第14話 星降る夜の、その前に
夜会までの二日間は、まるで夢の中を歩いているように、静かに、そして速やかに過ぎていった。
学園全体が、来るべき祝祭への期待に満ちて、華やかな喧騒に包まれている。廊下ですれ違う令嬢たちは、誰もが夜会で着るドレスや、パートナーについての話題で頬を上気させていた。
「アイナ様! きっと今夜、殿下とのダンスで、学園中の噂を独り占めですわね!」
リナとリラは、いつも通り無邪気にはしゃいでいる。
私は、ただ曖昧に微笑んで、その言葉を受け流した。
私の心は、もっと別の場所に在った。
私の視線の先には、いつも、静かに佇む騎士の姿があった。
あの日、二人で王都へ出かけて以来、私とレオンハルト様の間の空気は、微妙に、しかし確実に変化していた。
彼は相変わらず無口で、完璧な監視役をこなしている。
けれど、その無口は、以前のような冷たい壁ではなく、何かを言いたいのを堪えているような、雄弁な沈黙に感じられた。
(彼は、何を考えているのかしら)
講義中も、食事中も、私は何度も、その答えのない問いを心の中で繰り返した。
RTA走者だった頃の私なら、彼の思考を「プログラムされたもの」と切り捨てていただろう。
だが、今は違う。
彼の沈黙の裏にある、人間としての心。その深淵を、どうしても覗いてみたくなってしまうのだ。
†
そして、運命の夜会の日の午後。
私の部屋の扉を、控えめにノックする音がした。
レオンハルト様の鋭い視線が扉に注がれる中、侍女が恭しく運び入れてきたのは、簡素な、しかし上質な桐の箱だった。
『星屑の針箱』の焼き印。
来たのだ。私たちの、共犯の証が。
侍女を下がらせ、部屋に二人きりになる。
レオンハルト様は何も言わない。だが、その場の空気が、ごくりと息を呑んだかのように緊張するのが分かった。私も、同じだった。
震える指で、箱の蓋を開ける。
そこに収まっていたのは、ドレスの形をした、夜空そのものだった。
「……きれい」
思わず、ため息が漏れた。
それは、光を吸い込むような、深く、静かな藍色。生地には、銀糸で緻密な星々の刺繍が施され、まるで本物の天の川を切り取ってきたかのように、きらきらと輝いている。
あの血のように赤いドレスとは、対極にある一着。
これは、誰かの筋書き(シナリオ)をなぞるための衣装じゃない。
私の、私だけの物語を始めるための、ドレスだ。
私は、ドレスをそっと持ち上げ、レオンハルト様の方を振り返った。
彼は、目を見開いていた。
その、いつも冷静沈着なアクアマリンの瞳が、驚きと、そして――私が今まで見たことのない、何か別の熱を帯びて、揺れていた。
彼は、言葉を発することなく、ただ、ゆっくりと、一度だけ頷いた。
それだけで、十分だった。
†
陽が落ち、学園が夜の闇に包まれる頃。
侍女たちが、私の身支度を整えにやってきた。
髪を結い上げられ、薄化粧を施され、宝石を飾られていく。鏡の中の自分が、少しずつ、見知らぬ誰かに変わっていくようだ。
そして、いよいよドレスを身にまとう、という段になって、侍女の一人が困ったように口を開いた。
「あの……アイナ様。騎士様には、少しだけ、外でお待ちいただいた方が……」
確かに、そうだ。
いくら監視役とはいえ、着替えの最中まで部屋にいさせるわけにはいかない。
試すような気持ちで、私は部屋の隅に立つ彼に声をかけた。
「サー・ナイト。わたくし、これから着替えますの。あなたのその忠誠心は素晴らしいけれど、さすがに、少しばかりのプライバシーは尊重していただきたくてよ」
彼は、どうするだろうか。
『勅命です』と、また無粋なことを言うだろうか。
しかし、彼の返事は、私の想像を超えていた。
彼は、私に一礼すると、静かに言った。
「……承知いたしました。扉の外にて、お待ちしております」
そして、くるりと背を向けると、本当に部屋から出ていってしまったのだ。
パタン、と扉が閉まる。
残された私は、呆然としていた。
彼は、私を信じたのだ。
私が、彼のいないこの一瞬に、何かを企てたりしないと。
監視対象としてではなく、一人の女性として、尊重してくれたのだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「アイナ様……?」
「……いいえ、なんでもありませんわ。さあ、仕上げをお願い」
私は侍女たちに微笑みかけ、星屑のドレスに、そっと腕を通した。
†
全ての支度が、終わった。
鏡の前に立った私は、そこにいるのが自分だとは、にわかには信じられなかった。
夜空の色を纏った少女が、不安と、そして確かな決意を秘めた瞳で、私を見つめ返している。
(……行かなくちゃ)
私は、深呼吸を一つ。
そして、自分の手で、部屋の扉を開けた。
扉の外には、彼がいた。
約束通り、壁に背を預けるようにして、静かに立っていた。
私が扉を開けた音に、彼はゆっくりと顔を上げる。
そして――彼の時間が、止まった。
いつも冷静な、あのレオンハルト様の瞳が、驚愕に見開かれている。
その口が、何かを言おうとして、わずかに開かれ、そして、言葉を見つけられずに、固く結ばれる。
そのアクアマリンの瞳に映る、星屑を纏った私の姿が、微かに揺れていた。
私は、そんな彼を見て、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「――さあ、サー・ナイト」
「わたくしを、舞踏会へ、エスコートしてくださいませんこと?」
私の新しい物語は、今、この瞬間から始まる。
そして、その隣には、きっと、あなたがいる。




