『透明な距離』── 続・心の汚れを捨てるということ
『透明な距離』── 続・心の汚れを捨てるということ
あの日、加瀬さんに告白してから、三週間が経った。
返事はまだなかった。でも、連絡は以前と変わらず取り合っているし、ゼミでも二人でよく話す。緊張感というより、少しずつ距離が自然に近づいている感じだった。
返事を急かす気はなかった。
むしろ、今のままでも悪くない、とすら思っていた。
それでも──ふとした瞬間に心が騒ぐ。
駅のホームで隣に立つとき。
LINEの通知が少し遅れたとき。
彼女がほかの男の話を少し楽しそうにするのを聞いたとき。
“この時間が永遠に続くわけじゃない”という、妙な焦りと孤独が胸の奥を突いた。
ある日の帰り道。
加瀬さんと並んで歩きながら、つい心に湧いた言葉が口をついて出てしまった。
「……もし、他に気になる人ができたら、ちゃんと教えてね」
加瀬さんは立ち止まり、こっちを見た。
夕暮れの光に彼女の瞳が少し揺れた。
「そんなふうに、身を引く準備してるの?」
「いや、そういうんじゃ……ただ、なんか、気になって……」
情けなかった。自分でも。
杉山さんに言われた“心の汚れ”が、また顔を出した気がした。
加瀬さんはふっと笑った。
「あなた、ちょっと真面目すぎるくらいに優しいね。でも、たぶんそれ、自分を守るための優しさじゃない?」
ドキリとした。
言葉の芯を突かれた気がした。
「私、気づいてるよ。あなた、いつも自分がどう見られてるかをすごく気にしてる。私の前でもそう。いい人であろうとしてる」
彼女の言葉は、責める口調ではなかった。むしろ、心配そうだった。
「……でも、それって、どこかで“傷つかないように”してるだけじゃないかな。人と本気で向き合うって、きれいなだけじゃないと思うよ」
そう言って、彼女は歩き出した。
俺はその背中を追いながら、自分の足音がやけに重く響いているのを感じた。
***
その夜、布団の中で、ひとつの記憶を思い出していた。
中学生のとき、初めて好きになった子に、「気持ち悪い」と言われたことがあった。
笑いながらだったけど、本気だったと思う。
それから俺は、自分の気持ちを誰かに見せることが怖くなった。
傷つかないために、“安全な恋愛”だけを選ぶようになった。
見返りを計算して、結果が出そうな行動だけを選んできた。
加瀬さんは、それを見抜いていたのかもしれない。
だから、彼女の前では演じるのをやめよう。
いい人であろうとするより、素直な人間になろう。
醜い部分も、不安も、ちゃんと見せていこう。
そのとき初めて、恋って“勝ち取るもの”じゃなく、“育てるもの”なんだって、本気で思えた。
***
一週間後。
ゼミのあと、加瀬さんから「少し歩こうか」と誘われた。
神社の裏の坂道。春の風が吹いて、桜がちらちらと舞っていた。
「私、返事をずっと考えてたの。あなたのこと、どう思ってるんだろうって」
彼女は足元を見つめてから、顔を上げた。
「たぶんね、最初は“優しそう”って思っただけ。でも最近は、あなたの不器用なところとか、無理に笑うときの顔とか……そういうのが、気になるようになってきた」
言葉が胸にしみた。
「それって……」
「だから、私も覚悟しようかなって思う。あなたと、ちゃんと向き合ってみたい」
目の奥が熱くなった。
こらえきれず、俺は小さく頷いた。
「ありがとう……本当に」
彼女は微笑んだ。
「でも、勘違いしないでね。完璧じゃなくていい。でも、自分の汚れに気づこうとする人じゃないと、私、たぶん一緒にはいられないから」
その言葉は、誓いのように響いた。
俺は彼女の手を、そっと握った。
温かく、確かに、触れ合っていた。