第33話 黄金の檻で、始まる朝
その、離宮は、まるで、絵画の中から、抜け出してきたかのような、場所だった。
鏡のように、静かな、湖のほとり。
朝霧が、乳白色のベールのように、水面を、撫でていく。
遠くの森からは、鳥たちの、さえずりが聞こえ、澄み切った空気は、雨上がりの、土の匂いと、湖の、水の匂いが、混じり合っていた。
「……本当に、きれいな、場所ですわね」
私は、テラスの椅子に、腰掛け、その、完璧すぎるほどの、平穏な景色を、眺めていた。
魔術試合での、あの、天地がひっくり返るような、激闘から、三日。
私たちは、王都の喧騒から、遠く、引き離され、この、湖畔の離宮に、いた。
名目は、「心身の療養」。
実態は、丁寧な、言葉で、ラッピングされた、「軟禁」。
(黄金の、鳥籠……。次の、クエストが、始まるまでの、待機エリア、といったところかしら)
ゲーマーとしての、冷静な分析とは、裏腹に。
私の心は、この、偽りの平穏に、少しだけ、安らぎを、覚えてしまっていることも、また、事実だった。
「――アイナ様」
背後から、静かな声が、かけられた。
振り返ると、そこには、レオンハルト様が、立っていた。
いつもの、物々しい、騎士の鎧ではない。簡素な、白い、チュニックと、黒い、ズボン。
その手には、焼きたての、パンが乗った、皿があった。
「おはようございます、レオンハルト様。あなた様が、焼いてくださったの?」
「……見よう見まねだ。口に、合うかどうか」
彼は、少し、照れたように、そう言うと、テーブルの上に、皿を、置いた。
こんがりと、狐色に焼かれた、パンからは、香ばしい、小麦の香りが、立ち昇っている。
私も、彼も、今は、全ての、役職を、剥奪されている。
私は、悪役令嬢でも、聖女候補でもない。
彼は、近衛騎士団副団長でも、監視役でもない。
ただの、アイナと、レオンハルトとして、私たちは、ここにいた。
「……美味しい」
私が、パンを、一口、頬張ると、彼は、安堵したように、息を、吐いた。
そして、私の、向かいの席に、静かに、腰を下ろす。
ぎこちない、沈黙。
たまに、交わされる、他愛のない、会話。
朝の、光。
湖面を、渡る、風。
その、あまりにも、“普通”で、そして、かけがえのない、時間が、私たちの、傷ついた魂を、ゆっくりと、癒していくようだった。
だが。
そんな、偽りの平穏は、長くは、続かなかった。
その日の、午後。
離宮の扉を、叩く、固く、そして、無粋な、ノックの音が、響き渡った。
やってきたのは、近衛騎士団長、クラウス。
その、氷のような、瞳は、明らかに、私たちを、罪人として、見ていた。
「――ご療養は、順調かな。アイナ嬢」
彼の、嫌味な挨拶に、私は、にっこりと、完璧な、淑女の笑みを、返した。
「ええ、おかげさまで、団長閣下。空気も、水も、美味しくて、少し、太ってしまいそうですわ」
「それは、何より」
クラウスは、鼻で、笑った。
「だが、忘れてもらっては、困る。貴殿らは、休暇で、ここに来ているのでは、ない。……我々の、“監視下”に、あることを、ゆめゆめ、お忘れなきよう」
彼は、威圧するように、私たちを、一瞥すると、それだけを、言い残し、足早に、去っていった。
彼の、去った後には、また、静寂が、戻ってきた。
だが、それは、もう、朝の、穏やかな、静寂では、なかった。
見えざる、壁が、私たちを、取り囲んでいるのだと、改めて、思い知らされる、息の詰まる、沈黙だった。
レオンハルト様が、固く、拳を、握りしめていた。
「……屈辱だ」
「いいえ」
私は、首を、横に振った。
「これは、屈辱では、ありませんわ。……これは、猶予。次なる、戦いのための、準備期間です」
その、言葉を、証明するかのように。
一羽の、青い、小鳥が、テラスの、手すりに、舞い降りた。
それは、ヴァレリウス老との、秘密の、通信手段。
その足には、小さな、小さな、羊皮紙が、結ばれていた。
私は、それを、受け取ると、震える手で、解読用の、魔法薬を、振りかけた。
すると、そこには、老人の、震えるような、筆跡が、浮かび上がってきた。
『――事態急変。呪いを封じ込めた、“英雄の剣”に、異変アリ。剣が、呪いを喰らい、自己進化を、始めている。もはや、ただの牢獄ではない。あれは、新たな、“厄災の卵”じゃ』
私の、血の気が、引いていく。
『完全に、変質し、呪いが、再起動するまで……猶予は、あと、七日。建国記念祭の、最終日。……間に合わねば、世界は、終わる』
私は、羊皮紙を、握りしめた。
隣で、レオンハルト様が、息を、呑む。
偽りの、平穏は、終わった。
私たちの、本当の、第二ラウンド(ニューゲーム)が、今、始まったのだ。
キーン、と。
かつて、何度も、聞き慣れた、クエストの、開始を告げる、幻聴が、私の、頭の中に、鳴り響いた、気がした。




