#10 失踪王女の独り言
アーデルハイトは、ユウキが救ってくれた母の肖像画を見ていた。
昼の間は荷馬車に揺られるばかりで何もないから、見ていても怒られない。
否。
王女であることを放棄した今のアーデルハイトを叱る者は、ユウキ以外の誰もいない。
常識を弁えた範囲なら他の誰も怒ったり叱ったりはしてこない。
そして、母の肖像画を見て大人しくしている分には誰も怒らない。
(母様。私は、遠い所へ行くことになります)
属国の小さな国に生まれた姫だった母。
半ば捧げものとして嫁入りした母。
物心ついてからのほんのわずかな時間しか一緒にいられなかった母はやつれていて、ベッドから起き上がるのも大変そうだった。
そんな母が元気だった頃の肖像画に、語り掛ける。心のうちで。
(母様のつないでくれた命で、私はこの国を救ってみせます。
一度壊れてしまうけれど――でも、いびつなこの国を助けるには、そうなるしかないのです。
戦火の後に芽吹くものを信じて。
ユウキ様が果たして下さる魔族との融和を信じて。
私は進まねばなりません)
生まれた国が正道に立ち戻ることを願いながらも叶わないことを無念に思っていた。
そのまま生きていくのだと、罪を背負ったまま、未来を変えられず生きていくと思っていた。
けれどあの日、ユウキが現れて。
その圧倒的な強さを感じ取って産毛が逆立つのを感じながらも進み出たことはきっと間違ってなどいない。
祖国は崩壊する。
しかし、歪みは正される。
きっと近隣の国はまっとうな国を作ってくれるだろう。
全て他人任せなことは歯痒いが、ユウキの一助になれればと思っている。
無関心な父たちに悟られぬように蓄えた知識の数々は、机上のものではあるが、それでもないよりはあったほうがいい。
先代勇者の居所など、最たるものだ。
これは王城に住まう人間しか知らぬ情報だ。
ヨエル大司教は彼の治療のために知っているが、それとて秘匿せねばならぬときつく言われていたそうで。
モカとカイ、イデアも知らない。
義務として出席させられていた晩餐会で先代勇者の「療養先」を知ったのだ。
そしてもうそこから動かせないことも。
心は抜け殻のようになってしまっても、勇者の持つ強大な力は魔族を委縮させるだろうと、魔族領に程近い東方に封じたのだと。
そんな胸糞悪い話を食事の最中に聞かされた時は、食事が砂の味のように感じられた。
アーデルハイトはその療養先がどんな場所か知らないが、ヨエルは知っている。
人がまばらにしか住んでいない寂れた地で、人口の殆どが奴隷である。
それでなお反乱を起こさないのは、生れ落ちてすぐ奴隷に施される呪術のせい。
東方は特にこの呪術を強めにかけることで知られていて、どれほどの絶望や憎悪に身を焼かれようとも誰にも攻撃が出来ない、どころか。七転八倒して苦しむことになると、知られている。
故に、同じ世代の者が苦しむ姿を知っている奴隷たちは、感情を封印して生きているから短命なのだという。
三十歳になるかどうかの年齢で皆命を落とす。
そんな過酷な状況であることを言い出せないままヨエルは沈黙を貫いているのだが、いずれは言うことだろう。
肖像画の母は、なぜか時折表情が変わるようにアーデルハイトには見える。
緊張した面持ちで描かれているはずなのに、なぜか時折、思い出にあるように微笑んでいるように見えるのだ。
大抵それは、アーデルハイトが心の内で努力をすると何度も決意している時で。
励ますように。背中を押すように。
まだ幼さの残る母が、微笑んでくれるのだ。
(お母さま。私はきっとやり遂げます)
木漏れ日のような温かな笑みの肖像画の母は、今日も何も言わない。