憧れるのを止めましょう
オオタニが野球星人の星に帰るという噂は、瞬く間に世界を駆け巡りました。
ドジャースの首脳陣は顔面蒼白となり、フリードマンは「契約不履行だ!」と叫びながらも、その目は潤んでいました。ホワイトハウスも緊急声明を発表しました。
「オオタニは地球の至宝である。断じて宇宙へ渡すわけにはいかない」
約束の満月の夜。
ロサンゼルスのオオタニの屋敷の周りには、人類史上類を見ない警備網が敷かれました。
集まったのは警察や軍隊ではありません。「野球星人には野球で対抗するしかない」という結論に基づき、日米のトップ選手たちが結集したのです。
屋根の上にはアーロン・ジャッジやマイク・トラウトといったメジャーを代表する長距離砲がバットを構えて仁王立ちし、門の前にはダルビッシュ有をはじめとする日米のエースたちが、いつでも剛速球を投げられるように肩を作って待機しました。
まさに、「地球連合オールスターチーム」による鉄壁の布陣でした。
「オオタニさん、行かせませんよ!」
山本由伸と佐々木朗希も、涙目でオオタニの部屋の前に立ちふさがりました。
栗山監督は、オオタニの手を強く握りしめました。屋敷の奥では、デコピンが不安そうにクゥンと鳴いています。
深夜、月が天頂に達したその時でした。
突如として、夜空が真昼のように明るくなりました。
空の彼方から、巨大な雲に乗った何かが降りてきます。人々が目を凝らすと、それは雲ではなく、巨大なドーム球場をも飲み込むほどの「超巨大宇宙船」でした。
宇宙船から、無数のスポットライトが庭へと降り注ぎ、その光の中から、純白のユニフォームに身を包んだ「野球星人代表チーム」が姿を現しました。
彼らのリーダーとおぼしき者が、抑揚のない声で告げました。
「地球の野球人たちよ。我々はオオタニを回収する。抵抗するというなら、我々の掟に従い、野球で決着をつけよう。だが、この狭い庭では不服だ。最高の舞台へ移動しよう」
その言葉と共に、決戦の舞台は急遽、ロサンゼルスの聖地「ドジャー・スタジアム」へと移されました。
上空に停泊した宇宙船のエネルギーによって、スタジアムの照明塔が一斉に点灯し、グラウンドはカクテル光線に包まれました。無人の観客席、整備された天然芝。静まり返った巨大なスタジアムに、緊張が走ります。
受けて立つ地球連合軍。ダイヤモンドに各ポジションが散らばり、人類の存亡をかけた、銀河系最強決定戦のプレイボールがかかりました。
試合は、一方的な展開となりました。
野球星人たちのプレーは、あまりに完璧すぎました。
先発の佐々木朗希が投じた百六十三キロの剛速球を、彼らは眉一つ動かさずにジャストミートしました。打球音と同時にボールは夜空へ消えていきます。
マウンドを変わり、山本由伸が魔球のようなカーブを投げ込んでも、彼らは冷静に見極め、甘く入った失投を確実にスタンドへ運びました。
ダルビッシュが多彩な変化球で幻惑しようとしても、彼らの眼は全てを見通していました。
攻撃に転じても同様でした。
ジャッジがフルスイングした打球は、計算され尽くした守備位置にいる野手の正面に飛びました。
点差は開く一方でした。しかし、地球代表チームが困惑したのは、その点差ではありませんでした。
野球星人たちの「態度」でした。
ホームランを打っても、彼らはガッツポーズ一つしません。ハイタッチもしません。淡々とベースを一周し、無表情でベンチに戻るだけです。
逆に、地球チームが必死の思いでヒットを打っても、彼らは悔しがる素振りすら見せません。ピンチになってもマウンドに集まって励まし合うこともなく、ただ淡々と処理するのです。
スタジアムを包むのは、熱狂ではなく、冷徹な静寂でした。
打席に入ったマイク・トラウトが、鋭い当たりを放ちましたが、これまた無表情なファインプレーに阻まれました。
トラウトはベンチに戻りながら、虚ろな目で首を傾げました。
「おかしいな……。ヒット性の当たりを打っても、アウトになっても、何も感じない。心が震えないんだ。この虚無感……まるで、勝てない時期のエンゼルスでプレーしている時のような感覚だ……」
その言葉に、地球の選手たちは戦慄しました。
圧倒的な強さへの恐怖よりも、この「楽しさのない虚無」こそが、彼らの心を削っていったのです。
勝っても負けても、そこにはドラマも感動もない。ただの数字の積み上げ。
それが、野球星人の野球でした。
最終回、点差は絶望的。
地球代表チームのベンチには、重苦しい沈黙が漂っていました。
「もう、いいです」
静寂を破ったのは、それまでベンチで戦況を見つめていたオオタニでした。
オオタニはゆっくりと立ち上がり、バットを手にしました。
「私が打ちます」
代打、オオタニ。
ネクストバッターズサークルで待つことなく、彼は打席に入りました。
マウンド上の野球星人は、無表情のまま、この日最速のボールを投じました。
オオタニのバットが一閃しました。
カッキィィィィィィィィン!!
それは、今まで誰も聞いたことがないような、凄まじい炸裂音でした。
打球は、物理法則を無視したかのような弾道で夜空を切り裂き、はるか上空に浮かぶ宇宙船の土手っ腹に直撃しました。
特大の、場外ホームラン。
その一撃は、冷え切った空気を粉砕し、見る者すべての魂を震わせました。
オオタニは、ゆっくりとダイヤモンドを一周しました。そしてホームベースを踏みしめると、無表情な野球星人たちの方を向き、静かに、しかし力強く言い放ちました。
「あなたたちは強い。技術も、体力も、我々地球人を遥かに凌駕している。それは認めます。でも、あなたたちとの野球は、少しも楽しくない!」
野球星人たちは、初めて困惑したように顔を見合わせました。
「楽しい? それは非効率ではないか?」
オオタニは首を横に振りました。
「違います。ただ勝つだけの野球なんて、作業と同じです。そんなの、野球じゃない!」
そしてオオタニは振り返り、視線を共に戦った地球の仲間たち、トラウトやジャッジ、由伸や朗希に向けました。
「私がこの地球で教えてもらった野球は、もっと熱く、魂が震えるものでした。WBC決勝、トラウト選手と国を背負って戦ったあの緊張感。そしてシーズン中、ジャッジ選手と互いに高め合いながら競い合った、あの熾烈なMVP争いの高揚感。ピンチでマウンドに集まり、声を掛け合った時の温もり。喜び、悔やみ、咆哮する。それこそが、私の愛した野球です」
オオタニの言葉に、地球の選手たちは涙を流しました。
オオタニは、栗山監督の方を向きました。
「監督。私、決めました」
「決めた? 何をだ?」
「私は、星へ帰ります」
監督は驚いて駆け寄りました。
「な、なぜだ! 楽しくないと言ったじゃないか! なら、ここに残ればいい!」
オオタニは微笑み、監督の手を握りました。
「だからこそ、行くのです。彼らに『野球の楽しさ』を教えるために」
「教える……?」
「はい。このまま彼らを帰せば、宇宙の野球はずっとつまらないままです。それは、野球を愛する者として我慢できません。私が星へ行き、彼らのチームメイトとなって、一緒に白球を追いかけます。彼らがホームランを打ってガッツポーズをするようになるまで、私が背中で語り、魂で伝えてきます」
オオタニは、空中に浮かぶ野球星人たちを見上げ、決意に満ちた声で宣言しました。
「私はあなたたちの星へ行きます。ですが、あなたたちの完璧なだけの野球には染まりません」
オオタニは真っ直ぐに彼らを見据えました。
「効率やデータだけを追い求めていては、決して超えられない壁がある。私がその壁を壊し、まだ誰も見たことのない『最高に熱い野球』の景色を、あなたたちに見せてあげましょう」
それは、誰かに強制された「帰還」ではなく、オオタニ自身が選び取った、新たな「挑戦」への旅立ちでした。
「オオタニ……お前というやつは、どこまで野球馬鹿なんだ」
フリードマンも、ジャッジも、由伸も、泣きながら笑いました。
誰も、もう彼を止めることはできませんでした。彼の瞳は、すでに次の目標、宇宙一熱いチームを作るという夢に向かって輝いていたからです。
オオタニは、懐から一つの大きな箱を取り出しました。
「これは、私からの置き土産です」
監督が箱を開けると、そこには「ニューバランス」のロゴが入った、子供用の野球グローブが三つ入っていました。
「実は、これと同じものをすでに手配してあります。明日には、日本のすべての小学校に三つずつ届くはずです。『野球しようぜ!』というメッセージを添えて。私が宇宙でプレーしている間に、地球でも第二、第三のオオタニが育つように」
次にオオタニは、ドジャースのユニフォームを脱ぎ、静かに畳んでフリードマンに渡しました。
「アンドリューさん、十連覇の約束、果たせずに申し訳ありません。でも、由伸と朗希がいれば大丈夫です。残りの八年は、彼らと共に夢を叶えてください」
そして、天の羽衣ならぬ、野球星人の真っ白なユニフォームに袖を通しました。
迎えの使者たちが、困惑しながらもオオタニのために道を開けました。
オオタニはデコピンを抱き上げ、宇宙船から降りてきたタラップへと足をかけました。
その背中は、メジャーリーグに挑戦した時と同じように、希望と野心に満ち溢れていました。
ふわりと、オオタニの体が浮き上がりました。
「行ってきます、地球の皆さん! またグラウンドで会いましょうー!」
オオタニは満面の笑みで大きく手を振りました。その笑顔は、少年のままの、屈託のない笑顔でした。
オオタニを乗せた宇宙船は、音もなく上昇し、満月の光の中へと吸い込まれていきました。
残された人々は、いつまでもいつまでも、夜空を見上げていました。彼らが感じたのは喪失感ではなく、いつか宇宙の彼方から、とてつもなく熱い試合のニュースが届くであろうという、確信に似た予感でした。
その後、日本中の小学校にグローブが届けられました。
子供たちはそのグローブでボールを追いかけ、やがてその中から、また新たな「竹」のように真っ直ぐな若者が育っていきました。
そして今も、満月の夜になると、空からはカキーンという快音と共に、特大のホームランボールが降ってくることがあると伝えられています。
それはきっと、オオタニが星のチームメイトたちと共に放った、歓喜の一打に違いありません。




