隠れオタクの一陽来復
『おはよっお兄ちゃん!早く起きないとキスしちゃうぞっ』
スマートフォンから幼い少女の甲高いアニメ声のアラーム音で目を覚ます。
俺の名雨は小田一郎、十七歳の高校二年生だ。
成績は優秀で友達からは優等生なんてあだ名で呼ばれている。
クラスでは委員長を任されており、教師達の信頼も厚い。
スマホを手に取り、10分間隔で並んでいるアラームをオフにした。
休日は10分刻みで一日の行動を決めているためスクロールするだけで一苦労だ。
部屋を出て洗面所に向かうと歯ブラシ立てから青色のブラシを手に取り歯を一本づつ丁寧に磨く。
朝食にはトーストにバターを付け、コーヒーと一緒に食べる。
『お兄ちゃんっ!ルルもお腹すいたぁ』
おっと、いけない。
起きた時にアラームをオフにしたと思ったが抜けがあったみたいだ。
学校がある日は目覚まし音以外はオフにしなければ。
朝食を済ませ、二度目の歯磨きをした後、学校へ向かうために玄関で靴を履き外に出たところで鞄を持っていないことに気づいた。
「寝ぼけているのかな。今日は調子が悪い」
恥ずかしさをごまかすために独り言をつぶやきながら鞄を取りに戻った。
朝、まだ人が少ない高校の教室が好きだ。
部活の朝練のためか鞄だけおいてある席、静寂だがどこか人の気配が充満している雰囲気。
窓際の後ろの席でノートを広げる。
二人目に女子生徒が入ってきたときの少し気まずい空気ほど青春を感じる瞬間はない。
「おはよう……小田君。いつも早いね」
顔を上げるとクラスメイトの奥内瞳と目が合った。
白い肌に大きく開いた黒色の瞳。
右目の下にある泣きぼくろから幼くも聡明な印象を受ける。
「ああ、おはよ。朝の教室が一番勉強に集中できるんだよ」
「さすが、優等生だね。学年でトップの成績なのも分かるよ」
それ以上会話が続かずお互いに微笑し合う。
ちょっぴりぎこちない異性との会話にドーパミンがあふれ出だすのを感じる。
教室中央の席で奥内が鞄を開ける音、教科書やノートが机にぶつかる音。
彼女の息遣いまでもが二人だけの静かな教室では聞こえてくる。
そんな幸福な時間は長くは続かず、時間がたつたびに徐々に喧噪が大きくなっていく。
少し不快で、少し心が躍るような相反する感情。
そして、ホームルームの時間が来た。
「では、連絡事項を……」
担任の教師が話始めると、ぴたっと話をやめ再び静かな教室に戻る。
こっそり宿題をするペンの音に椅子が地面をひっかく音が混じった独特な空気。
「これで以上です」
つつがなく終わるホームルーム。
それを待っていたといわんばかりに雑談に花を咲かせる教室。
「小田、宿題写させてくれね?」
一つ前の席に座っているクラスメイトの加藤博が声をかけてきた。
モデルをやっていてもおかしくないほどの美形をした男。
だが、態度が軽く成績もよくない。
不良予備軍みたいな印象だ。
「ああ、いいよ」
「サンキューな!やっぱ優等生は違うな」
加藤は奥内のほうへわざとらしく視線を向ける。
「小田君、だめだよ。自分でやらせなきゃ」
「べーっ、これだから女子は嫌なんだよ。お前が断っても俺には優等生がいるからいいし」
この二人は仲がいいのか悪いのかよく言い合いをしている。
クラスメイトはそんな二人のやりとりをからかい始めた。
クラスカースト上位の二人を中心にいつも輪ができる。
結局、勉強ができることよりも容姿が大事なのだ。
「うわっ、小沢がエロ本読んでるぞ」
黒板に近い最前列の席で一人ブックカバーをかけて本を読んでいる小沢を見て加藤が大声を上げる。
「いや……、え、エロ本じゃないし、ちゃんとした小説だし」
「でも、裸の女の絵が見えたぞ」
「それは、たまたまそういうシーンで……」
くすくすとクラス中から笑いが起きて小沢は俯いて黙り込んでしまった。
俺は我関せずと次の授業の予習をする。
同情心で口を挟めば同じグループに分類されてしまうからだ。
「なっ、優等生もエロ本だと思うよな」
嫌なタイミングで話を振られてしまった。
奥内を含めてクラスメイトの視線を一身に浴びてしまう。
小沢には同情しているが身を守るために冷たい言葉を投げかけないと。
口を開こうと顔を上げると奥内の不安そうな表情が視界に入ってくる。
彼女はこの流れが不快なんだと一瞬で理解した。
仮に小沢と同じグループに分類されても奥内にだけは嫌われたくない。
「仮にエロ本だろうが、人の趣味にケチをつけるのは間違っているぞ」
「おいおい怒るなって、ちょっとからかっただけだ」
「さすが優等生ね」
「優等生に言われてんぞ加藤」
俺の言葉を皮切りに小沢を馬鹿にする流れが加藤に向き始めた。
さっきまではクラス中で小沢を笑っていたのに勝手なものだな。
だが、自分も似たようなものなので自己嫌悪だ。
「お前ら席につけ授業の時間だ」
いかつい顔をした男教師が教室に入ってきて国語の授業が始まった。
古文の難しい日本語が黒板に羅列されており、順番に教科書を読まされる。
ここだけ江戸時代に戻ったように聞きなれない単語が飛び交う。
教師が黒板にチョークを叩く音とそれをノートに写すペンの音だけが響いた静寂な教室で、
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
大音量で幼い少女の甲高いアニメ声が響き渡った。
俺はポケットの中で鳴っているスマホを取り出そうと手を突っ込む。
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
止めようと、親指で画面をタッチしようとすると、つるっと手汗で滑って手から離れる。
空中でキャッチしようと右手を伸ばすも、つるっとまた滑ってしまい、床に落としてしまった。
表側を向いて落ちたスマホの画面の端は雨でも降ったかのように濡れていた。
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
依然、アラームは鳴り止まない。
止めるボタンを押すまで短いセリフを垂れ流す。
いかつい男教師が振り返る。
黒板を叩くチョークの音がぴたっと止まる、黒板を写していたノートを叩くペンの音がぴたっと止まる。
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
俺は慌てて床に落ちたスマホを拾おうと体を倒すと、がしゃんと派手に椅子から転げ落ちてしまった。
時間が止まったように感じた。
スマホを掴もうと伸ばす腕がスローモーションのように遅い。
脳が速く動けと信号を送るも、その速さに体がついていけない。
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
スマホの画面にはアニメ魔法少女ルル・ン・ルの主人公である幼い少女ルルが煽情的な衣装を着て頬を赤らめている姿が映し出されている。
周囲に座っている生徒は無言でその画面を凝視。
俺も目が飛び出るほど凝視。
『きゃっ、もう、お兄ちゃんのエッチ!』
何とかスマホに指が届き、画面を連打。
もはや脳の信号を待たずに指が勝手に動き出す。
が、
『あんっ!お兄ちゃんそこはだめぇっ』
スマホが誤作動を起こし、別のボイスを再生してしまった。
体中が熱い。
『あんっ、お兄ちゃ……』
ゆっくり床から立ち上がり、丁寧に椅子を引いて背筋を伸ばして座り、ペンを持った。
視線は黒板に書かれた白い文字を見つめ、それをひたすらノートに写した。
「あー……小田。授業中はスマートフォンの電源を切っておくように」
「……はい、以後気を付けます」
しーんと静まり返る教室でクラスメイト達からの視線が痛い。
誰もが口を開けて唖然としているのが視界の端に映る。
「これで、授業は終わりだ。ちゃんと、復習しておくように。あと、小田。授業中はスマホの電源を切るか、せめてマナーモードにするのを忘れるなよ」
「はい」
チャイムが鳴り
授業が終わる。
小沢が後ろを振り返り親指を上げる。
加藤も振り返り、顎に手を当て、口ごもる。
そして、真ん中の席に座っていた奥内が立ち上がり近づいてきた。
大きく開いた黒色の瞳を輝かせて太陽のように明るい笑顔で、
「それ、魔法少女ルル・ン・ルの主人公ルルのボイスでしょ!私も好きなんだっ!うわ~小田君もこのアニメ好きだなんて知らなかったよ」
それが、生涯を共にするパートナーとの出会いだった。