第24話 千年の番人と、開かれるべき扉
私たちが禁書庫を出ると、書庫長のヴァレリウス老が、カウンターの向こうから、苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔で、こちらを睨んでいた。
その視線は、明らかに「厄介事を嗅ぎ回る、招かれざる客」を見るそれだ。
上等だわ。
その顔を、驚愕と、そして、最終的には、協力のそれに、変えてみせる。
私は、レオンハルト様とアイコンタクトを交わし、まっすぐに、彼の城へと向かった。
「――ヴァレリウス書庫長」
私が、丁寧な、しかし、一切の笑みを含まない声で呼びかけると、老人は、顔も上げずに、ぶっきらぼうに答えた。
「……何かね。用なら、済んだはずだが」
「いいえ、とんでもない。用件は、今、ここから、始まりますのよ」
私の言葉に、老人が、ようやく、その鷲のような鋭い瞳を上げた。
「……何?」
「あなた様個人に、お伺いしたい儀がございます。場所を、改めていただけますこと? ここで、大声で話すべき内容では、ございませんでしょう?」
私は、わざと、周囲の閲覧者に聞こえるような声で言った。
老人の顔が、さっと険しくなる。
秘密を守る番人にとって、公の場で、その秘密の存在をほのめかされることほど、屈辱的なことはない。
「……書庫長室へ。ついてきなさい」
老人は、苦々しげに、それだけを告げると、席を立った。
私の、ささやかな脅迫が、完璧に効いたようだ。
†
書庫長の執務室は、黴と、古いインクと、そして、千年分の秘密の匂いがした。
壁という壁は、天井まで、羊皮紙の巻物や、分厚い古書で、埋め尽くされている。
小さな部屋の真ん中に置かれた、大きな執務机。それが、この部屋の主の、唯一の領土だった。
「――さて」
主の席に座ったヴァレリウス老が、組んだ指の上で、顎を休めた。
「単刀直入に、聞かせてもらおう。お嬢様、そして、アークライトの若君。……貴殿らは、いったい、何を知った?」
「全て、ですわ」
私もまた、単刀直入に、返した。
「初代宮廷魔術師、アリスティア・ヴァレリウスが、初代近衛騎士団長、ライオネル・アークライトに施した、大魔術。『魂の枷』の全てを」
老人の瞳が、カッと見開かれた。その動揺は、ほんの一瞬。すぐに、彼は、鉄のようなポーカーフェイスに戻る。
「……何の、おとぎ話かな。そのようなもの、この書庫のどこにも……」
「ええ、この書庫には、ございませんでしょうね」
私は、彼の言葉を、遮った。
「だって、その研究記録は、あなた様の一族が、千年もの間、“家宝”として、個人的に受け継いでこられたのですから。……違いますこと?」
シン、と部屋が静まり返る。
今度は、老人の方が、言葉を失っていた。
図星。それも、ど真ん中だ。
やがて、彼は、重々しく、息を吐いた。
「……なぜ、そこまで」
「なぜ、ではございませんわ。必要だから、です」
私は、立ち上がり、隣に立つ、レオンハルト様を、まっすぐに見つめた。
「見てください、書庫長。あなたの祖先が創り出した、呪いの、現在の姿を。あの夜会で、彼がどうなったか、あなたも、ご存じでしょう?」
「……」
「あの“枷”は、もう、壊れかけているのです! 王家を守るための安全装置が、今や、いつ暴発してもおかしくない、王国最大の爆弾と化している! それでもなお、あなた様は、一族の使命だか何だか知らないけれど、その秘密を、墓まで抱えていくつもりですかしら!?」
私の、厳しい問いかけ。
それを受けて、今まで、沈黙を守っていた、レオンハルト様が、静かに、口を開いた。
「――書庫長」
彼の声は、穏やかだった。だが、その声には、どんな怒声よりも、重い、魂の響きがあった。
「私は、構いません。この身が、どうなろうとも。それが、アークライト家に生まれた、私の宿命なのでしょう。……ですが、この力が、アイナ様を、そして、この国の無辜の民を、傷つけることだけは、耐えられない」
彼は、深々と、頭を下げた。
「どうか、お願いです。教えてください。私の祖先から続く、この呪いを、終わらせる方法を。……そのために、この命、どう使おうと、構いません」
騎士の、悲痛なまでの、誠実な願い。
それは、どんな脅迫よりも、どんな論理よりも、強く、老人の心を、揺さぶった。
ヴァレリウス老は、長く、長く、目を閉じていた。
その皺だらけの顔に、千年分の、苦悩と、葛藤が、刻まれているようだった。
やがて、彼は、ゆっくりと、目を開けた。
「……愚かなことだ」
彼は、自分自身を、嘲るように、言った。
「我が祖先、アリスティアは、自らが創り出した『魂の枷』を、その生涯、ずっと、悔いていた。……そして、書き遺したのだ。いつか、この枷が、綻びを見せた時のために、一つの、希望を」
老人は、席を立つと、壁にかけられた、初代国王の肖像画を、取り外した。
その裏には、隠された、小さな金庫があった。
「祖先は、予言していた。この枷を、破壊できるのは、ただ一人……」
ギ、という重い音を立てて、金庫の扉が開かれる。
中から、彼が、取り出したのは、黒い革で装丁された、一冊の、古びた日記帳だった。
「――“この世界の理の外より来たる、魂の持ち主”だけだ、と」
その言葉と同時に、彼は、その日記帳を、私に、差し出した。
「……え?」
私は、自分の耳を、疑った。
世界の、理の外より、来たる、魂。
「お嬢様」
老人が、初めて、まっすぐに、私の瞳を見た。
その瞳には、もう、敵意はない。ただ、深い、深い、畏敬の色が、浮かんでいた。
「あなた様は、いったい、何者ですかな?」
私は、何も、答えられなかった。
ただ、震える手で、その日記帳を、受け取る。
ページを、開く。
そこに、記されていたのは、私の、そして、この世界の、根幹を揺るガす、衝撃の、真実だった。




