第七話
数年前のとある森の中
「はぁ…はぁ……ルナ…早く…。」
「待って……兄さん…。」
「急がないと…奴らに…追いつかれる前に…。」
「でも…お父さんとお母さんが…。」
「きっと大丈夫だ…だから…早く…逃げるんだ…。」
そう言ってルナの手を引きながら森の中をひたすら走る。もうどれほど走ったのか分からない…。森の中の一軒家、そこで俺たち家族は暮らしていた。ところが突然、吸血鬼をはじめとする上級魔族が家を襲ってきた。両親は俺とルナを裏口から森に逃がすと魔族に立ち向かっていった。俺たちを逃がす時間を稼ぐために…。それからずっとこうして森の中を走っている。ただひたすらに…。
「きゃっ…。」
樹の根に足を取られたのかルナが転んだ。
「ルナ…。」
急いで助け起こすと同時に声が聞こえた。
「どこに行こうというのかな、子猫ちゃん。」
その声に体が凍りついた。視界の端には、さっき家を襲った吸血鬼の姿があった。
すぐにその場から逃げようとするが道をふさぐように吸血鬼が立ちふさがる。
「ルナ…お前だけでも逃げろ…。」
「でも…。」
「早く…。」
そう言って背中に隠していた護身用の短剣を引き抜く。そのまま目の前の吸血鬼に向かって突進する。
「うあぁぁぁぁぁぁ……。」
直後、腹部に強烈な衝撃を感じた。同時に体が宙を舞い背中から樹に叩きつけられたところでようやく自分が蹴り飛ばされたことを理解した。
「兄さん…。」
薄れていく意識の中でルナの声が聞こえた。
「ルナ…逃げ…ろ…。」
「そんな…兄さん……いや……いやぁぁぁ…。」
ぼやけた視界に泣き崩れるルナの姿が見える。
「逃げ…るんだ…。」
俺の必死の声もほとんど出ない…。ルナには聞こえていないのだろう。
「いやだ……やだよ……兄さん……私を置いて行かないで……。」
「あら、可愛いお嬢さんね。どんな味がするのかしら。」
そう言って、ルナの背後に回った吸血鬼がルナの襟をつかんで持ち上げる。
「いや…放して…。」
ルナは必死に抵抗するが吸血鬼相手に人間の力がかなうはずがない。
「ル…ナ…。」
声にならない声をあげながらそれでも手を伸ばす。
「味見させてもらうわよ。」
吸血鬼の牙がルナの首筋に迫る。
「やめ…ろ…。」
「兄さん…たすけ…て…。」
その瞬間、吸血鬼がルナの首筋に噛みついたのが見えた。
「いやぁぁぁぁぁぁ…………………………。」
「やめろぉぉぉ!!!!」
瞬間、ヴァンの右手に光る剣が現れた。
「うあぁぁぁぁぁぁ……。」
そのままヴァンは立ち上がると吸血鬼に向かって突進し、その剣で吸血鬼を刺し貫いた。
「がはぁぁぁ……。」
吸血鬼はその場で灰となり消滅した。同時に剣も消滅し、ルナの体が地面に落ちる。
「ルナ…。」
急いでルナを抱きかかえる。
「兄…さん…。私を…殺し…て…。」
「ルナ…しっかりしろ…。」
「早く…私を…殺して…。もう…これ以上…呪いを抑えられ…ない…。」
吸血鬼に噛まれ、吸血鬼の呪いを受けた者は吸血鬼になる。それを避けるためには呪いが全身に広がる前に呪いを浄化するか完全に吸血鬼になる前に殺すしかない。だが呪いを浄化するには強力な聖水が必要になる。そんなものはここにはない。
「私は…誰も…襲いたく…ない…だから……早く…私が…抑えられて…いる間に…せめて…人として…死にたい……。」
「ルナ…しっかりしろ…必ずお前を助ける…。」
「もう…無理だよ…。」
「あきらめるな…お前は助かるんだ…。」
「…兄…さ……。」
抱きかかえたルナの体から力が抜けるのを感じた。
「ルナ…ルナ…しっかりしろ…。」
呼びかけても返事はない…。
「くっ…。」
ルナの体をきつく抱きしめる。
「ルナ…しっかりしろ…ルナ…。」
何度も何度もその名を呼び続ける。徐々に冷たくなっていく体を温めるようにきつく抱きしめる。かすかにルナが動いた感じがした。同時に首筋に熱さを感じた。それが牙で噛みつかれた痛みである事に気付いた。これで俺も吸血鬼か…。体の中にまがまがしい不快な力が流れ込んでくるのを感じた。だが、それは一瞬にして消え去った。
「えっ……。」
何が起こったのか理解ができない。
「うぅぅぅ…。」
口の端から血を滴らせながらルナがまるで悪夢にうなされているような呻き声をあげているのが聞こえた。その声は徐々に小さくなるとうっすらとルナは目を開けた。
「…兄…さん…。」
そして再びルナの体から力が抜けるのを感じた。同時に自分の視界がゆがんだ。自分の体が倒れていくのがひどくゆっくり感じられた。それでも抱きかかえたルナが頭をぶつけないように自分の体が下敷きになるように倒れた。
「ル…ナ…。」
薄れていく意識の中、その腕の中には確かにルナの人間としての温かさがあった。
森の中の壊れた家の前に一人の小柄な銀髪の女性が立っていた。その手には銀色の槍が握られている。
「…これは、ひどいわね…。」
その足元にはかろうじて人間の形をしている死体が二体あった。
「かつての友がこんな姿になってしまうとは、たとえ刺し違えても魔族を倒したということね。」
あたりには魔族が死んだ後と思われる灰が多くあった。
「子供たちはどこ?」
近くに人の気配はない。家はもう破壊されており隠れる場所などない。注意深く地面を観察すると小さな足跡が雑草の陰に隠れているのが見えた。その足跡を追って走る。その足跡の先には二人の兄妹が倒れていた。
「まだ息がある。どうにか間に合ったみたいね。」
二人とも傷だらけの血まみれになっていた。傷の具合を調べようとして彼女は気づいた。
「これは…吸血痕…でもこれはいったいどういうこと?」
妹の吸血痕はやや大きい。おそらく吸血鬼に噛まれたものだろう。だが、兄の吸血痕は小さい。妹の口の大きさぐらいだ。となれば、おそらく吸血鬼に噛まれた妹が兄を噛んだという事になる。だが、この二人は吸血鬼化していなかった。
「悩んでいる時間はないわね。この傷では妹さんの方は大丈夫でもお兄さんの方が危ないわ。」
懐から小さな宝石、魔導通信機を取りだすと思念会話で通信を始めた。
「(どうした?)」
「(先ほどヘルシング夫妻の死亡を確認したわ。子供たちは重傷を負っていてこのままでは命に関わる。それにいくつか不自然な点があるわ。回収は極秘でお願い。)」
「(分かった。ただちに救護班を向かわせよう。)」
程無くして現れた救護班によって二人の兄妹は運ばれていった。