女の正体
すっかり暗くなった中、毒竜の使いが湖の中から姿を現した。
顔はよく見えないが、明らかに人間ではない雰囲気の女だった。
息を殺しながら、刀を少し抜いてみる。
よし、抜ける。頼むぞ、春才天児くん!
水の滴る音を立てながら、泥を踏んで女が近づいてくる。
その気配に呼応して、きわみちゃんが、暴走した。
「妖魔撲滅!」
木刀を振り上げ、月を背に、高く跳び上がった。
女がびくっとして立ち止まる。
やばい! やばいよ、きわみちゃん!
「ひいぃっ!」
女が情けない悲鳴をあげた。
どっすうーん!!
泥が爆発のように飛び散り、地震が起こった。
暴走したきわみちゃんの力は酒呑童子並みなのだ。木刀で大地でも割ってしまいそう。
あれ……? でも、きわみちゃんが暴走するってことは……
このひと、妖怪なのか?
とりあえず毒竜の使いさんは、確かに人間とは思えない素速さで飛び退き、きわみちゃんの攻撃をかわしていた。
「あーあー……。台無しだな。近づいて来たところを取り囲む予定だったろーが」
危能丸兄様が呆れた声を、呑気にこぼした。
「おい、ぽこ。このままじゃ、きわみに初手柄取られちまうぞ? 行け」
しまった。思わずわたしも呆気に取られてしまっていた。
きわみちゃんの第二波が来る前に、わたしは前へ走り出した。
戦いの中へ参入する前に、お供えのもちもちしたものが目に入ってしまった。
ちょっとだけ……ちょっとだけ。
掛紙をぺろっとめくり、ずっと気になっていた三色団子を手に持った。
「あやかし、死すべき!」
鬼みたいな人相に変わったきわみちゃんが、木刀をまた振り上げた。
「……あっ?」
そんな声をあげて、毒竜の使いさんがわたしのほうを振り返った。
初めて顔がはっきり見えた。きれいなひとだった。ちょっと病気っぽいともいえるほどに色白だけど。
あぶないよ、こっちに気を取られてたら、きわみちゃんの木刀を喰らっちゃうよ。喰らったら間違いなくひき肉にされちゃうよ。
にゅるーんっ
毒竜の使いさんの前髪が、めっちゃ長く伸びて、わたしのほうへ向かってきた!
がしっ! と、三色団子を持ったわたしの手首を掴む。
思わず情けない悲鳴をあげて、三色団子を離してしまった。
「あなたっ! 食べ物を粗末にしては駄目でしょう!」
いつの間にか毒竜の使いさんが、わたしの目の前に立っていた。血走った大きな目で、叱るように、わたしを睨みつけている。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
誰だって泣いて謝ると思う。
こんなきれいな女のひとに、物凄い形相で、叱られたら。
きれいな顔の女のひとが怒るととても怖い顔になるのだと知った。
「大体、これをひとつでも誰かに盗まれたら、毒竜さまがお怒りになって、わたくしは、ひどい罰を受けるのよっ!?」
ガミガミとわたしに説教する毒竜の使いさんの後ろから、月を背にして、きわみちゃんが飛んできた。振り上げた木刀を、振り下ろす。わたしごと粉砕するつもりだ。
「はわあああーっ!」
わたしと毒竜の使いさんが揃って目をかっ開き、覚悟のできていない声をあげる。
「止まれ」
危能丸兄様の声が響いた。
きわみちゃんが空中で、止まった。時が止まったかのように。
「念のため、きわみに札を貼っておいてよかったぜ」
兄様はゆっくり歩いてくると、毒竜の使いさんの手首をひねるように掴んだ。
「おい、おまえ。話を聞かせてもらおうか」
祠の裏に三人座って、お話をした。
わたしと、兄様と、毒竜の使いさんの三人だ。きわみちゃんはずっと固まったまま、兄様の『言霊』に「止まれ」と命じられたまま、空中に浮いていた。
毒竜の使いさんは悪いひとではなさそうだった。
彼女が涙を流しながら語ったことによると──
「わたくしは妖怪『二口女』でございます。下総国でごはんをたくさん食べながら、わたくしを見て人間が口から出してくれる魂げっ気もたくさん食べながら、平和に暮らしておりました」
やっぱり妖怪だった。
二口女さんといえば有名な妖怪だ。わたしのごときへっぽこ退魔師でも知っている。頭の後ろに口があって、そこからも物を食べるというだけのへっぽこ妖怪だ。
見ると後頭部に大きな口があって、だらしなくギザギザの牙を丸見えにさせてる。
夏次郎くんは穴を見ると入りたがる性質のようで、興味津々に入って行こうとするのを何べんも止めさせた。
「二口女か……。ただ大飯を食らうだけの、害のない妖怪だな」
兄様が言う。
「オレは退魔師だが、一族の中で一番妖怪に対して『滅するべきもの』みたいなこだわりがねェ。出会ったのがこのオレでよかったな」
兄様は煙管を取り出すと、『火』と書かれたお札で小さな火を起こし、丸めた葉っぱにそれを点けられた。まだ十八だから煙草はダメなんだけどな? まぁ、EDOの世は結構ユルいのだ。
口から煙を吐き出されると、兄様が毒竜の使いさんに聞いた。
「……で、なぜ泣く? 毒竜の使いだというのは本当なんだろう? 最近、赤飯だけにとどまらず、大量のもちもちしたものを毒竜が要求するようになったというのは確かなようだが、それぐらいなら悪行のうちには入らん。見逃してやってもいいのだが……、それだけではない、何かがあるな?」
「わたくしは……毒竜の使いなどではありません……。元々はただの、二口女なのですから」
「その二口女がなぜ、こんなことをやっている?」
「わたくしは……、無理やり……こんなことをさせられているのです」
その時、湖が揺れた。
何か巨大なものが、湖の中から出てくる気配がする。
「あっ!」
毒竜の使いさんが声をあげ、その白すぎる顔が蒼くなった。
「お許しを……! 毒竜さま!」
ざぼざぼざぼ……と水を揺らす音を立てたかと思うと、ざっばーん! とそれが姿を現した。空中で止まったままのきわみちゃんを水飛沫が襲う。
水飛沫に圧されて落ちてきたきわみちゃんを抱いて受け止めると、危能丸兄様がはっきりと言った。
「コイツはぽこときわみには無理だな。オレに任せろ」
湖の中から姿を現した毒竜は、あまりに巨大で、しかも日本のものとも中国のものとも全然違う、異質な紫色の輝きを身に纏っていた。




