生きてるな」

「自分だけしか見えてない気もする」

 陽斗と真雪も追従する。

「じゃあさ、その猪突猛進バカを止める方法は?」

「うーん、ごめん。わかんない」

「そんなあ」

むくれるひかるにごめんねーと菜々子が言い、みんなが笑った。





 玄関に入るとめずらしくリビングへのドアが開け放たれていた。そのせいか、ここにまでかすかにアップテンポの歌が聞こえてくる。最近は帰ってくるとリビングにこの曲がかかっていることが多い。ひかるが母にねだってかけているのだ。聡子は詳しくないのだが、力強い男性ボーカルで聞いていると元気が出てくる。二年前くらいの流行歌で、いま中高生を中心に人気のグループがブレイクするきっかけになった曲だと以前ひかるが教えてくれた。

「おかえり聡子ちゃん」

ひかるがぱたぱたと軽い足取りで聡子が出迎えにくる。ラベンダーのような色地に色とりどりの大胆な花柄のエプロンは、初めてひかるを預かったときに母と三人で買いに行ったものだ。

「聡子、斉藤さんは?」

ひかると色違いのベージュのエプロンをつけた母も、手を拭きながら現れた。

「お忙しいみたい。そのまま戻ってもいいですかって言うからうちの前についたらすぐ帰っていただいたの。ダメだった?」

「そう。別に大丈夫よ、いるならご挨拶しようと思っただけだから」

斉藤さんとは個人タクシーの運転手で、三森家が懇意にしている女性ドライバーだ。今日のように母が送迎できないときには昔からお世話になっている。

「聡子ちゃん、いまクッキー作ってるんだよ」

「わあ、いいなあ」

楽し気なひかるにつられて聡子も笑顔になる。

「手を洗って着替えたら、聡子もいらっしゃい」

聡子のうちに真雪と颯太がひかるを預かってほしいと言いにきた時、聡子は不在にしていた。聡子の母はおっとりとした性格の人だが、育児に関してだけは肝っ玉母さんと呼ぶのがふさわしい。妹のこととなると過度に真剣な颯太と、何事も真面目な真雪とがそろって下げた頭を母は「水くさい!」とばしばし叩いて引き受けたそうだ。

 幼いころ、両親にした兄弟がほしいという願いはついに叶えられなかったが、こうしてひかるが頻繁に来てくれるのが聡子はうれしい。着替え終わった聡子は自分のエプロンをつける。聡子の分は水色だ。ひかるが来るようになってから家の中が明るくなった気がする。流行りの音楽も華やかなエプロンもひかるがいてこそのものだと思う。

 キッチンに入るとバターと砂糖の甘い匂いがした。ひかるは星型を使ってクッキー生地を抜いている。聡子はハートの抜き型をつかんだ。

「聖羽良は文化祭ないの?」

「あるよ、でもうちは秋にやるの。あと冬休み明けにバザーがあるよ」

慎重にハートを抜きながら聡子は答える。

「バザーってなに?」

白河小はやらないの?と聞く聡子にひかるが首をふる。

「そっか、聖羽良だけなのかなあ。幼稚園でもやったけど覚えてない?家にある使わないものとか、手作りのものとかを持ち寄ってお店屋さんをするの」

「そうなんだ。手作りってことはこういうクッキーとか売るの?」

つやつや光るクリーム色の生地を鉄板に移しながら訊くひかるに聡子は首を振る。

「お母さんたちが通ってたくらいの昔はよかったけど、今は衛生法の関係でだめなんだって。手造りは手芸とか工作ね。シュシュとかアクセサリーみたいなのは人気だよ」

ああ、とひかるがうなずく。

「そういえば雪兄も言ってた。舞高の文化祭も食べ物とか売れないって。文化祭ってカフェやったりやきそば売ったりするんだと思ってたけど違うんだね。唯一の例外は生徒会担当のブースが仕入れた舞星まんじゅうだけって」

「舞星まんじゅう?しばらく食べてないなあ」

聡子の顔がぱっと輝く。舞星まんじゅうとは皮だけの平べったい炭酸まんじゅうを串に刺して焼き、甘辛い味噌だれをかけた舞星市の名物だ。

「ね、ひかるちゃん一緒に行かない?舞高の文化祭。舞星まんじゅう食べようよ」

「やった、行く!」

聡子とひかるが顔を見合わせて笑う。母もにこにこしながら「じゃあ篤子ママが送って行ってあげるわね」と言う。

「ママも一緒に行けばいいのに」

「行きたいけど、学校の文化祭は駐車場が少ないからなかなか大変なのよ。舞高の生徒さんたちの親御さんもたくさんいらっしゃるだろうし、だから今回は我慢。送迎だけするわ」

と笑った。

 鉄板にはのっぺりとした星とハートがぎっしり並べられ、後ろからのぞいた母は満足そうにうなずいた。

「よし、できたわね。ほら、焼いてる間に二人とも宿題すませてきなさい」

 予熱の終わったオーブンの扉を開けながら微笑む。「焼けたらすぐ教えてね」と言いながら、ほんわりと温まった空気に背中を押されて、聡子とひかるはキッチンを出た。




 遥真雪の後ろを可児優菜は無言で歩いている。

 学校至近の文房具屋には優菜たち以外にも舞星高校の生徒がちらほらいて、思い思いの品を手にとっては必要なものかどうか見さだめている。

 優菜と真雪はここへ埴輪に使う絵の具の買いだしに来ている。思いのほかというか案の定というか、遥真雪は絵のセンスもあった。絵に興味がありそうではないが、下手そうではないという優菜の予想通りだ。

 ぺったりと乾いた埴輪の質感を再現するにはずいぶんな量と種類の絵の具を使う必要があり、その選定は満場一致で真雪に決まった。優菜も付いてきているのは荷物持ちじゃんけんに負けたせいだ。まったくの偶然だったが、心が沸き立ったことは否めない。二人で行くことが決まったとき優菜はあえて愛梨のほうを見なかった。

 愛梨はどんな顔をしていたんだろう。戻ったら普段通りの明るい声で「買い物中の遥くんってどんな感じ?」とこっそり聞かれたりするのだろうか。そう言われたら自分はなんて言えばいいのだろう。いつもみたいに少し冷めた感じで、心の揺れを悟られないように上手に答えられるのだろうか。

 愛梨はいつも真雪のことを気にしている。班活動の中ではほんのときどきだが、愛梨も新井も不在で優菜と真雪だけになる時や、優菜と真雪だけが同じ作業をする時がある。その後で愛梨に「どうだった?遥くん」と聞かれるのはもはやお決まりのパターンだ。

 優菜はそんなとき、後ろめたさで「どうって何が?」、あるいは「どうって別に」と、いかにも真雪になんて興味がない風を装って答える。

 しんどい。本当はいっぱい愛梨に話したい。真雪と過ごすわずかな時間に湧きおこる、喜びと、ときめきと、怖さがぐるぐる混ざる心の大渦を。「だよね」と共感したり、「がんばれ」と叱咤激励したりしてほしい。けれどだめだ。この水は濁っているのだ。こんなものを親友に見せるわけにはいかない。

 早く文化祭が終わればいい。そうすれば真雪とこんな風に近くにいることはなくなる。誰が好きとか関係なく、愛梨と笑って過ごせればそれでいい。いや、むしろいっそのこと早く真雪と愛梨がくっついてしまえばいい。そうしたら。そうしたら?優菜の心が、また黒く波打つ。そうしたらどうなるのだろう。心の柔らかいところに生えた小さな芽を摘んでなかったことにして、心機一転、上を向ける?黒い波が打ち寄せたままむりやり蓋をして腐った水が渦巻く私の心にも、そうしたら平穏な凪の時間が訪れるのだろうか。

 あのとき少し息をのんで「じゃ二人でよろしく!」と言った愛梨に、「愛梨が行けばいいじゃん」とは言えなかった。本音を言えば、こうして二人で歩けるのはうれしい。でも、うれしがったところでその先はない。愛梨が真雪を好きである以上、この気持ちは永遠に閉じ込めなければならない。もし愛梨に真雪を気になっていることがばれて気まずくなるなんて絶対に嫌だし、なにより愛梨には一点の曇りなく幸せでいてほしい。親友を押しのけて恋を実らせたみたいなのとは無関係でいてほしい。前を行く遥真雪のまっすぐとした足取りを見ながら、優菜は溜息をついた。

「埴輪、3体でしょ。赤は10本くらいでいいかな」

「いいんじゃない」

不意に話しかけられて、優菜はついぶっきらぼうに答えてしまう。まずい。そう思って真雪の方を見るが気にした様子はない。おっとりした性格に似合わない俊敏さで、すたすたとレジに向かっている真雪の後を優菜は慌てて追う。

「ちょっと、絵の具は?何も持ってないのにレジ行ってどうするの」

ああ、と真雪がとぼけた声を出す。

「10本も買うし、在庫あればそっち出してもらおうと思って。そっちの方が陳列の手間も省けてお店の人もいいかなって」

「ああ、そう・・・」

優菜の胸がきゅっとしめつけられる。

 まただ。遥真雪という男はいつもボーッとしてるくせに、そういう気づかいが自然にできてしまう。文化祭の準備をしていても、気づいた時には重い物は持ってくれるし、面倒な作業は先に済ませておいてくれるし、さっきだって店までの道すがら車道側をさりげなく歩いてくれた。

 入学式の、桜並木のやさしい手が優菜の胸によみがえる。あの朝の、なんのてらいもなく自分に注がれた純粋な優しさが、汚泥まじりの心に刺さって毒針みたいに痛い。

 レジに行った真雪は少し迷って赤3本と朱を7本を注文した。他に茶色だの黄土色だの焦げ茶だのそれっぽい色をたくさんと黄色と黒と白も3本ずつ。

「赤10本じゃないじゃん」

「ごめん、やっぱり赤の方がいい?朱色の方がそれっぽくなるかなって思ったんだけど」

慌てて謝る真雪に優菜は何ともいえない気持ちになる。軽くつっこんだだけなのに、こんな返事されるなんて。きっと性格の悪い奴だと思われているのだろう。

「べつに。遥が選んだのでいいよ」

気まず過ぎてそんな風にしか返事ができない。いたたまれなさに優菜は黙りこむが、やはり真雪は気にした様子がない。

 会計が終わっても沈黙は続く。結局学校近くの文房具店では茶系の絵の具の在庫が全然足りず、他の店をめぐってから優菜と真雪は学校に戻った。

「おかえりー。どうだった」

愛梨が笑って優菜を出迎える。

「どうって買ってきたよ。赤以外にも茶色とか黄土色とか何色も20本。遥チョイスで水彩じゃないアクリルのやつ」

「そうじゃなくて」

愛梨が小声になる。

「遅かったじゃん、どこ行ってたの」

「どこって絵の具買いにだよ。全然ないからその辺の文房具屋まわってただけ」

「うーん、まあ、そうなんだろうけどさ」

優菜がわざと硬く答えると、不穏さを察した愛梨が戸惑った様子で黙った。

 ごめん、愛梨、こんなことしたくないのに。罪悪感で目をそらした先では、さっそく真雪は買ってきた絵の具を新井に渡していて、二人で相談しながら何色かの束に分けている。

 誰にも気づかれぬよう、優菜は小さく深呼吸した。そうだ、何もない。私たちはたまたま一緒に絵の具を買いに行っただけ。私は何も思わないし、気づかない。そんなことより今は埴輪を塗らなくてはいけない。文化祭はもう1週間後だった。

「行こう」

優菜は愛梨の腕をとって真雪と新井の方へ駆け寄る。さっきの態度は少しぼんやりしていただけで悪気はなかったというアピールで笑いかけると、愛梨の顔も少し明るくなる。

「よし、やろう!」

全員に向けてことさらに明るく愛梨が笑った。

 もくもくと埴輪を塗っている真雪の横顔を優菜はそっと見る。終わったこと。後の祭り。そう思ってるからつらいのだ。私たちには何もない。あんな風に出会っておいてこんなに平坦に過ごせるのだから、私と遥真雪は始まりようがないということなんだ。

 すでに作業にとりかかっていた新井と真雪は優菜と愛梨のために二人分の場所をあけてくれた。新井は筆を持った優菜と愛梨の位置を確認するとさっそく指示を出してくる。

「可児、そっち側まず黄土色ベースで塗って」

「あーだめ、新井くん、名字じゃなくて優菜って呼ぶんだよ!」

すかさず愛梨が言う。

「べつにどっちでもいいって」

慌てる優菜に愛梨が目くばせする。

「よくないよ。呼んでほしい名前の方がいいじゃん、ね、遥くんもだからね」

集中しているのか、真雪がうん、と気のない返事をする。一方、新井は興味を持ったのか「いいけど、なんで」と聞いてくる。

「だから優菜って呼ばれたいからだってば」

「だからそれがなんで」

気になることは放っておけない性分らしく、新井は食い下がる。

 そんな二人のやりとりを優菜は身が縮まる思いで聞いていた。愛梨が善意で言ってくれていることは重々承知の上だが、長年にわたる「可児優菜」の呪いのせいで、自分の名前が話題に上がること自体が憂鬱になる。だというのに、愛梨も新井も当の優菜はそっちのけで、なんで?なんでも!という往復をやめる気配がない。べつに可児でいいよ、もう一度そう言おうとした時

「いいじゃん新井、気にする人もいるんだよ。俺も名前が嫌だった頃あったし」

そう埴輪を塗り続けたまま真雪が口を挟んだ。

「ええ!そうなの遥くん?」

なぜか愛梨が優菜の腕をつかむ。

「うん、遥真雪って上も下も女の子みたいな名前で、せめて名前だけでも違ったらなって思ってた。人から見たら大したことなくても本人には大問題なんだよ。名字なんて変えようがないから余計だろうな」

筆を動かす手を一瞬だけ止めて、真雪が優菜に笑いかけた。

 遥真雪と自分が同じ悩みを持っていた。運命、という言葉が脳裏に浮かびかけたのを優菜は慌てて打ち消す。愛梨がふたたび優菜の腕をつかむ。親友のすがるような視線を感じて優菜は曖昧に頷いた。

 真雪がこんな風に自分のことを話してくれたのは初めてのことだ。このチャンスを逃したくない。

 何か言わなきゃ。

 愛梨のため、何か愛梨と真雪が近づくきっかけになるような、二人の今後を予感させるようなこと。「可児優菜」の呪いから自分を解き放つために一生懸命がんばってくれた愛梨のためにこの話題を生かす何かを。

「まあ、結婚すれば名字は変わるけど」

言った瞬間、優菜の思考は止まった。

 新井と真雪はそういえば女子はそうだね、いやでも男だってその気になれば、時代の流れ的にもなどと言いながら筆を動かし続けている。愛梨は呆気にとられた顔をしていたが、なぜか小さく肩をふるわせはじめた。

 それから何をどうしたのか優菜は覚えていない。気がつけばあらかた塗り終えた真っ赤な埴輪を前に

「優菜、そこ黄土色って言ったろ」

 と新井に怒られていた。




「なあ遥、近いうちに解放日ないの?」

 休み時間の教室、めずらしく外で遊んでいない五十嵐が話しかけてきた。ひかるはとっさに周囲を見まわす。五十嵐のことを好きだとうわさの子たちは近くにいない。

「ないよ。たぶんしばらくはない」

 なるべく小さな声で、かつみんなから見て不自然でないように気をつけながらひかるは答える。

「ええ、何で?結局あの1回きりじゃん」

「いいじゃん別に。颯兄がひまで雪兄はいそがしいの」

 ひかるは肩をすくめた。

聡子ちゃんと雪兄の立てた作戦に五十嵐は妙に張りきって臨んでいる。実際は最初にむりやりついて来られた一回だけしか一緒には帰っていないのだが、今みたいに「解放日は?」と聞かれたことは一度や二度じゃない。

「雪兄なんでいそがしいの?」

 五十嵐が当たり前のように兄を『雪兄』と呼んでくるのもひかるは腑に落ちない。雪兄と呼んでいいのは妹である自分だけのはずだ。そう言ったら「だって兄ちゃん4人もいるんだろ?名前言わないとわかんねえじゃん」と五十嵐は悪びれずに言う。「雪兄も雪兄でいいって言ってたし」とも。

 雪兄がよくても私がよくないんだけど。そう、ひかるは思うのだが、その思いは五十嵐には届かず、またどうせ聞いてはくれないだろうから直接言うことはしていない。

「6月の真ん中の土日が舞高の文化祭なの。雪兄は毎日その準備で遅くて、だから私いま帰ったら聡子ちゃんちにいる」

「へえ、いいじゃん。一緒に行こうぜ舞高の文化祭」

「だめ」

「なんで」

「私もう聡子ちゃんと行く約束したもん」

「俺も行く。仲間にいれろ」

「ええー・・・」

 いやだ、と言おうとした瞬間に女子のグループが賑やかに教室へ入ってくる。

 ひかるの表情から何かを察知したのか声をひそめた五十嵐が「約束だからな」と念を押し、自分の席へ戻って行った。ひかるも自席に座る。もうすぐ授業開始のチャイムが鳴る。

 五十嵐も一緒で聡子ちゃんが嫌がらないかな。その可能性を考えてひかるは溜息をつく。

 ありえない。優しい聡子ちゃんが仲間はずれなんてするわけがない。

 いつものきれいな笑顔で「いいよ~」って言う姿がありありと目に浮かぶ。

 改めてちゃんと断ろうかと思うが、五十嵐は颯兄といい勝負で押しが強い。

 断ってもしつこくされたら嫌だ。適当にごまかして聡子ちゃんに言わなければいいかもと思うが、五十嵐は行動力も抜群だし、聡子ちゃんとも雪兄とも面識がある。二人に突撃して直接OKをもらうくらい朝飯前だろう。

「五十嵐くんも?うん、いいよ」

 案の定、三森家に帰ったひかるの申し出に聡子はにっこりうなずいた。

「ああーん、聡子ちゃんと二人が良かったあ」

 ベッドに置いてあるお気に入りのクッションを抱えてひかるが嘆く。

「ひかるちゃんが五十嵐くん抜きがいいならそうするよ?」

「だめだよ、そしたら聡子ちゃんがいじわるしたって五十嵐に思われちゃうもん」

 慌てて手を振る聡子に、クッションに顔をうずめてひかるがぼやく。

「ちゃんと断れなかった私が悪いんだから聡子ちゃんがいいならいいよ」

「ごめんね、てっきりひかるちゃんも五十嵐くんと一緒に行くの賛成なんだと思ってたから」

 聡子が恐縮した。

 今日、ひかると聡子はいつものリビングではなく聡子の部屋で過ごしている。一階ではリビングと応接間を開けはなった大規模なお茶会を母が開催しており、二人は顔だけ出して引き揚げたところだ。

「ひーちゃんは五十嵐くんきらいなの?」

「きらいじゃないけど、周りに好きって思われたら困るし、一緒に帰ったり遊びに行ったりするほど仲良くない」

「男の子と一緒に帰ったり遊びに行くのはやっぱり特別なこと?」

「そりゃそうだよ!?」

何いってるの?と言わんばかりのひかるに聡子はまた恐縮する。

「聡子ちゃん高校生でしょ?ずっと女子校だから?そういう感覚ないの?」

「ごめんね、私そういうこと疎くて。あ、でも女子校は関係ないと思う、友達が話してるのは聞くし」

もう、というとひかるは再びクッションを抱きしめる。

「じゃあひかるちゃんは他に好きな子いるの?」

「いないよ。そういうのまだよくわかんない」

うーん、と聡子が首をひねる。ひかるの悩みがわかったようなわからないような顔をしている。

「大丈夫じゃないかな。まんがいち他の子に見られても私もいっしょに行くんだし、変な噂は立たないと思う」

「うーん、そうだといいんだけど」

「それに五十嵐くんいい子だから仲良くなれたらきっと楽しいよ」

「えー、そうかなあ」

五十嵐いい子かなあとひかるがぼやき、ベッドに寝転んで足をばたばたする。

「うるさいし、しつこいし、強引だし」

先生の話聞かないし、忘れ物多いし、等々、五十嵐の苦手なところをどんどん羅列するひかるに聡子は思わず笑ってしまう。

「大丈夫、それだけ相手のことをよく知っていればやっぱり仲良くなれるよ」

「え?」

きょとんとするひかるに

「五十嵐くんに待ち合わせはうちでいいか聞いておいてね」

と聡子は微笑んだ。




 夕暮れ迫る教室で新井と真雪は顔を見合わせた。

 目の前にはぽってりとした埴輪が3体。なかなかどうして模造紙で作られたとは思えない見事な質感に仕上がっている。

 探るような新井の視線に真雪は深く頷いてみせる。新井は愛梨と優菜とも順繰りに視線を合わせ、最終的に全員が顔を見合わせて頷きあった。

「よっし!終わった!」

「やったー!」

新井が叫び、愛梨と優菜が歓声を上げる。この数週間心血を注いだ埴輪。模造紙での年表および解説は比較的すぐに形になったのだが、ジオラマの古墳とはりぼての埴輪は凝ってしまうときりがなく、結局前夜祭ぎりぎりのこんな時間までかかってしまった。

「おつかれー!」

にこにこしながら片手をあげた愛梨につられ、全員でハイタッチを交わす。

「よし!体育館行こう、もう前夜祭始まっちゃうでしょ」

完成した高揚もそこそこに、愛梨に背中を押されるまま真雪たちは教室からまろび出る。

「結局覚えられた?ダンス」

「うーん、なんとなく見様見真似で動いてる」

「私もー。すごいよね、ダンス部。見本の踊りキレッキレだし」

「俺ここわかんないんだけど。最後のデデデデッデデデデッてとこさ、手、顔の横から斜め下に持ってくじゃん?その後さ」

「え?新井それ手、左右逆じゃない?」

四人で他愛のない話をしながら廊下を行く。1年1組では真雪たちの班が最後だったが、ほかのクラスにはまだいくつか残っている班もあり、焦りながら作業している。6月の日は長く、18時だというのにまだ外は明るい。

 体育館に近づくにつれ、だんだん文化祭のテーマソングが聞こえてきた。実行委員会が提示したいくつかの候補から選ばれたこの曲は二年前くらいに流行った歌で、鼓舞するようなアップテンポの曲調とそれに見合った力強い歌詞を男性ボーカルが歌い上げている。

 ゴールデンウィーク明けから授業時間以外はほぼずっと校内に流れ続け、きたるべき文化祭へと舞高生たちの背中を押し続けてくれたこの曲に、いつのまにか生徒たちはどっぷりとハマっていた。もちろん真雪もそのひとりで、柄にもなく家で口ずさんでいるところをひかるに見つかった。「雪兄も歌とか歌うんだ」と驚かれ、気恥ずかしさから慌てて文化祭のテーマソングなのだと説明した。

 舞星高校文化祭がついに始まる。前夜祭では実行委員会の宣誓を皮切りに士気を高めるためこれまで練習してきた舞星ダンスを踊る。

 本番となる土日、および日曜に来場者が帰った後に行われる片付けと、後夜祭での締めの舞星ダンスを踊って今年の文化祭は終わる。

 四月の末からここまで、準備の日々は長いようであっという間だった。この準備があったおかげでクラスメイトとの距離も自然に近くなったし、結束も強まった気がする。橋本愛梨が音頭をとって、真雪たちは後夜祭のあとにお好み焼き屋で打ち上げをすることも決まっていた。

「じゃあさ、土曜の午前中はうちらどっか行っていい?」

文化祭当日の簡単な段取りを確認しながら橋本愛梨が言う。

 明日からの二日間、真雪たちは教室の自分たちの担当ブースに立って、必要があれば来場者に説明をしたり、掲示にちりばめたミニクイズの進行をして正解者に飴を配ったりすることになっている。 もちろんその間、講演会を聞きに行ったり、ほかのクラスの展示を見に行ったり、部活の発表に参加したり等、メンバーに相談の上なら、いつでも自由に抜けていい。

 愛梨の言う「うちら」とは、愛梨と可児優菜のことだ。入学当初から二人は仲が良く、今回の班活動でも終始二人で楽しそうにしていた。愛梨とは準備を通してだいぶ仲良くなれた気がする真雪だが、優菜にはほとんど口も聞いてもらえない。しかしそれも仕方がないと思う。真雪は優菜に嫌われている自覚があった。

 入学式の日、聡子を聖羽良まで送った後、家に帰るのも中途半端な時間だった真雪はだいぶ早く舞星高校に着いていた。そこで桜吹雪の中、うずくまる可児優菜を見つけたのだ。

 転んでしまったのだろうか、それとも腹痛でも起こしたのだろうか。反射的に手を差しのべた真雪を無視して優菜はどこかへ行ってしまった。その後、教室で再会してもあからさまに目をそらされ続ける日々が続いている。あまりに露骨に嫌われているので同じ班になった時はどうしようかと思ったが、準備を通して必要最低限の会話をするくらいは許された気がする。それはきっと、あの日のことはなかったことにしてやるから余計な真似をするなという優菜の無言のメッセージだ。

 あの時は悪いことをしたな、と思う。ついやってしまったが、見ず知らずの奴に急に手を差し伸べられてもふつうは警戒するだろう。なれなれしくお節介を働いた自分に優菜が嫌悪感を持つのも当然だ。

 あの日は舞い散る桜がきれいだった。怖いくらいに。だからよけいに誰かを助けずにいられなかった。

「ゆきちゃん、土曜日と日曜日どっちがおすすめ?」

不意に数日前の聡子の笑顔が真雪の脳裏をよぎる。

 手を洗い、三森家のダイニングテーブルについた時のことだ。最近の真雪は篤子ママに勧められるまま、ひかるを迎えに行くついでに夕飯をごちそうになっている。もう先に食べ終わっていた聡子たちはリビングにいたのだが、真雪の着席に合わせてこちらにやってきた。

「一日目の講演会もおもしろそうでしょ。あ、『舞星演芸・出たとこ勝負!』だって。ね、ひーちゃん、どれ見たい?」

聡子の手にはどこからもらってきたのか舞高文化祭のパンフレットがある。聡子はテーブルの向かいに座ると、ひかると一緒に楽しそうにそれを眺めている。

 今日も聡子からは花束のにおいがして真雪の胸はぐずぐずとかゆくなる。「どこか違う世界に行きたいと思ったことはない?」ゴールデンウィーク明けの日曜日、菜々子さんが言っていた言葉が胸によみがえる。

 どこか違う世界。それがどんな世界なのかはわからないが、こういう時、それがぐっと自分に近づいているような気がする。聡子のそばにいると、真雪は時折あてもなく茫洋としたものに囚われてしまう。

「ね、あと二日目の16時もうちらいないからね」

先を行く橋本愛梨が新井と真雪を振り向いた。

「えー、お前ら不在多くない?」

「だって二人でミスコン申し込んじゃったんだもん」

「ミスコン?」

「そう、井田っちが出ればいいじゃんっていうからノリで」

井田とはクラスの文化祭実行委員だ。

 気さくで調子が良く、入学した直後に立候補した実行委員会の仕事を精力的にこなし、班活動の際には各班をまわって進捗を確認し、一人ずつに励ましの声をかけるなどして文化祭への気運を盛り上げている。いまだクラス全員を把握しているかすら怪しい真雪からすると驚くべき能力の持ち主だ。

「そうだ、遥くん応援に来てくれる?」

「なんで遥だけなんだよ」

「二人に頼んだらブースに誰もいなくなっちゃうじゃん」

愛梨と新井の言い合いに思わず真雪は笑ってしまう。

「な、遥、行かないよな」

「来るよね、遥くん、ほら、優菜も言って」

「それより急ご、もう前夜祭始まっちゃうし」

優菜の一言に「はーい」と明るく答え四人は夕暮れの体育館へ急いだ。




 薄暗いカウンターでみのりは頬杖をついている。

 Gardeniaは今日もオープン前だ。みのりは遠慮したが、来たいときはこの時間に来るように海里からお願いした。

 みのりは酒に強い。だからいつまでもグラスを空け続けてしまう。海里としてはみのりのそんな姿は、酔っぱらってクダを巻くよりも見ていられなかった。

 颯太が手伝いにいる日など、みのりはなおのこと酷い。きれいな子なのに、親の仇を前にしているみたいに険しい顔で飲み続ける。彼女に声をかける男もいたが、みのりは振り返ることさえしなかった。そういう時、海里は店主としてよりもバカ弟の兄として成り行きにハラハラしてしまう。これでは体に悪い。

 今日は気が向いて鶏手羽餃子を作っているのだが、みのりはカウンターの隅っこでヒプノティックのソーダ割を睨むばかりで、こちらに寄ってこようとはしない。相当思い詰めているのだろう。ゴールデンウィーク前に店に来てメニューを描いていたころとはえらい違いだ。

「どうなの、最近は」

声をかけてみると、みのりがビクっと顔を上げた。

「え、どうって・・・」

「就活よ」

海里がウインクしてみせる。

 今日の海里はラピスラズリみたいな濃いブルーのイブニングドレスを着て、金髪の巻き髪のウィッグをつけた。ホルターネックが首から胸元にかけて作るセクシーなラインがお気に入りの一着だ。

 就活、と聞いたみのりはあからさまにほっとした様子で、ああ、と微笑む。

「うーん、どうなんだろう。わかんないです」

「なんの会社なの?」

「メガネ屋さん」

みのりがCMでよく見るメガネメーカーの名前を挙げる。

「やだ、あそこの本社、舞星にあるの?」

「そうなんですよ。もともとこっちの企業みたいで、広告部門も外注じゃなくて自社で抱えてるから興味あって」

ゴールデンウィークに合わせて帰ってきたというみのりは6月を過ぎた今もなお東京に戻っていない。舞星にいる理由は就職活動のためだと言う。

「来年は就活だし、せっかくだから今からいろいろな会社調べておこうかなって」

そう言うみのりに、いくらなんでも今からでは早すぎるのでは、と思っても、海里は言わない。ましてやこんな地方都市に美大のデザイン学科の子が就職を希望するような企業がそうたくさんあるとは思えないとも言わない。

 みのりが舞星にとどまっていることを詮索するなんて余計なお世話だと思う。とはいえ自分の店で連日あんな風に思い詰めた飲み方をされてはそろそろ限界でもあった。

「そこが第一志望なの?」

「まだわかんないです。もちろん良いところがあれば、都内でも、全然違うところでも受けるつもりですし」

「美大なら卒業後は芸術家としてフリーでやってくのもアリじゃない?」

「あーどうだろ。私そんな根性ないから」

そう言ったきり、再びみのりはグラスに目を落とす。

 今日は颯太の配達はない日だ。夜に入ってもらう予定もない。みのりには来た時点でそれは伝えたから、いま飲んでいる一杯目が終わったらまもなく帰るだろう。海里は手羽にせっせと餃子餡を詰め込みながら、漂う厄介ごとの気配に息苦しくなる。どうしてこの二人はこんなにこじれているのだろう。

 キャベツが多めの餡をたっぷり詰めた鶏手羽餃子は海里の自慢の一品だ。「きょう鶏手羽の餃子あるよ」、そう言えば颯太のアホはビル清掃のバイトの後に行く、どこかの女の子とのデートをほっぽりだしてこちらに来るかもしれない。しかしそれでみのりが満足するわけじゃない。

 面倒くさくないといえば嘘になる。けれどあのバカが自分の弟で、この子がうちに来た以上、海里は無視をするわけもいかなかった。

「あのね、颯太のことなんだけど」

「はい」

 みのりの顔が少しこわばる。それでいて目元は柔らかい。海里が颯太の名を口にしただけで彼女の空気が色づきはじめた。あまりにあからさまな変化に逆に海里が赤面してしまいそうだ。

 みのりが遥家に初めて来たのは颯太と彼女が中3の時だ。当時の颯太は授業をさぼってばかりの問題児で、両親も手を焼いていたのだが、学級委員のみのりが厳しく、根気強く、矯正してくれた。

 当時離れて暮らしていた海里は失踪した弟の身元引受人くらいしかできなかったのだが、それでも時間を見つけては実家に帰るようにしていた。その時にみのりと出会ったのである。きりっとした瞳ときつく結んだ口元が印象的な娘で、無表情で颯太を迎えにやってくるみのりを、家族は救いの天使だと言い合った。その天使の恩に、今こそ報いるときだ。海里は気合をいれた。

「私たちね、みのりちゃんには本当に感謝してるの。颯太が中学を無事卒業できたのはみのりちゃんのおかげだし、あのバカが高校に行かないって言ったとき、みのりちゃんが説得してくれたでしょう」

きっかけとして言っただけの言葉だったが、みのりの動きが止まる。なにか地雷だったか。みのりがグラス越しにじっと海里を見つめている。

「それって本当に良かったんですかね。今さらだけど」

「あら、どうして?」

質問には答えず、みのりは酒をあおり、空になったグラスをカウンターにことりと置いた。

「あーあ、私にも海里さんみたいなお兄ちゃんがいたらよかったのに」

「お姉ちゃんでもいいわよ」

しなをつくってみせた海里にみのりが笑う。

「私、長女でしょ。昔からお姉ちゃんなんだからしっかりしなさいって言われてた。海里さんは?」

「うーん、どうだろ。うちは双子だけど一応長男は陽斗だし、颯太とも7歳離れてるし、あんまりそういうのはなかったかも。まあでも大変よね。そんなこと言われたら私なら気負ってつぶれてるかも」

さすがみのりちゃん、という海里にみのりは首を振る。

「ううん。すごく小さい頃から言われてたし、そういうの嫌でもなかったの。自分でも真面目なしっかり者っていうのが私の性格なんだって思ってた。でも」

「でも?」

「颯太と一緒にいたらそれが揺らいじゃったんですよね」

「ごめんね。変だもんね、あの子」

みのりの言葉に自嘲を感じ、海里は心からの謝罪をした。

 中学生の頃、放浪癖が出始めた海里は補導ばかりされていた。学校に行く途中で急に思い立ってどこかへ行ってしまうのだ。制服で昼の街をうろつくのを見咎められたり、無賃乗車の駅で通報されたり、山奥で壊れた自転車とともに発見されたり、思考力はないのに行動力は抜群の颯太はとどまるところを知らなかった。

 最初の頃はそれが颯太の心の問題からくるものだと思った両親は、下の二人を放っておくほどのいきおいで精一杯颯太と向き合い、海里と陽斗も許す限り帰郷して弟と一緒の時間を過ごした。しかし何も功は奏さなかった。大した理由もなく不意にフラフラどこかへ行ってしまう颯太に親は困惑し、教師はさじを投げ、思えばみのりこそ颯太に最後までとことん付き合い、いちばん真剣にぶつかってくれた相手だ。

「颯太はね、私に絵が上手いって初めて言ってくれた人なんです。しっかり者とか、勉強ができるとかってほめてくれる人はいたけど、私は本当は絵を描くのが好きで、でもそれを口にしちゃいけないって思ってたこと、颯太には見抜かれちゃった」

「どうして絵が好きって言えなかったの?」

「芸術って厳しいから。普通の大学に行って安定したところに就職してほしいって家族が思ってるの知ってたし、私自身もそれがいいって思ってた」

「たしかに才能だけで渡っていけるわけじゃないものね」

「うん。だから絵の方を頑張りたいとは思わなかった。でも颯太はいつも自分勝手でそんなの全然関係ない人でしょう?だから一緒にいるうちに勝手に夢をあきらめてる自分がバカみたいに思えて。打算で本当にやりたいことやらないなんてダメだって思ったんです」

みのりは中学を卒業後、真雪と同じ舞星高校に進学し、同時に高1から美術の予備校に通って見事現役合格を果たした。

「あのバカでも役に立つことあるのね」

ふふ、とみのりが笑う。

「両親から出された美大を受ける条件は舞高に行くことだったんです。勉強もちゃんとやれって。私もそれはそうだと思ったし。でも颯太が高校行ったのは嫌々でしょ。私、高校くらい行っておいた方がいいとか余計なこと言ったかもなって。颯太みたいな人は学歴とかどうでもよさそうだし」

「いやいや、家族としてはすごくありがたかったわ」

ありがとう、と微笑む海里にみのりも笑うがすぐに表情は硬く戻ってしまう。

「いま、先輩たちの就活の話とか聞いてるとすごく怖い。みんな上手なのに一生懸命つくった作品なのに評価されないのが普通だって。自分を貫き通す自信がなくなっちゃうって。だから颯太はすごいなって思う。海里さんだってこうやって自分でお店つくって自由に生きるための努力をしてるでしょう?本当にすごいと思います。颯太に比べたら私こそフラフラしてる」

「そんなことないでしょう」

「ううん。全然ダメ」

おもむろにみのりは自分のリュックを開け、中から淡いピンクの柔らかなワンピースを引っ張り出した。

「これ、どう思いますか」

自分の体に当てながら訊く。

「かわいいよ、いつもの黒も素敵だけどそういうのも似合うんじゃない」

「ありがとう」

言葉とは裏腹に感情のない返事だ。

「これ、こっちに帰ってきてすぐ颯太と会った時に着てたんです」

海里はぎょっとした。喋りながらみのりの瞳から突如、大粒の涙があふれだしている。

「メイクも頑張って女の子らしくしてみたら何か変わるかなって。でも全然。バカみたい私」

「そんなことないよ」

「就活と一緒ですよね。ありのまま、自分らしい自分を受け止めてくれたらいいのに、自分はこれが得意です、これが私ですっていうので勝負してみても勝ち目がない。じゃあって相手に好かれようと工夫したけどやっぱりダメ、それでよけい惨めになる。自分でもこれ着た自分は自分じゃないみたいで居心地悪くて。でも自分らしさって何だろうとも思ったんです。そういうの投げうってもいいから私を選んでほしいって思うのはダメなことなのかな」

みのりが泣きじゃくった。海里はよしよし、とその背中を撫でる。

 そうしながら心の中で小さな溜息をついた。まったくこの娘は何をつまらないことに悩んでいるのだろう。自分らしさ。そんなものは結局他者が決めるものなのだ。自我の海は広く深い。自分で自分を探しているうちはその潤沢な海からしっくりくる感情を釣り上げて、どんな自己像だって作り上げられてしまう。そんなものの信憑性は低い。だから「本当の自分」というものは多数の他者の目を通して初めて浮かび上がるものなのだ。

 目の前で人目もなく泣いているこの子にはたぶんそれがわかっていない。自分らしさを自分で自由に決める、海里はそんなわがままを自分に許すためにGardeniaをつくった。だからみのりが苦しいのがよくわかる。いつもの黒服じゃなくて、この可愛らしいワンピースを着たみのりはどれだけ緊張と期待をしただろう。自分を曲げてまで誰かに好かれたいとか、何かに選ばれたいとか思うのはさもしい。でも、そんなの誰だってそうなのだ。本気になったら傷つかずになんて生きていけない。ありのままの自分でいるのも、他者に迎合するのも、何かを捨てて何かを選んで自己像をつくるという点では結局同じことなのだ。

「颯太はその服見てなんて言ったの?」

泣き続けるみのりの背を撫でながら海里は聞く。

「何にも」

「何にも?」

「颯太はいつもどおりでした。私は約束したときからドキドキして、寝不足なのに電車でも一睡もできなかったのに。颯太は普通に現れて普通に映画観て、私、もう恥ずかしくていたたまれなくて逃げ帰りました」

「やだ、それでうちに来てるの、つらくない?」

「未練たらしいですよね。自分でも嫌になる」

涙でぐしょぐしょになった顔をみのりがおしぼりで思いっきり拭く。海里は新しく温かいおしぼりを渡す。みのりはひとしきり泣いて拭いてを繰り返す。映画に誘ったトキメキも頑張って着てみたかわいいワンピースもすべて忘れ去りたいみたいに、おしぼりの山は増えていく。

「もういっそ、バイバイって言えたらいいのに」

思いつめた様子のみのりがぽつりとつぶやいた。

 そんなことを言ってもバカの颯太がみのりの気持ちに気づくはずがないのに。海里は小さく溜息をつく。というか、みのり自身もいま大切なことに気がついていない。彼女はバイバイするまで追いつめられるほどのことはまだ何もしていないというのに、又聞きの就活話と自分の恋をオーバークロスして過剰に落ち込んでいる。

「みのりちゃん、颯太にちゃんと好きって言ったら?」

「でもそれで気まずくなるのも怖いんです」

試しに核心をついてみるともっともらしいことを言ってみのりはひよった。お前ついさっき「いっそのことバイバイしたい」とか言ったばかりだろうが。弟相手なら一喝するところだが、相手はみのりだ。海里は言葉を探しながら笑顔を作る。

 口さがなく言えば、みのりが颯太を好きならばそんなことを言っている場合ではないのだ。颯太は気が付けば案の定、中華粥の女とも別れ、最近ではまたパンや米のありふれた朝食に戻っている。とはいえ、あいつは付き合う女に料理を習う性癖でもあるのか、かつては朝からタコスを出してきたり、名前もわからぬ辛い料理を出してきたこともある。近くのキャバ嬢だの時々ここに来る女性客だの、海里が知る限り、颯太を狙う女たちはみのりよりもずっと積極的にフェロモンを出しまくっている。あいつの何がいいのか海里には全然わからないが、バカゆえの度を越えた奔放さが母性本能をくすぐるのかもしれない。そんな男を落としたいならこんなところでウジウジしていてはいけない。

「あのね、あの子本当にわかってないよ。みのりちゃんがまだ大学三年生なのに就活とか言って舞星にいるのおかしいな、とか。自分がくる時はどうして必ず店にみのりちゃんがいるんだろう、とか。そういうのない奴だよ。バカなんだから匂わせても無駄だよ」

「うん・・・わかってはいるんですけど・・・」

腫れた目を新しいおしぼりで温めながらみのりが頷く。

「みのりちゃんは頑張れる子じゃない。勝手にあきらめちゃダメ。夢だった美大に行けたみたいにちゃんと頑張ってみればいいじゃない」

「でも服もメイクも勉強したけど、颯太は・・・」

「そうじゃないの。そんな努力はひとり相撲でしかないでしょ。恋なんて実践あるのみなんだから、さっさと気持ちを伝えるしかないの。自分らしさって要はプライドでしょ。プライドは持ったままでいいの。投げないで、へりくだったりもしないで、まるごとで行けばいいの。うまくいけばハッピー。だめだったら次行くの。何もしないうちからバッドエンドを想像して動けなくなっちゃダメ。みのりちゃんはかわいいよ。その服も本当にいい。でも颯太はバカだから待っててもダメ。バカに恋するのは普通の倍大変なんだから、ちゃんと頑張らなきゃ」

「海里さん、バカって言いすぎ」

みのりが泣きながら笑い、海里も笑った。カウンターをのぞいたみのりが、それ、もらってもいいですか?と言う。海里はいちばんおいしそうな鶏手羽をフライパンにのせる。

「みのりちゃん、ところで授業は?ずっとこっちいるけど大丈夫?」

「実は東京と行ったり来たりしてたんです。うち弟が受験生だからお母さんもピリピリしてて、行き来のたびに駅の送迎するの面倒だって怒っちゃって。私も体きついしそろそろ向こう戻んないとって思ってました」

「やだ、あいつのせいで留年なんて絶対だめだからね」

「大丈夫、大丈夫」

あせる海里にみのりが笑う。もう一杯だけ、同じのもらっていいですか?と言われ、海里はボトルとソーダを渡す。みのりは慎重にそれをグラスに注いだ。鶏手羽の油がはね、皮が焦げる香ばしいにおいがする。

「じゃあとりあえず今週末まではいる?颯太デートに誘ってみない?」

 焼きあがった手羽餃子を出しながら海里はウィンクをした。

 

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