かぐやきゅう姫の誕生
今は昔、野球の翁という者がおりました。名を、栗山といいます。野山に分け入ってはアオダモを採りつつ、名選手を育てることに生涯を捧げておりました。世の人々は彼を、栗山監督と呼んでいました。
それは、まだ雪解け水が北上川を冷たく洗う、岩手は花巻でのことでした。
翁は、いつものようにバットの原木を求めて、人の立ち入らぬ竹林の奥へと分け入っておりました。そこは、俗世の音が一切届かぬ静寂の地。ただ風が笹の葉を揺らす音だけが、サラサラと響いています。
ふと、翁は足を止めました。
林の奥、薄暗い杉や竹の合間から、ただならぬ光が漏れ出しているのに気づいたからです。
「おや……。日は既に西に傾いたはず。それなのに、あの輝きは一体なんだ」
翁は怪しんで、その光の元へと歩を進めました。近づくにつれ、その光は強さを増していきます。それは自然の木漏れ日などではありません。あたかも、ドーム球場のナイター照明がそこだけを照らし出しているかのように、煌々と輝いていたのです。
「なんてこった……。こいつは、俺がずっと追い求めていた『夢』そのものじゃないか」
翁の直感が告げました。この中には、世界を変える何かがいる、と。
翁は、腰に差していた愛用のノックバットを抜きました。それは長年使い込まれ、幾千、幾万の打球を空へ放ってきた、彼の手の一部とも呼べる白木のバットです。
翁は竹の前に立つと、深く息を吸い込みました。腰を落とし、足場を固め、グリップを柔らかく握ります。
「いざ」
鋭い掛け声と共に、翁のバットが一閃しました。
カァーン!
静寂な山林に、乾いた、それでいて芯を捉えた重厚な木製バットの音が響き渡りました。
光り輝く竹は、その一振りで見事に割れました。するとどうでしょう。あふれ出した光の中から、一人の男児が姿を現したのです。
三寸ばかりのその小さな体は、黄金色の光を纏い、ちょこんと座っておりました。
その赤子は、ただ座っているだけではありませんでした。その小さな右の手には、穢れなき白球をしっかりと握りしめ、左の手には、己が身の丈ほどもある細長いバットを杖のように握りしめていたのです。
翁は、その愛らしい顔立ちを見るなり、運命を確信しました。瞳は澄み渡る秋の空のように深く、その頬は希望に満ちて紅潮しています。泣き声を上げるでもなく、ただ静かに、遥か彼方の空を見つめるその眼差しには、すでに王者の風格が漂っていました。
「なんと……。俺はこの道に生きて数十年、あまたの逸材を見てきたが、こんな神々しい球児を見るのは初めてだ」
翁の目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。
「これは、野球の神様が俺に授けてくれた奇跡の子だ。俺が育てずして、誰が育てるというんだ」
翁は震える手でその赤子を掬い上げると、壊れものを扱うように掌に乗せ、籠に入れて大切に家へと持ち帰りました。
家に帰り、妻の嫗にこれを見せると、嫗もまた「まあ、なんと愛らしい」と顔をほころばせました。
子は「オオタニ」と名付けられました。
オオタニを育てる日々は、驚きの連続でした。籠に入れて養うに、その成長の速さは、まさに雨後の筍のごとし。三ヶ月ほどの間に、あっという間に立派な大人へと成長していったのです。
その体躯は、見る間に鴨居を越える高さとなり、百九十三センチという、日本人離れした偉丈夫となりました。手足は長く伸びやかで、筋肉はしなやかな鋼のように全身を覆っています。
そして、よく食べ、よく眠りました。
食事のたびに、米俵が空になるのではないかというほどの白飯を平らげ、その後はこんこんと眠り続けました。一日の半分以上を寝て過ごすその姿は、力を蓄えるために冬眠する熊のようでもあり、あるいは大地の底から無限の活力を吸い上げているようでもありました。翁はその寝顔を見るたび、「寝る子は育つというが、これは育ちすぎだな」と苦笑しつつも、頼もしさに胸を熱くするのです。
やがてオオタニは、花巻東という学び舎を経て、翁が本拠地とする北の大地、「日本ハムファイターズ」という屋敷に迎え入れられることとなりました。
この時、世間は騒然としました。
常識という物差ししか持たぬ世の批評家や、古き慣習に囚われた指導者たちは、口を揃えてこう言ったのです。
「二兎を追う者は一兎をも得ず。投手として生きるか、野手として生きるか。どちらか一つに絞らねば、どちらも中途半端に終わるだろう」
それは、地球という星における「常識」でした。プロの世界は甘くない、分業制こそが近代野球の真髄である、と。
しかし、翁は首を横に振りました。翁は、オオタニの瞳の奥にある、無限の宇宙を見ていたからです。
「常識を疑え。誰が決めた道でもない、お前だけの道を歩めばいい」
翁はオオタニにそう説きました。
「投げて勝ち、打って勝つ。二つやるのが一番楽しいじゃないか。それができるのは、世界でお前ただ一人なんだ」
オオタニは、その言葉を待っていたかのように深く頷きました。
「はい、監督。僕は野球が好きです。投げることも、打つことも、走ることも。その全てが野球です。選ぶことなんてできません」
かくして、北の大地にて、前代未聞の挑戦「二刀流」の幕が上がりました。
オオタニがグラウンドに立つと、そこには常に驚嘆の風が吹きました。
マウンドに立てば、その長い腕から放たれる白球は、百六十キロを超える唸りを上げて捕手のミットを叩きます。その音は、銃声のように鋭く、観客の心臓を射抜きました。打者が振ったバットは空を切り、あるいは球威に押されてへし折られました。
かと思えば、翌日にはバットを握り打席に立ちます。彼がひとたびスイングすれば、打球は天を衝くような凄まじい角度で舞い上がり、ドーム球場の遥か天井へと吸い込まれていきました。
投げては二桁の勝利を挙げ、打っては二桁のアーチを架ける。
『十勝、十本塁打』
それは、漫画の世界ですら「出来過ぎだ」と編集者に却下されるような記録でした。しかし、オオタニはそれを現実のものとし、涼しい顔でダイヤモンドを駆け抜けていくのです。
いつしか、批判の声は消え失せ、称賛の嵐へと変わりました。
翁は、ベンチの奥で腕を組み、逞しく成長した我が子を見つめて呟きました。
「見ろ、これぞ俺の愛し子だ。常識という名の狭い檻を突き破り、天高く伸びゆく竹のような、真の自由人だ」
オオタニの名は、日ノ本の隅々にまで知れ渡りました。老いも若きも、男も女も、彼の笑顔とプレーに魅了され、日本中が彼を愛しました。
しかし、竹が天を目指して伸び続けるように、オオタニの才もまた、一つの場所には留まりませんでした。
入団から数年の月日が流れたある日のこと。オオタニは、北の海の向こう、遥か彼方に広がる水平線を見つめ、物思いに耽るようになりました。
翁は悟りました。別れの時が近づいていることを。
「監督」
オオタニは静かに切り出しました。
「僕は、もっと高い山を登りたいんです。この海の向こうに、世界中から化け物たちが集う『メジャーリーグ』という場所があると聞きます。そこで、自分の力がどこまで通用するのか、試してみたいんです」
その言葉に、一点の迷いもありませんでした。
翁は、こみ上げる寂しさをぐっと飲み込み、深く頷きました。
「行け、オオタニ。お前の才能は、この狭い島国に収まる器じゃない。世界がお前を待っているんだ」
それは、育ての親としての最後の教えであり、最大の愛情でした。
こうして、オオタニの「メジャー挑戦」という噂は、風に乗って太平洋を越えました。
アメリカという広大な国にある三十の球団、その全てが色めき立ちました。
「日本に、ベーブ・ルースの再来がいるらしい」
「いや、ルースをも超えるユニコーンだ」
彼らは、我先にとオオタニを獲得せんと動き出しました。その熱狂は、あたかも巨大な渦のごとく膨れ上がり、海を渡る若き英雄を飲み込まんとする勢いでした。




