かさぶた
結局、何も出来ず、モヤモヤした気持のまま月日だけが流れた。恒例の席替えは、何も出来なかった俺に対する罰なのだろうか、残念なことに最前列になってしまい、市松との距離も遠くなってしまった。隣の隣、更に通路を挟んだ向こう側。双眼鏡でも持ってきたい気分だ。
あんなにも市松を近くで見ていたのに、距離が開いたせいで自ずと会話も減り、何だか味気ないような、そう、例えるなら白米の無い天丼というべきだろうか、いや、牛肉のない牛丼か。とても寂しく感じるようになっていた。
その寂しさは、市松に対する恋のつぼみを、大きくさせる栄養剤のようなもので、俺は市松のことばかりを考える日々になってしまっていた。何でこんなにも好きになったのだろう。ただ好きと思うだけで、こんなにも切ないのだろう。そんな思いを胸に抱いたまま、訓練校は正月休みに入ってしまった。
長期的な連休というものは実に嬉しいものだ、好きなことがいっぱいできるし、朝も夜も時間なんて気にしなくて済む。それに、正月というのはじつに楽しい。テレビは正月の特別番組が多くなり街は騒がしくなる。初詣、餅をいっぱい食べる、許された低落など、楽しいことがいっぱいある。
だが、市松に会いたいという思いが強いせいか、俺はしぼんだ風船のような毎日を過ごしていた。楽しく過ごせるはずの正月は、人生の記録に残るほど、最低な気分で過ごした。 目を閉じて、市松のことを思い描いてはみるものの、幻想の市松に触れようとすると、消えてしまう。何故なら、俺は市松の温もりを知らないからだ。
せめて、文字だけでも彼女に会いたい。そう思い、家のパソコンから、皆とつながっているチャットへとログインし、市松が入ってこないかと待っていた。もちろん、彼女が家からチャットに入るかどうかなんて分からない。だが、オープンチャットには、思ったよりも人が入っていた。相変わらずゲームの話やなんかで盛り上がっている。皆それなりに暇なんだな。まぁ、俺も人のことは言えないか。
すると、モニターの端に、誰かがログインをしたというメッセージが出てきた。市松だ。
俺は嬉しくて、顔がほころんでいるのが自分でも分かる。離れていても、文字だけでこんなにも喜んでしまう自分が、滑稽に思えた。
早速、市松に個人チャットでメッセージを送った。内容はどうということのない、ただの挨拶だったが、市松は、ふざけた顔文字付きでメッセージを返してきた。
寂しいと感じた分、嬉しさが増している。他愛もない話を繰り返して入るが、俺は、キーボードを弾く音が、どんどん強くなっていた。
[高井]:なぁ、市松って、どんな人が好きなの?
姿が見えないと、こんな質問でさえ容易にできる。心の何処かで、俺みたいな人と言ってくれないか、と期待している自分が恥ずかしい。
[市松]:私の痛さを受け入れてくる人がいいです。私は基本的に媚びない主義なので
[高井]:自分で痛い奴だって分かってるんだ。まぁ、それなら居るよ。大丈夫
[市松]:猫かぶって、媚びて好かれたって、あんまり嬉しくないですよ
[高井]:市松にしてはまともなこと言うんだな
[市松]:「私のこと好きになってくれる人!」って言ったらハードル下がるけど、それはしたくない (*ノω・*)テヘ
[高井]:いや、逆にハードル上がってるぞ
[市松]:(# ゜Д゜)
顔も見えない、声も聞こえない、仕草も見えない。だが、何故か、文字だけの会話が、ハローメイツに居る時間よりも彼女を近くに感じさせていた。実態がない状態の方がそばに感じるなんておかしな話だが、それが事実だった。
文字は頭の中で彼女の声に変換され、あの、音程を追いたくなるような声が頭の中で響いている。想像の中の彼女、空想、妄想――何とでも言え。兎に角、嬉しすぎて、俺は何時間も市松とチャットをしていた。
[高井]:ところで、もうすぐ誕生日だよな。何か欲しいものある?
[市松]:みんなで人狼がしたいです、最低で私のぞいて六人必要
[高井]:人狼?
[市松]:カード引いて、誰か人狼引いたかあてるゲーム
誕生日プレゼントに欲しいものがあるのかと聞いて、まさかゲームがしたいという答えが返ってくるとは思わなかったが、まぁ、市松がしたいと思っているのなら、どんなゲームでも付き合ってあげよう。
[高井]:よく分からないけど、俺で良ければいつでも付き合うよ
[市松]:ありがとです……にしても、さっき言ってた好意を持ってくれてる人っているんですか?
何だ突然。市松は話を一〇分ほど巻き戻した。市松なりにそのことが気になっているのだろうか。
[高井]:あぁ、居るね
[市松]:( ゜д゜)ハッ! 高井さんってば悪趣味
あれ、何だこの発言は。もしかして、俺が好きだということに気がついているのか?
想定していなかった話の流れに、俺は頭が混乱した。何て答えればいい。この流れに乗じて好きだと言ってしまおうか。いや、まて、こんな顔も見えない状態で言ってしまえば、どうなるか分からない。これは市松の罠かもしれない。単なる冗談に便乗して、告白なんてしてしまえば笑われて終わるかもしれない。どうする……どうする俺。考えろ、落ち着け、観察しろ。市松が創りだそうとしている流れを見極めるんだ。
[高井]:悪趣味ってどういうことだよ。チビナスのくせに
否定もしないが肯定もしない。俺は適当にごまかすことにした。こんなときに、気の利いた一言が出てくるようになりたいものだと、つくづく思う。
[市松]:高井さんに好かれても困りますけどね~
もしかして、今の……振られてしまったのか? いや、ありえない。まだ告白すらしていないのに。きっと、いつもの冗談の延長線だろう。
幸いな事に、市松は深くは追求をしてこなかった。良かった。これ以上追求されていたら、思わず好きだと言ってしまうところだった。とっとと話題を変えてしまおう。
[高井]:そうだ、年賀状ちょうだいね。楽しみにしてるよ
[市松]:嫌ですよ ( ̄ー ̄)ニヤリ
[高井]:なんだよ、このケチビめ
気がつけば、もう三時間近くもチャットをしている。どおりで指と手首が疲れているはずだ。楽しすぎて時間というものの存在すら忘れてしまっていた。
この日以来、俺は市松と毎日のようにチャットをした。正月休みの間はもちろん、連休が明け、訓練校が始まっても続いた。毎日毎日飽きもせず、ハローメイツでも家に帰ってからも、文字だけの会話が続いた。
「明けましておめでとうございます」
連休が終わった訓練校では、そんな挨拶が飛び交っていた。女子達は一箇所に集まり、何やら話をしていたが、もちろん、その輪の中に市松は入っていなかった。
市松は自分の席でハサミを手にし、何かを作っているようだ。協調性が欠けているのか、それとも、自分が嫌われているのを悟っているのか。年が明けても、相変わらずこの環境が続いていた。
俺は、市松の誕生日に何を送るべきか、という問題で頭がいっぱいになっていた。
市松は人狼というゲームがしたいと言っていたが、やはりちゃんと形ある物を渡して喜んでもらいたい。最初に思いついたのは、ケーキなどの甘い食べ物だ。市松はよく、糖分を取らなければ、と昼休みに甘い物を食べているが、甘い物を食べながらダイエットしたいと言っているのには、首をかしげたくなる。
確かに、ケーキなどの甘い物は無難に喜んでもらえそうだ。だが、食べてしまって『はい終わり』というのは、少し切なすぎる。何か違う。もっとこう、違う視点で喜ばせたい。形に残る物。見とれたくなるような美しい物。市松に似合いそうな物……。何だろう。
貴金属なんて似合う顔じゃない。どちらかと言うと、かんざしなどの方が似合いそうだがそれも違う。恋人でも無い男から貴金属なんて貰っても、気持ち的に重たすぎるような気がすし、かんざしなんて貰っても嬉しくないだろう。ぬいぐるみなんて物も良さそうだが、いい歳をした男がいい歳をした女にぬいぐるみなんて送るのは、さすがに気持ち悪い。
こうして誰かのことを想い、何かを選ぶ。その人がどんなリアクションをするのかを想像するだけで、幸せな気持ちになってくるが、その反面、優柔不断が浮き彫りにされてしまう。
市松の雰囲気に似合い、綺麗でインパクトがある物……。そうだ、花なんてどうだろう。
市松に似合うかどうかは分からないが、綺麗だしインパクトもある。しかも、良い香りというおまけまで付いてくる。俺はそう思い、インターネットで花束を探してみた。
どれも綺麗でインパクトがある。確かに求めていた条件に合いそうだ。だが、花を見ていて大きな問題があることに気づいた。それは、どうやって渡すかだ。ハローメイツに持ってくるには抵抗がある。休憩時間に花束を持って登場、なんてことは俺には出来ない。帰りに呼び出して渡すにしても、隠す場所なんて何処にも無い。朝、通学の途中で……、あり得ないな。
結局、花束も諦めるしかないのだろうな。そう思いながらモニターから視線を外したとき、俺の前に誰かが立っているような気配を感じたので目をやると、市松が俺の席の前で立ち、唇の左端を釣り上げ、微笑みながら俺を見ていた。
不意に誰かが目の前に立っているという状況だけでも驚くが、市松の顔の造りは、日本人形やお稲荷さんを思わせるような造りなので、黙って立たれていると怖さが増す。夜中に枕元で見たら、間違いなく大声で叫んでしまうだろう。思わず手を合わせ、悪くもないのに謝ってしまうかもしれない。
それにしても何だ、その顔は。市松がこういう笑顔をするのは、何かを企んでいるときだ。もしかして、俺がプレゼントで悩んでいることがばれてしまったのか。まさか、そんなはずは無い。見つからないよう、細心の注意はしていたはずだ。
俺はとっさに、通学に使ったバスのことを思い出してみたが、今日はいつも通りの特等席だった。しかも、席の周りには女性がいっぱい座り、俺の経験上、運がいい日になっているはずだ。悪いことなんて起こるはずがない。そう思っていると市松は、笑顔を崩すことなく茶色い封筒のような物を俺に渡してきた。
「これ、どうぞ」
事務的な茶色い封筒。何の飾り気も無く、何も書かれていなうえに封もされていない。ラブレターの類では無いことはひと目で分かる。もしかして、呪いの手紙か。市松の顔から想像すると、その方が納得できるかもしれない。
俺は、その味気ない封筒をゆっくりと開け、中を見た。中には葉書のような物が入っていた。この時期よく見る、赤が目立つ葉書、年賀状が入っていた。市松は、わざわざ年賀状を手渡しでくれたのだ。
年賀状はかなり凝ったデザインで、飛び出す絵本のような紙が装飾されている。さっきからハサミで作っていたのはこれだったのか。市松らしい。
「いいの? 貰って」
「悪用はしないでくださいね」
俺は驚き、目が点になったまま年賀状を見ていた。冗談のつもりで言ったのに、まさか本当に年賀状が貰えるとは思っていなかった。しかも、手渡しなんて想像できるわけもない。驚くなという方が無理な話だろう。
その驚きは、ジワジワと嬉しさに変わり始めた。そして、年賀状をよく見ると、更に驚く内容が書かれてあった。ご丁寧に市松の住所が書いてある。俺は思わず目を疑った。まさかの副産物。喜びが更に大きくなり、自分の頬が赤くなっているのが分かった。
なんて良いタイミングなんだ。これで誕生日に花が送れるじゃないか! 俺はその年賀状を持って、サッカー選手がゴールを決めた時のように教室の中を走り回りたい気分になった。もちろん、そんなことはしないが。
「あ、ありがとうな」
俺は出来るだけ表情を固くし、市松の顔を見ずにお礼を言った。ただの年賀状を貰って大喜びしているなんて悟られたくない。
俺がそう言うと、市松はその場を去って行った。そしてすぐに、市松の声が違う場所から聞こえてきた。
「はい、これどうぞ」
声のする方を見ると、市松が熊田にも、同じ茶色の封筒を渡しているのが見えた。俺の喜びは一瞬で半減さてしまう。まるで、バレンタインデーにチョコを貰って喜んでいると、その娘が周りの人達にも配り始める感じか。いわゆる、本命チョコだと思ったら、ただの義理チョコだったようなものだ。嬉しいのだが何だか切ない。
まぁいい。兎に角、彼女の住む場所が分かったということは、花束をプレゼントするための問題は一気に解決へと向かったわけだ。やっぱり今日は運がいい。フォーチュン・バスの正確さを照明させたような日だな。
『悪用しないでくださいね』とは言われたが、家に花束を贈るのは悪用とはいわない。
俺は早速、ネットショップで彼女に贈る花束を探し始めた。市松に似合いそうかどうかを考えたり、花言葉を考えたり、まるで、服選びに悩んでいる女性の買い物のようになっている。
やっぱり、花を送るなら言葉も一緒に贈りたい。一月の誕生花でもあるマーガレットも良が、何だか違うような気がしていた。やはり、赤い薔薇だろうか。古臭いかも知れないが、恋といえば赤いバラのような気がする。結局、どの花にするかというだけで丸一日掛かってしまった結果、赤いバラの花束を贈ることに決めた。その方がインパクトがありそうだ。
ネットショップで赤い薔薇を注文し、送り先を彼女の住所にする。電話番号は知らないので自分の携帯番号を書いておいた。どうやらこの店は、メッセージカードも付けてくれるらしい。何て書いてもらおうか。市松は実家暮らしなので、変なことは書けない。ここは無難な文にしておこう。俺は今の気持ちを、当り障りのない程度の文に変え、メッセージカードも添えてもらうことにした。
『少し早いけど誕生日おめでとう。市松にとって、いい一年でありますように』
そうメッセージを書き終え、注文を完了させた。
到着予定は木曜日です、か。早く到着してほしいな、市松がどんな顔で受け取るかが楽しみだ。
俺は注文して以降、市松の元へと花が届くのを、今か今かと待ち続けた。予定は木曜日だと分かっているのだが、店員の手違い、もしくは気を利かせて、早く送ってくれるのではないかと思い、じれったい思いをしながら待ち続けた。なぜ、こんなにも時が遅く感じるのだろう。本当に、時間って決まっているのだろうか、やたら早くなったり、遅くなったりしているのではないか。そう思わずには居られない。
そして、到着予定とされている木曜日になった。朝から何度も配送状況を確認しているが、いつまで経っても到着済みに変わらない。本当に今日届くのか? いっそ、店に電話でもしてしまおうか、と不安になる。
今日は届かないのだろうか。そう思いながら家に帰り、午後六時半を過ぎた頃、市松がチャットにログインしてきた。
何か反応はあるのか、まだ到着していないのか。回り始めたルーレットを見つめるかのような気持で、チャット画面を凝視していた。
[市松]:( ゜д゜) ・・・
[市松]:(つд⊂)ゴシゴシ
[市松]:(;゜д゜) ・・・
[市松]:(つд⊂)ゴシゴシゴシ
[市松]:( ゜д゜)ハッ!
何やら変な顔文字が続く。どう見ても驚いていることをアピールしている顔文字達だ。俺は市松の反応を見て、花が到着したことを確信した。
「届いた!」
俺は思わず大きな声で叫び、足をぶつけてしまうまで、部屋の中を走り回った。
[市松]:お花ありがとうございました ( ゜д゜)ポカーン
[市松]:誕生日に花束なんて貰ったのは初めてです (゜Д゜;≡;゜д゜)
[市松]:薔薇三〇本……、高かったんじゃ (゜A゜;)ゴクリ
[市松]:何はともあれ、ありがとうございました
結局、配送予定の木曜日になってしまったが、待ちに待った花束が彼女に届いてくれた。贈ったほうが嬉しいなんて、何だか変な話のような気もするが、好きな人に何かをプレゼントできる喜びは、味わったことのある奴にしか分からないだろう。
市松は今どんな顔をしているのかな。勝手に花束を送られ、迷惑そうな顔をしているのだろうか。それとも喜んでくれているのだろうか。残念ながら、文字だけでは相手のテンションが分かりづらい。顔が見えないことが非常に残念だった。何かメッセージを返さなければ……そう思うと、自然と指が動き始めた。
[高井]:少し早いけど、誕生日おめでとう。市松が居てくれて毎日がとても楽しいです。どうか、いつまでも、薔薇が似合う素敵な女性でいてください
何だろう、俺。こんなことを書くつもりじゃ無かったのに、どうしよう。好きが止まらない。今以上、これ以上彼女を好きなると引き返せなくなる。その境界線が目の前にあることにすら気付かない程、好きという思いが止められなかった。
[市松]:うーん、照れるなー (;・∀・) 私も高井さんがいてくれて楽しいです!
俺の気持ちはどれくらい伝わったのだろうか。こんな遠回しな言い方ではなく、好きだとはっきり言うべきなのだろうか。いや、言いたい。市松が好きだと今すぐ言いたい。そう思っていると、話の流れを中断させるような内容で、市松がメッセージを書いてきた。
[市松]:そして、高井さんに一つ相談したいことがあるんですが
[高井]:相談?
[市松]:駿河さんと熊田さんのことです
何だ、突然。駿河と熊田? 自分の相談ならまだしも、市松は、駿河と熊田のことを相談したいと突然言い出した。
バケツで水を引っ掛けられた後に、扇風機で強風を当てられているかのような気分になったせいで、頭のなかに咲き広がっていたお花畑が、全部クエスチョンマークに変わってしまった。火照っていた頬の熱が一気に冷めていく。
何だ、この流れは。花束が届いた喜ばしい日だというのに、何故に今そんな話をするんだ? 明日じゃ駄目なのか。いや、まて、そもそも、駿河と熊田の相談を俺にされても困る。別にあの二人と仲がいいわけじゃない。
市松が何を言いたいのかは良く分からないが、とりあえず、調子を合わせて様子をみるしか無いようだ。
[高井]:分かった。俺で良ければ聞くよ
[市松]:駿河さんが、もうすぐ学校辞めて働き出すから、熊田さんに告白するように散々釘刺してるんですが、告白は止めたほうがいいと思いますか?
そうか、駿河は就職が決まり、もうすぐハローメイツを辞めるのか。要するに、熊田が駿河を好きで、駿河がハローメイツを辞める前に告白すべきかどうかを悩んでいるようだ。しかもそれを、お節介な市松がどうにかしたいらしい。何だ、この、中学生レベルの相談は。まぁ、年齢的なことは置いといたとしても、あの二人の相談なんて、今するべき相談なのか? 俺にはただ、話の流れを力づくで変えているだけのような気がした。何だ、この胸騒ぎは。彼女の文面を見ながら色々と考えてみるのだが、やはり、目を見て話さないと分からないことだらけだ。
[高井]:良く分からないけど、好きなら言えばいいと思う。フラれたらどうしようなんて、あとで考えればいい
俺自信が市松に好きだと言えないでいるのに、他人のことなんかどうでもいい。振られるならとっとと振られてしまえ。
[市松]:熊田さんには、それが無理なんですよね
市松が打つ文字からは、熊田を思う気持ちばかりが伝わってくる。俺は彼女が何を言いたいのか何となくだが分かったような気がした。それは俺にとって辛い話になるだろう。
キーボードを弾く指が躊躇し始める。いっそ話の流れを変えてしまいたいと思ったが、彼女が起こした波は、俺の意思に関係なく、俺を暗闇へと流し始めていた。
[高井]:そんなにあの二人が心配?
[市松]:二人がくっついたら面白いなって。けど、駿河さんが熊田さんのこと好きでもなんでもないなら仕方ないですね
熊田が振られるということに賛同して欲しいのか。きっと、市松は熊田が振られる確信が欲しいのだろう。素直に頷きたい気分になれない。
[高井]:市松が心配してるのは二人のことじゃなく、熊田のことだろ?
さぁ、どう出る市松。吐くならはけ。熊田くんが大好きですって言ってみろ。
[市松]:どうせならくっついて欲しいじゃないですか
市松は否定しなかった。あぁ、やっぱりそういうことか。全ての点が線になった。
市松が熊田に怒られ、異様に落ち込んでいたあの日、相手が熊田だから落ち込んだということ。それに、やたらと駿河に絡んでいたように見えたあの雰囲気は、ただの恋の鞘当てだったようだ。そして、今こうして俺からの好きを遮断し、力づくで流れを変えたのかも、全て納得できた。
チャットで良かった。目の前に居られたら動揺を隠せる自信がない。ショックを受けたことを気付かれなくて澄んだ。
俺は大きく深呼吸をした。
[高井]:好きなんだろ? 素直になってみたらどうなんだ。本当に臆病なのは市松じゃん
[市松]:私は、臆病じゃなくて、潔いいだけですよ ☆(ゝω・)vキャピ
何がキャピだよ、まったく。内容はどうであれ、市松は好きだということを言わなかった。遠回しな言葉でごまかしている。素直さの欠片もないのだろうか。
まるで、意識があるのに手術されているような気分だ。白衣を着た医者が、ニヤけながら俺の腹をかき回している姿が目に浮かぶ。
分かっていた。前々から気づいていた。でも、まさか、俺からの好きを止めるかのように、熊田への気持を聞かされるとは思っていなかった。知らないほうが良かったこともある。少なくとも、この時はそう思った。
好きな人に薔薇の花をプレゼントできたという喜びは、一瞬にして全部吹き飛んでしまった。いや、市松に吹き飛ばされた。
俺は、市松が赤い薔薇の花束を、あの変な笑い方をしながら、一本ずつゴミ箱に捨てているところを想像していた。
[高井]:市松は熊田に好きだって言わないの?
[市松]:十一月には熊田さんが駿河さんのこと好きって知ってたんですよ
[高井]:それで、諦めるの?
[市松]:他の女性のこと好きな人を好きになるとか不毛すぎです
諦めませんよ私は! 市松はそう言いたいのだな。
花束の到着を待ちすぎて疲れたのか、体から酸素が無くなったかのように重くだるい。何だっけ、この感覚、何処かで味わったことのある感覚だな。やけにタバコが軽く感じて息苦しい――傷心? もしかして、告白もしていないのに傷心しているのか俺は。なんてことだ。
それにしても、市松は何故、駿河と熊田をくっつけたがっているのだろう。俺にはその理由が分からなかった。好きな相手が誰かと一緒になるなんて、普通は嫌だろう。どこまで本気でどこまで強がりなのか、現状では分からないことばかりだ。
この流れで分かったことは、俺は市松に対して一方通行で、その市松は熊田に一方通行。そして、熊田は駿河に想いを寄せているということ。それと、恋をしている時は確かに楽しいが、その何倍も苦しくなることだ。
俺は、その日からハローメイツに行くのが億劫になり始めた。休んでしまおうかとも考えた。教室へと向かうエレベーターは上昇しているのに、心は急降下している。市松の顔が見たくない。教室が近くなるにつれ、血圧がグッとあがってしまいそうだった。
次の日も、そのまた次も、出来るだけ市松と関わらないでいよう、そう心がけながら時間が過ぎるのを待っていた。
だが、俺の思いどおりにはならないのが現実で、神の悪戯なのか、市松はまた、オープンチャットで皆に標的にされていた。くそっ、関わりたくないのに放っておけない。
[高井]:笑って
[市松]:(?o?)
[高井]:今この場で声を出して笑ってみて
[市松]:無理です
[高井]:けちび。大丈夫か?
[市松]:私はITパスポートと基本情報の勉強で、てんてこまいです。悩んでる暇はない
[高井]:まぁ 何を言われても気にするな
[市松]:気にしませんよー
[高井]:そっか。なんか横顔から悲しいオーラが漂ってるぞ
[市松]:気のせいですよ。高井さん、普通に元気な時も心配してくること多いし
やっぱり、市松は俺にとって、かさぶた的な存在なのだな。気になって仕方がない。いっそ一気にめくって、血だらけになったほうが楽だとは思うが、またすぐに固まり、気になる存在に戻ってしまう。俺は一体、どうすればいいのだろう。