二
会話は途切れたまま、二人は家へ帰って来た。
父は直ぐに自分の持ち物をポケットから出して
テーブルの上に乱暴に広げたかと思えば
「暑い」着替えながら父はぼそっと一言漏らす。
「あ、扇風機つけるね。窓も開ける?」
「ん、」
外から戻った家はあまりにも静かで
会話こそないが家の中で父と過ごすより
外で電車にでも乗っている方がよっぽど気が楽だ。
自分の家だと言うのに私の心は休まらず
それどころか居心地は悪かった。
私は十七年この男と共にこの家で
生活を送って来たが未だに接し方、
父と娘の正しい親子の在り方が分からないでいた。
他所の父親と娘が手をとってお互いに
顔を見合わせて幸せそうに笑顔さえこぼす様子を
私は良く目にする。けれども、
家ではそうはならないし、そもそも
父は私の前で笑わない。
父が笑う顔を想像しながら私は頬杖をついて
息を潜めながら父の横顔を眺めていると
父は、ちらりとこっちを見て
また向き直った。その一瞬の事でさえ
私はこれから先の日々を不安にさせられたと同時に
父に愛想なんてものはなかったと思い出した。
「おい、」
「はい、」
「着替えないのか?」
「あ、うん。着替えてくる」
ぎこちない会話だけを交わして
私は逃げるように部屋に入った。
着替えを済ましてふと時計に目をやる。
午後三時を少し過ぎた頃。予定より少し早いが
私は着替えてからそのまま叔父さんの所へ
向かう事にした。
着替え終えて居間にいる父に
「行って来ます」といつものように
ちゃんと声をかけたにも関わらず
居間から「おい、」と呼び止められた。
「はい、」
「もう出るのか?」
「うん、少し早いけどね」
「そうか」
「どうかしたの?」
「いいや、気をつけて行ってこい」
「うん、行って来ます」
決まりの悪いように思いながら
私は家をでて、歩いて叔父さんの店へ向かった。
家から店まではそう遠くは無く十分も歩けば
着く位置にある。
店の前まで来ると叔父さんの自転車は
止まっているものの中に入ると誰も居なかった。
店はこぢんまりとしていて
カウンター三席と四人掛けのテーブルが二つある。
この店は常連さんが殆どでカウンターの上の棚には
名前が書いたボトルが沢山並べられている。
店内の壁にはいくつか写真が貼られていて
お客と映った数枚の写真の中にたった一枚だけ
家族で撮ったと見られる写真がある。
私の父と母と叔父さん夫婦の他に男の人が一人。
何度も目にしている写真の筈なのに
暇があるといつも見てしまう。
「おー、もう来てたか。」
「うん、ちょっとね。買い物?」
「仕込みしようとしたら電話がきてな、
取りにこいって、これ」
叔父さんは大きい袋を片手で持ち上げたと思ったら
それを私に見せびらかして
「今日の賄いは豪華にしようかな」と
独り言のように呟いてそのまま
キッチンで作業を始めた。
叔父さんが働き始めたので自分も
制服に着替えて働き始める事にした。
テーブルや椅子を布巾で隅々まで拭いてから
トイレ掃除、掃き掃除。そして、手があけば
簡単な切り物を手伝わせてもらっている。
たまにお店を閉めた後に料理も教わっていて
それを叔父さんは花嫁修行と呼んでいる。
週に二日程度この店の手伝いをして
小遣いを稼いでいる。
そうなったきっかけは母のお葬式の時だった。
そんな話を今まで一度もして来なかったが
「人手が足りなくて困っているから
週に一日でもいいから手伝いをしに来ないか?」
私は何も考えずに「うん」とだけ返事をしていた。
その話をお葬式から二、三日経った日に思い出して
夜に叔父さんのお店に顔を出しに行ったところ
「お前が来たい日に来たらいいから」と言われ私は
「でも、お手伝いってちゃんと働かないと
意味がないでしょ?私何にもできないよ?」
「フフフ、心配だからって言えばいいのに。」
上品に微笑み叔父さんの隣で呟いたのは
叔父さんの妻である紀美子さんだった。
初めて紀美子さんと会った日の事を
私はよく記憶している。
小学生の頃、友達の家へ向かっていたところ
突風で身につけていた麦わら帽子が
風の勢いで後ろへ吹っ飛んでしまった。
振り返り帽子の行方を追うと
一人の女性の足元で止まっていた。
女性は帽子を拾い上げると手で二、三度払って
私に向かってにっこりと微笑んだ。
まだ、小学生だった私は恥ずかしくて
お礼も言わずにもじもじしていると
向こうから「どうぞ」と頭に被して
もう一度微笑んでからゆっくりと歩き出していった。
私は結局お礼も言えないまま去っていく
後ろ姿に釘付けになっているだけだった。
透き通った白い肌、艶を纏った髪
友達の家に着いてからも私は女の人の事ばかり
繰り返し思い出しては、大人になったら
あの女性の様になりたいと猛烈に憧れた。
そして、再会するまでにそれ程時間はかからなかった
叔父さんが結婚すると報告を受けた父は
母と私を連れて叔父さんの店へと向かった。
閉店後に暫く待っていると現れたのが紀美子さん。と
私より三つ歳上の男の人。連れ子だそうだ。