壊れやすいワイングラスのように
それは、先輩の古賀さんが言ったことだった。
「付き合いたい女性に触れるときはな、氷のワイングラスに触れるみたいにするんだ。力を入れたら壊れるし、熱を伝えたら曇る。だけど、きちんと支えてやれば、美しいまま光を映す」
飲み会の帰り道、誰もいない深夜の街角で、俺はその言葉を聞いた。
酔っているようで、酔っていなかった。
古賀さんは、過去に大切な人を一度、本当に失った人だった。
***
その言葉を、なぜかずっと覚えていた。
そしていま、俺の右手は、彼女の左手にそっと触れようとしていた。
夜の観覧車、てっぺん近くのゴンドラの中。
シートに少しだけ近づいた俺の手が、彼女の指先に触れるか触れないか、その境界で止まっていた。
「……寒い?」
「うん、ちょっと」
そう答えた彼女――優衣は、手のひらをこすりながら笑った。
冬の風が観覧車の窓を揺らす。
俺は、迷いながらもそっと彼女の手を取った。
まるで、氷のワイングラスに触れるように――古賀さんの言葉が、脳裏をよぎる。
力を入れれば、こぼれる。
熱を伝えすぎれば、溶けてしまう。
でも、何も伝えなければ、そこにいた意味さえ残らない。
彼女の手は、想像よりずっと細く、冷たく、そして柔らかかった。
***
俺と優衣は、職場の勉強会で出会った。
最初はただの雑談だった。近所のパン屋の話、ペットボトルの紅茶は午後ティー派かリプトン派か。
彼女はどこか理屈っぽくて、でも妙にかわいげのある言い回しをする人だった。
「私は“わかってほしい”と“言わなくてもわかってほしい”の間でいつも揺れてるの。分かる?」
そう言ったとき、俺は即答できなかった。
彼女の表情は少し寂しそうだった。
それから俺は、彼女の「間」に耳を澄ませるようになった。
「今日、早起きしたけど、あんまり意味なかったな」
その一言に、“がんばって朝から準備した”という頑張りがある。
「お弁当、なんか味がぼんやりしててさ」
それは、“おいしいって言ってほしかった”という気持ちかもしれない。
俺は、その“氷のワイングラス”を両手で受け止めるように、優衣の言葉に触れ続けた。
雑じゃなく、遠慮でもなく、ただ丁寧に。
***
そして今日。
夜景の光が、彼女の頬をわずかに照らしていた。
「……ねえ」
「ん?」
「いつも……そうやって触ってくれるんだね。手、すごく優しい」
「壊したくないんだよ」
俺は言った。
彼女が驚いたように、少しだけ目を見開いた。
「俺、不器用だからさ。強く触りすぎたり、鈍くなったりすることがあって。でも、君にだけは、ちゃんとしたかった」
観覧車がゆっくりと回る。
遠くで、電車の音が聞こえた。
「氷のワイングラスみたいに?」
「……なんで知ってるの」
「前に言ってたじゃん。古賀さんの話」
彼女は少し、照れたようにうつむいた。
その姿に、俺の心の中で何かがほどけていった。
「ねえ、誠人くん」
「うん?」
「私、触れられるのが怖いときがあったんだ。でも、誠人くんなら……大丈夫な気がする」
「うん」
「だから……ちゃんと手、握って」
俺はもう一度、彼女の手を包み込んだ。
今度は、少しだけ強く。だけど丁寧に。
触れることは、支配でも証明でもなく、信頼の橋を架けることなのだと――そのとき初めて、心から理解した気がした。
***
観覧車が地上に戻るころ、彼女は俺の手を離さなかった。
きっと、この手が“曇らずにすむ距離”にあることを、二人とも知っていたのだ。