帝(みかド)ジャース
五つの球団が去った後、オオタニの屋敷には再び静寂が戻りました。
しかし、その静寂は長くは続きませんでした。
噂はついに、球界の頂点に君臨する「帝」、すなわちロサンゼルス・ドジャースの耳にも届いていたのです。
西の都に城を構えるドジャースは、他の球団とは格が違いました。
彼らは慌てて宝探しに走るような真似はしませんでした。編成の長であり、球界きっての知将と呼ばれるアンドリュー・フリードマン編成本部長が、静かに分厚い書類を鞄に詰め、たった一人で、しかし背後に巨大な組織の威光を背負って、オオタニの元を訪れました。
栗山監督が「フリードマン殿のお成りだ」と告げると、オオタニは居住まいを正してこれを迎えました。
フリードマンは、オオタニの前に座ると、持参した書類を広げました。そこには、天文学的な数字と、緻密に計算された勝利への道筋が記されていました。
「ミスター・オオタニ。我々は、貴方が他球団に課した難題を知っています。不休のレンドン、炎上しない救援陣……。確かに魅力的ですが、それらは所詮、夢物語に過ぎません」
フリードマンは、眼鏡の奥の瞳を光らせて言いました。
「我々が貴方に提示できるのは、現実に即した、しかし夢物語以上に壮大な『約束』です」
オオタニは身を乗り出しました。
「約束、ですか」
「はい。貴方は『勝ちたい』と仰った。我々も勝ちたい。ならば、一つや二つの勝利で満足するべきではない」
フリードマンは、一枚の紙を差し出しました。そこには、今後十年にわたるチームの補強計画と、ワールドシリーズ制覇までのロードマップが描かれていました。
「我々と契約してください。貴方がドジャースのユニフォームを着る今後十年間、我々は毎年、必ずワールドシリーズを制覇させてみせます。前人未到の『メジャー十連覇』。これこそが、我々が貴方に捧げる唯一無二の宝です」
オオタニは息を呑みました。
十連覇。それは、絶対の審判や誠実な通訳を探すこと以上に、困難で現実離れした提案でした。しかし、フリードマンの瞳には一点の曇りもなく、本気でそれを成し遂げるという、狂気にも似た執念が宿っていました。
さらに彼は付け加えました。
「報酬も用意しました。七億ドル。しかし、その九割七分は『後払い』とさせていただきたい」
「後払い……?」
「そうです。十連覇を成し遂げるには、貴方に払う金を今のチーム強化に回さねばなりません。貴方への支払いは、貴方が引退した後の未来に行います。これは、我々と貴方との関係が、現役生活が終わった後も永遠に続くという『絆の契約』なのです」
オオタニは、その言葉に心を打たれました。
目先の金銭ではなく、勝利のために自らの報酬すらも未来へ託す。その精神こそ、オオタニが求めていた「野球への献身」そのものでした。
オオタニの足元で、愛犬のデコピンが「ワン!」とひと鳴きし、尻尾を振ってフリードマンに近づきました。どうやら、この賢い犬もまた、ドジャースの青いユニフォームを気に入ったようでした。
「わかりました」
オオタニは静かに頷き、ペンを取りました。
「その覚悟、お受けしましょう。アンドリューさん、共に伝説を作りましょう」
こうして、世紀の契約は結ばれました。オオタニは帝の招きに応じ、ドジャースの一員となったのです。
青いユニフォームを纏ったオオタニの活躍は、まさに神懸かり的でした。
リミッターの外れた彼は、水を得た龍のごとくグラウンドを暴れ回りました。
一年目の夏が過ぎる頃には、「四十本塁打・四十盗塁」という大記録を軽々と超え、誰も到達したことのない「五十本塁打・五十盗塁」という金字塔を打ち立てました。
そして約束通り、その年の秋、ドジャースは圧倒的な強さでワールドシリーズを制覇しました。オオタニは美酒に酔いしれながら、十連覇への第一歩を踏み出しました。
しかし、物語はそこで終わりませんでした。
連覇を狙う二年目の春、フリードマンはさらなる「東洋の秘宝」をオオタニの元へ持ち込みました。
「オオタニ、約束通りチームをさらに強化したぞ。日本から、貴方を慕う二人の若武者を獲得した」
一人は、オリックスという西の国からやって来た、神の如き制球力を持つ山本由伸。
もう一人は、ロッテという東の国からやって来た、令和の怪物と呼ばれる剛腕、佐々木朗希でした。
キャンプ地で彼らを迎えたオオタニは、目を細めて喜びました。
山本由伸は、練習場に「フレーチャ」と呼ばれる槍のような器具を持ち込み、あるいはブリッジをして身体を極限までしならせる独特の体操を始めました。その姿を見たオオタニは、頭を撫でて言いました。
「由伸、お前は本当に可愛いな。まるで百獣の王の子、小ライオンのようだ」
山本は照れくさそうに笑いながらも、マウンドに立てば豹変しました。鋭く落ちるスプリットと、美しい虹を描くカーブで打者を翻弄し、先発ローテーションの柱として君臨しました。
一方の佐々木朗希は、その百六十キロを超える剛速球を買われ、試合の最後を締める守護神として抜擢されました。「先輩たちが作ったリードは、僕が守ります」と、圧倒的な球威でねじ伏せるのです。
そして、オオタニ自身もまた、伝説となる戦いに身を投じていました。
この年、オオタニの身体は悲鳴を上げていました。肘の手術を乗り越え、満身創痍の状態。
しかし、彼はバット一本で奇跡を起こし続けました。
ある試合では、泳がされたスイングで片手を離しながらも、強靭な体幹だけで打球をスタンドまで運びました。「片手一本でホームラン」という、物理法則を疑うような光景に、スタジアムはどよめきを通り越して静まり返りました。
投げられない悔しさをバットにぶつけ、走り、チームを鼓舞するその姿は、まさに鬼神でした。
先発・山本の快投、手負いのオオタニによる一撃、そして最後は朗希がピシャリと締める。
この「日出ずる国の三本の矢」を中心としたドジャースの戦いぶりは、圧巻の一言でした。
他球団は「あれは無敵艦隊だ」「どうやっても勝てる隙がない」と絶望しました。
チームは歴史的な勝率で地区優勝を果たし、そのままの勢いでポストシーズンを駆け抜け、二年連続のワールドシリーズ制覇(V2)を成し遂げました。
世界はオオタニを中心に回っていました。誰もが、この黄金時代が永遠に続くと信じていました。
しかし、栄光の頂点に立った二年目の祝勝会の夜、オオタニの様子に異変が現れ始めました。
シャンパンファイトの喧騒が去り、静けさが戻った深夜のことでした。
オオタニは、屋敷のバルコニーに出て、一人で夜空を見上げていました。
空には、煌々と輝く美しい満月がかかっていました。
オオタニは、その月を見るなり、ハラハラと涙を流したのです。
喜びの涙ではありません。深く、切ない、魂の底から湧き上がるような悲しみの涙でした。
異変に気づいた栗山監督が、そっと近寄りました。
「どうした、オオタニ。二年連続の世界一だぞ。由伸や朗希もあんなに喜んでいるではないか」
オオタニは涙を拭おうともせず、月に視線を固定したまま答えました。
「監督……。今まで隠していて申し訳ありません」
「隠し事? まさか、肘の痛みが限界なのか?」
「いいえ、違います」
オオタニはゆっくりと振り返り、告白しました。
「私は、地球の人間ではないのです。あの月の向こうにある『野球星人の星』から来た者なのです」
監督は言葉を失いました。
「あの月を見て、思い出してしまいました。私の故郷からの呼び声を。この地球での役目は終わりつつあるのだと」
オオタニは悲しげに夜空を見つめました。
「WBC優勝も、MVPも、そしてドジャースでの連覇も、すべては星へ帰るためのエネルギー充填だったのです。私の筋肉が、地球の重力では満足できず、もっと強い重力を求めています」
「そ、そんな……」
「次の満月の夜、星からの迎えがやって来ます。私は、帰らなければなりません」
栗山監督は愕然としました。
「待ってくれ! フリードマンとの契約はどうなる! 十連覇の約束をしたではないか! まだ二年目だぞ! 慕ってくる後輩たちはどうするんだ!」
「そうです。だからこそ、悲しいのです。私は地球の野球を愛してしまいました。しかし、星の掟は絶対なのです」
オオタニの声は震えていました。
世界中が彼の偉業を称えているその裏で、別れの時は、刻一刻と迫っていたのです。




