表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
せめて、あの花が枯れるまで  作者: 甲末多紋大
3/14

フォーチュン・バス

 その日は朝から雨が降っていた。雨というだけでも憂鬱な気分になるというのに、毎朝飲んでいるインスタント珈琲が切れていたり、いつもより頑固な寝癖がついていたりと、嫌なことが続いた挙句、家に一本しか無かった傘が壊れていたりと、嫌なことばかりが続いていた。

「あらら、どうするんだよ、これ」

 綺麗なバランスを保っていた多角形が、たった一箇所バランスを崩して骨組みが見ているだけで、滑稽な物になってしまう。

 二ヶ月前までは予備の傘があったのだが、別れた彼女が持って行ったきり、帰ってきていない。

「クソッ。傘くらい返しに来いよ」

 俺は、その崩れた多角形を睨みながら愚痴をこぼした。まぁ、よっぽどの傘ではない限り、別れた相手に傘なんて返しに来るわけがないか。

 仕方なく壊れた傘を差し、出来るだけ壊れた部分が人目につかないよう、注意しながらバス停まで歩いた。

 家からハローメイツまでは、バス一本で通える。行きも帰りもバス停が近いので、通学は楽だった。

 閑静な住宅街。もし、この町で何か事件が起きたらそう言われるのだろう。言い換えると、何もない町ということか。

 梅田から割りと近いのだが、駅前にコンビニが目立つように建ち始めたのは最近のことで、本当に何もない町だ。

 家から歩いて五分程の距離に、駅前ロータリーがある。バス停はそのロータリーの端にあり、幼いころからよく利用していた。

 この時間は利用者も少なく、バス停にほとんど人は居ない。晴れている日なら、老人達がたむろして話し込んでいるが、今日は雨なので、五人しか居なかった。

 いつもなら八時五八分発のバスに乗れるよう、時間を考えて家を出るのだが、この日は壊れた傘のせいで、九時六分発のバスに乗ることになった。本当なら、もっと遅いバスに乗っても十分間に合うのだが、俺の性格なのだろう、少し早めに行って喫煙所でゆっくりと過ごしてから教室に入るようにしていた。

 しばらく待つと、水溜まりを跳ね飛ばしながらバスが走ってきた。少し離れた場所で待っていた俺は、並んでいる人達の最後尾に並び、バスへと乗り込んだ。

 乗り口はバスの中央部分にあり、前半分には一人がけの席が左右に並び、後方に二人がけのシートが左右に並んでいる。

 出口は運転席の横にあり、出るときにお金を払うシステムなので、乗った後に財布を忘れたことに気づいたらどうなるのだろう、と昔から疑問に思っていた。もちろん、試す勇気は無い。

 バスは時間的に混雑もなく、俺はいつも、後ろから二列目の左側に座っていた。俺の特等席だ。二人がけの席を一人で悠々と座るのが気持ちいい。何故この席かと言われても、特に深い意味は無い。強いて言えば、幼い頃からよく座っていたから、それくらいだろう。

 何でもそうだが、いつもと同じというのは気持のいいもので、人間、生きていると色々なリズムが生まれてくる。何気ない単調なことでさえも、意外と重要だったりするものだろう。

 だが、この日は、先に並んでいた中年の夫婦が、俺の特等席に座ってしまった。生活のリズムが崩されたようで、少しだけ嫌な気持ちになるが、別に俺の指定席というわけでもないので、先に座ったもの勝ちだ。

 仕方が無いので、俺は通路を挟んだ反対側の席に座わり、いつもの様に本を読み始めた。バスに乗っている時間は、俺にとって良い読書タイムだ。時間にして二五分程度なのだが、長すぎず、短すぎない、丁度良い時間だった。

 しかし、いつもと違う席というのは、どうも居心地が悪く感じる。おまけに、俺の特等席を先取りした中年夫婦が、やたらと大きな声で話をしているせいで、読んでいる文字が頭の中に入ってこなかった。仕方がないので、本を読んでいるふりをしながら話を聞いていたが、どうでもいいような話ばかりだ。

 結局、俺の読書タイムは、只々、本を読んでいるふりをしているだけ、という時間になってしまい、何だかパッとしない気分になっていた。それはハローメイツに到着しても同じだった。


 皆と言葉だけの挨拶を交わした俺は、すぐに市松の異変に気がついた。挨拶を返すこともせずモニターを見つめ、視線を動かそうともしていなかった。細い目が更に細くなり、気だるさを漂わせている。

 その状態は朝だけでなく、二時間目が過ぎても続いていた。誰とも関わろうともせず、チャットにも参加しない。

 そんな市松の変化を、誰も気づいていないのだろうか。それとも、市松の元気がない理由を知っていて触れないだけなのだろうか。

 何で元気が無いのだろう。雨が振っているからなのか。俺は単純にそう思ったが、市松が雨ごときで落ち込むなんてピンとこない。きっと何かあったのだろう。放っておこうかとも思ったが、一度気になったら止まらなくなってしまう性格なので、俺は、市松にメッセージを送ってみた。

[高井]:どうした、元気ないな

 すると、五分程して、市松からメッセージが返ってきた。

[市松]:え、そんなこと無いですよ~ (*ノω・*)テヘ

 ご丁寧に、テヘッ、と書かれた顔文字まで付けている。二五歳にもなって、その顔文字はどうなんだ? と思うが、市松はいつもこんな感じだ。酷い時には文は一切なく、顔文字だけ送ってくる場合もある。

 とりあえず、返ってきたメッセージだけを見ると、確かにいつもの市松だ。何の問題も無さそうに見える。だが、やはり可怪しい。今日は一度も笑った顔を見ていない。

 チャットだけではよく分からないので、俺は、休憩時間に声をかけてみた。

「なんだ、眠たそうだな」

「そうですか? 気のせいですよ」

 市松の目を見てみたが、透き通るような目は、蛍光灯の光を綺麗に反射させていたが、どこか暗さを感じさせている。豊齢線がやけに目立つ。いつもなら、おでこと鼻の間くらいから出てくるような声の高さなのだが、今日は鼻と口の間から出ているのかと思うくらい低くなっていた。

 それにしても、元気が無いときの声も悪くないものだな……。俺はつい、そう思ってしまった。自分のデリカシーの無さが浮き彫りになってしまう。

 市松は、何とか笑顔を作ろうとしているようだが、どうも作り笑いがぎこちない。まぁ、この変な笑いはいつものことだから問題ないか。

「そっか。どうせ夜更かしでもしたんだろ」

「夜更かしはお肌の敵なのでしません」

「確かにそうだよな~。二五歳にもなると、肌が心配だよな」

 市松は細い目を大きく広げ、しばらくして、今度は目を三日月形にさせながら笑った。

「高井さん酷い!」

 暗い表情が少し混ざった市松の笑顔が、妙に心地よく感じられた。

 笑ったな、アイツ……。なんだろう、この変な安心感は。やけに心が落ち着く。俺はそんな市松を笑いながら席へと戻り、市松が何故、元気がなかったのかを考えていた。

 理由は何だろう……。市松が落ち込む理由を想像してみるが、何も思いつくものがない。 お腹が空いたとか、プログラムが上手く動いてくれないとか、そんな理由しか思いつかない。いつも市松のことを見ていたつもりだが、よくよく考えると、市松のことなんて本当は何も知らないということか。

 そう思いながら辺りを見渡してみると、市松以外にも様子が可怪しい人物が一人居た。

 熊田雄太。クラスで一番背が高くて体格の良い男。あだ名はガードマン。普段は大人しく、かなり控えめな性格なのだが、あぁやって時々、怒りをコントロール出来なくなっているのを見る。

 細いタレ目に力を込め、キーボードを叩く指の動きが荒い。分かりやすい奴だが、正直、熊田のことはあまり知らない。同じ訓練校生として挨拶くらいはする程度の仲だ。

 それにしても苛立っている姿が似合わない奴だな。体が大きいせいで、ノートパソコンがオモチャのように見えてしまう。その小さなオモチャを必要以上の力で叩いている姿が滑稽だ。

 熊田と市松は同い年で仲がいい。よく一緒に居るのを見かける。俺が喫煙所から戻ってくると、二人は通路で立ったまま話をしていて、かなり邪魔な存在だった。ほんと、迷惑というものを考えていないのか、それとも、俺が通ろうとしているのが視界に入らない程、夢中で話をしているのか。まぁ、どちらでもいいのだが、俺からすると、あまり気持ちのいいものではなかった。あまりに仲が良さそうなので、もしかして、二人は付き合っているのか?とも思ったことがある。そうだとすると、尚更気分の悪い奴だ。

 熊田は機嫌が悪く、市松は落ち込んでいる。この状況からして、市松と熊田の間で何かがあったと解釈すべきだろうか。熊田に聞けば何か分かるかもしれないな。あまり話しかけたくないが、仕方ない。少し仕掛けてみるか。

 俺は、熊田の隣に座る堀井駿に話しかけてみた。

 堀井駿――天然に近いおっとりタイプ。同じ喫煙組という親しみのある奴だ。二二歳という若さで麻雀とパチンコが趣味だというから驚きだ。

「なぁ、堀井。なんか市松の様子が変じゃないか?」

 堀井は少し目を丸くした。何のこと? と言いたそうな目で俺を見た後、視線を市松に移し、また俺に戻した。

「そうなんですかね。言われてみれば、そんな気がしますね」

 堀井は、掛けている黒縁メガネのズレを直しながらそう言った。本当に気づいたのだろうか、それとも、俺に話を合わせているのだろうか。どっちとも取れる返事だが、今重要なのは堀井の返事ではく、熊田の反応だ。

 俺は熊田に聞こえるよう、敢えて声を少し大きく話した。熊田の反応がどう出るか、俺は様子を伺っていた。

 熊田は顔を動かさず、眼球だけを俺の方に向け、顔をチラッと見てまたモニターに視線を戻したが、明らかに指の動きが止まっている。俺と堀井の会話が気になっているのが分かる。あ、また目が合った。やはり何かあるな。俺はついでを装いながら、熊田にも話しかけてみた。

「熊田は知ってるのか?」

「ええ、まぁ……」

 熊田は俺と目も合わそうとせず、軽く返事だけをした。そんなにも俺と話すのが嫌なのか? と思ってしまうような態度だ。もしかすると、聞かれたくないのかも知れない。だが、やはり熊田は何かを知っているらしい。さぁ、どうしよう。このまましつこく聞けば、話しだすような雰囲気だが、あからさまに目を逸らされると何だか聞きにくいな。

「なるほど、やっぱり市松は落ち込んでたんだな」

 俺は、さり気なくそう言って小さく頷き、前を向こうとした。

「実は……怒ったんですよ」

 熊田は、ノートパソコンから目を離すこと無く、少しふてぶてしい顔をしている。顔の割に小さな耳が赤くなっている。

 ビンゴだった。市松が落ち込んだ原因は熊田にあったようだ。しかも、熊田が市松を怒ったらしい。だが、あの市松が、怒られたくらいであんなにも落ち込むのだろうか。少し疑問が残る話しだ。

 まぁ、怒ると言っても、子供に「こらッ」と怒る程度もあれば、どこぞの暴力団のように「ゴラァァァァッ!」という怒り方もある。幅は広い。

 よっぽど酷い怒られ方でもしたのだろうか。だが、体格に似合わず気の小さい熊田が、そんな暴力団のような怒り方をするようには見えない。いったいどんな理由で怒られ、どんな怒り方をすれば、あの市松があんなにも落ち込むのだろう。つい、好奇心が出てきてしまう。こうなると、自分でも止められない。

「なるほど、何で怒ったの?」

「駿河さんが迷惑してるから、もう駿河さんに関わるな、って怒ったんですよ」

「駿河が迷惑?」

 駿河――駿河夏子か。身長一六〇センチ前後で、体重不明の二四歳。少々、猫背っぽい感じではあるが、色っぽい目が印象的な女だ。少し短気なところがあり、扱いにくいという面はあるが、サバサバした性格と甘え上手なところは男女ともに人気があり、元気な妹という感じだ。

 駿河、熊田、市松。この三人は確かによく一緒に居る。いや、厳密に言うと、熊田と駿河というペアに、もれなく市松が付いている感じか。

 訓練が始まったばかりの頃は、駿河と市松は仲良さそうにしていたのだが、確かに、最近は駿河が市松を邪険にしているように見える。市松は、そんな駿河の態度を気にしていないのか、それとも、気づいていないのかは分からないが、飼い主に邪魔者扱いされている坊主のプードルが、一所懸命、飼い主から離れないようにしているように見えていた。

 まぁ、見方によっては、じゃれあいのようにも見えていたが、熊田がそうやって市松を怒るくらいだから、きっと本当に駿河は嫌がっていたのかもしれない。どんなに仲が良くても、時々、意味不明なことを言う市松にずっと絡まれていたら、誰でも嫌になるだろう。駿河の心中を察してしまう。

 それはさておき、誰に何を言われてもケロッとしていた市松が、そんなことを言われたくらいで落ち込むのだろうか。他の奴等に、もっと酷いことをいっぱい言われているのを何度も聞いたことがあるが、いつもケロッとしていた。疑問はまだまだ解明されなかった。

 まぁ、細かい理由は分からないが、どっちにしろ、このふてぶてしい態度を取っている熊田が、市松を落ち込ませたってことなのか。何だか腹立たしくなってくるが、俺に怒る権利なんて全く無いので、それ以上問い詰めることをせず、気にしていないふりをしてやり過ごし、心の中で文句を言っていた。まぁ、心の中で怒るのは俺の自由だ。

 やっぱりそうだ。通学のバスで特等席に座れない日は、あまり良い日になった覚えがない。フォーチュン・バスは意外と馬鹿にできないな。

 それにしても、市松でも、怒られて落ち込むことがあるんだな。そう思いながら市松のことを眺めていると、市松が不器用な女なんだな、と思え、父性に近い感覚だろうか、胸の奥で優しい気持が雲のように浮かんでいるような気分になってきた。

 その日から、俺は今まで以上に市松のことが気になり始めた。彼女を笑わせていたいとさえ思うようになっていた。気になる存在程度だったはずが、とても気になる存在へと変わっていた。よくよく考えると、俺は彼女の表面しか見ておらず、本当の市松を見ていないのではないか。本当の市松って、どんな人なのだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ