第7話 鉄壁の監視と、想定外の解
歴史学の講義は、もはや拷問と呼ぶべき時間だった。
老教授が語る建国史の一節も、窓の外を流れる雲の形も、何一つ私の頭には入ってこない。意識の全てが、背後の一点――壁際に立つ、レオンハルト様の存在に吸い寄せられてしまうからだ。
(……息をしているのかしら)
あまりに気配がなさすぎて、時折そんな馬鹿なことを考えてしまう。だが、彼はいる。間違いなく、そこに。
教室という閉鎖された空間で、彼の存在感は異常なまでに際立っていた。それはまるで、美しい絵画の中に一体だけ、写実的すぎる彫刻が置かれているような、圧倒的な違和感。
生徒たちの好奇の視線が、私と彼の間を何度も往復する。その視線が肌をちりちりと焼き、私の集中力を削いでいく。
(だめだ……思考がまとまらない。これでは、次の計画どころじゃないわ)
RTA走者にとって、冷静な分析と状況判断は何より重要だ。
しかし、今の私はどうだ。監視者の存在という想定外のデバフ(弱体効果)を受け、完全に思考停止に陥っている。
講義の終了を告げる鐘の音が、救いの福音のように鳴り響いた。
†
次なる戦場は、図書室。
私の反撃の狼煙を上げた、あの禁断の魔導書が眠る場所だ。
もう一度、あの書庫へ向かい、システムの脆弱性を突く別の術式を探す。今の私に残された道は、それしかない。
私は足早に、書庫の奥へと向かった。
背後から、規則正しい足音がついてくる。床に敷かれた絨毯が、彼の足音を鈍く吸い込んでいた。
「……」
「……」
静寂が支配する書庫で、私と彼の二人分の気配だけが、やけに濃密に漂う。
私は、禁断の魔術が記された棚の前で足を止めた。そして、わざとらしく彼に振り返ってみせる。
「わたくし、ここで本を探しますが。サー・ナイトは、そこでお待ちになっててくださらない?」
牽制の言葉。これ以上、私の領域に入ってくるなという、無言の圧力。
しかし、彼はアクアマリンの瞳を揺らすことなく、静かに首を横に振った。
「勅命です、アイナ嬢。あなた様の半径三メートル以内が、私の持ち場ですので」
「……そう」
短い返事だけを返し、私は本棚に向き直った。
(半径、三メートル……!)
絶望的な数字だ。これでは、怪しい本を手に取ることすらできない。彼の視線は、私の背中から指先の一本一本まで、完璧に捉えているだろう。
私は目的の本を諦め、無関係な歴史書に手を伸ばした。だが、それは一番上の棚。少し、背伸びをしないと届かない。
私が爪先立ちになった、その瞬間。
すっ、と。
私の視界のすぐ横から、白い手袋に包まれた、大きな手が伸びてきた。
その手は、私が取ろうとしていた分厚い歴史書を、いとも容易く掴み取る。
「……!」
振り向くと、すぐそこに、レオンハルト様の胸板があった。
嗅いだことのない、陽光と、それから微かな鉄の匂い。
彼は無言のまま、その本を私に差し出した。
私は、反射的にそれを受け取っていた。
指先が、ほんのわずかに、彼の手袋に触れる。
「あ……」
その瞬間、私の思考が、またしても真っ白に染まった。
なんだ、今の。
今の動きは、監視役のチャートにはない。ただの、親切?
バグでもない、ただの、人間的な気遣い?
「……どうも」
かろうじて、それだけを口にした。
彼は小さく頷くと、またすっと三メートル後方へと下がり、完璧な監視者の貌に戻る。
しかし、私の心臓は、ありえないほど速い鼓動を刻んでいた。
指先に残る、微かな感触。彼の体温すら、伝わってきたかのような錯覚。
(だめだ、だめだ、だめだ……!)
私は本を抱きしめ、必死に自分を叱咤する。
(惑わされるな、私! 彼は監視対象! 攻略対象! それ以上でも、それ以下でもない!)
†
昼食の時間、カフェテリアは再び異様な空気に包まれた。
私が席に着くと、レオンハルト様がその背後に、まるで守護神のように立つ。
そのせいで、誰も私のテーブルに近づこうとしない。半径五メートルが、ぽっかりと空白地帯になっていた。まるで、猛獣の檻だ。
そんな中、唯一、臆面もなく近づいてくる人物がいた。
「おお、アイナ! 見るがいい、この光景を! まるで、孤高の薔薇を、王国最強の騎士が守っているかのようだ! 美しい! あまりにも詩的だ!」
アルバート王子だった。
彼は、私の絶望的な状況を、全てロマンチックなフィルター越しに解釈しているらしい。
「アイナ様……あ、あの……」
おずおずと声をかけてきたのは、エリスだ。
「その、お身体は、もうよろしいのですか……?」
彼女の瞳には、計算のない、純粋な心配の色が浮かんでいた。
ああ、もう。なんで、このゲームのキャラクターたちは……。
私は、目の前の豪華なランチプレートを見つめた。
最高級の食材が使われているはずなのに、味がしない。
王子の的外れな賞賛。ヒロインの純粋な善意。そして、背後から感じる、推しの絶対的な存在感。
私の計画したRTAチャートは、ズタズタに破綻した。
私は、もう、悪役令嬢ですらない。
ただの、見世物だ。
食事を終え、寮へと続く渡り廊下を、夕陽に照らされながら歩く。
もちろん、背後には私の影のように、レオンハルト様が付き従っている。
(もう、無理だ……)
私は、ついに認めた。
ゲームのルールの中で、システムの穴を突いて戦うという、私の計画は、完全に終わった。
この鉄壁の監視の前では、どんな策も弄せない。
私は、ふと足を止めた。
そして、ゆっくりと、私の影を踏む騎士へと振り返る。
夕陽を背にした彼の表情は、よく見えない。
だが、私は、静かに問いかけた。
「――ねえ、サー・ナイト」
ゲームのルールがダメなら。
この世界のシステムを壊せないのなら。
「あなたという“ルール”を、壊すことは、できますの?」
私の口からこぼれたのは、悪役令嬢でも、RTA走者でもない。
ただの、一人の少女としての、宣戦布告だった。




