末弟 伊織兄様がわたしを羨んでらした
「いいかい……? ぽこ」
襖の隙間から覗きながら、伊織兄様がそう仰る。
凄い。薄闇の中に、紫色の艶やかな花が揺れているようだ。
「ど……、どうぞ」
わたしが言うと、伊織兄様は静かに襖を開け、静かに閉め、わたしの前に正座をなさった。
長い黒髪が月明かりに濡れて、とても綺麗だ。
伊織兄様は女のわたしよりも女らしくて、そのお美しさに嫉妬してしまいそうになる。
兄様が座ったきり何も仰らないので、わたしのほうから尋ねた。
「伊織兄様も、わたしに何かを教授してくださりにいらっしゃったのですか?」
すると伊織兄様はフッと笑い、その薄い唇を開いて、仰った。
「おまえはかわいいね、ぽこ」
いやいや!
わたしよりもかわくてお美しい方に、そんなことを言われるのは恐縮してしまう。
伊織兄様が何を仰りたいのかもさっぱりわからず、わたしが無言でその月明かりに濡れた白いお顔を見つめていると、頬に兄様の手が触れてきた。
「おまえはいいなあ……」
「な、何がですか?」
「……本物の、女の子で」
「え……えっ?」
「わたしはね、女に産まれたかったのだよ」
初めて聞いたけれど、意外な気持ちはしなかった。
伊織兄様は、お着物も落ち着いた色合いのものがお好きで、お洒落でらっしゃる。
背中まで伸ばした髪はいつもサラサラで、物腰柔らかく、切れ長の目には色気がおありになる。
剣をふるうさまも艶やかで、まるで舞を踊るようにお綺麗だ。
それでいて、わたしは伊織兄様に憧れてはいない。
嘘つきなのだ。
「おまえのように、かわいい女の子に、わたしは産まれたかった」
そう仰いながら、心の中では何を考えてらっしゃるか、知れたものではない。
用心のため、わたしは兄様のお話を遮った。
「伊織兄様。ぽこは明日からの旅が不安です。どうか、伊織兄様もわたしに何か、あやかしに勝つための秘策をお教え願えませんでしょうか」
「フフフ……」
艶めかしく笑うと、伊織兄様は仰った。
「成長したね、ぽこ」
意味がわからず首を傾げていると、その理由を教えてくださる。
「以前のおまえなら、わたしに褒められたら褒められるままになっていた。よく途中で止めたね」
「止めなければどうなっていたのですか?」
「いつものように、わたしの『褒め殺し』にかかっていたところだ」
なるほど……と合点がいった。
伊織兄様が他人を褒める時は、いつもオチを用意している。褒めて、褒めて、最後に落とすのだ。
どう落とされていたかはわからないが、今のもわたしが『伊織兄様のほうがわたしよりお美しくて女らしいです』とでも言っていたら、『ぽこがわたしをオカマ呼ばわりした』とでも言いふらしたのだろう。
「ぽこ……。おまえは真っ直ぐしか歩けない犬だ」
なんか急にひどいこと言い出した!
「悪いあやかしに騙されて、地面に掘られた穴に落ちて泣くような、馬鹿正直な犬だ」
「な……、何が仰りたいのですか?」
「わたしの教えられる秘策は、相手を騙すこと」
「騙す……?」
「知っているだろう? わたしの剣は、わざと隙を見せ、おまえに『勝った』と思わせておいて、おまえの攻撃を誘い、逆に隙を作らせる」
「あっ!」
仰ることの意味がわかった。
伊織兄様と剣の試合をすると、いつも勝てそうなところまでは行くのだ。でも、勝てなかった。
あれはわざとだったのだ。わたしが『伊織兄様になら勝てそう』と思っていたのは、騙されていたのだ。そう思わされていたのだ。
ほんとうは兄様とわたしの力の間には、天と地ほどの差があるのだろう。おまけに兄様はわたしと違って法力もお使いになれる。
なんだか悔しくなった。今まで騙されていたことが。
おまけに明日からの旅のことも不安になってしまった。
「でもね……、ぽこ」
兄様の声音が優しくなった。
「ほんとうに負けそうになることもあったのだよ、何度もね」
「だ……、騙してらっしゃるのですか? それも」
「そんな涙目で悔しそうな顔をするな」
くすっとお笑いになる。
「ほんとうだ。おまえは強くなった。明日からの旅も自信を胸にお行きなさい」
「本気にしてもよろしいですか?」
「もちろんさ」
距離をとったまま、わたしの頭を撫でるように仰った。
「おまえは強い。心配ないよ。ただ……」
「ただ?」
「正直すぎる。人を騙すことも覚えたほうがいいよ。騙す者は騙されにくくもあるものだからね。そこだけが心配だ」
「わたしは……わたしですから」
「そうだね」
またくすっとお笑いになる。
「とりあえず甘い嘘を感じた時にはわたしの顔を思い出しなさい。うっかりあやかしや他人の言葉にひっかからないようにね」
「は……はい」
「さっきのおまえの用心は見事だった。よくわたしの褒め殺しを遮ったものだ。安心したよ。それじゃ、おやすみ」
そう言って伊織兄様は部屋を出て行かれた。
遮っていなかったらどうなっていたのか、結局わからなかった。
伊織兄様が出てお行きになるとすぐ、また襖の向こうで声が聞こえた。
「入ってもいいかい? オト」
わたしの名を唯一『音丸』と呼んでくださるのは、わたしの敬愛する長兄、笛吹丸様だ。