第12話 呪われた筋書き(スクリプト)と、騎士の誓い
夜会の日は、一日、また一日と、着実に近づいていた。
学園全体が、どこか浮き足立ったような、甘い熱気に満ちている。誰もが、星降りの夜会で誰と踊るか、どんなドレスを着るかで持ちきりだった。
もちろん、私も例外ではない。
ただ、私の胸を焦がす熱は、他の令嬢たちのそれとは、全く質が異なっていた。
(ワルツの、基本ステップは……)
夜、自室に戻った私は、こっそりと夜会で踊るための練習をしていた。もちろん、足首はぴんぴんしている。偽装した捻挫がバレないよう、ごく緩やかな、最小限の動きで。
私の目的は、アルバート殿下と踊る、華やかなワルツじゃない。
レオンハルト様と、たとえ一瞬でもいい、共に音楽を感じるための、静かなダンス。
部屋の扉の外には、彼の気配がある。
その気配が、私の決意を鈍らせもすれば、同時に、強くもさせた。
この壁の向こうに、彼がいる。
その事実だけが、今の私の、たった一つの道標だった。
†
夜会の三日前。
実家のルーメル家から、それはそれは大きな荷物が届いた。中身は、夜会で私が着るためのドレスだ。
ルーメル家の令嬢が、初めての王宮主催の夜会で着るドレスは、代々受け継がれてきたものだと決まっている。
「……これ、ですのね」
侍女たちが広げたドレスを見て、私は息を呑んだ。
深い、血のような真紅のシルク。影のように落ちる、黒いレースの刺繍。身体の線を冷たく際立たせる、厳格で、しかし圧倒的に優雅なデザイン。
ゲームで見た、悪役令嬢アイナのための、完璧な一着だった。
「さあ、アイナ様。一度、袖を通してみてくださいませ」
侍女に促され、私はドレスに手を伸ばした。
その、指先が生地に触れた瞬間。
――ぞわり、と。
全身の産毛が、逆立った。
ドレスから、形容しがたいほどの、冷たい“何か”が流れ込んでくる。
それは、静電気のような物理的なものではない。もっと根源的な、魂を直接握られるような、不快な感覚。
「……っ!」
思わず手を引っ込める。
侍女たちは、不思議そうな顔で私を見ていた。
「いかがなさいましたか、アイナ様?」
「いえ、なんでも……」
気のせいだろうか。
私はもう一度、意を決してドレスに触れた。
やはり、同じ感覚。いや、もっと強い。生地に刺繍された黒い薔薇の模様が、一瞬、ぐにゃりと歪んで見えた。
これは、ただのドレスじゃない。
この世界のバグが、物語の強制力が、この「悪役令嬢の象徴」に、色濃く宿っているのだ。
(でも、これを着なければ、夜会には出られない……!)
私は覚悟を決め、侍女たちに手伝わせて、その呪われたドレスに身体を通した。
シルクが肌に触れた瞬間、意識が、ぐらりと揺れた。
寒い。
部屋の温度が、急速に下がっていく。
耳の奥で、知らない誰かの声が、囁き始めた。
『――ムカえ。――コロせ。――ウばえ』
憎悪。嫉妬。破滅への衝動。
それは、悪役令嬢アイナが、ヒロインに対して抱くはずだった、どす黒い感情の奔流。
ゲームの筋書き(スクリプト)が、私という異物を排除し、物語を本来の「断罪ルート」へ引き戻そうと、牙を剥いているのだ。
「あ……く……」
息が、できない。
身体の自由が奪われ、意識が、暗い感情に塗りつぶされていく。
その、瞬間だった。
バンッ!!
という轟音と共に、私の部屋の扉が、弾け飛ぶように開かれた。
「アイナ嬢!」
そこに立っていたのは、見たこともないほど険しい表情で、抜き身の剣を半ばまで鞘走らせた、レオンハルト様だった。
「そのドレスは……呪われている! 今すぐ、それを脱ぎなさい!」
彼の鋭い声が、私を縛り付ける悪意の囁きを、一瞬だけ断ち切った。
「レ、オン……様……」
「これは、ゲームの……スクリプト……」
私の掠れた声が、彼に届いたかは分からない。
彼は部屋に飛び込むと、躊躇なく私へと駆け寄った。
だが、彼は剣を抜かなかった。ドレスを力任せに引き剥がそうともしなかった。
彼は、私の目の前で、静かに剣を鞘に納めた。
そして、その大きな手で、私の肩を、強く、しかし優しく掴んだ。
「――っ!」
彼の手から、温かい光が、奔流のように流れ込んできた。
それは、騎士がその身に宿す、聖なる守りの力。破邪のオーラ。
金色の光が、私と、私を蝕むドレスを、丸ごと包み込んでいく。
『――ァ……ガ……』
耳元の囁き声が、断末魔のような悲鳴を上げた。
ドレスから立ち昇っていた冷気が、彼の温かい光に触れて、霧のように掻き消えていく。
やがて、部屋に平穏が戻った時。
私は、彼の腕の中で、浅い呼吸を繰り返していた。
目の前には、私を案ずる、アクアマリンの瞳があった。
「……どうして、わかったのですか」
私は、かろうじてそれだけを尋ねた。
彼は、私の肩から手を離すと、忌々しげに、私が着ているドレスを見下ろした。
「あなたの部屋から、邪悪な魔力の奔流を感じました。私の務めは、あなた様を全ての脅威からお守りすること。……たとえ、それが目に見えぬものであっても」
彼は、静かに、しかし断固として言った。
「アイナ嬢。夜会では、そのドレスをお召しになることは、許しません」
それは、監視役としての命令ではなかった。
一人の騎士が、守るべき主君に捧げる、魂の誓いだった。
私は、彼の瞳を見つめ返した。
私のちっぽけな計画など、どうでもよくなっていた。
夜会で、彼と踊る。
その決意は、今、もっと別の、重い意味を持っていた。
この呪われた筋書き(ゲーム)の中で、彼は、私を守ろうとしてくれている。
たとえ、その脅威の正体を知らなくとも。
ならば。
(私も、あなたを守る)
断罪の運命から、あなたの魂が苦しむ、あの悲劇のループから。
この夜会で、必ず。
私の、ただの個人的な願いは、今、彼と共に戦うための、覚悟に変わっていた。
そして、この時から、私と彼のゲームは、もう二人だけのものではなくなった。
この世界の理不尽な運命そのものに対する、私たちの、共同戦線になったのだ。




