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第32話 静かな勝利と、新たな夜明け

 闘技場を支配していたのは、もはや、熱狂ではない。

 ただ、人智を超えた現象を目の当たりにした、畏怖と、混乱だけが、巨大な沈黙となって、満ちていた。

 やがて、その沈黙は、衛兵たちの、慌ただしい足音と、鋭い号令によって、破られる。

 観客たちは、何が起きたのか、理解できないまま、半ば、強制的に、闘技場から、退出させられていった。


 私は、ヴァレリウス老の肩を借りながら、特別観覧席の、階段を降りた。

 身体中の魔力も、体力も、そして、魂さえも、使い果たしたかのように、足元が、おぼつかない。

 けれど、私の心は、不思議なほど、穏やかだった。

 まるで、嵐が過ぎ去った後の、朝の海のように。


 闘技場の、グラウンドレベル。

 そこは、さらに、混乱を極めていた。

 騎士たちが、あの、禍々しい、黒い気を放つ“英雄の剣”を、厳重な結界を施した箱に、封印している。

 チャンピオンだった、若者は、呆然と、その場に、へたり込んでいた。


 そして、その、中心に。

 医療班の者たちに、囲まれて、一人の、騎士が、ゆっくりと、身を、起こしていた。

 彼は、差し伸べられる、誰の手も、取らなかった。

 ただ、自分の力で、ゆっくりと、立ち上がる。

 そして、無数の、視線を、振り払い、まっすぐに、私だけを、見つめて、微笑んだ。

 その、澄み切った、笑顔だけで、私の、全ての疲労が、報われた気がした。


 †


 私たちは、闘技場に併設された、簡素な、選手用の、控え室に、通された。

 ヴァレリウス老が、扉の外で、「誰も、入れるな」と、番人になってくれている。

 石造りの、冷たい部屋。

 そこには、簡素な、長椅子と、テーブルがあるだけ。

 レオンハルト様は、その、長椅子に、深く、腰掛けていた。

 私も、吸い寄せられるように、彼の、隣に、座った。


 しばらく、どちらも、何も、言えなかった。

 ただ、すぐ、隣にある、互いの、体温と、呼吸を、感じているだけで、十分だった。


「……痛みは、ありませんか」

 私が、最初に、静寂を、破った。


 彼は、ゆっくりと、自分の、胸元に、手を当てた。

 そして、確かめるように、何度か、息を吸い、吐いた。

「……いや」

 彼は、首を、横に振った。

「痛みは、ない。ただ……」


「ただ?」


「……静かだ」

 彼は、そう言って、まるで、初めて、見るもののように、自分の、手のひらを、見つめた。

「ずっと、頭の奥で、聞こえていた、声が、しない。……霧が、晴れたようだ。私の、心は、こんなにも、静かだったのだな」


 その言葉に、私の、視界が、滲んだ。

 ああ、本当に、終わったのだ。

 彼の、千年間、続いた、孤独な、戦いが。


 彼は、ゆっくりと、顔を上げた。

 そして、その、あまりにも、優しい、瞳で、私を、見た。

「……アイナ様」

 彼は、そっと、手を、伸ばしてきた。

 私は、身を、固くした。

 だが、その手は、私の、頬に、触れる、寸前で、止まった。

 そして、私の、唇の端に残っていた、乾いた、血の痕を、その、白い手袋の、指先で、そっと、拭ってくれた。


「……無茶を、なされた」

 その声は、掠れていた。

 後悔と、そして、感謝と、ありとあらゆる、感情が、ごちゃ混ぜになった、声だった。


「お互い様、ですわ」

 私は、笑おうとして、うまく、笑えなかった。

「それに、言ったでしょう? わたくし、負けるゲームは、しない主義なのです」


「……ああ」

 彼も、笑った。

「あなた様には、敵いませぬな。……以前にも、言ったか」


「ええ、二度目ですわよ」


 私たちは、見つめ合ったまま、どちらからともなく、ふふ、と、笑い合った。

 それは、子供のような、他愛のない、笑い声だった。

 私たちの、本当の、勝利の、瞬間だった。


 だが。

 その、穏やかな時間は、乱暴に、打ち破られた。


 バンッ!!


 控え室の扉が、蹴破らんばかりの勢いで、開かれた。

 そこに立っていたのは、怒りで、顔を、歪ませた、アルバート王子と、その背後に控える、氷の貌の、騎士団長だった。


「――説明してもらおうか、二人とも!」

 王子の、金切り声が、響き渡る。

 彼は、私の隣に座る、レオンハルト様を、睨みつけた。

「レオンハルト! 貴様、あの、禍々しい力は、一体、何だ! そして、アイナ!」


 彼は、次に、私を、見た。その瞳には、嫉妬と、混乱が、渦巻いていた。

「君は、どうして、彼を、庇うような真似を! あの、金色の光は! 君は、一体、何をしたのだ!」


 騎士団長も、重々しく、口を開いた。

「言い訳は、聞かぬ。今宵、貴殿らが、王国の御前で、見せた、あの、不可解な現象。その、全てを、洗いざらい、話して、もらうぞ」


 ああ、やはり、こうなる。

 私たちの、個人的な戦いは、終わった。

 けれど、ここから、もっと、厄介で、面倒な、戦いが、始まるのだ。

 この、奇跡という名の、不可解な現象を、この世界の、凡人たちに、どうやって、説明するか、という、政治の、戦いが。


 私は、ため息を、一つ。

 そして、ゆっくりと、立ち上がった。

 そして、傷ついた、私の騎士を、守るように、その、前に、立った。

 もう、私は、か弱き令嬢でも、追われる反逆者でもない。


 私は、この世界の、ルールを、書き換えた、唯一の、プレイヤーなのだから。


「――殿下、団長閣下」


 私は、にっこりと、完璧な、淑女の笑みを、浮かべた。

 その瞳の奥に、ゲーマーとしての、冷徹な光を、宿らせて。


「ご説明、いたしますわ。わたくしたちが、今宵、成し遂げた、“奇跡”の、その、全てを。……ただし、どこから、お話ししたものかしら」


 私の、反撃の、第二幕。

 その、幕が、今、静かに、上がった。

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