長兄 笛吹丸兄様とホリイ・ベル
「どうぞ」
わたしが言うと襖が開き、威厳のあるお姿の笛兄が入ってらっしゃった。肩に小さな女の子を乗せている。
「就寝するところ、すまんな」
そう言って優しくお笑いになる。
「こんばんは」
肩の上の小さな女の子も、羽根を揺らして笑った。
「笛兄」
兄様のお胸に、わたしは飛びついた。
誰も見ていない。障子紙を透かして月が見ているだけだ。今は昔のように、甘えっ子の妹と大好きなお兄様に戻ろう。
「こらっ、オト。もう子供ではないのだぞ」
笛兄はお叱りになるけど構わない。明日からはしばらく会えなくなるのだ。
兄様の肩の上の女の子がクスクスと笑った。
「ほらっ。ホリイ・ベルも笑っておるぞ」
兄様がそう言うと、ホリイ・ベルはカブトムシほどの小さな体を揺らし、か細いながらよく通る声で、わたしに言った。
「音丸さまぁ。誰も見ていないところでは笛吹丸さまにべったりね!」
「オト」
笛兄がわたしの肩を両手で掴んで遠ざけ、わたしの目を覗き込む。
「あしたからおまえは大人だ。しっかりと、自分の足で歩むのだ」
笛兄がそう言うのが寂しかった。
いつまでも可愛い妹として、大好きな兄様に面倒を見てほしいのに、でもそういうわけには行かないこともわかっていた。
「もう誰にも『へっぽこ丸』などと呼ばせたくないのだろう? 立派になって帰ってこい」
そう仰る兄様のお優しくご立派なお顔を見ていたら、ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。
わたしはもう、子供には帰れないのだ。
「はい」
嗚咽の漏れる声で、兄様の目をまっすぐ見ながら、答えた。
「立派になって戻り、天下に名の轟く雪風一族の一員となってみせます。笛兄にも認められるように……」
「その呼び方ももうやめなさい。わたしのことは『笛吹丸』と呼ぶのだ」
「はい」
思わず下を向いて答えてしまった。
「笛吹丸さま」
兄様は崩れそうになるわたしの背中を抱きしめて、しばらく子供をあやすように、ぽんぽんと叩いてくださった。そして仰った。
「旅立ちに際して、俺の『魔法』をおまえに授けてでもやりたいが、そういうわけにもいかぬ。その代わりに、これを持っていけ」
手に持ってらした刀をわたしに差し出された。
美しく黒光りする鞘に収まった、春色の青い鞘の、少し小柄な一振りだった。
「これは?」
「我が雪風一族に伝わる名刀──その名も『春才天児』じゃ」
「しゅんさいてんこ……」
「ウム。この刀の何よりの才はの、持つ者と仲良くなればなるほど、その斬れ味を天才的なまでに発揮するのじゃ」
「刀と……仲良くなるのですか?」
「信頼関係を築くのじゃ。おまえには得意そうに思う。ゆえに、この刀はおまえが使うに相応しいと思ったのだ」
「笛兄……笛吹丸さまがそう言うのなら、間違いないのでしょうね」
わたしは嬉しくなった。
刀をじっと見つめていると、なんだか命のないそれが可愛く思えてくる。黒光りしてるのに、なんだかもふもふの動物のように見えてきた。
「雪風家の家宝ともいうべきものだから、大切に使え」
「家宝? それほどのものなのですか?」
「ああ。師匠のそのまた師匠の天璋院様が使っておられたものだ。それ以来、使い手を刀が探しておったが……」
「刀が、使い手を?」
「その刀には意思がある。使われたくない者にはけっして使われぬ」
「では……」
刀を返納しようと前へ差し出しながら、言った。
「わたしのようなへっぽこに使われたいわけがありませんよ」
「どれ。では刀に聞いてみようか?」
「ウフフ」
ホリイ・ベルが悪戯な笑い声を漏らした。
「聞いてみよう、笛吹丸さま」
兄様が片手で印を結び、西洋のことばで呪文を唱えると、わたしの両手で手掲げた刀が動きだす。
鞘から長い茶色のしっぽが伸び、鞘の中で刀がクスクスと笑い声をあげはじめた。
「ま……魔法ですね?」
「そうだが、俺の魔法で刀を動かしておるわけではない」
兄様が印を結びながら片目を開け、仰る。
「動くのはあくまで『春才天児』の意志じゃ。俺はそれを人の目にも見えるよう、魔法で手助けしているに過ぎぬ」
鞘の中から顔を出し、丸く可愛い目をした『春才天児』が、喋った。
「ぼくはあなたのことが大好きだよ。ぜひ、ぼくを使ってほしいな」
その顔を一目見た途端、わたしも彼のことが大好きになってしまった。恋に落ちたといってもいい。
「よろしくね、春才天児くん」
わたしも挨拶をした。
「わたしもあなたのこと、大好きかも」
にっこりと笑うと、彼はまた物言わぬ刀の姿に戻った。
「ありがとうございます、兄様!」
わたしは喜びに思わず兄様の首に飛びついていた。
「大切に使わせていただきますっ!」
「よ……よせ! もう子供ではないと……」
「笛吹丸さまも嬉しいくせにぃ〜」
肩の上のホリイ・ベルが冷やかした。
「音丸さま? 笛吹丸さまはね、ずっとお部屋で一人、『オトは大丈夫だろうか』『心配だ、心配だ』って、音丸さまのことばかり心配してらしたんですよ?」
「ホリイ・ベルも、ありがとう」
わたしは彼女のほうを見て、にっこりと微笑んだ。
「おまえがいるから兄様は『魔法』が使える。おまえのお陰で今、『春才天児』とお話ができたんだよね」
ホリイ・ベルは得意げにパタパタと蜉蝣のような緑色の羽根を動かすと、飛び上がった。
そのまま部屋を一周して飛ぶと、兄様の肩に戻る。
「とにかくオトよ、立派になって帰ってこい」
兄様がわたしの頭をその手で撫でた。
「ずっと俺は見守っている。助けに行くこともあるかもしれぬが、可能な限り自力でやりきれ」
「ふふっ……」
その手のたくましさと温かさをつむじに感じながら、わたしは突っ込んだ。
「そんなことを仰いながら、兄様こそわたしを子供扱いしていますよね?」
「あっ……」
慌ててわたしの頭から手を離した兄様のお胸に、また飛び込んだ。
今度は兄様もわたしを愛しそうに抱きしめてくれた。
静かな夜に、障子のむこうの月の中に、幼い頃の想い出が、また次々と流れていった。