彼女はお姫様
その言葉を聞いたのは、雨上がりの午後、行きつけの喫茶店でのことだった。
大学時代からの友人、三谷がブラックコーヒーを啜りながら言った。
「いいか、誠一。付き合いたいと思うなら、相手をお姫様のように扱え。王子様ぶるなよ。お姫様に、だ」
「はあ?」と間の抜けた声が出た。
スマホには、昨日メッセージのやり取りをした彼女、篠崎美咲のアイコンが浮いている。
まじめで穏やか。だけどどこか近づきにくくて、俺にとっては憧れに近い存在だ。
「お前、ずっと好かれようとしてないか? 相手の好みに合わせたり、意見を飲んだり。違うんだよ。お姫様に接するってのは、無条件に価値を認めて、敬意を込めて扱うってことだ。下心とか打算を全部捨ててな」
三谷は恋愛経験が豊富というわけではない。ただ、時折、妙に核心を突くようなことを言う。
「で、具体的にどうすんのよ」
「簡単だよ。ちゃんと目を見て話せ。約束は必ず守れ。話を聞くときは、真剣に。荷物を持つ。寒そうならさりげなく上着を差し出す。あと、何があっても“君のせい”には絶対にするな」
まるでマニュアルのような言葉。でも、聞きながらなぜか胸がざわついた。
――それ、本当にできてたか?と、自分の中の声が問いかけてくる。
***
次の週末、美咲と会った。
駅前のカフェで待ち合わせた彼女は、淡いグレーのコートに白いニット。
髪をいつもよりゆるく巻いていて、その姿を見た瞬間、思わず言葉が出た。
「すごく……きれいだね。今日」
彼女が少し驚いたように笑った。
今まで、そういう言葉を飲み込んできたことに気づく。言って傷つくのが怖かったのか、照れくさかったのか。
店では、彼女の話に耳を傾けた。
職場の後輩の失敗をフォローした話、週末に妹と行った雑貨屋の話――
俺はうなずきながら、問いかけながら、できるだけ自然に「敬意」を込めた。
“お姫様”としてじゃなく、“彼女自身”を大切に思っているという気持ちを。
「話、ちゃんと聞いてくれるんだね」
帰り道、彼女がポツリと言った。
風が冷たくなってきていて、思わず着ていたパーカーを脱いで差し出した。
「着なよ。寒いでしょ」
「あ……ありがとう。でも、誠一くん寒くない?」
「俺は大丈夫。俺、こう見えて熱血なんだ」
寒さを吹き飛ばすように笑ってみせる。
彼女がくすっと笑って、パーカーに袖を通した。
その時、不思議なくらい肩の力が抜けていた。
好かれたい、振り向かれたい――そういう焦りじゃなく、ただ「大事にしたい」という気持ちだけで行動していた。
***
何度かのデートのあと、ある夜、美咲からメッセージが届いた。
《今日ね、仕事ですごく落ち込んでたんだけど、誠一くんと話してすごく元気出た。いつもありがとう》
それを読んだ瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
“お姫様”に接するように、という言葉の意味は、ようやく今になって腑に落ちた。
持ち上げたり、甘やかすって意味じゃない。
大切な人を、誇りを持って扱うこと。
彼女の言葉に真剣に耳を傾け、その価値を信じること。
そのうえで、自分も対等な“ひとりの人間”として、彼女の隣に立つ覚悟を持つこと。
***
「今日、ちょっと聞いてもいい?」
公園のベンチに座っている時、美咲が不意に言った。
夕焼けの光が彼女の髪を淡く染めている。
「うん、なに?」
「その……私たちって、どういう関係なのかなって思って……」
その時、俺の中にはためらいがなかった。
「俺は、美咲のことが好きだよ。付き合いたいって思ってる。もっと近くで、美咲を大事にしたい」
風が静かに吹いた。
彼女がゆっくりと、頷いた。
「……うん。私も、そう思ってた」
その笑顔を見た瞬間、心の中で三谷の声がよみがえった。
――“付き合いたいと思うなら、お姫様のように接しろ”――
ありがとう、三谷。
俺、ようやくハッピーエンドの一歩目に立てた気がするよ。