表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/27

第7話 鉄壁の監視と、想定外の解

 歴史学の講義は、もはや拷問と呼ぶべき時間だった。

 老教授が語る建国史の一節も、窓の外を流れる雲の形も、何一つ私の頭には入ってこない。意識の全てが、背後の一点――壁際に立つ、レオンハルト様の存在に吸い寄せられてしまうからだ。


(……息をしているのかしら)


 あまりに気配がなさすぎて、時折そんな馬鹿なことを考えてしまう。だが、彼はいる。間違いなく、そこに。

 教室という閉鎖された空間で、彼の存在感は異常なまでに際立っていた。それはまるで、美しい絵画の中に一体だけ、写実的すぎる彫刻が置かれているような、圧倒的な違和感。

 生徒たちの好奇の視線が、私と彼の間を何度も往復する。その視線が肌をちりちりと焼き、私の集中力を削いでいく。


(だめだ……思考がまとまらない。これでは、次の計画どころじゃないわ)


 RTA走者にとって、冷静な分析と状況判断は何より重要だ。

 しかし、今の私はどうだ。監視者の存在という想定外のデバフ(弱体効果)を受け、完全に思考停止に陥っている。


 講義の終了を告げる鐘の音が、救いの福音のように鳴り響いた。


 †


 次なる戦場は、図書室。

 私の反撃の狼煙を上げた、あの禁断の魔導書が眠る場所だ。

 もう一度、あの書庫へ向かい、システムの脆弱性を突く別の術式を探す。今の私に残された道は、それしかない。


 私は足早に、書庫の奥へと向かった。

 背後から、規則正しい足音がついてくる。床に敷かれた絨毯が、彼の足音を鈍く吸い込んでいた。


「……」

「……」


 静寂が支配する書庫で、私と彼の二人分の気配だけが、やけに濃密に漂う。

 私は、禁断の魔術が記された棚の前で足を止めた。そして、わざとらしく彼に振り返ってみせる。


「わたくし、ここで本を探しますが。サー・ナイトは、そこでお待ちになっててくださらない?」


 牽制の言葉。これ以上、私の領域に入ってくるなという、無言の圧力。

 しかし、彼はアクアマリンの瞳を揺らすことなく、静かに首を横に振った。


「勅命です、アイナ嬢。あなた様の半径三メートル以内が、私の持ち場ですので」


「……そう」


 短い返事だけを返し、私は本棚に向き直った。

(半径、三メートル……!)

 絶望的な数字だ。これでは、怪しい本を手に取ることすらできない。彼の視線は、私の背中から指先の一本一本まで、完璧に捉えているだろう。


 私は目的の本を諦め、無関係な歴史書に手を伸ばした。だが、それは一番上の棚。少し、背伸びをしないと届かない。

 私が爪先立ちになった、その瞬間。


 すっ、と。

 私の視界のすぐ横から、白い手袋に包まれた、大きな手が伸びてきた。

 その手は、私が取ろうとしていた分厚い歴史書を、いとも容易く掴み取る。


「……!」


 振り向くと、すぐそこに、レオンハルト様の胸板があった。

 嗅いだことのない、陽光と、それから微かな鉄の匂い。

 彼は無言のまま、その本を私に差し出した。


 私は、反射的にそれを受け取っていた。

 指先が、ほんのわずかに、彼の手袋に触れる。


「あ……」


 その瞬間、私の思考が、またしても真っ白に染まった。

 なんだ、今の。

 今の動きは、監視役のチャートにはない。ただの、親切?

 バグでもない、ただの、人間的な気遣い?


「……どうも」


 かろうじて、それだけを口にした。

 彼は小さく頷くと、またすっと三メートル後方へと下がり、完璧な監視者の貌に戻る。

 しかし、私の心臓は、ありえないほど速い鼓動を刻んでいた。

 指先に残る、微かな感触。彼の体温すら、伝わってきたかのような錯覚。


(だめだ、だめだ、だめだ……!)


 私は本を抱きしめ、必死に自分を叱咤する。

(惑わされるな、私! 彼は監視対象! 攻略対象! それ以上でも、それ以下でもない!)


 †


 昼食の時間、カフェテリアは再び異様な空気に包まれた。

 私が席に着くと、レオンハルト様がその背後に、まるで守護神のように立つ。

 そのせいで、誰も私のテーブルに近づこうとしない。半径五メートルが、ぽっかりと空白地帯になっていた。まるで、猛獣の檻だ。


 そんな中、唯一、臆面もなく近づいてくる人物がいた。


「おお、アイナ! 見るがいい、この光景を! まるで、孤高の薔薇を、王国最強の騎士が守っているかのようだ! 美しい! あまりにも詩的だ!」


 アルバート王子だった。

 彼は、私の絶望的な状況を、全てロマンチックなフィルター越しに解釈しているらしい。


「アイナ様……あ、あの……」

 おずおずと声をかけてきたのは、エリスだ。

「その、お身体は、もうよろしいのですか……?」


 彼女の瞳には、計算のない、純粋な心配の色が浮かんでいた。

 ああ、もう。なんで、このゲームのキャラクターたちは……。


 私は、目の前の豪華なランチプレートを見つめた。

 最高級の食材が使われているはずなのに、味がしない。

 王子の的外れな賞賛。ヒロインの純粋な善意。そして、背後から感じる、推しの絶対的な存在感。

 私の計画したRTAチャートは、ズタズタに破綻した。


 私は、もう、悪役令嬢ですらない。

 ただの、見世物だ。


 食事を終え、寮へと続く渡り廊下を、夕陽に照らされながら歩く。

 もちろん、背後には私の影のように、レオンハルト様が付き従っている。


(もう、無理だ……)


 私は、ついに認めた。

 ゲームのルールの中で、システムの穴を突いて戦うという、私の計画は、完全に終わった。

 この鉄壁の監視の前では、どんな策も弄せない。


 私は、ふと足を止めた。

 そして、ゆっくりと、私の影を踏む騎士へと振り返る。


 夕陽を背にした彼の表情は、よく見えない。

 だが、私は、静かに問いかけた。


「――ねえ、サー・ナイト」


 ゲームのルールがダメなら。

 この世界のシステムを壊せないのなら。


「あなたという“ルール”を、壊すことは、できますの?」


 私の口からこぼれたのは、悪役令嬢でも、RTA走者でもない。

 ただの、一人の少女としての、宣戦布告だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ