桜、サクラ
どしん、ずしんと、きわみちゃんの木刀が立てる轟音は一度も山に響かなかった。
その代わりにバシュッ! バリリリ! と、夏次郎くんがきわみちゃんを全裸に剥く音が何度も響いた。
どこに持っていたのだろう、剥かれるたびに、きわみちゃんは新しい稽古着を纏って立ち上がった。
お城の見張り番を二人剥いただけで疲れていた夏次郎くんは、剥き慣れてしまったのだろうか、きわみちゃんのことは何度剥いても疲れることなく、それどころか剥くたびに元気になっているように見える。楽しそうだ。
やがてもう、これを剥かれたら着替えがないというところまで来たのか、きわみちゃんはガックリと膝をつくと、松の木に寄りかかって座り込んでしまった。
「だめだ……。何度やっても地面のバツ印ではなく、夏次郎くんを攻撃してしまいます」
そう言って膝に顔を埋める彼女を、わたしは慰めようとした。
「頑張ったよ! うん、頑張った! きわみちゃんは頑張った!」
慰めたつもりがちっとも効いていないようなので、わたしはオロオロし、キョロキョロした。
春の日はまだ長くはない。日はもう暮れかかっていて、あたりは橙色と黒に染められている。
その景色の中にひとつだけ、違う色を放っているものがあるのに気づき、わたしはきわみちゃんに知らせた。
「あ! 桜が咲いてたんだね」
きわみちゃんがようやく顔を上げ、わたしが「ほら」と指さしたほうを見る。
わたしたちがいる山の中腹から、街を見下ろす斜面のその途中に、かわいい桜色の花のかたまりがあった。夕日の色にはけっして染まらず、ぼうっとまるでそこだけ柔らかく光っているようだ。
「あ……。本当だ」
きわみちゃんが笑ってくれた。
「唯一無二の美しさがありますね」
「きれいだなあ……」と、いきなり男の人の声がしたので、わたしもきわみちゃんも飛び上がってしまうところだった。
見ると夕暮れの影に紛れて又利郎さんがそこにいた。歯ぐきまでぜんぶ見える笑顔を浮かべて桜の木を見つめている。
「い……、いつからそこにいたんですか!」
わたしは思わずきわみちゃんを背中に守りながら、言った。もしかしたら剥かれまくってる彼女を覗き見て興奮とかしていたかもしれない。
「ら……、蘭姉が来たよ。天姉と和歌ちゃんも一緒だ」
おお……、そうだった!
華夢家の長姉、蘭様のご到着をわたしたちは待っていたのだった。
っていうか天花さんと和歌ちゃんも来たのか。これで華夢家が駿府に勢揃いだ。
蘭様にお会いするのは確か二年振り。これが二度目になるはずだ。
前は京都の華夢の家に笛兄と二人でお伺いした時にお会いした。
その時は、わたしは挨拶をしたぐらいで、兄様とばかり喋っておいでだった。扇子でお顔を隠されていたのでよくはわからなかったが、相当の美人のように思えた。
気難しいと聞くが、わたしにはまだ実感がない。どんな人なんだろう。仲良くなれるかな?
「さ……、先に行ってる」
そう言うと又利郎さんの気配が影に紛れてなくなった。
「行こっか」
「はい!」
きわみちゃんはもう立ち直っているみたいで、さっきまで項垂れていたのが嘘のように胸を張っている。
ただ、声が元気になったわりには表情は浮かない感じだった。蘭様とあまりお会いしたくないのだろうかと思えた。
「夏くんも行くよ、ほら」
わたしがそう言って『おいでおいで』すると、夏次郎くんがタタッ!と駆けてきて、わたしの肩の上に乗った。そのまま首に巻きついて、襟巻きに化ける。
「あ」
ふと思い至って、きわみちゃんに聞いた。
「夏くん、隠しといたほうがいいかな? 蘭様、退治しようとしたりは……」
「大丈夫ですよ」
力強く言ってくれた。
「蘭様は動物が大好きです。特にお耳が大好きなんです。だから妖怪とはいえ、夏くんのことは可愛がってくれるに違いありません」
「そっか。安心した。蘭様だって女の子だもんね。女の子はかわいいものが大好きだもんね」
二人で並んで山を下りながら、斜面に一本だけ咲いた桜の木を遠くに愛でた。かわいいその色が、夕日に照らされてもっとかわいくなっていた。
ふと思い出して、きわみちゃんに聞いた。
「そういえばきわみちゃんは、又利郎さんの素顔って見たことあるの?」
「もちろんですよ!」
きわみちゃんが嬉しそうに笑った。
「音丸さんもさっき、お部屋で見ましたよね? かわいかったでしょう?」
「うん。びっくりして凍りつくほどに、かわいかった」
「でしょう? 猫みたいですよね!」
きわみちゃんはそう言ったけど、わたしにはどっちかというとフクロウみたいに見えた。黒目が真ん丸のフクロウだ。そのつぶらな瞳が少年みたいにキラキラしていて、あれを見てまた又利郎さんに対する印象が大きく変わってしまった。
「あんなかわいい顔をしてるのに……なんでいっつも前髪で隠してるの?」
「蘭様の言いつけなんです」
きわみちゃんはなぜか少し言いにくそうに、声の調子を落とした。
「『私の前でその顔を見せるな』と仰って……」
お城に帰ると、中庭みたいなところに人が集まっていた。
気づかなかったが、お城の中にも桜の木があって、咲きはじめたばかりの花びらがそよ風に舞って紙吹雪のようだった。
天花さんと和歌ちゃんがいた。小田原で別れてからそんなに経ってないけど、場所が変わると随分久しぶりなように思えた。
天花さんが老中さんと、にこやかにお話をしている。その向こうに、絢爛豪華な桃色の御駕籠がどーん!と置いてある。
「あーっ! ぽこだ!」
和歌ちゃんがわたしを見つけ、指さした。
そして御駕籠のほうを振り返ると、その中に向かって、言った。
「蘭姉! ぽこが来たよ」
御駕籠の簾が少し上がり、中から切れ長の目が覗き、わたしを見た。




