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これを恋と呼ばずして  作者: 日高 仁
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 できすぎだ、と思った。

 すべすべの長い指は、さきっぽがきれいなピンク。

 硬そうな髪の毛はほんの少し茶色がかっていて、同じ色のすっきりした眉毛とまつ毛の下で涼しげな瞳がやわらかに自分を見下ろしている。

 桜吹雪の中、差しだされた手。

 優菜は息をのんだ。慌てて下を向いてしまったが最後、もう顔を上げることができない。

 相手の、すこし戸惑う気配。

 わかる。せっかく親切にしてやったのに、なんだこいつって思われているんだ。

 わかっているけど、自分にもどうしようもできない。

 伏せた視界には制服のプリーツと自分の手だけがある。

 つい数か月前までアタッカーとして活躍した、節の目立つ大きな手。

 部活は一生懸命やったけど別にバレーが好きなわけじゃなかった。

 もともとがんばってしまう性分なのだ。

 期待されていたから応えようと思っただけで、高校生になってまで続けるつもりはない。

 テーピングだらけだった太い指。引退してもうだいぶ経ったのに、潰れた豆の跡も、手のひらの皮の厚みもぜんぜんなくなってはくれない。

 顔を伏せたまま、どれだけそうしていたのか、それともほんの一瞬だったのか、優菜にはわからない。頭の中が波打っているような、時間が止まったみたいな不思議な感覚。

 特別な朝の、こんなにきれいな景色の中で彼と自分だけがいる。

 音もなく舞う花びらが、名前も知らない、けれど同じ真新しい制服を着ている男子と優菜の間を吹き抜けていく。

 破裂しそうに高鳴る自分の鼓動が優菜は忌々しい。

 できすぎだ、こんなの。

 差しだされた手を掴むことなく優菜は自分で立ち上がる。

 目線はほぼ一緒だ。

 向こうが下じゃないだけまだましか。そんなことを思って、また少し胸がざわつく。

 まったく嫌になってしまう。

 胸の内を気取られないように、優菜はおおげさなくらい背筋を伸ばした。

 そのまま彼の方を見ることなく歩き出す。

 このつまらない街で、桜吹雪に見舞われながらひとつの恋が始まる前に死んだ。





 舞星市立白河小学校。

 舞星市は関東の北部に位置し、人口およそ30万人の都市である。

 文明開化のめざましい明治期には生糸産業で栄えたものの、そこで稼いだ資金をその後の時代にうまく活かせず、かつては周辺の都市に比べても群を抜いていたという街の活気も今は見る影もない。

 悪名もなければ名物もない。その分、荒れているとういうこともなく基本的にはのどかである。

 意外なことに舞星出身の政治家は多く、その利権で道路の整備は進んでいる。そのせいか住民のほとんどが一家に一台ではなく大人ひとりにつき一台の自家用車を持っていた。

 反面、公共交通は惨憺たるもので、県庁所在地だというのに電車は一時間に三本しかない。地下鉄は通っておらず、かつてはあった路面電車もとっくに廃止されてしまった。山から降りてくる異常に強い風もあいまって自転車や徒歩で出歩く者は少ない。バスの便もまばらであり、自家用車率の高さは豊かさの表れというより、その不便を緩和するための住民たちの努力の結果である。それがまた外部の人間にとっては住みにくく人口が増えない原因の一端となっている。

 若者は年頃になればすぐに自動車運転免許をとり郊外のショッピングモールで遊ぶ。あるいはさっさと都会へ出てしまう。街を歩けばシャッターが目立ち、行き場のない高齢者はかつての栄光をひきずり何とか生き残った老舗デパートをたむろしている。

 そんな斜陽をまざまざ感じる地方都市、舞星市。舞星市立白河小学校はその中心からやや東部にある小学校だ。

 真雪はかつての母校であるこの学校の正門にいた。

 妹のお迎えに来たからであり、胸には保護者であることを示すため学校から配布された「遥 ひかる」のネームプレートを下げている。

 妹の名前は本来ならば「光琉」と書く。しかし、ひかるは

「光だけでひかるって読めるのに琉の漢字がついてるの、変。『ひかるる』だもん、これじゃ」

と漢字で書くのを嫌がる。

 対して目下、遥家の家長である兄の海里は

「でもフルネームが『遥光』って2文字も変じゃない?熟語感すごいっていうか、人間の名前としての体裁を整えるためって役目が『琉』にはあると思うんだわ」と言う。

 結局、本人の希望と兄の意見を合わせて、遥家ではテストや提出物などのちゃんとしていなきゃだめそうなものの名前は「光琉」と書き、それ以外の自由度が高そうなものは「ひかる」で通すことになった。

 些細なことにこだわると兄たちは呆れていたが、真雪には妹の気持ちがよくわかる。

 つまるところ、ひかるももう十二歳。思春期にさしかかるにつれて自我がうずきはじめたということである。

 自分がどうありたいかにおいて、琉をつけるかどうかは、ひかるにとって大問題なのだ。

 真雪自身も、やはり十歳を過ぎたぐらいの頃に「まゆき」という自分の名前が急に嫌になったことがある。

 響きが女の子みたい、というのがその理由だ。

 そもそも名字の「はるか」も女の子っぽいのに名前まで女の子みたいじゃ逃げ場がない。

 兄たちは「陽斗あきと」「海里かいり」「颯太そうた」と男らしい名前なのに自分だけ「真雪」なのも納得がいかなかった。

 どうして自分は「真雪」なの?そう、親に尋ねたことがある。

 父も母もいろいろ言っていたが、要は生まれた日が大雪だった、というのがいちばんの理由らしい。

 真雪が生まれた一月の凍てつく朝、舞星市には珍しいくらいの大雪が降った。雪かきもままならない大渋滞の道をやっと産院にたどり着いたのよ、そう母はにこにこ話してくれたが真雪は落ち込んだ。

 適当に付けられたんだな。子供心にそう感じたからだ。

 双子の兄、陽斗と海里の名前に生まれた日の天気なんて一つも絡んでいない。百歩譲って生まれた時の情景をもとに名付けたのだとしても、陽斗はともかく舞星に海はないから海里なんてつけようがない。

 すぐ上の兄、颯太にしても風なんて舞星にはいつも吹き荒れているものをわざわざ名付けの由来にしない。

ここで真雪は悟ってしまった。

 残念なことだが、おそらく四男の自分は大歓迎されて遥家に生まれてきたわけではないと。

 両親は真雪をふくめ兄妹の誰をも愛情深く育ててくれている。それはわかっている。わかってはいるが、名前は親から子への初めてのプレゼントだ。そこで愛の純度をはかるとすれば、大雪由来の「真雪」の名は決して熱心とはいえない。

 親はもう男の子の名付けにそれほどの意欲がなかったから天気なんてものをよりどころにしたと思わざるを得ない。

 知った当時はただむくれていただけだが、高校生にもなればその理由もなんとなくわかる。

 男が三人も生まれた後だ。両親は次こそは女の子に来てほしいと思って自分を生んだのだろう。

 しかし授かりものの性別は選べず、いざ無事に生まれた四男坊を慈しみつつも、名付けに関しては億劫になり、真雪でいいや雪降ってるし、みたいな感じでつけたのだ、きっと。

 もはやそんなに気にならないが、昔はやっつけで名付けられたとますます「まゆき」が嫌になった。

 そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、家族はのん気だった。

 夕飯のナベを囲みながら、颯太に「真雪って真鱈と似てるよな」と言われて悔し涙を飲んだことは数年経つ今も忘れられていない。

 あの頃は自己紹介が苦痛だった。実際には名前をどうこう言われたことなんてないのだが、クラス替えなどがあるたび「まさゆき」と名乗ってしまおうかとも思った。しかし今さらそうしても同級生のほとんどが「まゆき」であることを知っている以上、逆にからかわれるかもしれないし、ましてや正しく言い直すように先生に注意されたりしたらたまらない。なにより親の気持ちを考えたらさすがにそれはできず、なるべく早口でごまかすしかなかった。

 あの苦しみを陽斗や海里や颯太なんて名前の人間にわかるはずない。

だから光琉が「ひかる」でありたいなら兄として全面的に協力する。

「改名ってさ、読みを変えるのは簡単だけど漢字ごと変えるのはかなり難しいんだって」

そうがっかりする妹がいつか自分のように光琉を受け入れる、あるいは努力して改名にいたるまで。

自分には妹の他の願いは叶えてやれない。だからせめてそれくらいはしてあげたいと真雪は思っている。

「あれ?遥くん?」

体育館脇から出てきた一人の教師がこちらを見ていることに気づき、真雪は会釈した。

 強いパーマをあてた髪を後ろで結んだ女性で、ベージュの花模様のワンピースにも見覚えがある。

 5年の時の担任の石川先生だ。

 真雪が白河小を卒業してからまだ4年しか経っていない。石川先生をはじめ、顔見知りの教師はまだ何人か残っている。

 手招きされるまま真雪はそちらへ向かった。

 本当はひかるに嫌がられるのだが、声をかけられているのに無視はできない。

「ご無沙汰しています」

「しばらくぶりね。あらすごい、その制服、舞高のでしょう?おめでとう」

先生がしわの寄った手で真雪の肩をたたいた。

 受験が終わってまだ一カ月と少しだ。

 県下一の進学校と言われる舞星高校の制服は黒の詰襟とごくありふれたものである。

 ただ、襟元につける校章は目を引くもので、白い円に描かれた金の五芒星という、単純すぎて逆に特徴的なデザインは制服の黒地によく映えた。

「先生、今年担任持ってないんですか?まだ帰りの会の時間でしょう?」

「もう歳だもの。担任を持てるバイタリティがないわ」

先生が笑う。

 そういえばひかるも「6年になったら石川先生に習うと思ってたのに、残念」と言っていた気がする。ここ数年は石川先生が高学年の担任を務めるのが恒例となっていたが、ひかるの担任は今年異動してきたまだ若い男の先生になったそうだ。

「遥くんはどうしたの?」

「妹の迎えです」

「ああ~。なるほど」

 石川先生の表情が微妙に曇ったのを見て真雪は内心で肩をすくめる。

「今日は兄が無理だからって。受験の時期は勘弁してもらえたんですけど」

言い訳がましくつけたしてみたが、先生から感じる微かな非難は変わらない。

 いつまでやるの?あるいは、いい加減にしたら?か。

 そりゃそうだ、自分もひかるもこの習慣が早く終わればいいと思っている。

「すいません、ご迷惑かけて」

「やだ、迷惑なんかじゃないわ」

 頭を下げた真雪に先生が慌てて手を振る。

「いえ、やっぱり部外者がこんな風に来るの、俺もよくないと思いますし」

「何言ってるの、遥くんなら大歓迎よ。ただ、やっぱりねえ、その」

「その?」

「その、ごめんね、やっぱり悪目立ちはしちゃってるからさ」

バツが悪そうに先生が言った。

 兄の颯太も白河小の卒業生だが石川先生に習ったことはない。

 しかし十二歳になる妹のお迎えに毎日やって来る、度を越えて過保護な兄を校内で知らぬ者はいないのだろう。

「あれっていつからやってたっけ。お兄さん」

「三年前だと思います。俺が在学中は大丈夫でしたから」

大丈夫、という言葉に真雪の思いがにじみ出る。

 三年前の颯太は高校生で、真雪は中学生になったばかり。その年の春に両親が仕事の都合でそろって家を出ることになり、また同じ時期に長男が結婚して家を出たり、逆に一人暮らししていた二男は戻ってきたりで遥家は非常に慌ただしかった。

 そのドサクサに紛れて颯太はひかるの送迎を始めたのだ。

「俺が一緒に登下校しなくなって、ひかるを心配した兄が始めたんです。あ、うち上にあと二人兄がいて、みんなで止めはしたんですけど」

「みんなって光琉ちゃんも?」

「はい」

あららー、と石川先生が言う。やっぱり本人も嫌なのねえ、と。

「そもそも杞憂だと思うんですよね。うちと学校は500mも離れていないし、小学生の下校時刻ごろには近所のお年寄りが立ち話をしてたり、けっこうのんびりしたところなのに不審者が出るかもしれないって兄はきかないんです。そんなの出たことないのに」

 本当は「今までいなくてもこんなにかわいい子がいたら不審者は寄ってくる」と颯太は息まいていたのだが、さすがにそれは割愛する。

「そうねえ。あ、ほら、遥くんが小学生の時だって委員会とかで遅くなることあったでしょ。低学年と高学年じゃ時間割も違うし、ひかるちゃんとほぼ毎日別々に帰ってたんじゃない?それは別によかったの?」

「そうなんです。俺もひかるも昔はひとりとか友達同士とかで普通に帰ってたし、兄にもそう言ったんですけどダメで」

「どうして?」

「状況が違うって言われました」

「状況?」

「両親がいない今、ひかるに何かあったらどうするんだって。これまでいなくても不審者が絶対出ないなんて言いきれないだろうって」

あらまあ、と先生が肩をすくめた。

「まあ、確かにそうなんだけどねえ・・・」

「そう言われたら返す言葉がなくて結局このザマです」

真雪が自嘲した。

 今考えても理屈も屁理屈もあったものじゃないと思う。しかし昔から弟の真雪には暴力も辞さない颯太に押し切られ、真雪は迎えをやめさせるどころか、こうして兄が行けない日の代理までやる羽目になってしまった。

「上のお兄さんたちは何て?」

あの時のくやしさが顔に出ていたのか、心配そうに先生が訊く。

「長男はもう結婚して家を出てて、あ、でも近くに住んでいるので諌めてはくれたんですけど全然効果なかったです。次の兄もずっと注意してはくれてるんですけど、やっぱり、だめですね。ご承知の通り」

颯太はフリーターで主に夕方から早朝に働いているため、小学校の下校時刻ごろには暇だ。上の兄たちは今も事あるごとに颯太を諌めてはくれるが、別世帯の陽斗はもちろん、仕事のある海里も、颯太をみはり、食いとめることは実際にはできない。

 もちろん真雪にとってもひかるはかわいい妹である。しかし兄の颯太のそれは度を越えていて、自分より九歳も下で男だらけの兄弟で唯一の女の子のひかるはいくつになっても無垢でかよわい天使に見えているようなのだ。

「お迎えに来てもらう子なんて一年生でも夏休み前までしかいないよ!?」

という当時三年生のひかるの抵抗をよそに兄は毎日学校に現れた。

「もう絶対に来ないでね!やめてね!来ても私、無視するから!」

 あからさまに拒否してもだめだった。

 やがてひかるはシスコンの兄を同級生にからかわれるようになり、今となっては誰にも兄の姿を見られぬよう下校チャイムと同時にダッシュで校門をかけぬけ、それを颯太もダッシュで追いかける有り様になっている。

 幸いなことに遥家と学校を結ぶ通学路は車通りも少ない、信号をつける必要もない住宅街であり、二人はタイムを競う陸上選手のように一心不乱に走っている。それこそ自動車にぶつかったり、あるいは立ち話のお年寄りとぶつかったりの万が一の事故が起こしてしまうのではないかと他の兄弟は気を揉んでいる。

 何度注意してもひかるを迎えに行きつづける颯太に、兄の海里は頭を抱え、「逃げる小学生を追いかけるあいつこそ不審者」と評し、いっそ通報されろと言っていた。

 真雪は腕時計を見る。そろそろひかるが飛び出してくる時間だ。

「先生、すいません。俺、行かないと」

「あら、玄関まで?」

「いえ、門の外へ。なるべく目立たないようにしてないと。『無』でいないと」

「無?」

「はい、先生と話すとか、有機的なことすると妹、嫌がるんで」

真雪は校門の陰を指さした。有機的ねえ、と石川先生は肩をすくめた。

「お兄さんはともかく、遥くんは光琉ちゃんのお迎えに賛成なの?」

まさか、と真雪は首をふる。

「でも行かないとばれた時が厄介なんです」

なんでかばれちゃうんですよね、と首をかしげた真雪に先生が苦笑する。

「あと、なんというか兄が言うこともほんの少しですけど一理あると思うと、そう、無碍にでき、ない、というか」

「あいかわらず真面目なのねえ」

先生が呆れて笑った。

 バカ真面目、と本音では言いたかったのだろう。

 真雪は昔から押しに弱い。

 約束をしたら必ず守りたい性分でもあり、小学生の頃は悪友に理不尽な目にあわされもした。

 きっと先生も、真雪がまっすぐな性格ではあるが、気弱で融通をきかせづらい不器用な生徒だったことを思い出したのだろう。

 とはいえ真雪ももう高校生だ。

 世の中にはついていい嘘と悪い嘘があることくらいは知っているし、不憫な妹と二人で口裏を合わせて迎えに行かなかったこともあった。

 しかしどういうわけかそれは帰宅した颯太に即効でばれ、誤魔化そうにも真雪の嘘が下手過ぎて失敗に終わった。

 あの時のことは今も遥家の負の遺産となっている。

 迎えに行かなかったことを悟り、怒り狂った颯太は真雪を壁際に追い詰めた。

「歯ァ、くいしばれ」

颯太が拳を握る。しかし甘んじてそれを受け入れるほど真雪も馬鹿じゃない。

 身をひねって兄のパンチを避け、その結果、家の壁には大きな穴が開いた。真雪はもちろんだが、当の颯太もそんな大事になるとは思っていなかったらしく、砕けた石膏ボードを前にしばし二人で顔を見合わせた。

「まじか」

どれくらい経ったのか、やがて呆然とつぶやく颯太に

「それ俺のセリフだよ・・・」

と真雪は深い溜息をついた。

 殺す気か、いやごめんって、とやりとりをしているうちに、帰宅した暫定家長の海里に穴はあえなく見つかり、颯太はもちろん、とばっちりで真雪も怒られてしまった。

 壊れた壁は今もそのままで、そこにはとりあえず颯太が「もうしません」と大書したカレンダーの裏紙が貼られている。

 修繕は颯太のバイト代を充てることになっており、いつになるかはわからないが両親が赴任先から戻る前には直せたらいいな、と真雪は思っている。

 この件で唯一幸いなのは、ひかるはこの騒動を知らないということだ。

 ちょうどお隣の三森家で聡子にピアノを教えてもらっていて不在にしていた。

 三森家の広い敷地とみごとな防音室は遥家の騒ぎをしっかり遮り、颯太が寝ぼけて椅子を投げたという嘘を妹はすんなり信じた。

「つまりお前ならそういう失敗もやりかねないって思われてるってことね」

という海里の嫌みをよそに颯太は胸をなでおろしていた。

 自分のことは平気で殴るのに妹の前ではあくまで優しくて頼れるお兄ちゃんでいたいらしい兄の身勝手さに真雪はふたたび深い溜息をついた。

 とはいえ真雪もまた、自分のお迎えが原因で兄たちがケンカしたことがひかるに知られなくてよかったと思ってはいる。

 思ってはいるのだが、この騒動以来、ごまかすチャンスがあっても律儀に迎えに来る自分のことをひかるが意気地なしだと思っているだろうことと、自分に任せておきながらも本当に迎えに行ったかどうか常に疑いの目を向けてくる兄、颯太のねちっこい詮索に辟易してもいる。

 下校のチャイムが鳴った。石川先生に別れをつげた真雪は正門に植えられた大きな桜の陰に身を寄せる。

 花はつい先日散ったばかりだ。真雪はほっとする。誰にも言ったことはないが桜の木はともかく、花はあまり好きじゃない。

 新緑のかすかな芽吹きに目を細めた真雪の耳に、妹が三和土に靴を投げ落とす鋭い音が聞こえた。





「優菜、おはよ」

「おはよう、愛梨」

舞星高校に入学して早1週間、徐々にこの教室にも慣れてきた。

 県内トップ校の舞高には優菜の中学からはあと三人しか来れなかった。

 しかも三人とも一度も話したことのない子だ。知り合いがいない心細さに優菜は不安だったのだが、塾で仲の良かった橋本愛梨が同じクラスであり、新しく出会った友達もみんな親しく話しかけてくれてあっという間に仲良くなれた。

「舞星って真面目な人ばっかりいるのかと思ってたけど、意外にみんなフランクだよね。受験が終わった開放感かな」

まだ入学したての頃、想像以上に和気あいあいとしたクラスの雰囲気を評して優菜がそう言うと

「それだけじゃないかもよ」

と愛梨は返してきた。

「結局さ、受験って自分と似た人が集まるんだよ。似たような考え方をしてるから同じ学校を受けるんだし、その中でふるいに掛けられて良くも悪くもレベルがそろうってこと。だから仲良くなりやすいんじゃない?」

 なるほど、と優菜は思った。だからきっと舞高でできた友達に自分を「かにちゃん」と呼ぶ奴はいないんだ、と。

 優菜の名字は可児という。「かに」という特徴的な響きを「ゆうな」という名前ではフォローしきれず、小学生になった時からおのずとあだ名は「かにちゃん」になった。

「ねえねえ、お前の名字のかにってあのカニ?」

今でも覚えている。調子に乗ったひとりの子がチョキチョキと馬鹿にした身振りをするとみんなが笑ったのだ。優菜はショックだった。笑うということはみんな同じ気持ちだったということだ。それまでみんなはゆうなちゃんと呼んでくれていたのに。優菜はかにちゃんが苦痛だった。

 その頃からすでに優菜は背が高く、手足も長かった。

 修学旅行の水族館でタカアシガニを見た時は「かに、友達が水槽いるじゃん」と笑われた。

「カニって言うな!」と怒っても、「カニユウナだって~。なにいきなり自己紹介してんだよ」と逆にからかわれた。

 それでもまだ自分はましだと思えたのは兄のおかげだ。

 優菜には「充弘」という兄がいる。一見普通の名前だがカタカナにすると兄は突然カニの呪いにかかってしまう。

 家で泣く優菜を兄は「俺なんかカニミソだぜ。ミツヒロのミツがミソに見えるからって」と自虐で慰めてくれた。

 中学生になると優菜の長身はさらに目立つようになり、いよいよ優菜という名前を誰も呼ばなくなった。自分のキャラクターではいかにもかわいらしい「優菜」という名前は似合わないのだと優菜は思い知らされた。

 請われて入部したバレーボール部のために髪は短く切り、いつもジャージでいたため男の子とよく間違えられた。長い手足を動かしてアタックを決めれば女子たちの黄色い歓声が上がる。並の男子より全然モテるようにもなっていた。

 その頃通っていた塾にもかにちゃんと呼んでくる人はいたけれど、愛梨は違った。

 さらさらの髪を肩の上で揺らして、

「可児優菜っていうんだ。何て呼べばいい?」

と聞いてくれた。

 愛梨が優菜と呼んでくれたおかげで選抜クラスの友達はみんな優菜と呼んでくれたし、舞高の友達もそうしてくれている。

 普段は神様のことなんてまったく意識したことはないけれど、舞高に受かって、しかも愛梨と一緒のクラスになれたことに関しては優菜は深く神に感謝している。

 鞄から教科書を出していると、ほかの友達との話をきりあげた愛梨が優菜のもとへやってきた。

「愛梨さすが。友達多いね」

「うちの中学から舞星に入った人、結構いるしね」

愛梨はそう言うが、それだけじゃない。明るくて、大きな瞳がかわいい愛梨は既にクラスの人気者だ。

「古文の宿題、難しくなかった?」

がたがたと椅子をひいて愛梨が優菜の前に座る。本当は他人の席だが愛梨は気にしない。

「うん。ていうか文末の『ならむ』が否定じゃないのってやっぱり変じゃない?」

「『ならぬ』とか『ならん』の仲間だと思うよね普通」

優菜の指摘に愛梨が笑う。

 晴れて入学を迎えた県立舞星高校は県下一の進学校だ。優菜も愛梨も中学ではいわゆる優等生といわれていた。しかし愛梨はいざ知らず、優菜は自らを頭が良いと思ったことはない。

 確かに成績が良い方ではあった。しかしそれは同じ地域に住んでいるというだけで習熟度もやる気もばらばらの有象無象の生徒が集められた公立中学にいたからの話だ。

 優菜はバレー部の活動に精を出す一方、塾にも真面目に通い、家でも自主勉強を怠らず、コツコツ努力を重ねたおかげでやっと舞高に受かることができたのだと自覚している。

 合格者の順位は発表されないが、優菜は中学では大体学年で5位前後にいた。

 同じ県内でそれなりの志を持った子の多くが舞星高校を目指す。

 まれにいるずばぬけて賢い子は東京や他の大都市にある有名私立高校に照準を合わせたりもするし、「東の舞高、西の美加高」と呼ばれ県内では舞星と雌雄を決する隣の美加崎市の美加崎高校を目指す子もいるし、一概には言えないが、県内に中学校が約500校あるとして、そのうち学年5位以内の子なんて2500人もいる。半分が美加崎やその他に行ったとしても1250人。舞星高校の定員は320人。自分にはかなり狭き門だったはずだ。

 合格発表で自分の番号を見つけた時は本当にうれしかった。

 隣にいた愛梨と抱き合って喜んだし、その後の入学手続きだって滞りなく済ませた。ママもすごく喜んでくれてその日のごはんは優菜の好きなすきやきだった。

 発表から入学までは一カ月足らず、仕事がお休みの日にママが愛梨も一緒に制服の採寸に連れて行ってくれた。

 舞星は通学カバンや靴、靴下の指定がなく、ついでに寄ったショッピングモールで二人でおそろいの物をいくつか買ったりもした。

 発表の翌日には舞高の校章が印刷された封筒で、薄い問題集や論文といった入学式後にすぐ提出する課題の束も届き、優菜は苦労してそれに取り組んだ。

 晴れて入学した今、勉強は厳しいが、こうして毎日愛梨と同じ教室で他愛ない話ができることが優菜はたまらなく楽しい。

「ところで優菜、彼氏できた?」

 愛梨の言葉に優菜は肩をすくめる。

「あんた毎日それ聞くね。できてないよ。昨日の今日でできるわけないじゃん」

「できるかもしれないじゃん。もう高校生だし」

「たしかに愛梨ならできるかもしれないけど」

「何それ。優菜は超スタイルいいじゃん。モデル体型」

 冗談半分本気半分でお互いにそっちの方がかわいいよ、と褒め合ういつものやりとり。

 二人は顔を見合わせてにやにやする。

「じゃあかっこいいって思う人は?」

「あーどうだろ。あたし自分より小さいのはパス」

「優菜、背いくつだっけ?」

「177cm」

「わーお」

 からかう愛梨に優菜はむくれる。

「もーやだ。こないだ身体測定やったじゃん?また伸びてた」

「もうバレーはやんないの?」

「誘われてるけどね。部活なんてしたら絶対勉強ついていけなくなる」

「あ、遥くん。おはよう」

唐突に話をやめて愛梨が大きく手を振る。

 優菜が愛梨の視線をたどると、教室の入り口に遥真雪がいた。真雪は屈託なくおはようと答えるとさっさと自分の席にむかう。優菜と愛梨はなんとなくその背を見送る。

「遥くんは?背も高いし」

愛梨がいたずらっぽく声をひそめる。

「私、橋本と遥で席近いじゃん?ちょっとボンヤリしてるけど案外きれいな顔してるよ。しかも頭いい」

「顔はともかく頭は何でわかるの」

優菜は大げさに呆れてみせる。

 舞高にいる以上ある程度ではあるはずだが、愛梨が言っているのは遥はその中でもトップクラスであるということらしい。

「入学してすぐの実力テストの結果、総合4位だったの見た」

「見るなよ、人の」

「見えたんだもん」

おどけながら愛梨は言う。

「遥くん無防備でさ、普通に広げてるからちょっと横むいたら見えちゃった。そういうとこもかわいくてよくない?」

「はいはい」

反応つめたーい、と肘で小突いてくる愛梨に優菜はファイティングポーズをとって応えた。そのまま二人はきゃあきゃあじゃれあう。

 予鈴が鳴った。じゃあね、とはしゃいだまま愛梨は席へ戻っていく。

 その背を見送りながら、優菜はそういう愛梨こそかわいいと思う。

 にこにこして彼氏がどうとか、誰それがかっこいいなんて優菜は言ったことがない。

 きっと愛梨はそれを誰かに笑われたり馬鹿にされたりしたことがないのだ。カニで大女の自分と違って。

 正直なところ優菜は合格発表から今日までどこか信じられない気分でいる。

 憧れの舞高で、みんなから優菜と呼ばれて、愛梨とごく普通の女の子みたいに話をする毎日なんて夢でもおかしくない。

 受験前の不安が消えていないのだ。

 努力はしたけれど自分が舞星高校に見合う力を持っていると言いきる自信がない。

 愛梨とおそろいの通学用リュックを選んでいる時も、本当に自分があの舞高に受かったのか、入学式に行ったら実は合格は何かの手違いで不合格とわかって追い返されてしまうのではないか、と心のどこかで思っていた。

 入学前に出された課題が予想をはるかに越えて難しかったことも不安に拍車をかけた。

 もはや何が書いてあって何を問われているのかすらわからなかったと言っていい。中学の頃にはありえなかったことだ。あんなに勉強を頑張ったのにこんなにわからないなんて。

「難しすぎない?」

そう、愛梨に連絡して愚痴りあおうかと思ったが怖くてやめた。もしかしたら舞高に行く他のみんなはこれくらい普通に解けるのかもしれないのだ。

 学校と違って塾では成績がシビアに出る。優菜と愛梨は同じ特別選抜のクラスにいたとはいえ模試ではいつも愛梨の方が点数が高かった。生来マメで他のことでは頻繁に連絡を寄こす愛梨が課題については何も言ってこないのはこれくらいの問題は難なくこなせたからかもしれない。

 孤軍奮闘の末、たぶんこんな感じ?と不安まじりの回答を書き込むしかない自分が情けなく、入学後を思うと暗澹たる気持ちになった。

 だから入学式の日は異常に早く登校してしまった。

 早く来ても事態は何も変わらないのだが、バレー部の遠征で身に付けた処世術だ。経験上、少しでも早くその場に慣れた方が何事もリラックスして臨める。

 学校についた時刻は朝9時30分。入学式は10時30からである。

 さすがにまだ誰もいないし校門さえ開いていなかった。

 一時間も前に行きたいという優菜にはさすがのママも呆れて付き合ってくれなかった。

 優菜は途方に暮れた。

 時間どおりに行こうというママに半ばキレながら出てきてしまった手前帰るわけにはいかないし、学校周辺の暇潰しができそうなお店もまだやっていない。

 仕方なく舞高に続く桜並木を行ったり来たりした。

 四月の桜は満開で、白とピンクの境が曖昧な花はひとつひとつの輪郭を失っているみたいだ。

 優菜は少し怖くなる。

 こんなにきれいなのに、どうしてこの花はこんなに静かなのだろう。

 さっきから人も車も通らない。桜と自分だけが閉じ込められた箱庭にいるみたいだ。 

 言いようのない不安に、優菜は買ってもらったばかりの鞄から提出課題を取り出してみる。

 これはお守りだ。散々な答案しか書けなかったけど勉強は自分に自信を与えてくれる。

 苦しくても、たとえ望んだ結果が得られなくても努力の後には絶対に何かが残ることを優菜は知っている。

 だというのに、舞高の星の校章が印刷されたこの封筒は、この数日必死に取り組んだ課題たちは、まるで優菜を勇気づけてくれなかった。

 突然の強い風が優菜の手から課題の紙束を奪っていった。桜の枝も大きくなぶられ、花びらがけむりのようにあえなく散っていく。

「もう、勘弁してよ」

優菜はつい大きなひとりごとを叫んだ。

 びっくりして口を押える。焦りと心細さが誰もいない気安さと混じって、無意識に言葉がこぼれでてしまった。

 慌てて地面に散らばった課題をかき集める。急がねばプリントのうすい紙は風でどこまでもいってしまう。最後の一枚をひろい、まとめて封筒ごとクリアファイルに入れる。

 なにしてんだろうな、そう思った瞬間、急に足から力が抜けた。

 ほんとなにしてんだろう。こんな時間に、一人で、お粗末な課題を抱えて。

 その場にすわりこんだ優菜は不意に泣きたくなる。わけのわからない感傷に襲われるまま、泣いてもいいやと思うが実際には泣けない。さすがにこんなどうでもいいことで涙がでるようなたちじゃない。

 ばかじゃん、思わずまたひとりごとが漏れた。ばかだな、ばかだ。

 はらはらと舞う桜に背中をおされて今度こそ泣いてしまえるんじゃないかと目をこする。

 そんなときだ。あのきれいな指が目の前に現れたのは。

 誰もいないと思っていたのに。優菜の顔が赤くなる。さっきのひとりごとを聞かれはしなかっただろうか。

 思わず見上げた顔はこのきれいな指の持ち主にふさわしく整っていた。

 自分の着ているリボンすらない紺一色のブレザーも相当だけど、男子が着る昔ながらの黒い詰襟なんて救いがたくダサいと思っていた。

 舞高は制服はぱっとしないものの、校則は厳しくない。ベストを変えたり、スカート丈を変えたり、高校生活に慣れたらいろいろするのが女子のお約束だ。しかしいくら校則がゆるくても詰襟じゃ工夫のしようもないし、男子はかわいそうだと思っていたのに。

 桜並木で出会った真新しい詰襟姿の彼はかっこよかった。

 清潔感があって、すっと通った鼻筋が男らしくて、少し気弱そうだけど真面目そうで、おもちゃみたいなデザインの校章さえ素敵にみえた。

「大丈夫?」

初対面の優菜に自然に微笑みかけてくる。

 できすぎだ。彼から瞳をそらして優菜は無言で立ち上がり、急いでその場から逃げる。

 突然の風にあおられて飛んだ課題用紙。

 涙も出ない泣き顔をこれから同じ学校に通う男子に見られてしまった。

 誰もいないはずの時間に、満開の桜吹雪の中で。

 しばらくして優菜がふり返ると彼はどこかへ行ってしまっていた。はやる鼓動は無様にしぼみ、追いかける勇気はなかった。

 だから、同じクラスに遥真雪を見つけて以来、優菜はずっと動揺している。

 入学から2週間が経つが、まだ遥と話したことはない。

 舞高の生徒で自分みたいなでかい女は他にいないから遥もきっとあれが優菜だとわかっているとは思うのに、向こうからも話しかけてこない。

 今さらだけどあの時はありがとうと言ってみようか。

 そう思うこともあるが、実行はできていない。きっと今後もできない。

 もしあの時あの手を掴んでいたらどうなっていたんだろう。

 今頃ふつうにおはようって言ったり、こっそり愛梨と「かっこいいよね」とささやきあったりしていたんだろうか。後の祭りをいつまでも後悔するばかりだ。

 ほんとなにしてんだろう自分。

 本鈴が鳴って先生が入ってくる。教室に日直の号令が響く。

 朝のホームルームが終われば今日も授業が始まる。舞高の授業はどれをとっても、ただ聞いていれば付いていけるようなやさしいものじゃなかった。

 頑張らなきゃ。

 霧のような物思いを打ち消して優菜は立ち上がった。





 4月の終わり、すっかり葉桜になった母校の正門の木の下で真雪は腕時計を眺めている。

 下校のチャイムが鳴るまであと一分足らず。見上げた葉っぱに毛虫がいるのを見つけて、真雪はそっと木から離れる。見やった校庭では一足早く放課後を迎えた低学年の子供たちの元気に遊ぶ姿が見える。

 ひかるのお迎えは今月二度目だ。颯兄は今日も出かける用事があると言っていた。それはいいのだが、受験が終わったせいでこれからなし崩しに自分に迎えに行かせる頻度があがったらどうしようとは思う。

 もしこれがひかるが中学生になっても続いたら。ひかるも自分も望んでいないのに、こんなことをし続けるのは嫌だ。とはいえ陽兄も海兄も説得できなかったあのシスコン颯兄を自分が止められるとも思えない。

 うすい物思いを払うように、真雪の耳に高学年の下校を知らせるチャイムが響く。引き続き、遠くから聞こえるだろう音を待って真雪は耳をすませた。六年生の教室は三階だ。そこから走りっぱなしで来たのだろう勢い込んだ足音がして、玄関から人影がすばやく現れる。

 目立たず、でも自分が迎えに来ていることは妹にわかるように、毛虫がいないかも気にしながら木から顔をのぞかせた真雪は慌てて身を隠す。

 玄関を出て唐突に止まった足音の主はひかるではなかった。

 まだ4月だというのに青い半そでシャツを着た男子だ。急いで降りてきただろうに今はどこへ行くでもなく玄関前をうろうろしている。濃い緑のランドセルはきちんとしまっていないのか、彼が動くたびかすかに蓋がずれる。

 間髪いれず、また大きな足音が聞こえて今度はひかるが姿を現す。

「俺の勝ちー!」

「早いね、五十嵐」

ガッツポーズをする青シャツ男子に目もくれず、ひかるは走り出す。

「おい待てよ、遥!」

「なに?急いでるんだけど」

走る勢いを保ちたいのか、ひかるが足踏みしたまま答える。

「なにじゃねえよ、俺の勝ち。今日は俺が一番乗り。ざまあみろ」

得意げな青シャツ男子、五十嵐は慌ててひかるの前に立ちはだかった。両手を腰にあてて、勝気そうな目を大きく見開く。ひかるは困ったように眉をしかめた。

「知らないよ、そんなの。どいて」

「待てって」

しびれをきらしたひかるが五十嵐の横をすり抜けて走り出す。

 五十嵐もまた走りだした。

 死角にいた真雪に一瞥だけくれて、ひかるは兄の存在をまるごと無視する。

 五十嵐はといえば、ひかるの方ばかり見ているせいで真雪には気づかず、そのまま二人は通学路を猛ダッシュで行ってしまう。やれやれ。真雪もそっと後に続く。

「ついてこないでよ」

「俺んちもこっちなんですぅ」

ひかると五十嵐は走りながら叫びあっている。

 近くに五十嵐さんなんて家はあったっけ。真雪は思う。

 あんな子、この辺りでは見たことがない。近所でひかると同い年なら、自分も同じ登校班で通ったはずだ。

 二人の話を盗み聞きしながら真雪は考える。

 覚えがない。ひかるも家は知らないみたいだし、おそらくあの子の家はきっとうちを通り過ぎた先にあるのだろう。うちは白河町だが、隣の後白河町も白河小の学区だ。

 それにしても、と真雪は思う。あの五十嵐という男子、さっきからザ・憎たらしい小学生といった喋り方をする。よく跳ねる抑揚と無駄にのびる語尾と唐突に混じる下品な冗談。世界が自分のためにあると思っている者たちの明るく浅い単純さ。

 ほんの数年前は多かれ少なかれ、自分もあんな感じだったのかもしれないと思うと、真雪はつい赤面した。

「お前なんでいつもあんな早く教室出るの」

五十嵐のしつこい追跡に早々に逃亡を諦めたひかるは今や彼と二人、肩を並べて歩いている。真雪もまた二人の声が聞こえるギリギリ後ろを歩く。

「べつにいつ出てもいいでしょ」

「よくねえよ。むかつくんだけど、俺の足で勝てないとか」

確かに五十嵐は足が速かった。

 そういえば毎年、持久走大会後に配られる表彰者が載ったプリントに、五十嵐という名前を見たことがあったかもしれない。ひかるも一番とは言わないが十番以内になった時に載ったことがあり、颯太がその時のプリントを大事にファイリングしている。

 学校から家までの道は信号のひとつもない。車もあまり通らない静かな住宅街であり、次の角を曲がればもう遥家は見えてくる。

 真雪は少し二人と距離をとる。一軒目が杉崎さん、その隣が相田さん、渡井さん、そしてうちの倍はありそうに広い三森さん、つまり聡子の家の隣が我が家だ。

「五十嵐、もしかしてきょう最後の礼する前に出ていった?」

「もちろん。確実にお前に勝つには礼待ってらんないじゃん」

馬鹿にしたように言う五十嵐にひかるは呆れる。

「何それ。あんたのことだったんだ、あれ。先生怒ってたよ、明日とっちめなきゃならない奴がいるって」

「とっちめるって何?」

「明日あらためて怒るってことじゃない?罰で宿題ふやされたりするかも」

「うわ、うぜえ」

おおげさにのけぞる五十嵐を無視して、ひかるが家の門扉を押した。真雪はお隣の三森家の前にある電柱にそっと身を隠す。

「じゃあね、うちここだから」

ばいばい、と手をふると、振り返ることなくひかるは玄関ドアの中へ消えた。自分に見られているから恥ずかしいのだろうか。手を振り返すひまも与えてもらえず、さみしそうな五十嵐に真雪は少し申し訳なくなる。

 ひかるがいなくなってもしばらく玄関の方を見ていた五十嵐だが、やがてのろのろと動きだした。

 真雪は驚く。てっきりうちを通り過ぎて後白河町の方へと向かうと思っていた五十嵐が学校の方向、つまり自分のいる方へ戻ってきている。

 まずい。任務完了とばかりに油断していた真雪は既に三森家の電柱から離れていた。

 五十嵐は五十嵐で突然ふらりと目の前に現れた真雪を見とがめ、不審げにこちらを見ている。

「あ、えっと、どうも」

焦った真雪は、つい声を出してしまった。

 背中を冷や汗がつたう。

 いよいよまずい。無理はあるが、なにげない感じに無視して通り過ぎれば良かったのに。クラスメイト、それもただのクラスメイトではなく、終礼を無視してまで自分に絡んでくる面倒臭い奴に話しかけたなんてわかったらひかるは怒るだろう。

 どうしようと思った瞬間、真雪は事態が自分が思っているよりさらにまずい状況であることに気づく。五十嵐はランドセルにくくりつけてある防犯ブザーの紐をにぎっていた。

「何?」

五十嵐が睨みつけてくる。防犯ブザーの栓を今にも引き抜きそうに強くひっぱっている。すぐ逃げられるようにか、あるいは逆に威嚇なのか、片足は大きく後ろに引いていた。

 真雪は頭を抱えた。

 こんなに普通の高校生である自分にそんなに警戒しなくてもいいじゃん五十嵐!と。

 それとも彼から見たら自分は十分不審者なのだろうか。

 いやでも、と真雪は思う。

 もし五十嵐の立場にひかるがなったら、つまり見ず知らずの高校生が突然至近距離にいたとしたら、まじめそうな高校生なんだし大丈夫だよ、防犯ブザーなんて大げさじゃん?とは絶対言わない。むしろ賢明だとほめるだろう。間違っていたら謝ればいいんだし、身の危険には変えられない。そうだ、五十嵐は悪くない。

 とはいえ今の真雪はそんなことを考えている場合ではなかった。今いちばん危険にさらされているのは五十嵐ではなく自分だ。

 このまま防犯ブザーを鳴らされたら、次兄・海里がいう「あいつがいちばん不審者」の暫定不審者・颯太を越え、自分がリアル不審者になってしまう。

 ブザーを聞いた誰かしらの通報で自分は警察に行く羽目になるのだろうか。よりによって聡子の家の前で。

 とにかく誤解を解かないと。真雪はむりやり笑顔をつくってみせた。ボーっとしていていかにも人畜無害そうと言われる真雪の笑顔だが、それでも五十嵐の警戒は変わらない。

 もう泣きそうだ。こういう時、とっさにうまい言い訳が思いつかない自分の不器用さを真雪は呪う。

「あの、さっき妹と、あの俺、そこ俺んちなんだけど、遥って。その、いつも妹がお世話になって」

結局、五十嵐に睨まれてへどもどしながらこんなことを言うのが精いっぱいだった。

 もうダメだ。自分でわかる。気色悪い上になんにもごまかせていない。

 きっと五十嵐は、お得意のちょうど嫌な小学生のやり方で自分のことをせせら笑ってくるのだろう。心の中で真雪は泣いた。

 ごめん、ひかる。明日このせいで五十嵐にからかわれたら俺を殴ってくれていい。

 海兄、仕事大丈夫かな、もし通報されてこのまま連れてかれたら警察まで迎えに来てくれるかな。

 颯兄、俺、わかんないよ。なんで颯兄じゃなくて俺がこんな目に合うの?

 覚悟を決めたり揺らいだりの逡巡を繰り返し、しかし予想に反して、うなだれた真雪に五十嵐は嘲りの声を上げたりしなかった。

「え?遥の、お兄さん?」

「あ、ハイ」

おそるおそる顔をあげると五十嵐が腑抜けた目でこちらを見ている。

しかしすぐにまっすぐに眉をひきしめると、背筋を伸ばし、足のかかとをぴったり揃えて胸を張った。

「初めまして、遥さんと同じクラスの五十嵐陸です。今日は光琉さんと一緒に帰らせていただきありがとうございます」

「あ、はい、え?」

さっきまでのちょうど嫌な感じの喋り方はどこへやら、声は上ずってはいるものの、お手本のようにハキハキした挨拶をしてくる。

「えーと?」

「これからも!よろしくお願いします!」

五十嵐ががばりと頭を下げた。その瞬間、緑のランドセルから勢いよく中身が滑り落ちてくる。

「うわ!?」

「うわああー・・・」

そういえばこの子、ランドセル開いていたんだっけ。

 あわてる五十嵐を横目に真雪は反射的に転がったノートを拾ってやる。

 すみません、と言いながら五十嵐もしゃがみこみ、二人で道にばらまかれた文房具や教科書を拾い集める。

 四月の通学路、春の終わりとはいえ夕方になるとまだ少し肌寒い。だというのに青シャツからつきでた五十嵐のまっすぐな腕はかすかに汗ばんでいる。

 真雪もまた突然のことに緊張して腹が熱い。

 ペンケースから飛び出したお気に入りの鉛筆が見つからないとかで、なかなか作業は終わらず、五十嵐はずっと小さな声ですみません、すみませんとつぶやいていた。





「雪兄、おかえり」

 遅れて帰宅した真雪を、ひかるがわざわざ玄関まで出迎えにきた。

 手には食べかけの煎餅。宿題を終えて一休みしていたところなのだろう。おやつは宿題の後、というのが遥家のルールだ。

 ただいま、と答えながら、自分もいそいで課題をやらなければと真雪は思う。舞星高校は宿題も多ければ予習復習も欠かせず、日々の授業だけでもすべきことが多い。

「遅かったね、私が着いてからもう1時間だよ」

「そんなに経った?ちょっと聡子んち寄ってたから」

「えーいいな、私も行きたかった」

 残念そうにひかるが言う。

 三森家の一人娘である聡子は真雪と同じ歳で、幼なじみの真雪はもちろん、三歳下のひかるとも仲がいい。

 手洗いうがいを済ませて二階の自室にむかう真雪の後をひかるはついてくる。

 珍しいことだ。そういえばいつもなら出迎えもしない。リビングで宿題をしながら適当に声をかけてくるだけだ。

 ひかるは部屋の中にまでついてきた。だというのに何をするでもなくぼんやり立っている。いつにない妹を不思議に思いながら、真雪は着替えはじめる。部屋着のTシャツを額までかぶり、そのまま袖から腕をだそうとするがなかなか穴が見つからない。視界を失って無造作にしなる兄の腕を避けて、ひかるはベッドの上にあがる。

「こら、ひとのベッドの上で煎餅食べない」

「あ、ごめんね」

 真雪がやっと顔をだしたとき、ひかるはベッドにあぐらで座り、煎餅を食べていた。

 玄関で見た時はひかるの顔の半分くらいだった煎餅が今は五分の一くらいになっており、細かな煎餅カスが布団に遠慮なく落ちている。

 ああ、もう。

 真雪は眉をひそめた。兄の視線に気づいたのか、ひかるはひかるなりの気づかいで残りの煎餅ぜんぶを慌てて口に放り込み、汚れた手をその場でぱんぱん払う。

 妹に悪気はない。ましてや真雪が人を怒れないことも始末に悪い。結局、真雪は煎餅カスを指さして

「後でコロコロしといて」

 とだけ言いおき、そのまま洗濯物を下へもっていく。

 口をもぐもぐさせながらそこにもひかるはついてきた。そしてまたもや何をするでもなく靴下とシャツを洗濯かごに入れる真雪を見ている。

 おとずれる沈黙。背中にささる妹の視線に真雪は居心地が悪い。

 気になる。ここまで来るということは絶対になにか用があるとは思うのだが、自分から話しかけるとさっき聡子に相談した件で、不要なことを妹に言ってしまいそうで怖い。というかひかるが用があるのだから妹の出方を待つべきだとも思う。ついでにいうと、用がないならこんなところにいないでさっさと煎餅カスを片付けてはくれないのだろうか。

「・・・何?」

 耐えかねて真雪が聞いても、ひかるは何も答えない。

 口の煎餅がなくなっていないのだ。ちょっと待っててというアピールのために片手を真雪の前に突きだし、しばらくもぐもぐした後、食べ終わったアピールなのか口をんぱっと開けた。

「うん、雪兄、あのさ、今日のことなんだけど無視してごめん」

 少し照れたように、一気にひかるが言う。

「ああ、それか。なんだ」

「なんだって何」

「怖かったんだよ。ずっと後ついてくるから」

「だってすぐ謝りたかったんだもん。こういうのって後になればなるほど言いにくくなるじゃん」

 憮然とするひかるに真雪はうなずく。

「大丈夫。別に気にしてない」

「さすがに見もしないのは悪いとは思ったんだよ?でもクラスの子もいたから」

「いたね。俺んちもこっちなんですうって」

「うん、全然しらなかったけど」

 謝れてすっきりしたのかひかるが笑う。真雪もまた妹の素直さに応えるべく笑ってみせる。

 そうしながら、頭ではさっきまで聡子と五十嵐と話していたことをどうひかるにきりだそうかを考えた。

 ひかるの言う通りだ、後になればなるほど言いにくくなる。しかしこれはひかるにとっていい話でもあるはずだ。

 話は30分前、道に散らばった五十嵐の筆記具を集めたときにさかのぼる。

「これじゃない?五十嵐くん」

あと一本足りない気がします、と五十嵐に言われるまま探し続け、やっと見つけたえんぴつを渡して真雪は聞く。もうあらかた拾い終えた後に、残りを探すのは真雪にまかせて五十嵐は拾ったものの確認をしていた。

 五十嵐は真雪から受け取ったえんぴつを握ったまま

「あ、はい、これです。全部ありました・・・」

とうわの空で答える。

 せっかく見つかったというのに五十嵐は元気がない。見ると手に持ったプラスチック製のペンケースのフタが本体から頼りなさげにぶらさがっている。

「ああ、落ちた時にフタのツマミが壊れちゃったか」

真雪の言葉に、五十嵐は答えない。というより答えられないようだ。

 泣いてこそいないが思いつめた表情で壊れた一点を見つめている。ペンケースが壊れてしまったことにかなりショックをうけているようだ。

「・・・怒られる」

「ツマミがついたまま割れてるから接着剤でつけてみたら?上手くいけば直るかもよ」

元気づけようと明るく言うが五十嵐は答えない。

「買ってもらったばっかなんです、すごい頼んで。・・・もう壊したってわかったら二度と買ってもらえない」

「じゃあ、うちで直してく?接着剤あるけど」

五十嵐のあまりの落ち込みように思わず真雪は言う。

「え!?」

五十嵐の顔が輝いた、が、すぐに曇った。

「あ、でもいいです。やっぱり・・・」

「やっぱり、そうだよね・・・」

言ってはみたもののこの状況をひかるにどう説明すれば、五十嵐のプライドを守ったまま彼をうちに招きいれられるのか真雪もわからなかった。

 案の定、五十嵐もひかるの前で見せる自分と今の自分のギャップを知られたくないようで再び押し黙ってしまう。二人の間にしばしの沈黙が訪れた。

 五十嵐の細い腕に小さな鳥肌がたっている。風に夜の気配が混ざり始め、真雪は何もしてやれない自分に文字通り途方に暮れてしまう。帰ろうとも、行こうとも、どちらの言葉を投げかけたとしても五十嵐の救けにはならない。

「ゆきちゃん」

うなだれる真雪の耳に明るい声がした。

「聡子?」

顔をあげると三森家の門扉からこちらを覗いた聡子が白い手を振っている。真雪も思わず手を振りかえす。

「どうしたの?そんなところで」

「ああ、ちょっと」

「ちょっと?」

ふふ、と聡子が微笑んだ。胸まである髪がさらりと揺れて、シャンプーのものなのか、花束のようないい匂いがする。

「窓からゆきちゃんの姿が見えたから来てみたの。ちょっと、何してたの?」

「ちょっと、いろいろあって、その」

バツの悪そうな五十嵐を見やって真雪は言葉を濁す。

「この子ひかるの友達なんだ。突然で悪いんだけど、聡子、家に接着剤ある?」

「うん、あると思うけど」

「あ、ほんと?借りていい?」

こうして真雪と五十嵐は三森家に上がり込み、広く豪奢なリビングの、バラ模様が縫いこまれたソファに座り、ガラステーブルに敷いた古紙の上で無事、プラスチックのペンケースを直すことができた。

 接着剤が乾くまで五十嵐と真雪は無言で、聡子の母が出してくれた紅茶をすする。

「五十嵐くん、遠慮せずにお菓子もどうぞ」

居づらそうな五十嵐に聡子が微笑む。この空間にしっくりなじんでいる聡子に微笑まれて五十嵐はますます舞い上がってしまう。

 粗い砂糖がまぶされたバターの味がするクッキーを食べながら真雪は五十嵐の気持ちをありありと察した。

 落ち着け五十嵐、気持ちはわかるが大丈夫だ、肩の力を抜け。

 幼いころからここに来なれている自分はもうマヒしているが、自分だって三森家みたいな家に初めて来たらどう振る舞っていいかよくわからなくなるに違いない。

 聡子の家は、家というよりお屋敷といった方がふさわしい大きな洋館だ。

 3メートルはありそうなアイアン柵の門扉をくぐり、定期的に庭師に頼んでいるという綺麗に刈り込まれた緑と花のアプローチをぬけると観音開きの玄関にたどりつく。

 玄関扉は色も形もビターの板チョコに似ていて、そこを開けば吹き抜けと大きな階段がまず目に飛び込んでくる。玄関は6畳の真雪の部屋よりよほど広く、そこ自体が簡易な応接スペースになっている。絨毯張りの床と、チューリップを逆さにしたような古い電灯の空間には二人用の猫足ソファとテーブルが置かれている。入って正面に見える階段は大人三人が横に並んで歩けるほどの幅で、中ほどには大きな花瓶に活けられた花があり、そのまた後ろには大きな額に入った油絵の抽象画が飾られている。

 階段はその絵を真ん中に二手に分かれていて、片方は家人の個室、反対側はゲストルームに続いている。一階にはリビング、ダイニング、キッチンの他に、玄関のとはまた違うかしこまった応接室とお手伝いさんのための休憩室があり、トイレは四か所、浴室も二か所ある。五十嵐の家がどんなものかはわからないが、おそらくこの様子では真雪と同じ、一般的な家族向けの家になじみがあるのだろう。真雪だって小さい頃、聡子の家でかくれんぼをすると隠れる場所がありすぎて逆に困ってしまった。ちなみにひかるがピアノをいじらせてもらっている防音室は2階のゲストルーム側にある。

 聡子は帰宅したばかりのようでまだ襟にスカイブルーのリボンを結んだ焦げ茶のセーラー服を着ていた。

「あれ、聖羽良の制服ですよね」

五十嵐が真雪にささやく。

「そうだけど」

「やっぱり。聖羽良ってお嬢さましか行けないって本当なんだ」

「そうなの?」

高校生なのにそんなことも知らないのか、と呆れた様子で五十嵐は真雪に耳打ちする。

「うち従姉が高校2年で、受験のとき併願で聖羽良受けたけど本当に行くことになったら学費どうしようっておばさん言ってました。結局、公立の南高校に受かったからセーフでしたけど」

「ああ、私立だから公立よりはお金かかるだろうけど、でも学費免除の特待もあるって聞いたよ?」

そう言いつつも、聖羽良のことはわからないが確かに聡子はお嬢さまだ、と真雪は思う。

聖羽良学園は幼稚園から大学までを兼ね備えた一貫校で、舞星市有数の歴史と伝統を誇る学校だ。

 遥家は母が中高と聖羽良出身なこともあり、幼稚園だけは兄弟全員そこに通ったが、自分を含め当時の友達を考えてみても特に良家の子女ばかりということもなかった。

 場所も山の方にあったし、園が所有する裏山で裸足でアスレチックをしたり畑を耕したり、どちらかといえば泥まみれになるのもいとわない元気な子が多かったように思う。

 聖羽良の特性が色濃くなるのは女子校となる小学校からだ。いわゆるミッションスクールで、生徒たちはおメダイをセーラー服の上に下げ、毎朝礼拝堂で祈りをささげるという。

 場所も山ではなく二つ隣の駅の近くになり、クリスマスに開放された礼拝堂でシスターの弾くパイプオルガンに合わせて生徒たちが披露する讃美歌はイルミネーションに彩られた学舎とともに舞星の人々の楽しみになっている。

 そういえば、と小学生になったばかりの頃、それまで仲良くしていた聡子とほとんど会話がかみあわなくなったことを真雪は思い出す。

 聡子は真雪と過ごした幼稚園からそのまま聖羽良の小学校に進学し、現在の高校に至るまでずっと聖羽良学園に通っている。

 聡子から聞く聖羽良の学園生活は給食も遠足も真雪の通う白河小とは全然違った。授業が英語で行われていると聞いた時、真雪はなんだか聡子が遠くに行ってしまったようで悲しくさえ思った。

 でもそれは間違っていた。そもそも自分は聡子の近くになんていたことがなかったのに。幼い自分のばかな感傷を思い出して、真雪は胸の内で自嘲した。

「なに?ゆきちゃん、ないしょ話?」

真雪の耳に顔を寄せた五十嵐を目ざとく見つけた聡子が、真雪の顔をのぞきこむ。

「ううん、ごめん、急に来て。今日は乗馬のレッスンの日だっけ?」

「もう高校生だし、勉強もしなくちゃだから、いくつかやめたの。今はピアノとお茶だけ。だからゆっくりしていっても大丈夫だよ」

「あー、でもあんまりゆっくりしちゃうとひかるに怪しまれるから」

「ひかるちゃん?」

聡子がうれしそうに言う。

「そうだ、せっかく五十嵐くんもいるしひかるちゃんも呼ばない?」

「それはちょっと」

「ちょっと?」

すかさず言った五十嵐に聡子が軽く首をかしげた。小鳥みたいに無邪気な振る舞いに五十嵐の顔が赤くなる。

「すいません。俺、光琉さんにここにいるってあんまり知られたくなくて」

「どうして?」

「その、俺んち本当は反対方向だし、お兄さんといろいろあって」

「いろいろってなに?」

聡子がやさしく微笑む。

 結局、聡子に訊ねられるまま顔を真っ赤にした五十嵐は全部を話してしまう。

 流れで真雪も、五十嵐にひかるがいつも猛ダッシュで帰る理由を打ち明けざるをえなくなってしまった。

「だから待ち伏せするようなことはしないであげてほしいんだ。これ以上ひかるが急ぐには君みたいに帰りの会を抜けだすしかないし」

「そうですね・・・。ていうか光琉さん、お兄さん4人もいるんですね・・・」

呆けた声で五十嵐が聞く。

「ひかる、学校で話してないの?」

「お兄さんがいるって聞いたことはありますけど勝手に一人だと思ってました」

「たしかに5人兄弟って今はあまり聞かないものね」

聡子が頷く。

「そうだな、俺の友達も颯兄とかひかるのことは知ってても、陽兄と海兄のこと知らないかも。別にわざわざ話さないし」

「陽兄と海兄…」

きょとんとする五十嵐に真雪は説明する。

「長男と次男なんだけど双子で27歳。上の陽兄はもう結婚して子どももいる」

「そんな年上なんですか!?」

「まあね。覚悟はしてたけど15歳にして俺も立派なおじさんだよ」

わざとらしく肩をすくめた真雪に、聡子と五十嵐が笑う。

「で、そのうち三番目の兄の颯太ひとりが強硬にひかるを迎えに行きたがってるってわけ」

「なるほど、まあ颯太さんの気持ちはわかりますけど」

「ええ?あれわかるの?」

「あ、いや、でも、実際にやられたら俺も嫌です」

ひいた様子の真雪に五十嵐が慌てて否定する。五十嵐は最初の印象通り、物怖じしない性格らしく、もはや慣れた口調で真雪と話す。

「ねえ、ゆきちゃん」

二人のやり取りを聞いていた聡子が突然たのしそうに手をあげた。

「私思ったんだけど、それなら五十嵐くんがひかるちゃんを送ってくれたらいいんじゃない?」

「え?」

聡子の言葉に五十嵐の顔が輝く。一方で真雪の顔は怪訝に曇る。

「五十嵐くんがひかるちゃんを送ってくれれば颯兄ちゃんも安心できるし、ひかるちゃんも急がないで済むし、五十嵐くんはひかるちゃんと一緒にいられるでしょう?毎日遠回りで大変にはなっちゃうけど」

「遠回りくらい平気です!」

五十嵐が胸をはる。まずい予感がした。すっかり乗り気になった五十嵐と聡子を真雪は慌てて止める。

「いや、ひかるが特定の男子と毎日一緒に帰るなんて言い出したらそれこそ颯兄怒りそうじゃない?」

「なぜ?」

一瞬、真雪は言葉に詰まった。

 小首をかしげた聡子が本当にその意味をわかっていないのは明らかだが、あまりに無邪気すぎて。

「だって、なんていうか、颯兄は弩級のシスコンだよ?その、彼氏みたいで絶対許さないと思う」

真雪の「彼氏」という言葉に五十嵐の耳がみるみる赤くなる。真雪もまたつい赤くなるが、盗み見た聡子は平然としたままで言葉を続けている。

「じゃあとりあえずゆきちゃんがお迎えの日だけっていうのはどう?」

「え?」

顔のほてりをごまかしたくて真雪はことさら大きな声になる。

「それなら平気でしょう?ゆきちゃんも罪悪感が薄れるし、自分でって部分は嘘をつくことになっちゃうけど、要はひかるちゃんが無事に帰ってくることが一番大事なんだし。どうかな?」

いかにも名案といった風に聡子がにっこり笑った。反面、真雪は曖昧に目をそらす。

 大丈夫だろうとタカをくくっていたけれど、やはりそうではなかったことに真雪は気づいてしまう。

 きっと聡子は自分達が話すまでもなく、五十嵐と真雪のいざこざを知っていたのだ。

 ペンケース騒ぎを聞きつけて自宅から出てきたと言っていたが、実はその前から、つまり不審者然とした自分とそれに果敢に立ち向かう五十嵐の様子をしっかり見ていたのだろう。

 ほら、いざというとき五十嵐くんはしっかり対処できてたじゃない。それにゆきちゃんは気が弱いし、そもそもそういうの苦手でしょう?

 そんな聡子の暗黙の思いを感じて真雪はなんともいえない気分になる。

 あの情けない姿を聡子に見られていたのか。いや、いま気にするべきはそういうことではない。

 たしかに聡子の言う通りなのだ。真雪はとっさに機転をきかせたりするのは苦手だし、小学生とはいえ肝の据わった五十嵐の方がいざというとき自分よりよほど頼りになるだろう。

 ひかるにとっても人目を気にしながらチャイムと同時に猛ダッシュで帰宅するよりは五十嵐と帰ってくる方が心身ともにいい気がするし。大体この長閑な道で今のところいちばんの不審者はさきほどの自分であるし、二番目はシスコン颯太であることからしても、小学生同士仲良く帰ってくれるならそれに越したことはない。

 しかしそうすると気がかりなのは颯兄だ。いちおう相談する?いや、こんな提案は絶対に言えない。そもそもの凶暴性に加えて激しくシスコンをこじらせている颯兄である。ひかるが男子といっしょに帰るなんて言ったら、自分はともかく五十嵐にさえ、なにをするかわかったもんじゃない。

 内心でひとり、おどおどと反問する真雪を聡子がやさしく見つめている。その視線に気づいた瞬間、真雪の眉間から力が抜けた。

 どうしよう、と思うだけ無駄なのだ。子どもの頃から真雪はこの笑顔に逆らえない。

 聡子の笑顔は真雪のいつもの臆病さを包みこんで、不思議なくらい安らぎと勇気をくれる。初めて会った時から今までずっと。

 聡子がそう言うならたとえ雲を掴むような話でも真雪にはできてしまうような気がする。

 そっと目をやると五十嵐の瞳はすでにやる気に輝いている。

 真雪は顔をあげる。聡子の笑顔と五十嵐のやる気の向こうに怒り狂う颯太の顔が蜃気楼のように浮かんで消えた。

 もう儘だ。この世のよしなしというものは個人の心や準備なんてそっちのけで、こんな風に突然転がり出すこともあるものだ。真雪は意を決した。

「あ、ほら見て、うまく直ったみたい」

気づいたように机の上のペンケースを拾い上げた聡子が、華奢な指でぱかぱか蓋を開いてみせる。

「やったー、ありがとうございます!」

五十嵐が喜びの声をあげた。よほど大事なペンケースなのか、それとも降って湧いたひかるの護衛役の話がそれほどまでにうれしいのだろうか。

 ペンケースを開閉するたびプラスチックの安い音が聞こえる。作戦開始の頼りないファンファーレ。思わず天を仰ぐ真雪に聡子はまたにっこり微笑んだ。




 

 遥颯太はあぐねていた。

 隣では宇津木みのりが微動だにせずスクリーンを見つめている。

 舞星の駅からほど近いショッピングモールにあるシネコンに、ついさっき東京から帰省したばかりというみのりは大ぶりのスーツケースを持ったまま現れた。

「でけえ」

そう、軽口をたたいたら

「作品とか、いろいろ入ってるから。今回は就活もかねての帰省なの」

と言われた。

 颯太は午前の仕事を終えた後で、みのりも朝食をとらずに電車に乗ったというので、二人はスーツケースを一番大きなコインロッカーに預け、モールのレストランに入った。

「就活ってもうそんな時期だっけ?」

「まあね、そろそろ始めないと」

颯太は友人が少ない。高卒でアルバイトを掛け持ちして暮らしているから就活をしたこともなく、だから同年代の人間がいつ就職活動をするものなのかぴんとこない。

 あまり学校に行かなかったし、友達付き合いというのも億劫だった颯太にとってみのりは定期的に連絡をくれる数少ない人間だ。

「そっちこそ最近どうなの?」

「別に変わんねえよ。ひかるのために変えられないし」

「そう」

みのりが上目遣いに颯太を見つめた。

 黒くまっすぐな髪は背中の中ほどくらいまであり、前髪は勝気そうな瞳の上できれいに切りそろえられている。シフォン素材のワンピースはうすいピンクで、大きく開いた胸元には華奢なネックレスが光っていた。

「今日はどうするの、ひかるちゃんのお迎えは」

「真雪に行かせる。あいつも受験終わったし」

「そっか」

「でもさ、これそんなに面白いの?」

みのりが行きたいという映画は人生に行き詰った若い男女が偶然出会い、反発しながらもやがて惹かれあっていくありふれたラブストーリーだ。

 人気俳優が主人公に起用されていて、CMもたくさん流れているから大体の内容は把握しているが、颯太にはぴんとこなかった。

「面白いかどうかは観てみないとわからないじゃん」

「そうじゃなくて、ていうかお前こういうの好きなの?」

颯太が持つみのりのイメージとしては、もっと知る人ぞ知るみたいな、大衆向けというよりは小難しくてマニアックな内容のものを好むのだと思っていた。

 そういえばみのりと映画を観るのは初めてだと颯太は気づく。

 颯太自身は映画自体があまり好きじゃない。何時間もじっと座っているのも、大きすぎるスクリーンも苦手だ。ポップコーンも奥歯に詰まる。今日の映画だってみのりが誘わなければ絶対に観に来ていなかっただろう。

「別に。観てみたいなって思っただけ」

 変わらずみのりは上目遣いで自分を見ている。そこにかすかな違和感、具体的に言えば敵意のようなものがある気がして颯太は曖昧に目をそらした。

 なんなのだろう、今日のみのりは。やけにトゲトゲしている気がする。みのりの、不意に出会った野生動物が戦うか否か相手を見定めているときのような視線を無視した颯太は氷だらけの水をすする。弟相手には強気に出られても、みのり相手にそれはできない。

 入ったレストランはチェーンのイタリアンで、普通に美味しいはずなのだが、みのりの醸す不穏な雰囲気に気づいてからは食事の味もよくわからなくなってしまった。適当に食べ終わるとそれぞれで飲食代を払い、それから開演時間まで平日の空いたモールをうろついて時間をつぶした。

 そして颯太はあぐねている。

 映画を観ていても案の定、特に面白いとは思えない。ただそれは颯太にしてみれば予想通りのことではある。わからないのは隣のみのりを盗み見る限り、同じように思っている気がすることだった。

 みのりは昔からこういう女だった。中3で同じクラスになって、なんとなく話すようになったのだが、いつもどこかつまらなそうにしていた。そうだというのに、高校で学校がわかれたときも、進学のためみのりが上京したときも、付き合いが途絶えることなく、みのりが連絡をよこしてくるたびにこうして会っている。颯太にとっては数少ない友人だが、話を聞く限りみのりには他にも友人がいるようだ。その中でわざわざ自分に連絡をよこすのに、会っても相変わらずつまらなそうにしているのはどういうわけだろう。

 映画は14時前に始まった。ストーリー的にまだ中盤くらいだろう。華やかなルックスの男女が明るい街で好きだの嫌いだのすったもんだをしている。ひかるのお迎えは16時だから、終わった後に急いでいけば真雪に任せなくても間に合ったかもしれない。

 ふと横を見て颯太はたじろぐ。スクリーンを観ていたはずのみのりがこちらを見ていた。

「どうした?」

小声で訊ねてみたが、みのりは答えることなく再びスクリーンに向き直った。

 仕方なく、颯太もまた映画に意識を戻す。溜息をつきたいのを我慢して代わりに膝を乱暴に掻く。

 本当に今日のみのりは何なのだろう。

 大きすぎる画面の中では、主人公の女が大粒の涙を流して男のもとを去っていった。





 真新しい制服をハンガーにかけ、三森聡子は小さく伸びをした。

 こげ茶の襟に青いリボン、十年くらい前に刷新されたこの制服を聡子自身は気に入っているが、母のように聖羽良出身の先輩たちの中には昔のデザインを懐かしがる人も少なくない。

「紺地に白いタイのセーラーがきりっとしてて良かったのよ」と。

ゆきちゃんが着ていた舞星高校の制服も黒と校章の白のコントラストがきりっとしていたな、と聡子は思う。

 考えてみればゆきちゃんと会うのは入学式以来だ。聖羽良と舞星は同じ日が入学式だったから家の前で一緒に写真を撮った。

 聖羽良のほうが式が始まる時間が早くて、両親は先に行っていた。聡子は運転手の斉藤さんに乗せていってもらう予定だったが、ゆきちゃんが送ってくれるというのでそれに甘えたのだ。

 付き合わせてしまったことを詫びると「ちょっと早いけど俺ももう学校行ってみようかな」と笑ってくれた。

 あの日並んで撮った写真はすでに写真立てに飾ってある。きりっとした舞星の制服はゆきちゃんによく似合っていて、比べてみると確かに聖羽良の制服は少し儚いというか、子供じみた印象を受ける。

 制服にブラシをかけていると部屋のドアがノックされた。

「聡子、着替え終わってる?」

間髪いれず母の明るい声がする。

「もう少し。なに?」

「ひかるちゃんがきてるわよ。リビングで待ってもらってます」

「わかった。ありがとう」

聡子のおばあちゃんが生まれたころに建てたというこの家はいい加減古く、また三人で住むには広すぎて聡子の部屋までインターホンの音が届かない。何度かの補修工事の際にここまでインターホンが聞こえるようにする案も出たのだが、防犯上、聡子がインターホンに出る必要はないということでそのままになった。

 つけっぱなしの腕時計を見ると、不安げな真雪と意気揚々とした五十嵐が帰ってからまだ十分も経っていなかった。聡子がリビングへ行くと、ひかるは母のお気に入りのクッションを抱えてソファに座っていた。

 テーブルには飲みかけの紅茶。母が最近気に入っているサイダーのような香りがするそれは真雪たちにだしたのと同じやつだ。聡子が来たのを見つけて、ひかるはうれしそうに小さな手を振る。

「お母さん、ひかるちゃんにお菓子は?」

「あ、違うの、聡子ちゃん。私お煎餅食べてきたからいいって言ったの」

口をとがらせた聡子をひかるが遮ると

「そうよお。ひかるちゃんにそれならかわりに夕飯食べてけばって言ってたところ」

と聡子の母は笑う。

「今日のごはん、なに?」

「カレー」

「やった、カレー」

聡子の家には週三でハウスキーパーのジェーンさんが通って来てくれているが担当は主に掃除で、料理はたいがい母が作っている。

まめなたちで味噌や梅干しなども手作りしてくれるが、日々の食卓に凝ったものがのることは珍しく、カレーも市販のルーを使ったものだ。

「どうせいっぱいできちゃうんだから、ね、ひーちゃん、今日も上のお兄ちゃんたちいないんでしょ?ゆきちゃんも呼んでみんなで食べましょうよ」

母の声は鈴を鳴らしたみたいに明るく響く。

 聡子の母は遥家の子どもたちが好きだ。遥家の兄妹たちもまた、忙しく働く母に代わって昔から何くれと世話を焼いてくれる聡子の母を慕い、篤子ママと呼んで気軽に行き来している。

「いいね。じゃあ私ゆきちゃん呼んでこようかな」

顔を輝かせる聡子をひかるが止める。

「雪兄いま宿題してるよ」

「まあ、さすがゆきちゃん。しっかりしてるわあ」

感心する聡子の母にひかるはいやいやと手を振る。

「しかたないんだよ。学校、宿題多いんだって」

「聡子は?宿題」

「あるけど平気。聖羽良と舞高じゃ全然レベル違うもの」

「やっぱりねえ。舞高行く子は違うわねえ」

「じゃなくて聡子ちゃん、篤子ママも、雪兄のことは後にして」

ひかるがクッションを脇に置く。

「ちょっと相談があるんだけど」

居ずまいを正したひかるにつられ聡子も背筋を伸ばした。

 相談というのはついさっき聡子が真雪と五十嵐に提案した件についてだった。

「お迎えがなくなるのはうれしいんだけど、ちょっと微妙なんだよね」

「あらあ、微妙ってなにが?」

ひかるのカップにおかわりを注ぎながら母が訊ねる。五十嵐がいたことで真雪の時は遠慮していた聡子の母も、今は当然といった風情で話に参加していた。

「だって五十嵐、あれで結構もてるんだもん」

「そうなの?」

小首をかしげた聡子に母が笑う。

「そうよお。やだ、聡子ったらわからない?元気そうで目がキラってしてて、いかにも人気ありそうじゃない」

「そうそう、足速くて声が大きいから目立つの」

「うーん、それで五十嵐くんがもてるのが何でだめなの?」

聡子がいよいよわからないといった風に言う。

「だからね、一緒に帰ったりしてもし誰かに見られて付き合ってるとか言われたら困るっていうか」

「あら、やだ!ひーちゃんと五十嵐くん結構お似合いじゃない?」

「もう!やめてよ、篤子ママ」

「え、それで?それの何がだめなの?」

「もう!聡子ちゃんはしっかりしてよ」

ひかるが苦笑いする。

「私の友達でも五十嵐のこと好きな子いるし、そんな人とうわさになっちゃったら面倒でしょう?」

「なるほど。そんなことゆきちゃんも言ってた。颯兄ちゃんが五十嵐くんをひかるちゃんの彼氏と勘違いしたら困るって」

「やだ、雪兄そんなこと言ってたの?」

ひかるが赤くなる。

「でも一緒に帰ると付き合ってることになるの?」

「私はならないと思うけど、なるって思う人もいる」

ひかるの顔は相変わらず赤いままだ。聡子はまた首をかしげる。

「じゃあやめる?これまで通りゆきちゃんにお迎えきてもらう?」

「うーん、それもなあ。せっかくの解放なのに」

「解放だなんて面白いこと言うわね、ひかるちゃん」

「だって雪兄がそう言ってたんだもん。『俺のお迎えは今後解放日にする』って」

ひかるの口真似を「ゆきちゃんっぽいー」と聡子と母は顔を見合わせて笑う。

 調子に乗ったひかるは真雪の物真似を連発し、結局相談はうやむやなまま夕飯の支度をする時間になってしまう。

 あわてて立ち上がった聡子の母の後を「お手伝いしたい」とひかるもついて行く。睦まじくキッチンへ向かいながら聡子の母がふり返る。

「じゃあ聡子、お支度待ってる間にあなたも宿題済ませなさい」

「うん」

「のんびりしないのよ。カレーだからね!すぐできちゃうからね!?」

「わかってるってば」

そう答えながら、先に真雪を呼んでこようと聡子は思う。

 はやく知らせないとゆきちゃんは自分で夕ご飯をつくりはじめてしまうかもしれないし、いっしょに宿題をやればわからないところがあっても教えてもらえる。

 聡子は真雪たちとする食事が好きだ。ひとりっこだし、仕事に追われる父は夕食時にいることの方が珍しい。仕方のないことだが母と二人きりの食卓はときどきとてもさみしく感じることがある。

 不意に聡子は幼稚園のキャンプ教室で食べたカレーを思い出す。みんなで収穫した野菜をつかい、ごはんは飯ごうで炊いた。あの時、ゆきちゃんはすごく喜んでおかわりしていた。カレーを食べたあとは裏山に大きなテントを張って眠った。少しだけど星が見えて、初めて聞く鈴虫の声がきれいだった。

ゆきちゃんにそう言うと「ほんとだ」と言い、「透明なトライアングルが鳴っているみたいだね」と笑ってくれた。

 ゆきちゃんにあの頃みたいにまたキャンプをやろうと誘ってみようか。さすがに山でお泊まりは無理だとしても、うちの庭にテントを張って今度はバーベキューをしてもいいかもしれない。

 いつもジェーンさんが律儀にしまってくれる簡易サンダルを足につっかけ、聡子は足取り軽くおとなりへ向かった。

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