第25話 その書の名は、“運命”
世界の理の外より、来たる、魂――。
ヴァレリウス老の言葉が、私の頭の中で、木霊した。
私の視線は、彼が差し出した、黒い革の日記帳に、釘付けになる。
その、千年の時を経た紙の塊が、まるで、底なしの深淵のように、私の全てを吸い込んでいくような、錯覚。
「……書庫長。それは、一体……」
隣に立つレオンハルト様の、訝しむような声が、遠くに聞こえる。
「我が祖先、アリスティア・ヴァレリウスが、その晩年に、書き遺した、唯一の私的記録」
老人は、静かに、しかし、重々しく言った。
「そして、彼が、自らが創り出した『魂の枷』という、許されざる大魔術に対する、たった一つの、“解”を記した、希望の書だ」
私は、まるで、何かに引き寄せられるように、その日記帳へと、手を伸ばした。
指先が、ざらりとした、古い革の表紙に触れる。
ひんやりと、冷たい。
けれど、その奥で、何か、微かな熱のようなものが、脈打っているような、気さえした。
「アイナ様、お気をつけ……」
レオンハルト様が、案ずるように、声をかけてくれる。
私は、首を横に振って、彼を制した。
大丈夫。この本は、私に、敵意を向けてはいない。
むしろ、ずっと、待っていた。千年もの間、私のような、異物が、現れるのを。
私は、ゆっくりと、ページを、開いた。
インクは掠れ、所々、染みになっている。そこに綴られていたのは、神経質そうな、しかし、天才の狂気を孕んだ、美しい筆跡だった。
私は、無意識に、その文字を、声に出して、読んでいた。
「『“魂の枷”は、この世界の因果律の内側で、完結した、完璧な術式である。故に、これを破壊するには、世界の因果の外側から、干渉するしかない。即ち――運命の織物に、その糸が織り込まれていない、異邦の魂。その魂こそが、この閉じた円環を断ち切る、唯一の、**“観測者”にして、“鍵”**となる』……」
読み終えた瞬間、私は、息を呑んだ。
全身から、血の気が、引いていく。
(……観測者? 鍵?)
それは、私が、自分自身を、定義していた、言葉そのものだった。
この世界を、一歩引いた場所から眺める「プレイヤー(観測者)」。
そして、物語を動かすための「攻略者(鍵)」。
偶然、では、ありえない。
千年も昔の魔術師が、まるで、今の、この私を、見てきたかのように、書き記している。
「アイナ様……?」
私の顔色が変わったのを、レオンハルト様が、敏感に感じ取った。
だが、私の思考は、もう、彼の声に、届いていなかった。
ページを、めくる。
そこには、さらに、衝撃的な記述があった。
「『“鍵”たる魂は、自らが、異邦人であることを、自覚しているだろう。彼女は、この世界を、俯瞰で見る、目を持つ。故に、彼女だけが、“魂の枷”の、本当の姿を、見抜くことができる』……」
「……あ……」
声にならない声が、漏れた。
そうだ。私だけが、知っていた。この世界が、乙女ゲームであることも、彼の呪いが、バグであることも。
それは、私が、特別だったからじゃない。
私が、この世界の、外側の人間だったからだ。
「……お嬢様」
ヴァレリウス老が、静かに、私に、問いかけた。
その、鷲のような瞳が、まっすぐに、私の魂を、射抜いている。
「あなた様は、いったい、何者ですかな?」
その問いに、私は、答えられない。
「死んだと思ったら、ゲームの世界に転生していました」などと、誰が、信じるだろう。
私が、沈黙したのを見て、レオンハルト様が、一歩、前に出た。
「書庫長。それ以上、アイナ様を、問い詰めるのは、おやめください」
彼の声には、私を庇う、強い意志が、宿っていた。
「彼女が、何者であろうと、構わない。彼女が、私と共に、戦ってくれると、誓ってくれた。……私にとっては、それだけが、真実です」
「……レオンハルト様……」
彼の、あまりにも、まっすぐな信頼に、私の胸が、熱くなる。
ヴァレリウス老は、そんな私たちを、しばらく、黙って見ていた。
やがて、彼は、ふぅ、と、千年の重みを吐き出すような、深いため息をついた。
「……そうか。そう、ですな」
彼は、ゆっくりと、頭を下げた。
「アークライトの若君の、仰る通りだ。わしも、千年間、この秘密を守り続けてきた、ただの、老いぼれ。今更、真実の探求など、意味のないことか」
彼は、顔を上げた。その顔には、もう、番人としての、険しさはない。
ただ、一人の、賢者のような、穏やかな表情があった。
「お嬢様。サー・レオンハルト。……いや、運命に抗う、若き二人よ」
彼は、私たちに、告げた。
「我がヴァレリウス家は、本日をもって、千年間、守り続けた、王家への忠誠を、放棄する。これよりは、我が祖先、アリスティアの、真の願い――“魂の枷”の、破壊のために、我が知識と、この書庫の全てを、あなた方に、捧げよう」
それは、あまりにも、心強い、申し出だった。
私たちは、千年分の秘密を守ってきた、最強の賢者を、味方につけたのだ。
私は、もう一度、日記帳に、視線を落とした。
そこには、こう、書かれていた。
『“鍵”たる魂が、その役目を自覚し、そして、“枷”たる魂が、自らの意志で、運命に抗うと決めた時――反撃の、序曲が、始まる』
私は、日記帳を、静かに、閉じた。
そして、レオンハルト様と、ヴァレリウス老の顔を、交互に見た。
私の、本当の仲間たちの顔を。
もう、絶望はない。
私の胸に、宿るのは、途方もないほどの、責任の重さと、そして、それを、遥かに上回る、確かな、希望の光だった。




