白木蓮は後宮に咲く
ルビが多めですみません。
事前に用語を解説させていただきます。
八旗(正黄・鑲黄・正白・鑲白・正紅・鑲紅・正藍・鑲藍と別れる)とは清朝における社会集団で、貴族階級です。
満州、蒙古、漢軍という三構成となっており、特に正白までを上三旗、それ以下を下五旗と呼びます。
満軍上三旗に仕える使用人階級を特に内務府包衣と呼び、彼女らから宮女が選出されます。
使用人階級といっていますが、包衣は一般漢人よりも身分は上です。
また、清朝の妃嬪についてですが、皇后以下、皇貴妃(定員一人)、貴妃(定員二人)、妃(定員四人)
嬪(定員六人)、貴人(定員無し)、常在(定員無し)、答応 (定員無し)、官女子(宮女と同等、定員無し)
皇貴妃は基本的には皇后がいると置かれません。
基本的には皇后不在時の皇后内定者が賜ります。
その他は、亡くなる直前の貴妃に名誉称号で与えたり、亡くなった貴妃に諡号として与える場合がほとんどです。皇后健在で皇貴妃を与えると揉めます。
娘娘=皇后や皇太后、側室などの身分の高い女性に対する敬称
姐姐=目上や年上の女性を親しみを込めて呼ぶ敬称
妹妹=年下の女性を親しみを込めて呼ぶ際に使われる呼びかけ
それでは、よろしくお願いいたします。
両把頭の真珠飾りを揺らし、玲貴妃・伊爾根覚羅玉蘭は侍女に支えながら、御花園を散歩していた。
今の季節、御花園には牡丹が艶やかに咲いていた。百花の王と言われる牡丹を玲貴妃は好んでいた。しかし、玲貴妃の名前の玉蘭は白木蓮を意味していた。
薄紅色の牡丹が立派に誇らしげに咲いているのを見て、玲貴妃は宮女の雪梅にそれを摘ませた。
「娘娘、この牡丹はいかがでしょう?」
雪梅に問われ、玲貴妃は牡丹の一つを手に取った。
その牡丹は虫食いも無く、朝露を浴びて美しく煌めいていた。
「いいと思うわ。後で皇后娘娘にもお持ちしましょう」
後宮を統べる鈕祜禄皇后は病に伏していた。玲貴妃は皇后と親しかったこともあり、気遣いを忘れなかった。
「娘娘は皇后娘娘のことが心配なのですね」
「親王府時代から親しかったから、当然よ」
皇帝が令親王と呼ばれていた時代、玲貴妃は側福晋(側室)として、皇后は嫡福晋(正室)として親王府に入った。
皇后は当時十七歳、玲貴妃は当時十五歳だった。親元を離れ、不安だった少女二人が手を取り合ったのだった。
特に、玲貴妃は生まれて間もなく母を亡くし、父とは交流が薄かったという家族的な愛に恵まれなかったのもあり、嫡福晋を姉のように慕った。
――あの頃はお互い、姐姐と妹妹と呼び合っていたけれど。
今や令親王は皇帝となり、お互い皇后と貴妃となった。彼女らは堅苦しく、皇后娘娘と玲貴妃と呼び合っている。
いくつもの牡丹が雪梅の持つ漆塗りの盆に載せられていく。
皇后は倹約家であり、両把頭に飾るのは宝玉の類だけではなく、生の花や絨花(造花)を飾ることもあった。玲貴妃もそれに倣っていた。
――久しぶりに、二人で同じ花で髪を飾りたい。
玲貴妃はそう考えた。
「そなた、貴妃であるこなたに、挨拶をしないというの?」
突然、威厳のある声が玲貴妃の耳に届いた。
玲貴妃は何も言わずに、雪梅に合図をした。
雪梅は玲貴妃付きの宦官、小陽子に牡丹が載る盆を手渡し、空いた右手で玲貴妃の手を取った。
玲貴妃と雪梅は牡丹の低木から離れ、躑躅の低木が植えられている場所へ向かった。そこから声がしたのだ。
躑躅の花に囲まれている中、艶やかな紫色の旗袍を着た大輪の牡丹のように華やかな美女と跪かされている水色の旗袍を着た年若い少女がいた。華やかな美女の横には、お付きの宮女がおり、跪いている少女を睨みつけていた。
華やかな美女は、玲貴妃と同格の妃嬪である祥貴妃であり、水色の旗袍を着ている少女は、先日の選秀女(妃選び)で入宮した和貴人だった。
「……祥貴妃娘娘、申し訳ございません。躑躅に見とれ、ご挨拶が遅れました」
和貴人が青い顔をして、謝罪している。
「近頃の妃嬪は言い訳の多いこと」
祥貴妃は手巾を口に当てながらゆったりと喋った。
「姐姐、もう良いでしょう」
玲貴妃が祥貴妃に言った。
祥貴妃は皇后と皇帝と同い年であり、玲貴妃は彼女のことを“姐姐”と呼んでいた。
「あら、妹妹。あなたはこの無礼者を許すというの?」
お優しいのねえ、と言って祥貴妃は嘲笑った。
「姐姐、和貴人は入宮したばかり。見逃してあげては? このように青い顔をしております。次は気を付けるでしょう」
「そう、あなたはそこまで庇うのね。もういいわ、次からお気をつけなさい」
祥貴妃は、手で払いのける仕草をした。金色の長い指甲套(指カバー)がきらりと光った。
和貴人は玲貴妃と祥貴妃に挨拶をして去って行った。
「――全く、妹妹も妹妹だわ。同じ宮でもない新入りを庇ってどうするの?」
ふん、と祥貴妃は鼻を鳴らす。
「姐姐、もし皇后娘娘であれば、寛大に許されたことでしょう」
「皇后、皇后とうるさいわね。そんなに好きかしら?」
「皇后娘娘は後宮の主。私たちはお仕えしなければ」
「――そういう、良い子ぶっているのは妹妹くらいなものだわ。いつまでその態度が続くかしらね」
祥貴妃は嘲笑い、御花園を後にした。
玲貴妃は、皇后が居住する翊坤宮へ牡丹の花を届けに行った。
皇后・鈕祜禄麗華は、寝台に横になっていた。このところ、皇后は起き上がることができていなかった。
皇后が主催する朝の定例会である請安は、皇后の体調もあり、開催されておらず、祥貴妃のように皇后の威光を軽視する者が現れる原因になっている。だが、病に伏せる皇后の身体に鞭打つことはできない。
玲貴妃にできることは、こうして御花園で美しく咲いた花を時折、届けるくらいだった。
「玲貴妃、よく来てくれたわね」
皇后は優しく微笑んだ。
「皇后娘娘にご挨拶申し上げます。娘娘が末永くお幸せであるよう……」
定例のあいさつを述べるも、玲貴妃は涙ぐんだ。
日に日に、皇后の容態は悪化し、衰弱していっている。
「玲貴妃、泣かないの。あなたは貴妃なのですよ」
「どうして、貴妃を戴いているのかわかりませんわ」
玲貴妃は偽らざる本音を言った。
皇后の下、通常置かれることのない皇貴妃を除けば、貴妃という地位は側室では最高位だった。定員は二名であり、玲貴妃と祥貴妃で担っている。
祥貴妃は満軍鑲黄旗包衣出身であり、皇后や玲貴妃とは違い旗人ではなかった。ただし、父が高官の河道総督(治水の専門家)であり、また本人の寵愛もあり、段々と台頭した女人であった。
祥貴妃は、親王府時代、初めは正式な側室ではなかったが、後年、側福晋に上がり、皇帝即位後に祥貴妃と改められた。
現在でも後宮内で皇帝の一番の寵愛は祥貴妃に向けられている。
玲貴妃は出自こそ満州族の名門だが、現在寵愛がほとんどないといってよかった。にもかかわらず、祥貴妃と並んで貴妃を戴いている理由は、親王府時代に一阿哥(第一皇子)を生んだからだろう。その子は生まれてすぐに亡くなってしまったが、初めての子を喪った皇帝――当時の令親王は、即位後に亡くなった一阿哥に“懐親王”という諡号を送っている。
「玲貴妃、どうか自信を持って。貴女は美しくて優しい子なのだから」
「私は娘娘がいないと、この後宮で生きていけませんわ」
玲貴妃は美しい瞳から涙を流した。
玲貴妃は、親王府時代、同じ側福晋だった禧妃・舒穆禄杏樹と静妃・博爾済吉特清香とは仲が悪かった。この二人には、玲貴妃が当初、令親王時代の皇帝から寵愛を受けていた時に、様々な嫌がらせをされ、現在の寵愛を失った今は、面と向かって蔑んでくるのだった。
祥貴妃とは、それなりに会話はできるが、祥貴妃は寵姫であり、皇后とは対立するような徒党を組んでいる。
地位が高いとはいえ、寵愛の薄い玲貴妃が後宮を生きていくには、仲の良い皇后がいないとだめなのだ。
「妹妹、ここで生きることを恐れないで」
皇后は手を伸ばし、玲貴妃の涙を拭った。
「姐姐……」
玲貴妃は、はらはらと泣いた。
「玲貴妃、貴女が摘んだ牡丹を見せて」
皇后は微笑み、玲貴妃は雪梅が持つ盆から特に美しい牡丹の花を取り、皇后の纏められた髪に挿した。そして、もう一つの牡丹を己の両把頭に添える。
二人は笑いあった。だが、玲貴妃の頬に涙が伝った。
「皇上のおなりでございます」
皇帝付き宦官の甲高い声が皇后の寝室に響いた。
玲貴妃は慌てて涙を拭い、膝をついて、皇帝を迎えた。
皇帝は、切れ長の瞳を玲貴妃に向けた。
「――玲貴妃、来ていたのか」
皇帝の低く、心地よい声が玲貴妃の耳に響いた。久方ぶりに聴く、夫の声だった。
「はい、皇上。皇后娘娘が心配でございますので」
「そうか、そなたは昔から皇后を慕っておったな」
皇帝は、扇子を開き、仰ぎながら言った。
「皇上が来られましたので、臣妾は下がります。失礼いたします」
玲貴妃は立ち上がり、膝を折って挨拶をした。
玲貴妃が雪梅を伴って退室をするとき、皇后の寝台に目を向けた。
皇帝は皇后の手を握り、心配そうに皇后を覗き込んでいた。
玲貴妃は翊坤宮の門を出た。玲貴妃の住まう永寿宮は、翊坤宮のすぐ隣だ。
玲貴妃は、先ほどの皇帝と皇后の姿を思い浮かべていた。皇帝は皇后を尊重し、敬愛している様子だった。皇后も皇帝を敬愛している。
夫婦とはこういうものか、と玲貴妃は思った。そして、身体をぶるりと震わせた。
――では、何故……?
玲貴妃は震えながら、そう考えた。少し震える玲貴妃の様子を雪梅は見て、「娘娘?」と心配そうに声を掛けた。
だが、玲貴妃は聞いていなかった。
「――玲貴妃」
皇帝が玲貴妃を呼んだ。
名前を呼ばれ、玲貴妃はびくりとしたが、すぐに挨拶をした。
「玲貴妃、宮まで送ろう」
皇帝が言うが、玲貴妃は「ですが、永寿宮はすぐ近くです」と言った。
「遠慮はするな、それに養心殿の途中にあろう」
養心殿は、皇帝の住まう場所であり、政務を行う乾清宮に近い。玲貴妃の住まう永寿宮は、養心殿に一番近い宮だった。
「では、お言葉に甘えます」
玲貴妃がそう答えると、皇帝は目を細めた。
二人は無言で永寿宮へ向かった。ただ、皇帝は玲貴妃を気にするように視線をやっていた。
永寿宮門を前にして、皇帝は塀から見える大きな木を見やった。
「――白木蓮は咲いていないのだな」
「皇上、もう牡丹の季節です」
「…そうか、時が経つのは早いものだな」
「そうでございますね」
――このまま、時が止まればいいのに。
玲貴妃はそう思った。時が止まれば、皇后とまた会える。
玲貴妃が黙っていると、皇帝は切れ長の瞳を玲貴妃の顔に向ける。その視線が気まずく、玲貴妃は柄にもないことを言った。
「皇上、お茶を飲まれていきませんか? 内務府(皇宮の事務を司る)から龍井茶(高級な茶葉)をいただきましたの」
「そうか、ではもらうとしよう」
玲貴妃と皇帝は牀榻(腰かけ)に座りながら、龍井茶を飲んでいた。永寿宮に龍井茶の良い香りが広がっていた。
二人は黙ってお茶を飲んでいた。時々、皇帝が茶器の蓋で茶葉を避けるカチャカチャという音が静かな永寿宮に響いた。
「――また、御花園に牡丹を摘みに行ったのだな」
皇帝がおもむろに口を開いた。
――また?
玲貴妃は疑問に思ったが、はい、とだけ答えた。
「皇后が元気だった頃、よく二人で簪替わりに牡丹を挿していたな」
玲貴妃の表情を読んだのか、皇帝はそう言った。
「牡丹だけでなく、躑躅も菊も挿しました」
玲貴妃は懐かしそうに言った。思い出すと、涙が零れそうになる。
「今は牡丹か」
皇帝は玲貴妃の艶やかな黒髪に目を向けた。
「はい」
「牡丹は好きか?」
「はい」
「ならば、牡丹の鉢を送ろう」
「ありがとうございます」
玲貴妃は牀榻から立ち、膝を折って礼をした。
皇帝はじっと、玲貴妃の動きを見ていた。
玲貴妃はいたたまれず、牀榻へ素早く座った。
沈黙が再び場を支配した。皇帝は龍井茶の湯気の奥にいる玲貴妃に時折目を向けていた。
玲貴妃は皇帝をお茶に誘ったのは失敗だったと思った。誘ったのは玲貴妃だが、早く帰って欲しいと願ってしまっていた。
「――そなたはいつも真珠を挿しているな」
「この真珠飾りは皇后娘娘から誕辰のお祝いでいただきました」
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
玲貴妃は皇后からの贈り物を褒められ、嬉しそうに微笑んだ。
皇帝は玲貴妃の微笑を眩しそうに見ていた。
牡丹の花をお互いの髪に挿してから、三日が経った。
玲貴妃は翊坤宮へ訪ねていた。
「姐姐!」
玲貴妃は皇后の手を握った。
皇后の顔は一層青白く、呼吸は少し荒かった。
「早く! 皇上を呼んで!」
玲貴妃は翊坤宮の宮女に命じた。宮女は慌てて、養心殿に向かう。
「姐姐! いけません!」
――私を置いて逝かないで。
玲貴妃の頬に涙が伝った。
「……妹妹、二阿哥を頼むわね……」
皇后は、皇帝即位後に二阿哥を生んでいた。二阿哥は、まだ二歳にも満たない赤子だった。皇后は嫡福晋時代に一公主(第一皇女)を生んでいるが、その子は今、皇太后が育てている。
「……はい……」
「頼むわね、貴女は、本当は強い子よ……」
「姐姐がいないと……」
「大丈夫よ、何も恐れることはないわ」
皇后は微笑んだ。
「……ねえ、妹妹。私は幸せだったわ。貴女とお友達になれて、子どもを生めて……女として愛されなかったとしても、皇上は尊重してくれた……」
――女として愛されなかった?
玲貴妃にはよくわからなかった。皇帝と皇后の関係こそ理想だと思っていた。
「ねえ、妹妹。愛を恐れちゃだめよ」
「姐姐……?」
「きっと、大丈夫よ」
皇后はそう言うと、目を閉じた。
「姐姐! 姐姐!」
玲貴妃が呼びかけるも、皇后の目が開くことはなかった。
玲貴妃は大声を上げて、わあわあと泣いた。泣きじゃくる玲貴妃の肩を雪梅がそっとさすった
その声は、翊坤宮の外にまで聞こえていた。
⁂
咸福宮で、祥貴妃・董如熹は顔に太平車(美顔器)をコロコロと当てながら、同じ宮に住まう娜嬪・王嬋娟とおしゃべりをしていた。
「貴妃娘娘、この前の静妃――もう静嬪でしたか、哀れなものでしたね」
娜嬪は眉を寄せて意地悪く笑っていた。
「あの者が悪いのよ、玲貴妃を蔑むから」
祥貴妃は、先日の御花園での出来事を思い出していた。
祥貴妃が娜嬪と御花園を散歩していたら、玲貴妃が静妃に面と向かって悪く言われていたところに遭遇した。
――寵愛もない女が偉そうに。
と、玲貴妃とすれ違う時に、静妃が言ったのだった。
祥貴妃はそれを聞いて、思わず静妃の頬を叩いたのだった。
祥貴妃には許せないのだ。皇帝から与えられた位を侮る人間は嫌いだった。それに、禧妃もだが、静妃は親王府時代から玲貴妃に嫌がらせをしていた。
理由は単純だった。玲貴妃は美しく、当時の皇帝――令親王から格別寵愛を受けていたからだった。
当時、正式な側室ではない、使女であった祥貴妃は“嫌がらせしたところで寵愛が深まるわけがない”と思い、馬鹿な二人だと思っていた。
――まあ、実際に馬鹿だったわね。
先日の御花園で、祥貴妃に頬を引っ叩かれた静妃は、愚かにも皇帝に告げ口をした。皇帝は祥貴妃に何があったのか、当然尋ねた。当然ながら、祥貴妃は包み隠さず答えた。叩いた理由も詳細に答えた。
玲貴妃の名前を聴くと、皇帝は顔色を変えた。
そして、静妃は“静嬪”に降格という沙汰を下されたのだった。
祥貴妃は皇帝が自分の言い分を聞いてくれたことに喜んだが、玲貴妃の名前を聴いて顔色を変えた皇帝の様子が気になっていた。
「静嬪のように、後宮での出来事を皇上へ告げ口する女子がこれから増えるかもしれませんね」
娜嬪は懸念を抱いているようだった。
祥貴妃は娜嬪の言うことは最もだと思った。鈕祜禄皇后が崩御し、早二か月が経とうとしていた。皇后が健在の頃は、些細な後宮の事件は、皇后が沙汰を下していた。皇帝を煩わせることなどほとんどなかった。
だが、静嬪はそれを破った。
「……皇后がいないということがこれほどのことだとは思っていなかったわ」
祥貴妃が言うと、娜嬪は「新たに皇后に選ばれる方はどなたでしょう?」と言った。
今、側室で最高位を戴いているのは、玲貴妃と祥貴妃だ。玲貴妃は伊爾根覚羅氏という満州族の名門中の名門だ。亡き皇后に匹敵する。
「玲貴妃では?」
「しかし、玲貴妃娘娘には寵愛がございません。妃嬪から上がるのです。寵愛を受けている方でなければ、皆が納得しません」
娜嬪はそこまで言うと、祥貴妃の顔を見ながら、
「私は祥貴妃娘娘が相応しいかと」
と言った。
「……何を言っているの。こなたは包衣の出よ」
「ですが、貴妃です」
「何を言っているの」
祥貴妃はそう言うも、心の中に、ほんの少し期待がよぎるのを感じた。
だが、祥貴妃は満州族の名門ではない。蒙古の名門ならばともかく、漢軍旗人でもない、旗人に仕える使用人階級の出だ。
貴妃にまでは順調になれても、その先は難しい。
祥貴妃は期待を打ち消して、己の限界を感じ始めた。それに、皇后になったところで面倒事が増えるだけだろう。
「――玲貴妃娘娘といえば、最近、皇上付きの太監(宦官)から聞いたのですが、日中、皇上が頻繁に玲貴妃娘娘を訪ねているのだとか」
娜嬪付きの太監は皇上付きの太監と親しいらしい。おかげで、祥貴妃は皇帝の動きを知ることができていた。
「日中? お召しはしないのに?」
「はい、どういうことかよくわかりませんが、敬事房(内務府所属で後宮運営を司る)の記録は娘娘も知っていることかと思います。玲貴妃娘娘は夜のお召しはございません」
「――皇上は亡き皇后娘娘の代わりをしているのかしら?」
祥貴妃がそう言うと、娜嬪は大笑いをした。
「確かに、玲貴妃娘娘は皇后娘娘とべったりでしたね」
二人が楽しそうに御花園で花を摘んでいる姿が昨日のことのようであった。
「そういえば、玲貴妃娘娘にお召しがあったのを聞いたことも見たこともないのですが」
娜嬪がそう言うと、祥貴妃は、ああ、と言う。
「娜嬪、貴女は皇上が即位されて間もなくの入宮だったわね。玲貴妃は親王府時代、格別に寵愛されていたのよ」
「――そうなのですか? 確かに玲貴妃娘娘の美貌は後宮一ですし、そのような過去があっても不思議ではありませんが……確か一阿哥もお生みになられたということであれば、その頃はご寵愛があったのですね」
「そうよ、でも一阿哥を亡くしてからは、ぱったりと。何があったかはわからないわ」
「……不思議ですね」
玲貴妃が寵愛を失い、お召しがなくなり六年となる。だが、玲貴妃はまだ二十二歳だ。そして、楚々とした静謐な美貌は、後宮一だろう。華やかな美貌に恵まれているという自負のある祥貴妃も、玲貴妃には敵わないと思う時がある。
いつ寵愛が復活するか、わかったものではない、と祥貴妃は思った。
「娘娘! 一大事です!」
祥貴妃が物思いに耽っていると、咸福宮の宮女が慌てて入室した。
「なあに? 慌てて」
「娘娘の兄君が!」
祥貴妃は眉を曇らせた。
養心殿の入り口で、太監らに見られながら、祥貴妃はお付きの宮女・明鳴とともに跪いていた。跪き始めてから二日が経っていた。
祥貴妃の兄、董暁は奏摺(地方の政務報告など皇帝へ進上するご機嫌伺いの文書)に”朝乾夕惕”と書くべきところを”夕陽朝乾”と書いたため、皇帝の怒りを買ったのだ。
本来、易経(古代中国の書物)の一節の「君子終日乾乾し、夕に惕若たり。厲けれども咎無し」を取って書くのだが、”夕陽朝乾”の夕陽は老衰や没落など下り坂を意味することになり、皇帝を称える文章には全くならない。それに、董暁は内閣学士という高位の官職にまで就いている。故意に間違えたとは考えにくい、というのが皇帝の認識だった。
――どうして、皇上を揶揄するようなことを書いたの?
祥貴妃は兄を問い詰めたかった。
祥貴妃の額に汗が滲み、顔を伝い、汗が地に落ちた。
「……祥貴妃よ」
皇帝が祥貴妃の前に立った。
「兄の罪は兄のもので、そなたのものではない。そなたが跪いたところでどうにもできぬ」
「皇上!」
祥貴妃は涙ぐんだ。
愚かでも、兄は兄だ。兄を助けたかった。
「もう、咸福宮へ戻れ」
そう言うと、皇帝は祥貴妃に背を向けた。
その背は何も受け入れようとしない頑なさがあった。
「娘娘、もう戻りましょう」
娜嬪が祥貴妃に声を掛けた。どうやら、養心殿から遣いがあり、祥貴妃を迎えに来たらしい。
祥貴妃は諦めて立ち上がった。立ち上がる時、少し体勢を崩すも、明鳴に支えられ事なきを得た。
祥貴妃と娜嬪はゆっくりと咸福宮まで目指した。途中で、娜嬪が黙っている気まずさに耐えかねたのか、永寿宮の白木蓮に目を向け、口を開いた。
「永寿宮の白木蓮は花が咲いていなくても、立派ですね」
「どうして、白木蓮が植えられているのかしら?」
祥貴妃がよろめきながら言うと、娜嬪が言った。
「玲貴妃娘娘のお名前は、“玉蘭”と仰るそうですよ。お名前と同じ木を植樹なさるとは、皇上も粋ですね」
娜嬪はただ、皇帝を褒めただけだろう。だが、祥貴妃の心に衝撃が走った。
祥貴妃は思い出していた。
――白木蓮が美しく咲いているな。
と、いつの日だったか、祥貴妃が養心殿を訪ねて、皇帝と一緒に咸福宮に向かう時に、皇帝が永寿宮の白木蓮を見上げ、切なげな目をしていたことを。
祥貴妃はそのことに目を向けたくなかった。ただ、白木蓮が好きなだけだと思い込みたかった。
それに、玲貴妃の名前が玉蘭だとは。
祥貴妃は宮女の名付けの際に、使ってはいけない漢字を――妃嬪の名前にある漢字を宮女に付けてはいけないのだ――把握していたが、玲貴妃の名前まで把握していなかった。
――玲貴妃……?
祥貴妃は、あまりの衝撃にその場に座り込んでしまった。明鳴が「娘娘?」と心配そうに声を掛けた。娜嬪も娜嬪付きの宮女も同様だった。
座り込み、祥貴妃は自嘲気味に笑った。涙も頬に伝う。
玲貴妃の“玲”の封号は、皇帝のかつての称号の“令親王”の“令”と同じ音だ。
玲貴妃の“玲”は、玉蘭の“玉”を“令”に付けたものだった。
そういえば、と祥貴妃は思った。祥貴妃を始めとする妃嬪の封号は皆、内務府が推挙した字だと聞いていた。だが、“玲”だけは皇帝が名付けたのだろう。
なにが、玲貴妃は寵愛が薄い、なのだ。誰がそんなことを言った。
養心殿に一番近い永寿宮を与え、庭には名前と同じ木を植えさせ、封号には特別な意味を。
全て、寵妃の証だった。
――ずっと、玲貴妃だけをお好きだったのですね……。
祥貴妃は、ただ涙を流していた。
⁂
皇后が崩御し、三か月が経とうとしていた。
皇后の喪中ではあるが、皇太后の誕辰が迫っており、玲貴妃は皇后の遺児である二阿哥の世話をしつつ、皇帝の命により、皇太后の誕辰の宴の準備をしていた。誕辰の準備は、祥貴妃と分担してやっていたが、それでも、骨が折れた。
このところ、祥貴妃は元気がなく、時折、玲貴妃に嫌味を言うこともあったのに、最近では大人しい。
玲貴妃は少し心配だった。なので先日、お茶に誘ったのだった。初めて永寿宮に足を踏み入れた祥貴妃は、部屋の中を見渡し、「豪華ね」と一言だけ言った。そして、龍井茶を出すと、目を見開き、「妹妹はいつも、龍井茶を飲んでいるの?」と訊いた。
これしか内務府からの配給がない、と答えると、祥貴妃は難しい顔をして、お茶を一口飲んだだけで退散してしまった。
――やはり、何か気に入らなかったのだろうか。
玲貴妃はそう思いながら、金の計算をした。
すると、皇帝が訪ねて来た。
玲貴妃は皇帝に挨拶をして、龍井茶を出した。
「……太后の誕辰の宴の準備はそろそろか?」
皇帝に問われ、玲貴妃は、そろそろ終えます、と答えた。
「大変なことをすまないな」
「いえ、太后娘娘にお仕えできることは幸せでございます」
「まあ、無理はするな」
皇帝はそう言って、お茶を飲んだ。
皇后が亡くなって以来、皇帝は頻繁に玲貴妃の元を昼間に訪ねていた。始め、玲貴妃は警戒をしたが、お茶を飲みながら皇后の思い出話などをするに留まっていたため、段々と皇帝の訪問に警戒を解いていった。
「……また、真珠飾りをしているな」
皇帝は、玲貴妃の艶やかな髪を見ていた。
「皇后娘娘が懐かしく思えますので」
「それに合う点翠(カワセミの羽を貼り込む技法)の髪飾りをやろう」
「皇上、この前も青玉の指輪をいただきました。そのように頻繁に贈り物をされては……」
「それくらい良かろう。そなたの白い肌によく映える」
皇帝は、ちらりと玲貴妃の手元を見た。皇帝が贈った指輪を玲貴妃ははめていた。
「それとも、何か心配事でもあるのか?」
「いえ、私めのことではなく、祥貴妃が心配です。兄君のことは私も聞き及んでおります。外廷のことですので、後宮の妃嬪にすぎぬ私には何も言えることはございませんが」
「そなたは優しいな」
「……祥貴妃は私に友好的な態度を示すことは少ないですが、私が困ったときには助けてくれる、良い方です」
「そうであるなら、良い」
皇帝はそう言うと、カチャカチャと茶器の蓋で、茶葉を避けた。
皇太后の誕辰の宴席は、皇后の喪中であるので、盛大にとはいかなかったが、皇帝は生母である皇太后を気遣っているため、それなりに気を配った宴席となった。
皇帝の隣には皇太后が座り、皇帝を挟んだ反対隣りは、空席となっている。
密やかに、妃嬪たちは空席の座に目を注いだ。
――次の皇后は誰かしら。
誰かの声が玲貴妃の耳に届いた。
――家柄でいいますと、玲貴妃娘娘が相応しいですが、ご寵愛がありません。
――ご寵愛がない方に従えませんね。
――その点、祥貴妃娘娘はご寵愛が一番ですが、家柄がよくありません。
――でも、祥貴妃娘娘のお父様は高官よ?
――あら、でもこの前、お兄様が処罰されたわ。
噂話ばかりで、玲貴妃は顔を顰めた。皇后の不在は、秩序を確実に乱していた。
宴席では、蓮の羹(スープ)が出された。皆が羹に散蓮華を入れようとしたところで、小さな悲鳴が聞こえた。
「祥貴妃娘娘の羹に銀の匙を入れたところ、変色しましてございます!」
宦官の甲高い声が聴こえ、宴席の場は騒めいた。
「この羹の手配は玲貴妃娘娘がなされたものでございます」
祥貴妃付きの宮女・明鳴がそう言うと、その場にいる者全てが玲貴妃に目を向けた。
「……私は何も知りません」
玲貴妃は苦しそうに言った。全員の視線が痛く、上手く言葉を紡げない。
「次期皇后の座を玲貴妃娘娘は狙ったのではありませんか? 祥貴妃娘娘はご寵愛がありますもの」
静嬪が玲貴妃を睨みつけながら言った。
「皆、静かにするように」
皇帝は静かに言った。そして、玲貴妃を見ながら、「玲貴妃は永寿宮へ謹慎とする」と言った。
玲貴妃は黙って皇帝に礼をとった。
――皇后娘娘のいないこの世に未練などないわ。
玲貴妃は永寿宮の牀榻に力なく座っていた。
「娘娘、いったいどうしましょう……」
雪梅は涙を堪えていた。そして、別の部屋から二阿哥の泣き声が聞こえた。
玲貴妃は二阿哥の泣き声を聴き、雪梅の涙を見て、はっとした。
「――私には、守るべき者があったわね……」
「娘娘……」
雪梅は、わあと泣き出し、玲貴妃に縋りついた。
玲貴妃は雪梅の頭を撫でた。だが、状況の打開については何も思いつかなかった。
皇后の不在が心細かった。玲貴妃には、今や何も後ろ盾がない。
「――玲貴妃」
皇帝の低く、心地よい声が玲貴妃の部屋に響いた。
雪梅は慌てて、立ち上がり、玲貴妃も牀榻から腰を上げた。
「皇上、ご機嫌麗しゅう」
玲貴妃は膝をつき、皇帝に挨拶をした。
「立つのだ、玲貴妃よ」
皇帝は玲貴妃の掌に触れ、玲貴妃を立たせた。
玲貴妃は久しぶりの皇帝の熱い手に触れ、驚いた。
「玲貴妃」
皇帝は玲貴妃の美しい瞳を見つめた。
「はい、皇上」
「朕はそなたが罪を犯したと思ってはおらぬ」
「皇上……」
玲貴妃の目から涙が零れた。
皇帝は玲貴妃の涙を指で拭い、玲貴妃を抱き締めた。
皇帝の鼓動が玲貴妃の耳を擽った。玲貴妃は初めて皇帝の腕の中が心地よいと感じていた。皇后の不在には堪えたが、皇帝は玲貴妃を信じてくれている。それが嬉しく、心強かった。
皇帝は玲貴妃の身体を離した。皇帝は優しく玲貴妃を見ていた。玲貴妃の肩を触る手には力が籠っていたが、やがて優しく撫でると、手を離した。
「玲貴妃、また来る」
皇帝はそう言うと、玲貴妃に背を向けた。
玲貴妃と雪梅はその背中を見送った。
「娘娘……皇上は娘娘のことを……」
「雪梅」
「はい、娘娘」
「三日前、御花園で会った祥貴妃付きの宮女の明鈴を覚えているかしら」
「はい、覚えております」
御花園へ芙蓉の花を摘みに行った玲貴妃と雪梅は、明鈴という二十五歳の宮女と遭遇した。明鈴は泣いており、訳を聞くと、「心に想う侍衛(宮中の警護をする役職)がいるが、太監と結婚させられそうだ」と言った。
――侍衛と宮女の恋愛は禁忌だけれど。
侍衛は満軍上三旗の御曹司から選ばれ、宮女は満軍上三旗包衣から選ばれる。両者には身分差があった。
玲貴妃は禁忌だとは思ったが、別の相手と結婚させられそうなのを哀れみ、慰めたのだった。
「彼女から話を聞いてきなさい」
玲貴妃は強く命じた。
明鈴の証言で、玲貴妃の状況は一変した。
祥貴妃の部屋から砒霜が発見され、それを蓮の羹に混ぜたことが明らかになった。
祥貴妃は動機を、皇后になるためと語った。皇后になるために企てをし、玲貴妃を追い落とそうとした、と。
皇帝は激怒し、祥貴妃を貴人に落とし、咸福宮に軟禁とした。お付きには、宮女と宦官が一人ずつ付くに留まった。
そして、静嬪もまた、貴人に落とされた。
玲貴妃の軟禁は解かれ、皇帝は玲貴妃の心労を思ってか、珍しい布や宝石類を賜った。
「娘娘、祥貴人が娘娘にお会いしたいと申しております」
百日紅の枝を選定していた玲貴妃に、雪梅がおずおずと言った。
「祥貴人が?」
「何の用なのでしょうか」
「――行くわ」
玲貴妃は鋏を置いて、雪梅の手を取り、咸福宮へ向かった。
咸福宮の祥貴人の部屋には、あまり物がなかった。祥貴人は全て取り上げられてしまったのだった。
「久しぶりね、妹妹」
祥貴人は、疲れた顔をして牀榻に腰かけていた。
「何か御用かしら、祥貴人」
玲貴妃が無表情で言うと、祥貴人は可笑しそうに笑った。
「冷たいのね。もう姐姐とは呼んでくれないわね」
「それは仕方ないことかと」
祥貴人は声を上げて笑った。
「貴女は、本当は気づいているのでしょう?」
祥貴人はそう訊いた。
「なんのことでしょう」
「陛下のお気持ちよ。貴女をずっと愛しているわ」
「愛?」
「ええ、そうよ、貴女は陛下の愛妃だわ。悔しいほどに」
玲貴妃は思わず目を閉じた。
寵愛がないと言われつつ、貴妃をいただいていること、永寿宮を賜っていること、永寿宮に白木蓮が植えられていること、内務府からは高級な品々が届くこと、そして、“玲”という封号の意味――。
これらは玲貴妃が目を逸らし続けていたことだ。
「妹妹?」
「――貴女に何がわかるの?」
玲貴妃は怒りを滲ませて言った。
祥貴人は玲貴妃の怒りに初めて触れ、戸惑うかのように黙った。
玲貴妃は令親王府時代の日々を思い出していた。
何も知らなかった玲貴妃を頻繁に召した令親王の姿を。玲貴妃は月を見上げる余裕もなく、ただ令親王と過ごすことを求められた。
玲貴妃は戸惑うばかりで、やがて身体に変化がおき、懐妊したことを知った。懐妊したら令親王は喜んだが、玲貴妃は身体の変化について行けず、感情が追いつかない中、孤独を募らせていった。
出産をしても玲貴妃は混乱したままだった。だが、ようやく我が子を愛せるかと思った頃には我が子は天に召された。
――あの日々が愛だと言うのか。
「あんなもの、愛ではないわ!」
玲貴妃はそう叫んで、祥貴人に背を向けて部屋から出た。玲貴妃の体は震えていた。それが手を取る雪梅にも伝わった。
部屋から出る直前、祥貴人が「では、私が求めていたものは何だったの?」と言うのが聞こえた。
玲貴妃は怒りで震えながら永寿宮まで歩いた。さっさと歩きたいところだが、花盆底靴では、早くは歩けないし、宮女が手に取っていないと、歩きづらい。
永寿宮門の前で、玲貴妃は「祥貴人が亡くなりました」という太監の甲高い声を聞いた。
玲貴妃はそっと涙を流した。
玲貴妃は夜、牀榻に腰かけ、書物を読んでいた。だが、心は落ち着かず、集中して読めなかった。
「皇上のおなりでございます」
太監の甲高い声を聴き、玲貴妃は戸惑った。
夜のお召しは聞いていなかった。
玲貴妃は戸惑いながらも、皇帝に挨拶をした。
皇帝は玲貴妃に座るように言い、自分は玲貴妃の向かいの牀榻に座った。
「……急なお越しで」
「そなたの顔が見たくなった」
「ですが……」
夜のお召しには準備がいる。翻牌子という皇后や妃嬪の名前を書いた札を敬事房の太監が盆に載せ、皇帝に見せることから始まり、皇帝は札の一つを選び、裏返す。選ばれた妃嬪は、下位の者であれば、下着のまま布団にくるまれ、寝所に運ばれる。
「今日は、茶を飲みに来ただけだ。この宮の龍井茶は美味だ」
皇帝の言葉を聞いても、玲貴妃の心は晴れなかった。
玲貴妃の全身から警戒が滲んだ。
「玲貴妃、そう畏まるな」
「申し訳ございません」
玲貴妃はそう言うと、雪梅に龍井茶を淹れさせた。
「元気がないな」
皇帝は玲貴妃の美しい顔に目を向けた。
「……祥貴人が亡くなりました」
「あれは愚かなことをしてしまった」
皇帝が何の情感もなく言ったのを聞いて、玲貴妃は立ち上がった。皇帝は驚いて玲貴妃を見上げた。
「――皇后娘娘も祥貴妃も、皇上を愛しておりましたのに!」
玲貴妃は皇帝に向かって叫んだ。
――女として愛されなかったとしても。
皇后の言葉は、渇望を滲ませていなかったか。祥貴妃は皇帝の唯一の妻になりたくて、事件を起こしたのではないのか。
玲貴妃は肩を怒らせていた。
「――玉蘭」
皇帝は立ち上がり、静かに玲貴妃の名前を呼んだ。そして、玲貴妃の顔をそっと撫でた。玲貴妃は驚き、動けなかった。
「――朕が愛しているのは、そなただけだ」
皇帝の言葉が玲貴妃の耳に残酷に響いた。皇帝の言葉揺るぎなく、皇帝は玲貴妃の瞳を強く見つめていた。
「――どうして、今それを言うのですか……」
玲貴妃の頬に涙が伝った。
側福晋時代、玲貴妃には何も言葉を与えてくれなかった。正確には言葉はくれていた。――そなたはわたしのものだ、という執着の言葉だけが与えられていた。
皇帝は玲貴妃の涙を指で拭った。
「すまない、そなたが苦しんだのは、朕のせいだ。あの頃は全てが性急で、そなたの心を図ることをしなかった」
皇帝は、玲貴妃を抱き寄せた。玲貴妃は目を閉じた。
「懐親王を喪い、傷付いたそなたを見て、朕は間違っていたと悟った。だから、今まで待っていた」
皇帝は天下の父だ。誰にも頭を下げる必要がなければ、謝る必要もない。
――そんな男が謝っている。
玲貴妃は、皇帝の背中に手を回した。
「皇上、私は……」
玲貴妃は言葉を詰まらせた。あまりにも心に渦巻く感情が複雑で、言葉を紡ぐことができなかった。
「玉蘭、すぐに答える必要はない」
皇帝の手が、玲貴妃の頭を優しく撫でた。
翌朝、皇帝は玲貴妃に言った。
「――そなたを玲皇貴妃にする」
それは、次期皇后にすることを意味していた。
一年半後、白木蓮が美しく咲く季節に、玲皇貴妃は皇后となった。皇后となってから、三男二女を生んだ。
皇后になってから三十年後、皇帝は崩御し、太子密建(清朝の後継者指名の方式)を経て、二阿哥が新皇帝となった。
皇太后は実子ではない皇帝をよく補佐し、皇帝も嫡母によく仕えた。
完
お読みいただき、ありがとうございます。
お疲れ様でございました。
どこまでルビを振ればよいのか、また括弧書きでどこまで解説すればよいか悩みましたが、
このような感じとなっております。
太子密建ですが、清朝第五代雍正帝が考えた後継者の任命方式で、初めて太子密建による皇帝の即位は乾隆帝でした。
継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後で乾清宮の正面に掲げられた「正大光明」と書かれた額の裏にしまっておき、皇帝が亡くなったら開けて次期皇帝を確かめるというものでした。
なので、清朝では生前皇太子は誰かわからない(とはいえ、優秀な皇子が選ばれるので雰囲気でわかる)という感じでした。
母の身分によって皇太子が選ばれるというわけではないので、清朝では皇太后は嫡母皇太后と生母(聖母)皇太后という二人いることになり(ただ、実際そこまで健在な方は稀)、かの有名な西太后は生母皇太后の方でした。