今生之助兄さんは最強剣士だけど脳筋
布団に入ると、この屋敷で兄様たちやお師匠様と共に過ごした日々が、障子の向こうにある藍色の雲の、その向こうのお月様の中に、次々と思い出された。
我々は元は孤児。皆、お師匠様に引き取られ、血の繋がりはないが兄弟として育てられた。
十五になるまで毎日が修行の日々だった。
人ではなく、あやかしを斬るために、さまざな修行を乗り越えてきた。
兄様たちはお師匠様に認められ、特に長兄笛吹丸様は『もうこれ以上教えることなし』の太鼓判を押され、この屋敷の主を任された。
お師匠様は笛兄にわたしたちの教育をすべて任され、屋敷を出て行かれた。笛兄は若くしてお師匠様を超えられたのだ。
笛兄だけではない、危能丸兄様も、今生之助兄さんも、伊織兄様も、天才のお墨付きをお師匠様からいただいている。
今、雪風一族の四兄弟は、日本全国にその名を轟かせる有名人だ。
しかし、そこにわたしの名はない。
わたしはへっぽこだから。雪風一族の出来損ないだから。女の子だから?
いや、違う!
これからそこに、わたしも名を連ねるのだ!
雪風音丸と──
「ぽこ!」
襖が豪快に開き、三兄今生之助兄さんが入って来るなり飛びかかって来た。
素足を顔面にめり込ませて止めると、いつものように三発ほど蹴ってから、用件を聞いた。
「もう就寝するところだったんですが、何の御用です?」
すると兄さんは顔をあげ、涙を迸らせて言った。
「おまえが心配なんだ! 俺はおまえを大切に思っている! おまえが鎌鼬に全裸に剥かれるのを妄想すると、興奮して眠れんのだ!」
「そんなもの妄想しないでください」
白い目で見てあげた。
「御存知でしょう? わたしは法力の類いは一切使えないへっぽこですが、剣の腕前はそこそこです」
「そこそこだから心配なんじゃないか!」
「ぐっ……!」
何も言い返せなかった。
「……でも、心配してくださるのは有り難いですが、心配したってどうにもならないでしょう?」
「おまえが旅立つ前に、剣の極意を教えておいてやる」
「それは……助かります」
今生之助兄さんは、はっきり言ってうざい。すぐに抱きつこうとしてくるし、言うこともバカなので、今までに何千回、足で蹴って差し上げたことか……。
でも、嫌いではない。むしろ好きだ。気安く絡めるので一緒にいて居心地はいい。
何より剣の腕前は雪風一族の筆頭だ。兄さんとしてはバカにしているが、剣士としては尊敬している。
「──して、剣の極意とは」
わたしは正座して、それを伺った。
「どのようなものでございますか」
「ウム。今までおまえには教えてなかったが……」
兄さんも崩していた膝を正し、真剣な表情になる。
「……一言で言うぞ?」
「一言で……」
その一言を胸にとどめよう、と思った。
「ハイ!」
きっと兄さんは、いくら言葉を尽くそうとも自分自身の経験として理解しなければ真に理解したことにはならないと、そう仰りたいのだ。
きっと、明日からの旅で、その一言は役に立つ。わたしは出来の悪い頭にその一言を刻みつけようと、生唾を飲み込み、兄さんの言葉を待った。
兄さんが、口を開いた。
「サッ! と動いて、バッ! と飛び、ガッ! と斬る。……これじゃ!」
わたしは兄さんの『一言』を待った。
しかし兄さんはそれを言うと、ドヤ顔をしてわたしを見つめ、スッキリしたように笑ったので、どうやらさっきのが剣の極意を表す『一言』のようだった。
わたしは繰り返した。
「サッ! バッ! ガッ! ……で、ございますか」
兄さんは嬉しそうに頷いた。
「そう! 『サバガ』と覚えておけ」
兄さんは剣の天才だ。そうか、天才は他人に物を教えるのがド下手糞だという。期待してはいけなかったのだ。
なんか時間の無駄だった。睡眠時間を損してしまった。
「ありがとうございました。では、お休みなさい」
「危機の際には思い出すんだぞ? サバガ」
「はい。お休みなさい」
「そして寂しい時には俺の顔を思い出せ」
「はい」
「俺も毎晩おまえの姿を思い出しながら寂しさを慰めるようにする」
「それは御免蒙ります」
「ぽこよ」
「はい」
「俺はおまえがかわいい」
「ありがとうございます」
「おまえは犬に似ているな」
「よく言われますね」
何の動物に似ているかと言われれば、わたしはいつも犬に似ていると言われる。ハキハキとした動きと顔つきが柴犬っぽいのだそうだ。
「ほら」
兄さんが両手を前に出した。
「犬のようにじゃれついて来い」
無邪気な兄さんの笑顔が、子供の頃の兄さんに見えた。
二つ年上の今生之助兄さんは、昔は一番の遊び相手だった。懐かしくなって、つい顔が綻び、兄さんの胸に、ちょーん! と飛びついてしまった。しばらくお会いできないのだから構わないか、甘えちゃえ! という気分でもあった。
兄さんは、わたしの身体を強く抱きしめると、さらに強く、ぎゅっとした。
「うっ……!」
声が漏れた。
「く……、苦しいです、兄さん!」
「これが『サバ折り』だ」
「さ……サバ折り?」
「そうだ。おまえはかわいいから、きっと助平な妖怪はおまえに抱きついて来るだろう。そういう時は、この技だ。覚えておけよ?」
「は、はい」
畳をばしばし叩きながら、お願いした。
「わかりましたので離してもらえませんか」
今生之助兄さんは、わたしをようやく離してくれると、顔を覗き込み、満足そうに、言った。
「ぽよんぽよんだった。ありがとう」
そしてスッキリしたように部屋を出て行った。
なんかよくわからなかった。兄さんが何をしたくてわたしの寝室に訪れたのか。
とりあえずサバ折りとやらは今生之助兄さんの怪力あってこそ使える技だった。わたしにはとても使いこなせそうにない。
息が止まっていたので、わたしがゼーゼーハーハー言っていると、襖が勝手に開き、今度は次兄の危能丸兄様が入って来た。
「邪魔するぜ」
後ろ手で襖をお閉めになると、その鋭い目つきで、わたしを睨みつけた。
「てめぇ……今生之助と何をしてやがった?」
「きょっ……、兄妹どうしの戯れですよ」
「まぁ……、いい」
危能丸兄様は畳の上に胡座をかくと、仰った。
「旅に出る前に、てめぇに教えておいてやることがある」