死者に会える神社
古い古い鳥居の奥に苔生した石の階段が黒々と茂った木々の中に吸い込まれるように続いている。木が生い茂っているせいか昼なのに薄暗くて階段の終わりは見えない。
希美子はゴクリと息を呑むと、足を踏み出した。
昔の人が手作業で作った石階段は不均等で風化している箇所もあり足元を見ないと踏み外しそうだ。
一歩また一歩と進むたびに辺りは薄暗くなり、山特有の植物の濃い匂いがしてくる。
希美子はこの階段の先にある神社に行こうとしていた。そのために、新幹線に乗って電車やバスを乗り継いで五時間もかけてやってきたのだ。
普段からヨガやウォーキングしているとはいえ、四十を過ぎた希美子に長時間の移動と山登りのような階段は体力的に辛いものがあった。それでも、どうしても行かないといけないのだ。
その話を聞いたのは偶然だった。
パートの休憩中に流れていたテレビ番組がきっかけだった。「奇跡的な体験」を再現ドラマにしているもので、亡くなった夫が夢に出てきて危険を知らせてくれたという話だった。お茶を飲んで見ていたら、アルバイトの大学生の深見くんが「亡くなった人に会える神社があるらしいっスよ」と話していた。同じアルバイト仲間の永沢さんと話していたのだが、横にいた希美子が話に食いついた。
あまりの食いつきぶりに深見くんは驚きながらも神社の話をしてくれた。「あくまで噂っスよ」と困ったように言っていたが、噂でもなんでもいい。希望があるならそれに賭けたいぐらいに希美子は切実だった。
町から少し離れた山の上にある夜見平神社という小さな神社がある。長い石階段を登った先にあるのは社務所も無い小さな神社で、その横に小さな池があるという。神社でお詣りをしてその池を覗き込むと亡くなった人に会えるらしい。
希美子は祈るように一段、一段を上っていく。もう何段上ったのか、何分上ったのか分からない。十分程度のような気もするし一時間近く上っている気もする。
頂上に着くことだけを考えて、振り返えることなく懸命に足を動かす。
汗を流し、息を切らしながら足を動かしていくと不意に階段の終わりが見えた。あと三段。そこでようやく希美子は顔を上げた。
階段下の鳥居よりも古く見える鳥居の先には、鬱蒼とした木に囲まれた小さな神社があった。神社というより祠に近い。参拝者も神主も滅多に訪れないような古びた神社だった。木立ちから漏れ出る光がなければ暗闇に溶け込んでしまいそうな古く暗い雰囲気を漂わせている。
お詣りをしなければ。
肩がけのバッグの紐を握りしめて足を踏み出す。
この時希美子は気がついてなかった。音がないことに。
鳥の声も虫の音も木々のざわめきも、なにも音がなかった。必死だった希美子は異変に気がつくことなく神社へと足を進め、鳥居を潜った。
ギィっと音がした。木が重みで軋むような音がして希美子は足を止めた。音の方へ顔を向けると左の茂みから牛車が現れた。牛車といっても牛はいない。黒塗の車だけがゆっくりと揺れながら進んでいる。
希美子は異常な事態を呆けたように見ていた。あり得ない光景に考えることができなかった。
牛車は希美子と神社の間に割って入るように進むと、不意に動きを止めた。希美子との距離はほんの五歩か六歩ほどだろうか。
牛車がぐるりと回転した。前簾が半分ほどくるりと巻き上がる。希美子は困惑しながらも目を凝らした。中に誰かが乗っているのだが、黒い衣装を着ているのかよく見えなかった。
牛車の中にいたモノがゆっくりと動いた。前簾から現れたのは白くふっくらとした手だった。ゆっくりと持ち上がった手が手招くようにゆっくりと優雅に動く。
途端に希美子は恐怖した。
あれは違うモノで、見てはいけないモノだと。
咄嗟に顔を伏せたが白い手が脳裏から離れない。
恐ろしいことに、意思とは反対に足が前へと動こうとしていた。どんなに抵抗しようとしても足が止まらない。
違う。私はあの子に会いたくて、ここまで来たのに。
あんな異質なモノに会うためでは断然ない。
必死で抵抗する希美子の左手を誰かが掴んだ。
グンっと体が後ろに引っ張られる。長い黒髪が見えた。
「急いで!」
聞こえた懐かしい声に涙が出た。
手を掴まれたまま鳥居を潜り、階段を駆け降りる。
一歩前を行くのは、制服を着た女の子。長い黒髪を揺らす姿に希美子は胸を詰まらせた。
「幸来。幸来。幸来」
会いたかった。会えた。
言いたいことがたくさんある。伝えたいことがたくさんある。なのに何ひとつ言葉にならなくて、馬鹿みたいに名前を呼ぶことしかできない。
「幸来。幸来…………」
ごめん。ごめんなさい。謝っても足りない。
なんて母親だろうって恨んでるよね。恨んでいいから、怒っていいから。
不甲斐ない母親を許して欲しいなんて言わない。
でも、謝らせて。
ごめんね。ごめんなさい。
「幸来、幸来…」
恨み言を言ってもいい、罵ってもいい。
声が聞きたい。話がしたい。顔が見たい。
貴女をもう一度抱きしめたい。
階段下の鳥居が見えた時、幸来の足が止まった。くるりと振り返ったのはやはり幸来で、希美子は涙が溢れ出た。
「お母さん、ごめん。ごめんね」
幸来の声に頭を振る。
謝るのは自分だ。
気が付かなかった。後回しにした。忙しかったことなど言い訳にはならない。
娘のSOSを聞き逃したのは自分だ。
あの時居眠りをしていなければ。すぐにかけ直していたら。後悔は山のように希美子を苛んだ。
「私、またお母さんの子どもに生まれたい」
幸来の言葉に顔をあげると、幸来は照れたようなへにゃりとした笑顔をしていた。それだけで希美子の胸は熱くなる。
嗚咽しか出てこない希美子の背中を幸来の手がそっと押した。続けられた言葉になんとか頷いて、希美子は鳥居を潜った。
慌てて振り向いたが、そこには石階段があるだけで幸来はいなかった。
確かに、幸来がいた。
声が聞けた。顔が見れた。幸来が、幸来がいた。
幸来が、助けてくれた。
涙が止まらなかった。
『だから、長生きしてね』
幸来の言葉が耳に残っている。
私もまた貴女のお母さんになりたいわ。いいえ、絶対になるわ。
気持ちが落ち着くと周囲がやけに明るいことに気がついた。まるで朝のようだと思った。
バッグの中からスマホを取り出すと翌日の七時になっている。夫から三桁近い着信があった。
電話をかけ直すとすぐに出てくれた。心配させて申し訳なくなるが、必死に「元気か」「どこにいる」と質問してくる夫が愛おしくて笑みが溢れた。
こんな話、貴方は信じるかしら。
夫の質問に答えながら、もう一度神社のある山を仰ぎ見た。
もうここへ来ることはないだろう。
幸来との約束を守らなきゃいけない。ちゃんと生きて、また貴女と会うわ。
でも、たまにでいいから、夢でいいから、会いに来て欲しいわ。
希美子は鳥居に背を向けて歩きだした。その顔は晴れやかでもあり、少し寂しげでもあった。
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