俺は悔しい
悔しかった。正直に言えば、それだけだ。
駅のホームで電車を待ちながら、彼はスマホの画面を指でなぞっていた。何かを調べても、答えは出ない。理解できない。自分にはまだ、届いていない。――それが、何よりも悔しい。
「わからないって、こんなに重いんだな……」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。通り過ぎるサラリーマン、学生、旅行者たちの誰もが、当たり前のようにそれぞれの目的地へ向かって歩いていく。自分だけが、立ち止まっているような気がした。
何が足りない? どこが間違っている?
答えはまだ、手の中にない。でも、わかってる。
「これを超えられたら、きっと、もっと楽しい自分になれる」――そう思えるだけの実感が、今の悔しさにはあった。
電車がホームに滑り込んできた。音もなくドアが開く。
彼はゆっくりと歩き出した。悔しさをかみ締めながら、それでも、前へ。
この苦い思いが、いつか未来の自分を押し上げてくれる――
そんな根拠のない希望だけを、彼は胸に灯しながら乗車した。
悔しさ、というものがここまでじわじわと胸の奥を締めつけるとは思っていなかった。
ただ理解できない。できていない。それだけの事実が、どうしようもなく、自分の存在価値を削っていくような気がした。
夜の駅のホーム。仕事帰りの人々が黙々と列を成している。スーツ姿の男たち、学生服の少年、イヤホンで音楽を聴いているOL風の女性――誰もが、当たり前のように、それぞれの一日をこなして帰路についている。
自分だけが違う気がした。立ち止まっている。取り残されている。
スマホの画面には、先輩から回ってきた業務マニュアルと専門用語のオンパレード。何度読んでも、核心が見えてこない。セミナーで講師が話していた「要点」が、自分の頭では点のまま。線にならない。
「……なんで、俺だけこんなにわからないんだろうな」
小さく吐き出した言葉は、誰にも届かない。届かなくていい。自分にだけ届けばいい。
焦りを抱えながら、それでもわかったふりをしてやり過ごす毎日。
けれど、そのふりも、そろそろ限界だった。
――理解したい。追いつきたい。できれば、追い越したい。
心の奥で、そんな願いが何度も何度も反響している。
上司からの評価は決して悪くない。でも、それは「人当たりがいい」とか「真面目に取り組んでいる」からであって、本質を理解しているわけではない。
つまり、いつでも見破られてしまう。自分が、"できていない人間"であることを。
たかが一つの業務に関する知識かもしれない。けれど、そこに感じる自分の無力さは、人生全体を否定されているような錯覚すら呼び起こした。
他人に認められることがすべてじゃないとわかっていても、自分自身に認められないことは、もっとしんどい。
そんな思考に耽っているうちに、電車がホームに滑り込んできた。ブレーキの金属音。反射的に列に並び、流れに乗るように乗車する。
座席は空いていなかったので、ドア脇の手すりに寄りかかる。窓に映る自分の顔が、ひどく疲れていた。
「これさえわかれば、これができるようになれば……もっと、人生って楽しいんじゃないか?」
その思いだけが、まだ自分を支えていた。
悔しい、でも逃げたくない。逃げたらきっと、もっとつまらない自分になる。
それだけは嫌だった。
学生時代、理屈で勝てない友人がいた。要領もいい、頭の回転も速い。彼にいつも一歩遅れていた自分は、何かにつけて比較しては、勝手に落ち込んでいた。
でも、あのときの悔しさがあったから、あのとき負けた自分がいたから、今の自分はこうして立ち止まりながらも、進もうとしているのかもしれない。
電車が次の駅に止まり、数人が乗り降りする。空いた席には座らなかった。立ったままの方が、自分にはちょうどよかった。
――俺はまだ、あきらめていない。
まだ理解できていないことがある。まだできていないことがある。
でも、だからこそ、やる意味がある。
その「足りない」がある限り、自分は前に進める。悔しさをエネルギーに変えて。
誰もが完璧なわけじゃない。だけど、歩みを止めなければ、きっといつか届く。
心の奥に、小さな火が灯る。その火は、まだ弱々しいが、確かにあった。
これが、希望というやつなのかもしれない。
電車の窓の外には、街の灯りが流れていく。
誰かの家。誰かの生活。誰かの毎日。
そのひとつひとつに、自分もまた関わっているという事実が、ふと温かく思えた。
わからないからこそ、できないからこそ、人生には挑む意味がある。
その悔しさを、いつか誇れるものに変えてやる。そんな風に思った。
次の駅で降りる準備をしながら、彼はもう一度、胸の奥で呟いた。
――俺は、まだ終わってない。まだ、始まったばかりなんだ。