渇望された望まぬ邂逅~前編
魔心導師の敵、思念体――少し昔までは未浄魂と呼ばれていたらしい――は、今でこそ情報思念体だの総合思念体だの情報統括思念体だのという名前で似たようなものが創作の物語に出てきたり、霊魂の一種として扱われる事で有名になったが、魔心導師が相手取る思念体はそれらとは全くの別物だ。
元未浄魂であるほうの思念体は幽霊よりも悪魔よりもずっとマイナーで、けれど確かに存在する物質、もしくは生物だ。なんなら、幽霊よりも悪魔よりも妖よりも深く人間と関係があると言えるだろう。
俺はその思念体が視えるわけだが、特異体質者というよりも、人間の姿かたちをした別の生物と表現したほうが近い。人間には見えない熱を蛇が視認出来るように、人間には聞き取れない音をコウモリが聞き取れるように、俺の身体は人間とは異なる構造をしている。だから思念体が視えるし声も音も聞こえる。だからこそ霊能力者が幽霊を成仏させるように、エクソシストが悪魔を滅するように、思念体を排除出来るのだ。お勤めというやつである。
だが残念な事に、ほんと、非常に、誠に遺憾なことながら、どういった何が思念体による被害なのか、殆どの人間に解らないため、思念体が引き起こす異常事態を幽霊の仕業と勘違いする者も、悪魔の祟りだと思い込む者も多い。さらに言えば、思念体による被害の多くを、これはただの運命の悪戯だと、そう断ずる者が殆どなのだ。
つまるところ魔心導師は需要も供給も殆ど無いというわけである。ほら、思念体はそこら中に居るが、誰も気付かないなら放置して良くね? という事だ。
俺は別に働きたくないわけではない。だが俺の仕事ってば誰かに求められてるわけじゃないからな、だったら仕方ない。学校が終わって家に帰ってきて、すぐさまテレビを着けてブルーレイに録画しておいたアニメを見るというのも、至って自然で、なおかつどうしようもない現実というやつなのである。誰も俺を責められまい。
ああ、快適だ。学校なんていう窮屈な鳥篭から抜け出して、十畳和式のマイルームにて寝そべって、自分専用の、ちっとばっか小さいテレビに映し出された非現実を崇め奉っているこの時間。なんたる至福。ほんと、働きたくねぇなぁ。
「兄上」
襖を開く音と、俺を呼ぶすました声と、『魔法少女マジックリン、はっじまっるよー』という幼い声と素敵なBGMの全てが重なる。
癒しの効果を持つ過剰なフラッシュと共に流れるアニメのオープニング。やっぱり声優が歌ってる曲はバンドとかシンガーソングライターとか歌手が歌うのとは一味違うな。社会活動という名目の惰性と建前と欺瞞に満ちた日常で汚れてしまった俺の心を、みるみる綺麗にしてくれる。そのままリア充とかも一掃してくんねぇかな。
「兄上」
部屋に踏み込んでくる小さな足音と、俺を呼ぶ少し怒った声と、『君の心をマジック☆(はいっはいっ)リンリンおーういえー』という天使のささやきよろしくの歌声が合わさる
俺としてはこのままゴスロリコスチュームで踊り狂っている幼女を眺め続けていたいところだったが、三度「兄上」と呼ばれ、仕方なく、ねそべったまま部屋の入り口を見た。
そこに居たのは巫女だった。黒くて真っ直ぐな髪。瞳はさながらブラックホールのように、見据えた全てを飲み込んでしまいそうな程に深い黒だ。雪のように白い肌……はテンプレ表現過ぎるな。あれだ、ティッシュのように白い肌は、触れれば容易く破けてしまいそうなほど、繊細にキメ細かい。
そして背は小さい、胸も小さい、幼女姿の巫女である。これこそ日本が誇る文化の融合、和服&幼女。崇高なる萌え文化のひとつと言えるだろう。だが残念、こいつは俺の妹である。何が残念なのかは言った本人にも不明である。
「なんだよ、春香」
ため息混じりに問うと、春香も重たいため息を吐き返してきた。
「ため息吐くと幸せが逃げるぞ」
そう注意すると、春香は再び、今度はわざとらしいため息を吐く。
「兄上だってため息吐いた」
どうやらご立派にも、俺の妹はブーメラン戦法なるものを覚えたらしい。立派になったもんだ。
「ため息を吐いたから幸せが逃げるんじゃねぇ。幸せが逃げたからため息を吐くんだ」
「…………うざ」
つんけんさん風に言われると、その侮蔑もまた心地好く感じてしまう。これ俺もう人間として駄目でしょ、と自覚してしまった瞬間である。
まぁそんな事はどうでもいい。俺は早くアニメを見たいから、さっさと用件を聞き出すことにした。
「で、なに」
わざわざ俺の部屋に入ってきて、俺の至福タイムを止めてまで話しかけてきたのだ。これで「兄上の声が聞きたかっただけ」とか言い出したらまじで泣かす。そしてその泣き面を優しく抱きしめる。
だが残念ながら(何が残念なのかは以下略)、俺が春香を抱きしめる機会は与えられなかったらしい。春香はめんどくさそうに、しかし感情の篭らない声で言った。
「今日のお勤めは」
お勤め。すなわち思念体の排除。本当ならまだ高校生である俺は修行中の身って事で、お勤めではなく鍛錬として思念体と戦わなければならないのだが、嬉し恥ずかし数年前の事、我が家こと大光司家で唯一まともにお勤めを果たせる俺の父親が突然居なくなってしまった。
だがら、繰り上がりで長男である俺が、お勤めをする事になったのだ。そもそもの問題として、春香も母さんも思念体が視えない。俺しかお勤め出来ないのである。
「今日のお勤めは、あー、学校でしてきた」
勿論だが嘘である。今日の学校での俺は、一言で言うなら『寝てた』。二言で言うなら『ずっと寝てた』。三言で言うなら『いやまじで寝てた』だった。いやまじで。
しかし春香はまだ中学生。俺と同じ学校へ通っているわけではないこいつに、俺の言葉の真偽を確かめる手段は無いため、真実である必要も無いだろう。
「町の見回りは」
確認を諦めたらしい春香はさらに聞いてくる。
「今日、俺帰ってくるの遅かったろ? それはあれなんだ、下校ついでに町の見回りをしてきたからだ。俺はこれでも、お勤めと私生活の両立を計ってるからな」
当然だが嘘である。確かに今日、俺が家に着いた時間はいつもより遅かった。しかしそれは単に、下校中に道端に落ちているエロ本を見つけてしまい、中を覗き込みたいと思いつつも人目が多かったため引き下がらなければならなくなり、悶々とした結果近くの本屋に立ち寄ったからだ。
まぁ、制服着てたせいで十八禁のコーナーには入れなかったけど。仕方ないから毎度毎度ハレンチな形でトラブっちゃう素敵なハーレム漫画を立ち読みするに済ませてきた。
「…………兄上」
呆れたように三度ため息を吐く春香。俺は構わず、テレビ画面に視線を戻した。ついでに、見逃してしまったシーンがあったため、オープニングの終わりまで画面を巻き戻す。
「兄上。お勤め」
くどいなぁ、やったって言ったじゃん。だから良いじゃんやらなくて。いやほんとはやってないけどさ。
何となくイラっときたため無視して画面を見つめる。マジックリンリンはじまるぜー。
「兄上」
うるさい妹だ。やる気の無さをアピールするため、「リンリンまじで萌えるなぁ今度ポスター買おうかな」と呟いてみる。
「兄上」
ポスター本当に買いに行こうかな、今度の土日にでも。
「あにうえ」
すん、と鼻をすする音がした。心なしか、春香の声も少しだけ震えている。マジックリンリンはまだ泣き所じゃないんだけどな。おかしいな、なんでこいつ泣いてるの?
「……あに、うえ」
おいやべぇ、まじ泣きしてるぞこいつ。
「なんで泣くんだよ」
仕方なく画面から目を離して聞くと、春香は瞳から零れる涙を両手で拭いながら答えた。
「むしした……。あにうえが、むししたぁ……」
いつもの事じゃねぇか俺がお前を無視するなんて。こいつはいつになったら成長するんだよ。
「ったく、しゃぁねぇな解った解った行きますよ。三百六十五日休む事なく、俺はお勤めを果たしますよ」
テレビ画面を停止させて、帰ってきたらすぐに見れるようにそのままにして立ち上がる。
「なんで高校行きながら毎日毎日働かないといけないんだっつの」
頭を掻きながら、部屋の奥へ向かう。黄ばんでいるせいで何が書いてあるのか解らない掛け軸の前に、黒い木刀が立て掛けてある。俺はそれを引っ掴んだ。
振り向いて「これでいいか」とその木刀を春香に見せ付ける。すると春香は両手をどかし、瞳に大粒の涙を溜め込みながら、唇を波の寄せ際のように歪ませながら、すん、と鼻をすすった。
「わたしだって毎日、お勤めしてる」
「あーそうだねそうでした。俺だけじゃなかったな、はいはい」
適当に言いながら、尼さんたる母の代わりに巫女をやっている春香の横を通り過ぎる。部屋の入り口に置いておいた野球のバットケースに木刀をぶち込んだ。
俺の家、大光司家は、一応は寺だ。大光寺という。
去年、父親が居なくなった事で住職を失った俺の家。当時までは巫女だった母さん、こと遠子が尼さんになり住職の代役を勤め、そして不在となった巫女の枠に妹、春香が入った。
俺の父親、弦十郎は元住職であり、思念体を排除する魔心導師である二足のわらじだったわけだが、大光司へ嫁入りしてきた母さんには思念体が視えていないため、思念体の排除のほうは、つまりは魔心導師のお役目のほうは俺が勤める事になった。父親が一人でこなしていた事であり他の魔心導師は当たり前にこなしている両立を、俺と母さんは二手に分断したという事である。
「めんどくせぇ」
呟きながら部屋を出る。
そもそもだ。何故、俺の父親が居なくなったかというと、思念体との戦いで怪我を負ったわけでも、病気を患って入院しているわけでも無い。犯罪を犯して青い服の正義の味方に連れて行かれたのだ。まじふざけてる。
あいつなんなの、俺が働かないといけなくなったのも、俺がお勤めを果さないといけなくなったのも、俺が思念体と戦わなければならなくなったのも、全部あいつのせいだ。実質俺に降り注いだ災厄は魔心導師のお役目ひとつな。
内心で悪態を吐きながら部屋から出る。
大光司が授かっているこの寺は、家と繋がっている。小山の上にぽつんと建てられていて、家は木々に囲まれている。下へ降りるには参道を通り、百段以上ある階段を降りなければならない。出口はひとつなのだ。
俺はその出口へ向かう途中、境内の前を通った。
そこで声を掛けられる。
「彼方」
大光司彼方なる俺の名前を呼んだのは、境内で仏様なのか神様なのか思念体の抽象像なのかよく解らない象に向かって座禅を組んでいる母さんだ。
「なに」
問うと、母さんはこっちを見ないまま、
「お勤めに出るのかしら」
そう聞いてきた。こっち見れば一発で解るだろうに。木刀持ってるんだし。
「そーだよ」
適当に答え、そのまま出て行こうとするが、「待ちなさい」と呼び止められる。
「私が座禅を組む姿、しっかりと目に焼き付けておきなさい」
「なに、お前死ぬの? 死亡フラグ立ててるの?」
今までそんな事、一度も言わなかったのに。つーかそうでなくとも、目に焼き付けておけ、は死亡フラグ率が高い。
母さんは「ふ」っと浅く笑って、悟ったような口調で言った。
「座禅を組むこの姿って、かっこいいわよね」
「座禅を組んだその姿でよくもまぁ低俗な事を」
全国の住職さんに怒られるぞ。
まぁ、母さんが誰に説教されようと俺には関係ない。第一、住職とかと違って本当に悟りを啓こうとする必要性は、本来なら大光司家が納める大光寺には無いのだ。なにせ、相手取っているのは神でも仏でもなく、宗教でも仏教でもなく、思念体なのだから。
これ以上母さんを相手にしても時間の無駄だ。母さんとはそれ以上取り合わずに家を出た。
百段の階段を下りながらいくつもの鳥居を潜る。空は夕景。下り終えると閑静な住宅街がすぐそこにある。アパート、古い一軒家、パッと見で裕福では無いと解る家々が立ち並んだそこを抜ける。
駅のほうへ向かえば時間を潰せる娯楽施設が山ほどあるし、なんなら十八禁の取り扱いが緩くて殆ど年齢確認をしてこない本屋だってある。
俺は駅のほうへ向かった。
違うよ? 本屋に行きたいわけじゃないよ? ただほら、思念体は生物の感情から生まれるからさ、人の多い場所へ行ったほうが、思念体の排除は効率的なんだよ。本屋はお勤めのついで。俺ってばめちゃくちゃ勤勉だから。お勤めと並行して保健体育の予習しておこうと思ってるだけ。ほら勤勉。
駅に近付くと、商店街だのビジネスビルだの雑居ビルだのが立ち並ぶようになる。建物の背が高くなり、必然的に視界は狭まっていく。
帰宅ラッシュが始まったようだ。人ごみはピーク間近で、はちきれんばかりに人が居る。
俺は、その人の流れの中心部、大通りへと踏み込む前に、目を見張った。
幽霊だのなんだのと違い、思念体はそこら中に溢れかえっている。なんなら、五人居れば一体の思念体が居ると言っていい。ごめん嘘。流石にそんなには居ない。小さいのも含めれば三十人居ればひとつの思念体が居るくらいだ。
大小も形も様々だ。
女子大生の腕にブレスレットよろしく巻きついている思念体。形もブレスレットか腕時計みたいな感じ。
小さい。無視だ。
サラリーマンの足元に居るちわわみたいな思念体。形もちわわ。まんまるくて不気味な玉虫色をした犬っころ。
小さい。無視だ。
OLの背中に張り付いている人サイズの思念体。姿はのっぺりとした人型。殆ど背後霊だ。
小さい。無視だ。
女子高生のすぐ後ろに憑いて、女子高生と同じ速度で歩いている人の三倍くらいあるであろうサイズの思念体。うっすらと灰色がかった、足が無くて腕が異様に太い人間みたいなの。
小さい。……小さい? いや、無理か。
ああくそ、大きいのが居なければお勤めする必要無しと見做してなんもしないで帰るつもりだったのに、なんだよ今日は、でかいのが二体も居るぞ。実の所、人と同じ大きさの思念体って結構でかいんだよね。あの女子高生とOLはいったいどうしてあんなデカ物に付きまとわれてんの。
別に大きさが思念体の悪性や危険度を表しているわけではない。小さくても危険で強いのもたまに居る。だが、なんにせよ弱い思念体なら一掃する術がある。だから、弱いのなら気にしなくても良い。後回しだ。
さて、奇麗事を述べるのであればあの二人に纏わり憑いている思念体を両方相手取って両方倒すというのが理想的なのだろう。が、勿論俺はそんな事はしない。一回の戦闘では一体しか相手にしたくない。だって下手したら俺死んじゃうし。思念体ならほら、明日でも倒せるし。つーわけで片方は明日になったら頑張る。
なら今日はどっちを倒そうか。女子高生? OL? 迷った時は相手の顔で決めよう。OLのほうは背中の思念体が重たいのか、顔色が悪い。きっと何日も苦しまされているのだろう。
女子高生のほうは身体に纏わり憑かれているわけではないからか、顔色はさほど悪くない。
が。
「またあいつか……」
あの女子高生には見覚えがある。つうか、クラスメートだ。同じ高校の同じクラスだ。で、確か先週もあいつ、得体の知れない思念体に纏わり憑かれてたはずだ。先週も助けてやったはずだ。顔が良かったのとナイスバディーだったためよく覚えている。名前は知らない。
「思念体に好かれてんの? まじで」
一週間以内に新しい思念体が憑くとか、まじで薄幸過ぎる。引越し先が二件連続で幽霊物件だったのと同じくらい不幸だ。いや、まぁ、思念体に憑かれ易い環境に居るやつなら十二分に有り得る事だけどね。
「よし、決定」
あの女子高生を救ってやろう。いや、違うよ? 顔が良いから選んだんじゃないよ? ただ純粋に、何度も思念体に憑かれる女子高生とかかわいそー、と思って助けてあげるだけなんだからねっ、勘違いしないでね!
俺は浅く息を吸い込んで、物影に身を沈めた。
「絶」
呟くと同時に、全ての人の流れが止まった。一応割と複雑な工程があるにはあるが、大雑把に言えば、感情が存在する次元と俺の意思を接続したのだ。
感情には時間という概念が存在しない。と、魔心導師には伝えられている。故に、時間が止まったと言うよりも、時間という概念が存在しない次元に俺が入ったと言ったほうが近い。
ようはご都合主義と呼ばれる結界である。この時間が止まった世界で動けるのは俺と思念体だけという、超ご都合主義。しかし残念ながらこの時間停止には時間制限がある。
魔心導師の実力にもよるが、俺では十秒間しか時間を止められないという役立たずなご都合主義だ。
俺は駆け出した。人とぶつかろうがお構いなしに駆け、時に小さな思念体を足踏みにし、女子高生の背後に居る巨大な思念体の腕を鷲掴みにした。
思念体が「ぶるお」と鳴いた。声のトーンからして女の思念体だ。先週は確か男の思念体だった気がするが、まぁどうでもいい。俺は思念体を投げ飛ばす。
人の三倍はある体躯のそれは大通りの反対側まで吹き飛ぶ。俺はさらに駆けながらバットケースから木刀を取り出した。
ビルに衝突していたそいつを殴りつけて怯ませると、首のようなところを鷲掴みにし、すぐ隣にあった路地裏へ放り込んだ。幅はギリギリ。
基本として物質には触れない思念体だが『長年思念体が触れ続けている物質は思念体の影響を受けることで、思念体が存在している次元に近付く』ため、そうなった物質は思念体に触れられる。伸ばし続けた輪ゴムが元に戻らなくなる様と結びつけてくれたらおおむねそれだ。
といってもまじでかなりの時間を要するからな。だいたい地面とか古い建物とか壁とかなら思念体に触れられる。つまりそういう都合があってこのビルの壁を使えば思念体の捕獲が出来るってわけだ。
この路地裏はお勤めでよく使ってるから、ここなら確実に有効だってのは事前に解っていた。
俺もその路地裏へ入り、中で詰まっていた思念体をさらに奥へとねじ込む。
そこで、背後から雑踏が聞こえ始める。時間停止が解けたのだ。危なかった。普通の人には思念体が視えないから、もしさっきのシーンを誰かに見られたら「一人でなにやってんのあいつ」と精神性疾患を持った人間だと思われていた事だろう。
「始まりと同時にゲームオーバー。お前弱いな、助かったぜ」
でかさに見合わない弱さだった。出来立ての思念体だからかもしれない。こいつはただの見掛け倒しだった。まじで助かった。疲れなくて済むし。
路地裏に引っかかったおかげで身動きの取れないそいつに感謝を込めて冷やかな笑みを送ってやった。そして木刀を突き刺すと、思念体は光の粉になって霧散して消えた。
「はーい第一ラウンド終了」
絶を使ったせいで乱れていた息を整えるため、二度ほど深呼吸する。
急げばさっきのOLに間に合うって? 馬鹿を言っちゃいけません。魔心導師の中には、一日に何回も、十分近く時間を止めていられるやつも居るらしいが、そんなんは知らん。だってそいつ、俺じゃねぇし。俺は一日一回、十秒止めるのが限界なのである。だから、さっきみたいに時間を止めて戦わないといけないやつとは、一日一回しか戦えない。
木刀をバットケースに入れて、路地裏から出る。相変わらずの人ごみに辟易しつつも、この人ごみのおかげで路地裏から俺が出てきても誰も気に止めないのだから、なんとも言いがたい。
さて、じゃあお勤めの締めとして、小さいやつらを一掃する俺TUEEEEタイムに移行するとしますかぁ。
と意気込んだものの、しかし。
「ねぇ」
路地裏を出て少ししてから、後ろから声をかけられた。まぁでもこれで振り向いたら実は呼ばれてたのは俺じゃなかったって落ちだろうからな、俺は振り返らずに歩く。
「ねえってば」
歩を進める俺の背中に着いてくるように、その声は一定の距離感を保っていた。
「…………」
俺なの俺じゃないの。解らないうちは返事しません。だって違ったら恥ずかしいし。
「呼んでるじゃん、大光司彼方」
ついには名前を呼ばれて、肩まで掴まれてしまった。どうやら声の主は俺をお呼びらしい。
振り向くとそこには俺の予想に沿って、しかし俺の希望に反した相手である、さっき助けたクラスメートが。
「……ん。ああ、久しぶり」
勿論、このクラスメートは、自分に思念体が纏わり憑いていた事を自覚していないはずだし、俺が何かしたなんて事は予想だにしていないはずだ。となれば、このクラスメート様は偶然同級生を見つけたから声掛けてみたぜきゃはっ、みたいなリア充特有のノリをかましてきたのだろうと思った。
だが違った。
「久しぶりも何も、今日も学校で会ったじゃない」
と独り言のように呟いてから、そいつは続ける。
「あんた、さっき何かした……?」
探るような物言い。訝しげな表情を向けられて、俺はそいつから目が離せなくなる。
顔立ちは整っている。前から顔は良いとは思っていた。というより、顔は良いと知っていた、というべきか。こいつの顔が良い事は、おそらく周知の事実と言えるだろう。そういう、大衆的な美人に属する人間だ。
髪は明るく、癖っ毛なのかパーマなのかよく解らんお洒落ヘアーは、自分の肩を撫でるような位置まで伸びている。つまり髪型はギャルだ。
「……………」
よく見てみても、現状で何が起きているのかを把握出来るわけではない。
「黙るってことは、ほんとになにかしたのね!?」
訝しげな表情から一変、そいつは目を見開いて、俺の両肩を掴んできた。わー俺ってば名前も知らない女子高生に迫られてるぜうれしー。
なわけあるか。
結局なんなんだこの状況。
「なんの話だ」
わけが解らずそう問うと、そいつは言った。顔をさらに近付けて、吐息も触れ合いそうなほどの距離になる。
「まさか、あんたが私の王子様だったなんて……」
「……え、いや、まじでなんの話だ」
全然解らん。
「私にとり憑いてたやつって、あんたが祓ってくれたんでしょ!?」
顔をさらに近付けてきたせいで、女の瞳に俺の顔が反射して見えた。
思わず、俺の呼吸と思考が止まった。
こいつ、今、なんて言った?
まさか、思念体が視えてたのか? そんなわけがない。何かの間違いだ。
「あんたが、王子様だったんでしょ!?」
「ちげぇけど」
本当に何かの間違いだった。王子様って……。もうね、キャラ付けがあからさまに間違ってる。
「いきなり肩が軽くなったの。ずっと重かった心とか肩がいきなりラクになったのよ。前にも五回くらいこういう事があって、毎回毎回、あんたらしき人影が近くにあったの!」
まくし立てるように言われ、その言葉の渦に飲み込まれる。
なにいってんだこいつ。え、まじで何言ってるのコミュニケーション障害者なのこいつ。日本語でおけだよ。
「否定しないってことはそうなのよね! そうなんでしょそうだと言って!」
なんかよく解らんが、誰だと聞かれたら答えるのが世の情けだとテレビの中の偉い人も言っていた。なら、こう言ってと頼まれたらそう言わないのが俺のスタイルだろう。情けは無用なのである。
というわけで。
「違うけど」
話についていけなくても自分のスタイルを貫く俺、まじかっけぇ……。
しかし、どうやら眼の前のこの女は人の話を聞かないタイプの人間らしい。俺の肩を掴んでいたそいつの両手が離れたかと思うと、すぐさま右手を握られ、さらに引っ張られた。
「話があるの。場所を変えましょう!」
そして女にずるずると引き摺られる俺。え、本当に人の話聞いてないのこいつ、違うって言ってんじゃん信じてくれよ。まぁ嘘なんですが……。
つーかまじでなにこれこの状況。リアル女の手ってこんな柔らかいの? 春香の手くらいしか握った事無いから解らないんだけど。ちなみに母さんは女じゃない。あれはババァという性別である。だからノーカン。
ともかく状況を飲み込めないまま、俺はその女にされるがまま、大通りを歩かされた。