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せめて、あの花が枯れるまで  作者: 甲末多紋大
2/14

初、市松

 夏がまだ終わりきっていない九月の半ば、梅田の隅にあるビルの喫煙所で、俺はタバコを吸っていた。喫煙所は、ビルの一階外側にある駐輪場の端に儲けられており、押せば壊れそうな薄い壁で仕切られてある。三畳程のスペースの真ん中には、細長いステンレス製の灰皿が一つ置いてあった。

 喫煙所の壁には、何やら色々な張り紙が貼ってあり、中でも、この日一番気になった張り紙は《当ビルに関係の無い方の喫煙はお断り》と、大きな赤い字で書かれた張り紙だ。

 まぁ、こんな張り紙があるのも場所柄だろう。梅田という繁華街の端にあるビルの外側に灰皿なんて置いていたら、通りすがりの人や、このビルに縁の無い人達が、どんどん使ってしまうのだろう。ある意味、使ってもらったほうが街の美化には貢献しているような気もするが、掃除させられる持ち主側からすれば、たまったものじゃない。

 当ビルか……。俺も今日から関係あるので気にしなくてもいいはずなのだが、実感が湧かないせいで、怒られやしないかと敏感になってしまう。

 募集人員二十二人。申し込んだ人数は、四十人程。これが、職業訓練校――ハローメイツーメイツを受けた人数だ。約半分の人が落ちたということになるか。何故、こんな俺が合格出来たのかは分からない。合格通知を何度も確認してみたが、間違いでは無さそうだ。

 三〇歳を超えた男が、やったこともないプログラムを学んでどうなるのだろうか。インターネットで調べてみたが結果は散々だった。三〇歳を超えたらプログラマーとして最悪だとか、訓練校程度の知識で何ができるのか、など。出だしから目標を潰されている気分だ。だが、受かった以上、通わないわけにはいかない。このまま何もしないよりも、ダメでも何かをやってみたかった。

 何だか少し緊張する。この歳になって、学校に通うことになるとは夢にも思っていなかった。学校と名の付くものに通うのは久しぶりのことだ。一八歳の時、車の免許を取るために行った教習所が最後のはずなので、一五年ぶりということか。それ以来、勉強なんて、本を読む程度しかしていない俺が、本当に何かを学べるというのだろうか。自信がない。

 時計を見ると、九時四〇分だった。一〇時からの授業だが遅刻すると、理由やら何やらとややこしいので少し早めに来ていた。

 そろそろ行こうか。俺は深呼吸をするようにタバコの煙を吸いこみ、ゆっくりと吐き出しながら細長い灰皿でタバコの火をもみ消し、ビルの中へと向かった。

 ビルのホールは小奇麗なデザインで、大理石が光を反射させていた。テナントの家賃収入には困らなさそうな造りをしている。

 ホールの隅にエレベーターが二つ並んでいたのでエレベーターに乗り、九階まで上り、ドアが開く。出ると、すぐに左手に教室のドアがあった。

 九〇一号室。間違いない、この教室だ。だが、やけに静かだ。物音一つ聞こえてこない。

 時間は九時四五分を少し過ぎていた。一〇時から始まるはずなので、誰か来ていてもいいはずなのに、静かすぎる。もしかして、部屋を間違えているのだろうか。俺はそう思いながら、鉄製のドアをゆっくりと開いてみた。

 二〇畳程の教室。教室と言うより、会議室を無理矢理、教室にしたような感じか。三人ほど座れそうな長机が縦三、横四列に並んでいる。中にはすでに、一五人程の人が席についていた。皆の硬い視線が一斉に自分に集まる。

 なるほど、やけに静まり返っているわけだ。硬いのは視線だけではなく、表情や姿勢からも感じられる。皆、銅像のように硬くなっている。どうやら、緊張しているのは俺だけではないようだ。静寂が煩く感じるくらい静かだった。もちろん、裸の女が出てきそうな雰囲気ではない。

「空いている席に座ってくださいね」

 少し鼻の通ったような男性の声が聞こえた。声の方をみると、四〇歳を超えてそうな男性がホワイトボードの前に座っていた。歌舞伎を思わせるような彫りの濃い、見覚えのある顔だった。今日はスーツではなく、少しよれた長袖のシャツとジーンというラフな格好なので一瞬分からなかったが、この学校の説明会や試験、面接を仕切っていた男性だった。恐らく講師なのだろう。俺はその歌舞伎顔の男性に軽く頭を下げ辺りを見渡した。

 はて、何処に座ればいいのだろう。空いている席と言われても悩む。長机には椅子が三つずつあるようだが、先に来ている人達が均等に距離を保ちながら座っていた。パーソナルスペースってやつか。硬い視線が、距離を崩さないで、と訴えている。

 その気持は俺にもよく分かる。俺も逆の立場なら、こんな野郎が隣に来るなんて避けてほしいと思うだろう。だが、空いている席に座れと言われた以上、こっちも座らない訳にはいかない。ということで、俺にとって一番条件の良さそうな席が何処なのかを探してみた。もちろん、変に迷っていると可怪しいので、別にどこでも良いけど、という顔をしながら席を探した。

 第一条件は、やはり後ろの席だ。俺の身体が人より少し大きいというのもあるが、小学校の頃から前の席は苦手だった。後ろから人に見られているなんて、気持ちよくはない。

 第二条件は、可愛い女の娘の隣が良いということか。どうせ、すし詰めの様に座らせるのならば、むさ苦しい男なんてゴメンだ。

 そう考えながら見渡すと、運良く条件を満たす席があった。ハーフ顔の若くて可愛らしい女の娘が一番後ろの席に座っている。その隣には、まだ誰も座っていなかった。少し気が強そうな目つきだが、一番後ろで可愛い娘の隣なんて、そこしか見つからない。

 よし、あの席にしよう。俺は顔をニヤけさせないように注意をはらいながら、ハーフ顔の可愛らしい娘に軽く会釈をし、隣の席に座った。気のせいだろうか、可愛らしい女性から冷たい視線を感じたが、気にしちゃいけないだろう。

 テーブルには、一人一台、明らかに安物だと分かるような、使い古された黒いノートパソコンが置いてあり、最低限のボタンが付いたマウスが横にあった。なるほど、これで勉強をするのか。

 そして、耳鳴りがしそうな程静まり返った教室内は、時間と共に人が増え、いつしかほぼ満席状態となっていた。あと二分程で一〇時になろうとしている。まだ二席空いているようだが、全員揃ったのだろうか、そう思っていると、勢い良くドアを開け、一人の女性が慌ただしい音を立てながら入って来た。

 歳は二五歳くらいだろうか。その女性は、慌ただしさとは少しだけ縁がなさそうな、どちらかというとお嬢様っぽい雰囲気をしていた。黒い髪をまっすぐに下ろし、品の良さそうな服装で、ボタンを一番上まで閉めている。清楚を思わせるような女性だ。遅刻しそうで急いでいたのだろう、頬が少し赤らんでいるようにも見える。

「すみません」

 蚊の鳴くような小さな声でそう言って頭を軽く下げ、俺の席から四つ前、つまり、一番前の席に座った。

――あ、あの娘だ。

 俺は以前、彼女を見かけたことがあった。それは、この学校の面接会での話だ。

 小柄で黒い髪が肩の下まであり、正直、可愛いとはいえない容姿だったのだが、面接会という緊張の中で、俺は彼女のことが気になり、何度も目で追っていた。

 俺は、面接会のときと同じように、彼女の後ろ姿をずっと眺めていた。理由は分からないのだが何か気になる。何分くらい見つめていただろうか。歌舞伎顔の講師が、教壇で自己紹介をしていたようだが、完全に聴き逃してしまっていた。

 俺はこの数分間で、その彼女に対し、直感めいたものを感じていた。この娘にはもっと惹かれる気がする、そんな気がした。もちろん、外見的に一目惚などという軽いものではない。好みかと言われると「違う!」とはっきり言える。外見だけで言うならば、隣に座っている娘の方が数倍可愛いだろう。だが、何故かそう感じていた。今思えば、脳よりも先に心が何かを感じていたのかもしれない。

 気になっていたから好きになったのか、好きだから気になっていたのかは今でも分からないが、兎に角、これが、市松恵美との出会いであり、俺の失敗の始まりでもあった。


 ハローメイツに馴染むのは、思ったよりも時間がかかった。ウェブプログラムの訓練だからだろうか、やけに変わり者が多い。挨拶が苦手な奴やパソコンが友達というような奴も居た。楽しそうな声が聞こえてきたかと思えば、アニメの話やゲームの話しばかりが耳に入ってくる。

 もちろん、俺もアニメやゲームは大好きだ。趣味は何ですか? と聞かれれば、アニメを見ることとゲームをすることだと言える。ここに来るまで、俺は自分のことをオタクの部類に入ると思っていたくらいだ。だが、本物のオタク達の中に入ってみると、俺なんてオタクの部類には入らないということがよく分かった。

 休憩時間になれば、携帯型ゲームで自分の世界に入っている奴が居たり、名前も知らないアニメの話しや、声優、キャラクターの話が飛び交っていたりする。何を言っているのかさっぱり分からない。

 誰が言い出したかは覚えてはいないが、いつの間にか皆でチャットをやり始め、授業で分からない時には教えあったり、暇な時には雑談で盛り上がったりしていた。

 それにしても、最初の頃の静寂は何処に行ったのだ。あの銅像のように緊張で硬くなっていたのは、いったい何だったのだ、と思わされる。

 まぁ、笑い声が溢れるのは悪いことではない。話には付いて行けないが、見ていて微笑ましいとも思える。だが、そんな笑い声の中に、時々カラッポな笑い声も混ざり始めていた。人を小馬鹿にしたような笑い声。その対象は、いつも市松だった。

 市松は、初めて見た時の印象とは真逆の存在で、クラスの中で浮いた存在だった。いや、それだけならいいのだが、どちらかというと、嫌われ者扱いされていた。痛女、メンヘラ、どの言葉が相応しいのかは分からないのだが、兎に角、嫌われていた。

 市松は、異様にプライドが高く一言居士な性格。意地になったら相手が講師であろうが引き下がらないし、動きも何処かメルヘンチックだ。腰のあたりで後ろに手を組み、ユラユラと揺れていたり、リアクションがやたらとオーバーだったりする。十代なら可愛いと思われるのかもしれないが、さすがに二五歳を過ぎたキツネ顔の女がやると、奇妙さを感じさせられる。なので、訓練が始まって一週間もしないうちに、『アリス』というあだ名が定着していた。もちろん、そのあだ名は、不思議の国のアリスからきている。

 当の本人は色気たっぷりの熟女だと言っているが、熟女といえる歳でもなければ、色気の無さについては、毛を刈り込まれて坊主にされたプードル、といい勝負だ。

 そして、その嫌われ度合いは、インフルエンザが流行するような早さで広まり、訓練開始から一ヶ月を過ぎた頃には、『市松は変なやつだ』とか、『アリスは嫌い』と、言われていた。

 だが、当の本人は何を言われてもケロッとした表情を見せ、まるで気にしてないかのような素振りをしている。打たれ強いのか、それとも、虐められていると気づいていないバカなのか、それは分からない。

 俺はそんな市松がいつも気になっていた。好きになる理由は見つからないのだが、いつも視界に入れてしまう。思うに、市松は俺にとってかさぶたのような存在だったのかもしれない。触れなければ何てこと無いのだが、気になってめくってしまいたくなる。

 そして、そのかさぶたを初めてめくってしまったのは、訓練が始まって二ヶ月程経過した頃だった。

 秋も深まり、上着を来てくる人が増え始めたころ、あの、何を言われてもケロッとしていた市松が、暗い表情をしていたことがあった。

 恐らくあの日、あんなにも落ち込んだ顔をした市松を見なければ、俺はかさぶたをめくるような真似はしなかっただろう。

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