私の走る意味6
次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。
そばでおばあちゃんが心配そうな目でこっちを見ていた。
私が目を覚ましたらおばあちゃんはよかったと私を抱きしめながら泣いた。
そのあとお医者さんが来て簡単な検査を受けた後三週間は入院することになった。
私は体中を刃物で切り付けられて全治八週間らしい。
切り付けられた傷一つ一つは浅く、傷はほとんど残らないだろうとの話だったが、足だけはだめだったようだ。
やはり足は腱を切られているらしく、手術しないと動かないとのこと。治ったとしても以前のようには走れないだろうとのことだった。
警察の人が来て事情聴取というのを初めて経験した。
それから三週間くらいで犯人は逮捕されたらしい。
何も考えていない愉快犯だったようだ。
何はともあれ捕まったのならいいことだ。
三週間の間にクラスのみんなやマユがお見舞いに来てくれた。
私が大会に出られなくなったから私の後任はマユになったらしい。おめでとう。
みんな優しい言葉をかけてくれた。心配してくれた。素直にうれしかった。
でもサカキは来なかった。
あっという間に三週間がたち私は足にギプスをつけたままだけど退院日を迎えた。
お世話になった看護婦の人やお医者さんに別れの言葉を言って迎えに来てくれたおばあちゃんと一緒に家まで帰った。
その日は退院祝いだといって仕事から帰ってきたおじいちゃんも一緒にみんなでお寿司を食べに行った。久しぶりに食べるお寿司はすごくおいしかった。
次の日から私は松葉杖をつきながら学校に行った。
三週間ぶりの学校なので少し緊張したけどみんな優しくて、とても親切にしてくれた。
放課後になってみんなが帰ろうと誘ってくれたけど私は断って教室にいた。
だんだんと下校時刻が迫ってきて、教室にいる生徒の数も減ってきて、最後に残ったのは私と一人の男子生徒だけだった。
彼はいつものように本を読んでいる。でもその姿はいつもと少しだけ違っていた。いつもはころころといろいろな表情をするのだけど、今日はずっと難しい顔をしている。悩んでいるようなそんな顔。
視線に気づいたのかサカキは読んでいた本を閉じ私のほうに歩いてくる。
私は急いで勉強をしていたふりをする。
「久しぶり。調子はどうだ?」
サカキは私の前の席に腰掛ける。
「見ての通り。絶好調とは言えないかな」
私は少し自虐的に笑った。
「だな」
サカキも少し寂しげに笑う。
それからお互いの間には少し沈黙が流れる。
「・・・お見舞い」
「うん?」
サカキはバツが悪そうに私から顔をそらしていった。
「お見舞い。行けなくて悪かった」
そういって頭を下げた。
「なんていうか、今の心理状態で行ってもまともに話ができるとは思えなかったんだ」
私は少し笑った
「いいよ。気にしてない」
嘘だった。
私はクラスの誰よりもマユよりもおばあちゃんやおじいちゃんよりも、私は他の誰よりサカキに来てほしかった。
怖かったこと、痛かったこと、無意識にサカキに助けを求めたこと。
いろいろなことを話したかった。
そうしたことを全部話してもきっとサカキは私を対等に見てくれると思ったから。
でもサカキに会いたくないという気持ちもあった。
私は足の腱を切られた。
もう走ることはできない。
サカキが言ってくれた美しい私をもうサカキに見せることはできない。
サカキが美しいと言ってくれた私は永遠にいなくなってしまった。
それをサカキは失望するかもしれない。
もうサカキは私に構ってくれないかもしれない。見てくれないかもしれない。
そう考えると入院中も眠ることができなかった。
怖かった。サカキに会うのが。
怖かった。サカキに会って失望されてしまうのが。
もう私を対等に見てくれないかもしれないと思うと二度と会いたくなかった。
でも、反面他の誰よりも私はサカキに会いたかった。
会いたい気持ちと会いたくない気持ち。希望と不安が私の中に渦巻いていて、私はサカキの前でも素直になれない。
唯一私が素直になれた場所。私が私らしく、振舞えた場所。
もうそこですら私は安心できなくなってしまった。
不安で。怖くて。一番理解不能な場所になってしまった。
サカキはどう思っているんだろう?
今の私を見てサカキはどう思ってるんだろう?
失望してるかな?憐れんでるかな?同情してるかな?心配してるかな?まだ対等に見てくれるかな?
「・・・どうした?ミサキ?」
「え?」
気が付いたら私は泣いていた。
あふれんばかりに流れる涙はどうしても止めることができなかった。
「あれ?なんだろこれ?ごめん。なんでだろ。とまらないな」
私は泣き顔を見せたくなくて顔を覆う。
鼻水まで出てくる。本格的に止まりそうにない。
せっかく三週間ぶりに会えたのにこんな顔ぐちゃぐちゃで、最悪だ。
「君は美しい」
不意にサカキはそんなことを言った。
私は顔を上げられない。
こんな顔をサカキには見せられなかった。
「どんなに変わってもミサキはミサキだ。走れなくなってもミサキだ。顔が変わってしまってもミサキだ。体中傷だらけでも泣いてぐちゃぐちゃな顔になってもミサキなんだ」
私は顔を上げサカキを見つめる。きっと今の私はひどい顔をしている。それでもサカキはまっすぐ私を見て言葉をかけてくれる。
「何も変わってなんかいない。あの中二の秋からずっと君は美しい。走る姿だけじゃない勉強する姿、友達と話す姿、時々居眠りしている姿。全部魅力的だった。」
言われて少し恥ずかしくなる。下を向きたくなるが私はまっすぐサカキを見つめる。きっとサカキも私に嘘偽りない真摯な言葉を私にかけてくれているから。
慰めや、気休めじゃない、誰に対しても言えるようなことじゃない真剣な言葉を。
「中二の頃からずっとお前を見ていた。俺と同じように両親を亡くした女の子。ほんとはずっと話しかけるタイミングを探していた。ずっと声をかけたかった。ようやく声をかけられたのが体育祭の日だ。あの時は一大決心だった。お前は水飲み場に一人でいた。話のネタもあった。今がベストタイミングだと思った。勇気を出して話しかけたんだ。」
教室に夕日が差し込む。そのせいか、サカキの顔は少し赤くなっているように見える。
「話してみてびっくりした。こんなに話していて気安い奴は初めてだと思った。パズルのピースがぴったりくっつくみたいにお前との会話は心地よかった。それからお前は俺の中で気の置けない大切な存在になった。つまり、何が言いたいかというと」
そこでサカキは一旦話を区切った。
そして一度視線をそらし決心したようにもう一度私にまっすぐな視線を向ける。
「どんなに変わっても俺はお前のことを好きでいる。だからこれからも今まで通りでいいんだ」
そういってサカキは私に笑いかけた。
すべてを許されたような気持ちになった。
サカキはどんな私でもいいと言ってくれた。
好きでい続けてくれるといってくれた。
その瞬間から私の中にあった不安はすべて消え去り春風のような心地良い風が流れる。
私の気持ちは報われ、私が走ってきたことは無駄じゃなかった。
県大会も優秀な成績も私にとってはそんなに重要なことじゃない。
この一言を言ってもらうためだけに私は今まで走ってきたのだから。
すべてが認められた。
「私もね、ずっとサカキのこと・・・」
きっと私も顔が赤くなっているだろう。夕日がさしているせいだと思ってくれてればいいけど。
「好きでした」
相手の顔をまっすぐ見て言う。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
でも目はそらさない。真摯に、嘘偽りない私の気持ちだということがちゃんと届くように。
私は目をそらさない。
「ありがとう」
「こんな時にいうのは、少し卑怯だったかな?」
不安になって聞いてみる。
「いや、俺はいつだってお前と対等な関係だ。どんな状況でも俺の判断は変わらないだろうよ。それに、いつかはこうやって二人して面と向かって言っていたと思う。遅いか早いかの違いだけだ」
そういってサカキは笑った。
つられて私も笑った。
もう私には学校に来る前に抱えていた不安はなくなっていた。
今はもう幸せな気持ちだけが胸の中にあった。