華夢又利郎さん
又利郎さんは近づいてくると、わたしの間合いに入る寸前で急に右を向き、逃げるように歩き出した。
「兄様っ!」
きわみちゃんが駆け寄って、その細長い腕にしがみつく。
「少し遅かったですねっ! あやかしは私が退治しておきましたよっ!」
正確にはあやかしじゃなくて宇宙人で、退治したのではなく逃げられたのだが……まあ、いいか。
「きわみたん……」
又利郎さんが声を出した。甲高く、おぞましい声だった。
「裸……、かわいいね」
そう言われて、全裸に泥を塗りたくっているだけの自分の姿に改めて気づき、
「きゃっ!」
きわみちゃんがそう叫んで、腕を十字にしてうずくまった。
それにはまったく興味がないような態度で又利郎さんは、長い前髪の奥の目を怖くして、あさっての方向をぐるんと向いた。この、何を考えているのかさっぱりわからないところが気持ち悪いのだ。
「ふ、富士山麓へ……。呼んでる」
又利郎さんがそう言い出した。
「呼んでるんだ。……行こう」
わたしは一応、聞いてみた。
「な……、何が呼んでるんですか?」
すると又利郎さんは何も答えずに、きわみちゃんのほうを勢いよく振り返る。全裸でうずくまっている妹に震える手を伸ばし、襲いかかろうとしているように見えた。
急いで駆け寄ると、わたしは彼女を抱いて守った。キッと睨みつけると、又利郎さんは枯れ木のように立ち尽くして、なんだかワナワナと震えている。
ほんとうに、このひとを人間だと思いたくない。
物凄い邪気を感じる。っていうか邪気しか感じない。
腰に携えた、座布団ぐらいの大きさの黒い手裏剣が、いつもギラギラと殺気を放っている。薄青色の着物を身につけてはいるが、なぜ、いつも上半身が裸なのだろう。ガリガリの胸に浮き出た骨すらも気持ち悪い。
何よりべとついた長髪の、前髪で隠れた目が、いつも一方的にこちらをじっと見ていて、こちらからは彼の顔が見えないのがなんだか陰湿で、腹が立つほどだ。
「今、かわいい妹に、何をするつもりだったんですか?」
わたしが嫌悪剥き出しでそう言うと、
「あう……。声、かわいいね」
物凄く気持ち悪い台詞が返ってきた。
わたしがゾゾッと震え上がると、それを感じてか、襟巻きがぴくんと顔を上げた。
夏次郎くんが又利郎さんをじっと見ている。
相手もそれに気づいて、驚いたように声をあげた。
「か、かまいたち!」
夏次郎くんも声を出した。
「く……、くくっ!」
なんだか嬉しそうな声だった。
夏次郎くんが、飛んだ。わたしの肩の上から。
又利郎さんの胸に飛び込んだ。
又利郎さんも腕を前に伸ばし、それを迎えた。
「かまいたち、かまいたち!」
「くくっ! きゅっきゅっ!」
なんだか仲良くなったようだ。
肌を触れ合い、互いの体をペロペロ舐め合っている。
「はははっ! かまいたち!」
「きゅきゅきゅっ! くっ、くっ!」
なんだこれ。
呆然としながらふたりの戯れを見ていると、きわみちゃんが説明してくれた。
「兄様は動物に好かれるんですよ」
意外だった。
動物は、気持ち悪いものが好きなんだろうか。
「動物に好かれる人に、悪い人はいないでしょう? 見た目で他人を決めつけないでください」
きわみちゃんにそう言われたけど、認識を改める気にはなれなかった。
気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。
生理的に無理なのだ。仕方がないではないか。
何より又利郎さんのあの技が、何度見ても直視できないほどに気持ち悪い。できればこの先、一生、わたしの前では見せないでほしい。
「兄様。夏次郎くんと友達だね!」
きわみちゃんが、その青白い枯れ枝みたいな腕に寄りかかって、大好きらしい兄上に話しかけている。わたしから見たらかわいい女の子が幽霊に騙されて連れ去られようとしているようにしか見えない。
「ところでさっき、富士山麓とか仰ってましたが、そこに何かあるのですか?」
きわみちゃんがかわいくそう聞くと、
「あ、青木ヶ原……樹海ィ〜」
又利郎さんが、呪文のことばのように、そう言った。
わたしでも知っている。青木ヶ原樹海といえば、自殺に行く人間が多く、つまりは幽霊の出るところだ。妖怪の出るところではない。
「樹海に……何が?」
きわみちゃんが聞くと、
「ゆ……UFO」
又利郎さんが聞いたこともない単語を口にした。
なんだ、ゆーふぉーって。
何語だ、それ?
「とりあえず……行く?」
又利郎さんが小首を傾げてそう言った。
夏次郎くんが『ウンウン』みたいにうなずいた。
不覚にもその取り合わせが、かわいかった。
次の目的地が決まったらしい。とはいえ、もうすっかり夜だ。月が芦ノ湖に静かに白い光を浮かべている。
「とりあえず今夜は宿場町に帰って、美味しいもの食べて、温泉に入って、寝よう」
わたしがそう提案すると、きわみちゃんもぴょんぴょん跳ねて同意した。
又利郎さんは一人で歩き出した。
「先……行ってる」
そう、言い残して。
そういえば単独行動が好きなひとだった。いっつも一人でいるのだ。
山菜そば食べたいな。お宿にあるかな。
それどころか早くお宿の戸を叩かないと、閉まってしまう。それに早くきわみちゃんに服を着せてあげないと。
「お宿に行くよっ! きわみちゃん」
「はいっ! 音丸さん」
二人で急いで駆け出した。




