一
「幸せになって。どんな形でもいいのよ。
それが私の願いなの。」
それを言葉にした女は弱々しい手で
私の髪を優しく撫で下ろし、微笑んだかと思えば
沢山の涙を浮かべ、やがて溢れさした。
「おい、」
「何?」
「長い。」
手を合わせ、じっと目を閉じ
母との記憶を辿っていたが
低い声がそれを辞めさせた。
「そんな事言わないでよ、
せっかくお母さんに会いに来たのよ?」
「だからと言って何をそんなに話す事があるんだ。」
「つめたいわね」
「暑い。もう行くぞ」
男は私に背を向けて歩き始めてしまった。
慌てた私は背中に向かって「本当にもう帰るの?」
私はまだこの場所に居たいように思っていた。
男は立ち止まり首だけを後ろに捻り一言
「そろそろ寝かせてやれ」そう呟くと
また、ゆっくり歩き始めた。
その言葉に妙に納得した私は
振り返り丁寧に手を合わせてすぐに背中を追った。
八月中旬。今日は一段と暑いように思った。
身体中からじんわりと汗が滲み
おでこに溜まった汗が何度も何度も頬を垂れて
気持ちが悪かった。
「ねぇ、ちょっと暑すぎない?」
「後五分も歩けば駅に着く」
振り返らずそんな言葉だけを送り男は歩き続けた。
私は仕方なくただ着いていくだけだった。
目印もない閑静な住宅街を男の背中だけを頼りに
私は歩くしかなかった。
じりじりと日差しが身体を狙い続け
ふと自分の腕を見ると赤く火傷のようだった。
手を高く上げ指の隙間から目を細めて空を見上げると
今日は白い雲が一つも見当たらなかった。
「何してんだ、」
「あ、ごめん」
男の方に向き直ると男は顎で道の先を指した。
「やっと着いた、結構駅から遠いよね。」
「毎年来ているだろう?今日も食べるのか」
「うん、」
男はのそのそとズボンのポケットから
黒い二つ折りの財布を取り出すとそこから
札を一枚抜いて売店に持って行った。
私はわくわくしながら男と店員のやり取りを
後ろから見ていた。
相変わらずこの男には愛想というものがまるでない。
「ん、」
「ありがとう」
ここへ来たら必ずアイスクリームを駅前で
食べてから電車に乗り込む。
「お父さんは食べないの?」
「俺はいい、これでいい」
缶コーヒーを持ち上げ私に見せつけた。
決して暑いから、アイスクリームが好きだから
そう言った理由で買ってもらうように
なった訳ではなかった。
三年前、母親が病気で亡くなった。
初めてお墓へ手を合わせに来た日に私は
泣きじゃくって父を大変困らせてしまった。
帰りにこの駅に着いても私は涙が止まらなかった。
見兼ねた父が私の側から少し離れ
戻って来たと思ったらアイスクリームを持って
私の前に現れたのだった。その時の私は
なぜアイスクリームを?とその意図が
全くわからなかったが「これでも食べろ」と
差し出され気分は乗らなかったがせっかくだから
受け取って食べ始め、食べ終わる頃には
涙は止まり、父親の優しさを身に染みて実感した。
その事があってから父は此処へくる度に
「食べるか?」と聞いてくる様になった。
「ご馳走様、」
「ん、帰るぞ」
此処へ来る為に私たちは電車で一時間と
バスに乗って帰らなければならない。
少し前まで父と二人きりで近所のスーパーにすら
行った記憶がなかった。
いつも母の存在があったので三人だった。
父は無口であまり表情も変えないので
私の中で父は少し怖い存在だった。
そして、母が亡くなったのでそんな父と
二人きりになってしまった私はこの時に改めて
母親の存在の大きさを身に染みて実感した。
今となっては父親と二人きりなのも
なんら問題はないが、今までお互い
距離を埋めてこなかったせいで
接し方がわからないまま過ごす羽目に
なってしまっている。
二人並んで電車に揺られるけれど
退屈で仕方がない私は窓の外でも眺めていた。
ちらりと横目で父の顔を伺うが父は黙って
前を向いているだけだった。きっと父親は父親で
「つまらん」とでも思っているに違いない。
父の交友関係も知らなければ
他所行きの顔も見た事がなかった。
「今日もあれか、手伝いか」
「うん、」
「そうか、晩飯は食ってくるのか?」
「そのつもり。どうして?」
「いいや、」
そこで会話は再び途切れる。