山道の入口
ゆうべはぐっすり寝た。
兄様たちの安眠妨害もないので本当にぐっすりだった。
立派な旅籠の、清潔なお布団で、しかもひとり部屋だった。
兄様たちについて以前に旅をした時は相部屋の木賃宿によく泊まった。商人のおじさんなんかと同じ部屋で、兄様の後ろに隠れるようにして眠ったっけ。あれは寝た気がしなかった。
まぁ、あの頃はわたしもまだ男の格好をしていれば男の子に見えたからよかった。今はこうして羽織袴を着ていても、あまりの可愛さにすぐ女の子とばれてしまうだろう。←ここツッコむとこ
しかし旅の端緒から自信がついた。
ひとりで旅籠に泊まることができた。
入ることさえ怖かったが、勇気を出して『えい!』と入ってよかった。まさかお外で寝るわけにもいくまい。お布団で寝られて本当によかった。
まぁ、笛兄がこの旅籠に泊まれと紹介してくれていたのだが……。
明日からは自分で宿泊する場所も探す。ひとりで歩いていけるようになるのだ。
お金は銅貨の他に『雪風札』を持って来ている。貨幣はかさばるので紙幣のほうが助かる。流石は雪風一族の力、関所を越えても日本全国でこの紙幣は使えると聞いている。
物盗りには気をつけろと笛兄が仰っていたが、わたしを誰だと思ってらっしゃるのだろう。わたしはそこそこ剣を極めた雪風音丸さまだぞ。盗人なんぞに負けるわけがない。
「お侍様。お忘れ物はございませんか」
旅籠のおじさんに帳場で聞かれて部屋に風呂敷を忘れているのに気がついた。急いで取りに帰ると、畳の上にぽとんと置いたままだった。よかった、物盗りにやられなくて。中には身だしなみ道具一式と、何より雪風札がすべて入っているのだ。
宿代を雪風札で支払うと、主人がキラキラした目でわたしを見てくれた。
「おおっ! 雪風一族の方でございましたか!」
雪風札は国をあやかしから守る雪風一族の証。これを持っているだけで、わたしのような駆け出しのへっぽこでも、一人前の退魔師として見てもらえるのだ。
わたしは胸を張り、威厳のある声で「ウム」と言おうとしたが、口から出た声は「テヘヘ」だった。
旅籠を出ると、遂に自分の足で歩き出した。鎌鼬の出るという山道まではまだ半日はかかる。
街道を歩いていると、色々な人とすれ違った。
浪人風のおじさん、子供の手を引いた夫婦連れ、一人旅のご老人、腰に刀を差した柄の悪そうな輩も歩いてくる。
女の一人旅はわたしの他には見かけなかった。まぁ、わたしは男の格好で編笠をかぶっているので、誰もわたしが女の子だとは気づいていないが。
民家の途絶えた松並木の道を歩き続けていると、茶店があった。お団子食べたいな……。いやいや、先を急ぐのだ。ゆっくりしていては鎌鼬の出る山に入る頃には夜になってしまう。
やがて他の旅人たちはみんな別の道に分かれて行き、いつの間にかわたし一人が歩いていた。
どんどんと周囲の景色が寂しくなってくる。空も曇りはじめた。
遠くに見えていた小山がだんだんと見上げるほどになってくる。近い。鎌鼬の棲む山が、近い……のかな?
農村に差しかかった時にはどんよりと辺りが暗くなりはじめた。まだ夕刻まではいくらかあるはずだが……わたしの足が遅かったのだろうか。それともやはり、つい、ちょっとだけと思って茶店に寄ったのがいけなかったのか。
お日様が雲に隠れているので今が何時なのかわからない。農村に人影はなかった。
農村を抜けたところから山道がはじまっている。
わたしは迷った。
このまま山に入れば抜けるまでに夜になってしまうのではないか。
人の気配はないが、どれかの家の戸を叩き、誰も出てこなかったとしても、空き家なら勝手に入っても構わないだろう。一夜を屋根の下で過ごし、明朝早くから鎌鼬退治に繰り出せばよいのではなかろうか。
わたしが立ち尽くして逡巡していると、背後から話しかけてくる声があった。
「もし……。お武家様」
しわがれたその声に振り向いてみると、いつの間にかそこにご老人が立っていた。
人のよさそうな、こんな鄙びた農村には似つかわしくない、庄屋さんみたいな印象の爺さまだ。背後にいたのに全然気がつかなかった。
優しそうな爺さまだけど、油断はしない。声を出すと若い女の子とばれるので、編笠をかぶったまま、武士らしく一礼をしてみせた。すると爺さまもぺこりと礼を返してくれ、わたしに言った。
「山を越えなさるので? 今から山に入ったら越えるまでに夜になってしまいますだ。無理せず今夜は村に泊まっていかれたらよいですじゃ。それより何より、その山には入らねぇほうがええ」
わたしは首をひねって、動作で『なにゆえに?』と聞いてみた。
「あやかしが出ますのじゃよ。旅人の衣服を切り裂いて素っ裸にしてしまうイタズラ妖怪ですじゃ」
うん、それだ。わたしはそいつを倒しに来たのじゃ。
声には出さず、うんうんとうなずいて見せた。
「とにかく泊まって行ったほうがええですじゃ。わしの家に来なされ。あったかい狸汁をご馳走しますじゃ」
た……、狸汁。
その言葉に釣られ、わたしは何度もうんうんとうなずいていた。