第17話 二人だけの、沈黙の作戦会議
世界が、戻ってきた。
まず、音。ざわめき、怒声、悲鳴に近い囁き声。万華鏡のように砕けた、貴族たちの感情の奔流。
次に、光。シャンデリアの、今はもう、ただただ冷たいだけの、無慈悲な光。
そして、感触。私の額に触れていた、冷たい鋼の感触が、ゆっくりと遠ざかっていく。
見上げると、レオンハルト様の瞳に、かろうじて理性の光が戻っていた。
だが、その光は、嵐の海のように激しく揺れていた。混乱、苦痛、そして、自分のしでかしたことを理解した瞬間の、深い、深い絶望の色。
「……ぁ……」
彼は、私を見て、何かを言おうとして、ただ、喘ぐように息を漏らした。
その姿は、王国最強の騎士ではなく、迷子の子供のように、ひどく、か弱く見えた。
その瞬間、駆けつけた王宮の衛兵たちが、私たちを無言で取り囲んだ。
有無を言わさぬ、という態度だった。
一人が私の腕を、もう一人がレオンハルト様の腕を取り、私たちを喧騒の中心から、引き剥がすように連行していく。
アルバート王子の怒鳴り声や、エリスの泣き声が、背後で急速に遠ざかっていった。
†
通されたのは、謁見室の隣にある、小さな待機室だった。
壁には重厚なタペストリーがかけられ、部屋の隅では、金の燭台が静かに炎を揺らしている。
扉が閉められると、ついさっきまでの喧騒が嘘のように、完璧な静寂が訪れた。
その静寂の中で、私たちは、ただ二人きりだった。
レオンハルト様は、部屋の中央で、立ち尽くしていた。
やがて、彼は、まるで全身の力が抜けたかのように、近くの椅子に、崩れるように座り込んだ。
「……アイナ、嬢……」
両手で顔を覆ったまま、彼の唇から、絞り出すような声が漏れた。
「私は……いったい、何を……」
その声は、震えていた。
後悔と、自己嫌悪と、計り知れないほどの苦痛に満ちていた。
私は、彼の前に、ゆっくりと歩み寄った。
星屑のドレスの裾が、音もなく床を滑る。
「……あれは、あなた様では、ありませんわ」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、そして穏やかだった。
絶望は、もう、なかった。
ただ、目の前で打ちひしがれる、この気高い人を、救いたい。その想いだけが、私の心を支配していた。
「ですが、私は……あなた様を、傷つけた」
彼は、顔を覆ったまま、かぶりを振った。
「皆の前で……あなた様の、大切な夜を……。騎士として、いえ、人として……許されることではない……」
私は、彼の前に、そっと跪いた。
そして、顔を覆う、その大きな手の上に、自分の手を、静かに重ねた。
彼の指先が、氷のように冷たい。
「いいえ」
私は、きっぱりと言った。
「あなたは、戦っていましたわ。わたくしには、分かりました。あなた様の中にある、何か、得体の知れないものと、必死に戦っていた」
私は、彼の指の隙間から、揺れるアクアマリンの瞳を見つめた。
「そして、あなたは、戻ってきた。自分の力で。……それは、敗北などでは、断じてありませんわ。わたくしが、この目で見た、誰よりも気高い、勝利の姿でした」
私の言葉に、彼の肩が、微かに震えた。
彼が、何かを答えようとした、その時だった。
バンッ!
扉が、乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、怒りで顔を真っ赤にしたアルバート王子と、その背後に控える、鋼のような表情の近衛騎士団長だった。
「レオンハルト!」
王子の怒声が、部屋の静寂を打ち破った。
「弁明を聞こうか! 今宵の醜態、万死に値するぞ!」
騎士団長も、冷徹な声で告げる。
「サー・レオンハルト・アークライト。ただちに騎士団へ戻り、魔法的・精神的汚染の精密検査を受けるように。これは、命令だ」
ああ、やはり、こうなる。
このままでは、彼は「正体不明の呪いに罹った、危険人物」として、隔離され、研究対象にされ、二度と表舞台には戻れないだろう。
ゲームの筋書き(シナリオ)は、彼をそういう風に、社会的に抹殺するつもりなのだ。
――させない。
レオンハルト様が、絶望的な表情で立ち上がろうとするのを、私は、そっと手で制した。
そして、私が、ゆっくりと立ち上がり、彼の前に、仁王立ちになった。
王子と、騎士団長の前に、たった一人で。
「お待ちくださいませ、殿下。団長閣下」
私の凛とした声に、二人が、わずかに怯んだ。
「今宵の件、全ての責任は、わたくしにございます」
「……何だと?」
私は、完璧な悪役令嬢の笑みを、唇に浮かべた。
それは、全てを計算し尽くした、プレイヤーとしての、冷徹な笑みだった。
「あなた様方には、わたくしとサー・レオンハルトの、茶番に見えましたか?」
私は、芝居がかった仕草で、自分の胸に手を当てる。
「いいえ、違いますわ。あれは、死闘でしたの。わたくしを狙う、見えざる魔術的な脅威と、サー・レオンハルトとの、一対一の死闘が、あのダンスフロアで繰り広げられていたのです」
「……魔術的な、脅威?」
「ええ。先日、わたくしを蝕んだ、あのドレスの呪いの残滓ですわ。それが、わたくしを害そうと、夜会で再び牙を剥いた。サー・レオンハルトは、いち早くそれに気づき、ご自身の身を盾にして、わたくしを、その呪いから守ってくださったのです」
私は、淀みなく、嘘を紡ぐ。
それは、あまりにも荒唐無稽な、しかし、先日の一件があったからこそ、奇妙な説得力を持つ、完璧な作り話。
「彼が、まるで心を失ったように見えたのは、その呪いと、精神の領域で戦っていたから。わたくしが彼に触れたのは、わたくしの魔力で、彼の戦いを助けるため。……そうでしょう? サー・レオンハルト」
私は、背後の彼に、同意を求める。
それは、問いかけではない。
――あなたも、この嘘に乗る覚悟は、おありなさいね?
という、共犯者への、最終確認だった。
数秒の沈黙の後。
私の背後で、鎧の擦れる音がした。
ゆっくりと立ち上がったレオンハルト様が、私の隣に、並び立つ。
彼の顔からは、もう、絶望の色は消えていた。
そこにあったのは、全てを覚悟した、一人の騎士の顔。
「……アイナ嬢の、仰る通りです」
彼の、静かで、しかし、どこまでも力強い声が、部屋に響いた。
「不覚にも、敵の精神攻撃を受け、皆様の前で、醜態を晒しましたこと、深く、お詫び申し上げます。しかし、我が主君をお守りするという、騎士の務めは、果たせたと、信じております」
その瞬間、私と彼は、ただの監視対象と監視役ではなくなった。
この、理不尽な世界の筋書き(ルール)に、共に反逆する、たった二人の、共犯者になったのだ。




