第20話 盤上の外で、交わされる契約
私の部屋の空気が、凍りついた。
いや、実際に、室温が数度、下がったようにさえ感じられた。
レオンハルト様から放たれる、制御されていない、純粋な魔力のプレッシャー。それは、生命の根源的な部分を直接握り潰すような、絶対的な恐怖のオーラだった。
「ひ……っ」
最後列にいた若い騎士の一人が、小さく悲鳴を漏らして後ずさる。
アルバート王子は、顔面蒼白だ。
そして、歴戦の猛者であるはずの近衛騎士団長でさえ、その鋼の貌に、明らかな警戒と、そして、ほんのわずかな恐怖の色を浮かべていた。
この部屋で、平然と立っているのは、私だけ。
私は、自分の隣で静かに“壊れていく”騎士を見つめ、そして、絶望に染まる侵入者たちへと、ゆっくりと向き直った。
「さあ、お聞かせくださいませ、団長閣下」
私の声は、この異常な空間で、奇妙なほど、穏やかに響いた。
「これが、わたくしという“枷”を失った、彼の姿。あなた様方は、この“神獣”を、野に放ちたいのですか?」
「……ぐ……っ」
団長が、言葉に詰まる。
私は、畳み掛けた。
「それとも、このまま、わたくしという、不完全ではありますが、唯一の“檻”の中に、留めておきたいのですか?」
「……貴様……!」
団長が、ギリ、と歯噛みする音が聞こえた。
「我々を、脅迫する気か。一介の侯爵令嬢が」
「いいえ、脅迫ではございませんわ。交渉です」
私は、にっこりと、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「あなた様方が、わたくしたちの存在を、この国の“不利益”ではなく“利益”に変えるための、最も合理的なご提案を、差し上げているのです」
最初に、沈黙を破ったのは、アルバート王子だった。
「アイナ……君は、何を言っているんだ……! その、禍々しいものは、一体……!」
「殿下は、お黙りになって」
私は、王子の言葉を、氷のような一言で切り捨てた。
「これは、恋だの愛だのという、詩的なお話ではございませんの。国の安寧に関わる、政治のお話ですわ」
私の、あまりにも冷たい物言いに、王子がショックを受けたように目を見開く。
私は、もう、彼に構わなかった。
私の交渉相手は、ただ一人。目の前の、現実的な軍人だけだ。
「……条件を、言え」
団長が、低い声で言った。
それは、敗北を認めた者の声だった。
「話が早くて、助かりますわ」
私は、ゆっくりと、指を一本立てる。
「一つ。わたくしと、レオンハルト様の身柄は、これまで通り、この学園に置くこと。左遷も、軟禁も、全て、即刻、白紙撤回なさい」
「……」
「二つ。わたくしたちが、この“対の呪い”を解明し、制御するための、あらゆる協力を、王家は約束すること。具体的には、王宮書庫の、通常は閲覧が禁じられている“封印区画”への、自由なアクセス権を要求します」
「無茶を言うな!」と、団長が思わず声を荒らげた。
「“封印区画”は、王家の最高機密だ! お前のような小娘に……!」
「小娘の戯言だと、お思いですか?」
私は、隣の“獣”の肩に、そっと手を置いた。
「この、いつ暴走してもおかしくない、王国最強の爆弾を抱えて、このまま、当てずっぽうで対処していくおつもり? それとも、過去の叡智に解決策を求め、リスクを管理する方が、賢明だとお思いになりませんこと?」
ぐ、と団長が再び言葉に詰まる。
私は、最後の指を立てた。
「そして、三つ。この件に関わる全ては、国家最高機密とする。わたくしたちの“呪い”のことは、ここにいる者だけの秘密。世間への公式見解は、『サー・レオンハルトは、アイナ嬢を狙った魔術的脅威から身を挺して庇い、その影響で魔力が不安定になっている。アイナ嬢の側にいることで、その魔力は安定する』……シンプルで、英雄的で、そして、誰もが納得する筋書きですわ」
私の提案に、部屋が、再び沈黙に包まれた。
それは、あまりにも大胆で、あまりにも虫の良い、しかし、この最悪の状況を収拾するための、唯一の、完璧な回答だった。
やがて、団長が、重々しく、そして、心の底から忌々しげに、息を吐いた。
「……分かった。その条件を、呑もう」
その言葉と同時に、私は、レオンハルト様の肩に置いた手に、優しく力を込めた。
「――レオンハルト様」
私の、囁きかけるような声。
「もう、結構ですわ。お戻りなさい」
すると、部屋を支配していた、あの肌を刺すようなプレッシャーが、すぅ……っと、潮が引くように消えていった。
レオンハルト様の瞳から、獣の光が消え、いつもの、人間の苦悩と、そして、深い疲労の色が戻ってくる。
彼は、大きくよろめき、壁に手をついて、荒い呼吸を繰り返した。
その、あまりにも人間的な姿を見て、団長も、王子も、これが、決して演技などではないことを、悟っただろう。
「……話は、以上ですわね?」
私は、冷たく言い放った。
「では、お引き取り願えますこと? “病人”を、あまり、疲れさせたくありませんので」
団長は、苦々しい顔で私を一瞥すると、部下たちに顎で合図し、足早に部屋を去っていった。
アルバート王子だけが、その場に立ち尽くし、何か言いたげに、私のことを見ていた。だが、今の私に、彼を慰める言葉など、持ち合わせていない。
やがて、彼も、傷ついたような顔で、静かに部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる。
再び、部屋に、二人きりの静寂が戻ってきた。
私は、壁に寄りかかり、ぐったりとしているレオンハルト様へと駆け寄った。
その顔色は、紙のように白い。
「……無茶を、させた」
彼が、か細い声で言った。
「アイナ、様……」
「いいえ」
私は、その逞しい身体を支えながら、首を横に振った。
そして、今、この瞬間、心から思ったことを、そのまま、口にした。
「あなた様が、わたくしの“共犯者”で、本当に良かった」
彼は、何も答えなかった。
ただ、その体重を、少しだけ、私に預けてくれた。
それが、彼の、不器用な、信頼の証のように思えた。
私たちの、理不尽な運命に対する、反撃の第一楽章は、今、終わった。
そして、ここから、本当の戦いが始まるのだ。
二人きりの、静かな、戦いが。




