半歩手前の恋
市松のことが、とても気になる存在へと変わってから一ヶ月が過ぎた。俺の中で、市松に対する恋が深くなるには十分な時間だった。季節はどんどん寒くなっていくが、それに対し、市松に対する想いは温度を上昇させていく。
恒例の席替えでは、幸運なことに俺は一番後ろの席になった。三回連続で最後列をキープしていることになる。それだけでも嬉しいことなのだが、更にうれしいことが続いた。なんと、俺の一つ前に市松が座ることになったのだ。こんなにも良いことが続くと、運にも天にも祝福されている気がしてくる。
俺の前に市松が座るというとこは、いつも彼女が視界に入るということでもある。目を凝らせば、うなじの渦がどう流れているのかまでハッキリと見える。市松の生態観測にはもってこいの位置だ。
市松はいつもよく揺れ、よく動く。後ろから見ていても、何をしているのかすぐに分かった。パソコンに夢中になると、やたらと顔をモニターに近づけ、しばらくすると、突然頭が下に垂れて、そのまま動かなくなる。――あ、居眠りしているな。と、まぁ、見ていて飽きない。だが、その飽きないのが問題で、いつも市松を見ていたせいで、授業がほとんど頭に入ってこない。講師が前で何を言っているのか、さっぱり分からなくなってしまった。
そして、席替えをしてから一番の楽しみとなったのは、昼食の時間だ。いつも市松と話をしながら昼食をとっていた。
市松は、リスが食べるのか、と思わせるような小さな弁当箱を手に持ちながら俺の方を向き話しかけてくる。訓練が始まった頃は品がありそうな娘だと思っていたのだが、知れば知るほどそうでもないと分かる。食事をしながら振り向き話す姿には、品も何も感じられない。服装とギャップがありすぎる。
「高井さんは、駿河さんをどう思いますか?」
この日は、突然、駿河の話を始めた。何故、駿河の話をしだすのかは謎だが、それ以外話すことがないのだろうと、軽く考えていた。まぁ、俺からすれば、市松と話ができるなら、内容はどうでも良かった。
「どうって、何が?」
俺は、市松の手にある、小さな弁当箱の中身を確認しながら答えた。赤いウィンナーと、綺麗に巻かれた玉子焼きか。オーソドックスなチョイスだな、市松の母は。
市松の弁当はいつも母親が作っているらしい。二五歳の実家暮らしで、弁当くらい自分で作れよ、とも思ったが、よくよく考えると、市松の手料理なんてあまり見たくない気がする。弁当の中にお菓子やケーキなどが混ざってそうだし、料理を作れるようなイメージは全くない。まぁ、母親が作って正解なのかもしれない。
「駿河さんって、とっても綺麗ですよね?」
なんだ、この強制的に頷かされそうな質問は。駿河に聞こえるような声でそんな話をされて、違うなんて言えないじゃないか。俺は視線を駿河の方に移した。こっちを見ているというわけではないが、明らかに聞き耳を立てている雰囲気だ。
「そうだな。うん、いいと思うよ。ところで、その玉子焼き美味しそうだな」
俺は軽く話の流れを変えようとした。このままだと、また、市松の恋話が始まってしまいそうな気がしたからだ。
市松は人の恋愛話をやたらと聞きたがる。まるで、警察の職務質問でも受けているかのようなしつこさを感じさせるほどだ。市松が嫌われる理由の一つに、この、『市松恋話好き問題』があるだろう。この歳でこんな恋話が好きなやつって、恐らくあまり居ない。更に輪をかけて質が悪いのが、自分の話を一切しないということだ。やたらと人の話を聞いてくるくせに、逆に聞かれると話を誤魔化す。きっと、鬱屈した青春時代でも送っていたのだろうな。もしかすると、彼氏いない歴と年齢が一致しているのかもしれない。
市松は、俺が褒めた玉子焼きを食べながら、唇の左端を釣り上げて、少し微笑んだ。何だか嫌な予感がする。
俺は市松のそんな表情を見て、今朝の記憶を辿ってみた。よくよく思い出すと、通学のバスで特等席に座れていなかった。あぁ、思い出すんじゃなかった。
「うーん、どうでしょ、普通の玉子焼きですよ。それにしても、どうやったら、駿河さんのように綺麗になれるんですかね」
市松は、その微妙な笑みを持続させながら、今度はさっきより少し声を大きくした。明らかに駿河へと聞こえる様に話したのだと分かる。
この妙な笑顔は何だろう。目の曇りようからして、心から笑っている顔ではない。本気で駿河を褒めたいだけなのか、それとも何か裏があるのだろうか。恐らく、後者だな。市松が何を考えて駿河の話をしているのかは分からないが、ここは適当に話を終わらせるのがベストだろう。
「まぁ、どんなにあがいても、お前には超えられない壁だな」
俺がそう言い終えようとしたとき、左斜め前方から、俺と市松の会話を断ち切らせるような、大きな声が聞こえてきた。
「私の話しをするのは止めてください!」
駿河だ。やはり聞き耳を立てていたようだ。風邪をこじらしているのか、マスクをしていて口元は見えないが、目には力がこもっており、市松を真っ直ぐ睨んでいる。どうやらご立腹のようだ。
「いや、私はただ……」
市松は駿河の方に向き、少し姿勢を正しながらそう言った。ここで素直に話を辞めればいいのだが、それが出来ないのが市松だ。
「私に関わらないでくれます?」
駿河の言葉は、刺だらけのすごい言葉だ。目から放たれている気迫もすごい。なんだ、この二人、そんなに仲が悪くなっているのか。
「でも、そんな……」
市松は、まだ何かを言おうとしている。プライドのなせる技なのか。ここで止めないと、良くない方に向かってしまいそうだ。
「――落ち着けよ」
俺が駿河にそう言おうとしたとき、関係の無い外野達がザワつき始めていることに気がついた。
「またアリスか。ほんと、ウザい奴だよな」
野中が言った。野中慎二。おおらかな性格で努力という言葉が似合いそうな男。野球好きの、健康優良児という感じか。市松に『アリス』というあだ名をつけたのは、何を隠そう、この野中だ。
野中の一言で、クラスの半数以上の視線が市松に集中していた。
「喋らなければいいのに」
熊田までそんなことを言い出した。
カラッポの笑い声が、男女どちらともの声質で聞こえ始める。
これでもまだ、何か反論するのか市松。俺はそう思いながら市松の顔に視線を移した。
――フリーズしている。
市松は、斜め下に視線を落とし微動だにしなくなっていた。普段、頭が良いくせに、こういう状況に弱いようで、あ~、う~、と声にならない声を出そうとしていた。フリーズしても、まだ何か言いたいようだ。一言居士な性格が仇になってしまっているな。
市松がフリーズしたらこんなことになるんだ。いや、今はそんなことを思っている場合ではない。まずい、まずいぞ。どうにかしないと、収まらなくなってしまう。
「いい加減にしろよ!」
俺は席を立ち、大きな声でそう言ってしまった。
やばい。当然のことだが、市松へと向けられていた視線は俺に集中している。今度は俺が、あ~、う~、と言いたくなってしまいそうだ。
やってしまった。自分でも情けない顔をしているのが分かる。この場合どうすればいい? やはり怒った口調で大きな声をだしたのだから、まず、この情けない顔をなんとかしなくてはいけない。俺は自分の声質にそぐうような表情に変えた。
そういえば、昔もこんな状況があった気がする。そうだ、俺もそうだった。張り詰めた空気の中で、俺は高校時代のことを思い出した。
当時の俺は荒れた生活で、見るもの全てが敵だった。クラス全員が敵に見えていた。皆から腫れ物でも扱うかのような態度をされていたい。
市松とは少し状況が違うが、邪険にされていたのは同じだ。市松がそうなっているのを見ていると、自分を見ているような気がしていたのかもしれない。
当時の俺なら、恫喝して事を終わらせていたが、今はそうはいかない。さすがにこの歳でそんなことしてしまえば、ただのバカになってしまう。それよりも、そんな嫌なことを思い出させるこの雰囲気を何とかしなくては。
「――いくぞ」
俺は市松の手首を掴み、急いでその場を去った。市松は足元をフラつかせながらも、何とか脚を合わそうとしていた。
俺は、市松の手を引いたまま教室を離れ、喫煙所へと向かった。外は雨が止んだばかりのようで、濡れたアスファルトに太陽の光が反射している。
喫煙所の少し手前で足を止め、タバコに火を付けた。リラックスするにはこれが早い。 市松の顔を見ると、フリーズ状態からは開放されているようだが、眉は少し八の字を描き、頼りない顔をしている。
沈黙、また沈黙。昼の街は外食するサラリーマン達が多く少し騒がしい。その騒がしさのお陰で、気まずさはあまり感じない。
その沈黙は、タバコの半分ほどが灰に変わったころ、近くを通ったトラックが鳴らした、必要以上に煩いクラクションをきっかけに、どちらからとも無く笑い始めて終わりを告げた。
市松は目を三日月型にさせ、情けないような笑顔に変わっている。いい笑顔だ。この、情けなくなるような笑顔を守ってあげたい。俺は、煙草の煙にむせ返るほど笑いながら、そう思った。
「なぁ、市松。頼みがある」
俺は、乱れた呼吸を出来るだけ戻しながらそう言った。市松は、笑いの余韻が残った目で俺を見上げた。
「え~、嫌な予感……」
何が嫌な予感だ、まだ何も言ってないのに。思わず突っ込みたくなるところだが、話を続けることにした。市松のこんなところに構っていたら、話が先に進まない。
「俺は、ずっと気になっていたことがあったんだ」
「やっぱり、嫌な予感……」
「お前が、皆に責められるところを見るのがずっと嫌だった」
「え~、私そんなに責められてたかな」
市松は腰のあたりで手を組み、体を揺らしながらそう言った。どんな心境の時にこの仕草が出るのかは未だに分からない。
「頼むから、あまり嫌われないようにしてくれよ」
「高井さんって、優しいですね」
「――真面目に聞いてくれ」
「平気ですよ、私。旅の恥はかき捨てですし、気になんてしてませんから」
全く、こいつに説教は無意味なのだろうか。暖簾に腕押し、馬に説法。たぶん、何を言っても無駄なんだろうな。
「分かった。兎に角、敵を作らないように気をつけてくれよ」
「善処します!」
市松はそう言って振り返り、小走りでその場を去っていった。
呆れて物も言えなくなる。あんなことがあった後だというのに、市松の意味不明な発言は健在だった。
「何とかしてやれないものかな」
俺は、市松の背中が見えなくなるまで見送った後、落ちそうになっていたタバコの灰に気付き、喫煙所にある細長い灰皿へと向かった。
すると、誰も居ないと思っていた喫煙所に人影が見えた。驚いたせいで、灰を地面に落としてしまった。
喫煙所に居たのは甲本だった。甲本は、押せば壊れそうな薄い壁に持たれ、タバコを美味しそうに吸っている。何だか眠たそうな顔をしているな。
甲本久志。クラスの兄貴的存在。ヤンキーがそのまま年齢を重ねたような感じだが、割りと優しく、自由奔放なところがある。もしかすると、甲本だったらあの状況を簡単に解決できていたのかもしれない。
ここに居たということは、市松との会話を聞かれていたのだろうか。この距離なら聞こたかもしれないが、街の騒音が邪魔していた可能性だってある。まずは知らん振りをしておくとするか。
「甲本さん、居たのですか」
「あぁ、お前らがピーピー騒ぐ前から居たさ」
やっぱり聞こえていたか。適当にごまかすべきだろうか。いや、むしろ好都合だろう。甲本に話をすれば、一人でも市松の味方が増えるかも知れない。その相手が甲本なら適任かもしれないな。
「甲本さん、実は……」
俺は教室での出来事を軽く話した。甲本は鋭い目でこっちを見ている。別に睨んでいるわけでは無さそうだが、この目は何だか心の奥を覗かれているような気がして、むず痒くなってくる。
「お前、市松が好きなんだな」
言いにくいことを直球で聞いてくる。甲本らしいな。
「――正直、その辺は自分でもよく分かりません」
確かに甲本の言うとおり市松は好きだ。でも、恋と呼ぶには何かが足りない。性的な欲求も沸いてこない。まぁ、そこは、市松に色気が無いだけかもしれないが、燃え上がるような感情も特に無い。恐らく、恋の半歩手前なのだと思う。――半歩手前。その半分が意外と大きい。
甲本は何も言わず、黙って俺の話を聞いている。興味が無いのか、返事に困っているのかは分からない。俺は自分の気持をうまく説明出来ない焦りからか、何度も同じことを言っているような気もするが、兎に角、今の気持を素直に話した。
「なるほど。お前が市松のことをどう思っているかはよく分かった。まぁ、要するにあれだな……」
甲本はそう言いながら、灰皿でタバコをもみ消した。俺は、そのもみ消されたタバコをじっと見ながら、続きそうな言葉の先を待っていた。
「惚れた女をどうしたいか、じゃなく、お前が何をしてあげられるかだな」
甲本がそう言い終えた後、タイミングを見計らったかのように、喫煙所に誰かが来た。視線を移すと、今まで喫煙所には一度も来たことのない女性だった。
佐藤香織。化粧っけの全くない女性だが目鼻立ちがハッキリとしたクラス一の美人だ。ボーイッシュな髪と明るい笑顔がとても印象的な女性。気が強く、何でもハッキリと物を言う。そんな佐藤が何でこんなところに来たのだろう。俺がそう思いながら佐藤を見ていると、佐藤は甲本の方へと歩み寄った。
「お待たせ」
「遅いぞ。タバコ二本も吸ってしまったじゃないか。俺を肺がんにさせるつもりか?」
「ごめんごめん。さ、行きましょう」
「じゃーな、高井」
甲本は、さっきまで眠たそうな顔だったのに、何だかとても嬉しそうな顔に変わっていた。何だ、あの雰囲気。確実に恋人同士だな。何て手の早い奴だ。まさか佐藤と……。いや、まて。大人同士だから口を挟むつもりは無いのだが、確か甲本は妻子持ちだったはず。あぁ、仲良さそうに腕まで組んで歩いている。羨ましい。
「何をしてあげられるかねぇ……」
彼氏でもなければ身内でもない。他人の俺に何が出来るのだろう。俺は、甲本の言葉に悩まされていた。とんでもなく難しい宿題を出されたような気がする。その宿題は、何日経っても答えが出てこなかった。
俺は市松に何をしてあげられるのだろう。彼女のことなんて、何も知らないのに。