海の上に出る妖怪
小さな船はわたしと和歌ちゃんを乗せ、沖へと漕ぎ出した。
波は穏やか、春のお日様もぽっかぽかだ。
気持ちいいけど眠くなってる場合じゃない。これから海の上に出るという妖怪を退治しに行くのだ。わたしにとって初めての功績を上げるのだ!
「それにしても……見ただけで嫌な気持ちにさせられる妖怪って、どんなのだろう」
わたしが呟くと、和歌ちゃんがそれに答えた。
「うん。うちの又利郎兄様よりも、見て嫌な気持ちになるものがあるんだろうか」
又利郎さん、妹から散々な言われようだ。
でも同意ではあったので、何も擁護するようなことは言えなかった。
「又利郎さんを知っているわたしたちなら、その妖怪を見ても平気かもしれないですね」
「うん! きっと又利郎兄様よりは気持ち悪くないはずだよ!」
「船乗り仲間の話だと……」
颯爽と櫂を漕ぎながら、ふんどし姿のキリッとしたお兄さんが言った。
「このへんからもう、出るはずだ」
船を漕ぐのをやめると、ギィギィという櫂の音が消え、あたりは静かになった。
春の陽が静かな波に浮かび、あかるい風景なのに、どこか不気味だ。
「おっ?」
お兄さんが何かを見つけた。
「サメがいやがった」
見ると三角の背びれが海の上をすべるようにこちらへやって来る。
「ちと戦って来るわ」
銛を掲げ、お兄さんが海へ飛び込んだ。
「すぐ戻る」
ばっしゃーん!
さすが海の男だ。迷いがない。勇ましい。
わたしと和歌ちゃんはサメの接近にびびって抱きしめ合っていた。
いやいや! しっかりしないと! サメごときにびびっているようでは、あやかしが出たら身動きも出来ないではないか! しっかりしろ、わたしたち!
自分を安心させるように腰の名刀『春才天児』を軽く抜いてみる。するりと抜ける。大丈夫だ、何かあればこの素晴らしい刀がわたしたちを守ってくれる。
お兄さんが海に飛び込んでいなくなったからか、襟巻きに化けていた夏次郎くんがイタチの姿に戻り、軽い足音を立てて船床に降りた。そうだ、夏次郎くんもいてくれる! だ、大丈夫だ!
「へんな風が出てきたよ」
和歌ちゃんがわたしにしがみつきながら、言った。
「嫌な予感がするな……」
夏次郎くんも何かを感じ取ったようだ。初めて見るような勇ましい表情で、キッ! と左を向いた。何か出るのだろうか。怖い。
船の縁を、海の中から出た手が、掴んでいた。
お兄さんの手ではない。お兄さんの手であるわけがない。お兄さんの手は、こんなにネトネトした、紫色はしていない。
「ギャンッ!」
夏次郎くんが、初めて聞く怯えたような大声をあげた。
ぬうっと船の縁からせり上がって来たそいつの顔を見て、夏次郎くんは明らかに嫌な気持ちになったようだ。威嚇するように口を開けて後ずさり、いやいやをするように首を振り、風になると、あっという間に空の上へ逃げて行った。
「な……、夏次郎くんっ!?」
わたしは一気に心細くなったが、自分を奮い立たせた。
「な……、何やつっ!?」
腰の『春才天児』の柄に手をかける。ぬ……抜けない! まただ!
和歌ちゃんが悲鳴を上げてわたしの背中にしがみつく。
海の中から現れたその気持ちの悪いものは、ぬうるりと、ゆっくりと、顔を現した。
「ぬひひひひ……」
全身が紫色の、ぬっちゃりとした粘膜のような皮膚をした、人間だった。
「ぷぬひひひ、ひゃははは!」
船にべっちゃりと音を立てて、乗り込んで来た。百歳を越える老人のような輪郭で、口から濃い紫色の液体を垂らしながら、わたしたちを見て愉快そうに笑っている。
わたしも、和歌ちゃんも、そいつを見て、感想を口にした。
「なんだ……。やっぱり大したことないや」
「うん。又利郎兄様のほうがよっぽど気持ち悪いよね、これなら」
「ぷひっ!?」
わたしたちの反応が意外だったようで、そいつが言葉を発した。
「このわたひを見て、嫌な気持ちにならにゃいと言うのきゃっ!?」
「うん、大丈夫」
「もっともっと気持ちの悪いものを知ってるから」
でもとりあえず退治はしようと、腰の刀を抜こうとするが、やっぱり抜けてくれない。なんでなの、春才天児くん!?
「あっぴゃー!」
紫色のネトネトしたそいつが声を上げる。悲しがっているのか、喜んでるのか、表情がないのでさっぱりわからない。
「このわたひを見て、気持ち悪がらない人間がいるなんて! なんて!」
「いや、気持ち悪いのは悪いんだけどね。慣れてるっていうか……」
「ところであんた、何なの? なんて妖怪?」
「わたひの名前はシオカラ」
そいつは名乗った。
「アメフラシ型宇宙人のウミウシ星人にゃ。人間が気持ち悪がったり驚いた時に口から出す『魂げっ気』を食べて生きているのにゃ」
また『うちゅうじん』だった!