1:侵食
『人の体はその人の所有物である』と言ったのは、誰だったか。
人は人として生きていく以上、自分の肉体を保有し、その所有権、利用権はその個人に帰すると。
人は、自分の体からは逃れられない。
そんな事は分かっていた。分かっていたつもりだった。
いや、そこまで深く考えた事は実際無かったが、それは純然たる事実として当然の事だと思い込んでいた……今日までは。
「はあっ、はあっ……くそっ!」
だが、そんな事実をこんな形で突きつけられるとは、その事実をこれ程恨めしく思う事になるとは、思ってもみなかった。
「くそっ……やべぇやべぇやべぇっ!」
必死に走ったところでどうにもならないと、ひどく冷静な頭は理解していた。だが、何かをせずにはいられない。
普段のように速さを求めるのではなく、ただただ無我夢中で、自身の体を壊さんとする勢いで走る。
だが。
いくら足掻こうと。
いくら逃げようと。
「離れろ……離れろっ!」
腕に付いたそれから、逃れる術はない。
自分の体――に寄生した銀色の物体――からは逃げられない。
彼――蒼天鉄雄の中指の先に取り付いたそれ――銀色の金属の様なもの――がどんな物かは分からなかったが、その名前は知っていた。
金属質の侵略者。通称、MI。突如宇宙から飛来してきた地球外生命体であり、今人類を窮地に陥れている元凶だ。
分かっている事は、意思の疎通が不可能な事。そして、決して触れてはならないという事。
触れたが最後、その体を蝕まれ、MIに乗っ取られてしまう――今の彼のように。
「誰か……誰かっ! いないんですか!」
必死に助けを求めるが、答えるのは遥か遠くに聞こえる爆音と瓦礫の燃える音だけ。人の気配は感じられず、物言わぬ銀色の彫像が佇んでいるだけだ。
彫像。人のような形をした銀色のそれらは、人に取り付いたMIの成れの果てだ。先程まで人を襲っていた無機質な化け物は、死んだように動きを止めている。
だが、決して死んだ訳ではない。衝撃で一時的な休眠状態に入っているだけだ……と自分では考えている。
奴らは、文字通り「動きを止めている」だけだ。動きを止めたMIに触れれば、触れた箇所からMIが侵食してくる。
そう。まさに今の彼の状況がそれだった。
誤ってMIに触れてしまった彼を責められる者はいない。だが、彼に声をかける者も、救う者もいない。
「誰か、助けて……助けてくれっ!」
最早無意味な叫びが響き続ける中でも、彼の手を無機質な殺意が少しずつ、しかし確実に蝕んでいく。既にそれは右手の指全てを覆い尽くし、掌や手の甲へと広がりつつあった。
このままではまずい。手近な家屋……の残骸の中に駆け込むと、手当たり次第に漁り始めた。
あるものを探す為に。
台所らしき所に辿り着くと、衝撃で歪んだ戸棚を半ば強引にこじ開け、銀色に光るそれ――包丁を取り出した。それを自らの腕にきつく押し当て、一気に切り裂く。
切り口から真っ赤な鮮血が滝のように迸り、脳髄を貫く激痛に思わず呻き声を上げる。
「ぐうぅっ……!」
だが、そこまでだ。
それ程の、耐え難い程の痛みを、犠牲を払っても……MIを切り離すには程遠い。
生き残るためには、最早なりふり構ってはいられない。腕を切り離すのにより適した物……例えばチェーンソーのような物が必要だ。
だが、森に囲まれた地方の村なら兎も角、都心近くの端正な住宅街にそんな物騒な物を置いている家庭があるとも思えない。
家屋だった瓦礫から抜け出し、辺りを見渡す。依然として周囲には一切人影が無く、喧噪や騒音は全く聞こえない。誇張でも何でもなく、無人の街だ。
無論、全ての人が死に、或いはMIに取り込まれた訳では無いだろう。幸運な人達は、少し離れた場所にある避難所に逃げ込んでいる筈だ。
そこに逃げ込めば、或いは助かるだろうか。そんな考えがふと過ぎる。
誰か他の人なら、彼の今のこの状況を打破してくれるだろうか。
いや、それは出来ない。鉄雄はかぶりを振ると、再び走り出した。
避難所に逃げ込んだ所で、彼に救いの手を差し伸べる人などいないだろう。MIが伝染るのを恐れ、彼を追い出すに違いない。或いは、彼をMIだと思い込むかもしれない。
それに、例え助けを得られたとしても、誤ってMIに触れてしまうかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
耳障りな風の音に顔をしかめながら、彼はなおも走り続ける。
何か、無いだろうか。MIの侵食を食い止める手段は。
右手のMIは既に手首を覆い尽くしている。もう、時間が無い。
焦る鉄雄が周囲に視線を走らせると、活動を止めたMIの彫像が目に入った。
MI達が揃って動きを止めているのは、ミサイルの爆発の影響を受けたからだ。どうやら、自衛隊の放ったミサイルの爆発によりダメージを受け、衝撃で休眠状態に入ったらしい。
……これなら、うまくいくだろうか。
これを利用して、右手のMIに爆発の衝撃を与えれば、活動を止めるだろうか。
「……馬鹿げてる」
だが、すぐにその考えを否定した。
そもそも、この辺りへの砲撃はかなり前に終了している。そうそう都合よく砲撃が来るとも思えない。おまけに、例え砲撃が来たとしても、MIの活動停止どころかこちらまで吹き飛ばされてしまう。というか、控えめに言って死ぬ。
どうすればいい。
耳障りな風の音が大きくなる。うるさい。思考の邪魔だ。
必死に思考を巡らせる。
そして、気付いた。
いや、気付いてしまった。
この音。
これは、風の音じゃない。風を切る音だ。
思わず上を見上げる。そこに広がるのは、まだ何にも侵食されていないまっさらな蒼天。
その中に一点、光る物が見える。
その点が、かん高い音を立てて近付き、大きくなる。
その正体は、疑いようもない。
これまで、人々を襲う金属の化け物を留めてきた火薬の塊。
そして今、鉄雄に取り付いたMIと――鉄雄の生命を止めようとしている、死神の鎌。
風圧が顔を打ち、鼓膜を破らんばかりの轟音に思わず耳を覆いそうになる。
そして、彼の頭上数百メートルで……それは真っ白な光を放った。
遅れて、これまでと比べ物にならない衝撃波と熱風が、音速を超えた勢いで押し寄せてくる。
何も考えず、彼は右手を伸ばした。
そして、
そして――
* *
「……ミサイル、目標地点に到達しました……」
仮設テントに感情を押し殺した女性の声が静かに響いた。
鉄雄のいた街から二キロ程離れた空き地に、建物を破壊された自衛隊が仮設本部を立てたのはつい昨日――MIの襲撃から実に二日後の事だ。
それから無人偵察機を飛ばし、航空写真を頼りにMIに対して唯一有効であるらしい爆撃を一晩中続け、漸くひと段落ついた――筈だった。
航空写真に写った一人の逃げ遅れたらしい少年が、MIに触れてしまったのだ。
当然、侵食が始まってしまった。更に、その少年はまだ意識があるらしく、その場から逃げ出した。……まるでその右手から逃れようとするように。
最悪な事に、その場所は仮設本部からかなり離れていた。救助に向かっても、現場に到着する頃には既にMIに飲み込まれてしまっているだろう。
最早、とるべき手段は一つしかなかった。……少年をMIとみなして見殺しにし、爆撃して沈黙させるという方法しか。
仮説テントを重い空気が包む。ここにいる誰もが、この選択を悔やんでいたのだ。
当然だ。いくら言葉で言い繕っても、彼らがたった今攻撃したのは、紛れもなく守るべき対象である筈の人間……それも、ただその場に居合わせただけの不幸な少年だと心では理解していたのだから。
「……黙祷」
爆撃を命じた分隊長が静かにそう告げると、その場にいた全員が俯きと沈黙でそれに応じた。
テント正面に映し出される航空写真に、やがて変化が訪れた。爆発による煙が薄まり、地表が露わになる。
そこに、その少年の骸が映し出され――
「……あれ?」
一人の隊員が調子の外れた声を上げた。
その声につられ、隊員全員が顔を上げる。
そこに映し出されたのは――
* *
……何が起きたのだろうか。
黒い煙で霞んで見える空をぼんやりと見上げながら、彼はそんな事を考えた。
左手を伸ばし、感覚を確かめる。次いで右足、左足。
多少の擦り傷はあるものの、大きな怪我は無いようだった。
爆発の衝撃というのは、意外とダメージが少なかったりするのだろうか。有名なあのドームが残ったのも、爆弾の直下でダメージが小さかったからだと聞くが。
いや、それとも。
彼は、それまで意識的に気にしないようにしていた右手を見た。
こいつのおかげか。
右手のMIは、活動を止めていた。
原理は分からないが、MIが爆発の衝撃を全て吸収したのかもしれない。
最早、分からない事だらけだ。何がどうなっているのか分からない。自分の身に起きた事すら。
ただ一つ確かなのは、ここで立ち止まっていても事態は好転したりはしないという事だ。
右手が体に触れないように慎重に立ち上がり、体中の埃を払う。体の節々が軋んで鈍い痛みをもたらすが、そんなものに構ってはいられない。
そして、彼は再び、体を引きずるようにあてもなく歩を進めた。
こうして。
彼の物語は終わりへと進み始めた。