小田原の戦い
「サバガ!」
稽古の時とまったく違う動きだった。
サッと動いてバッと飛び、ガッと斬るのかと思っていたら、すべてが一瞬だった。
今生之助兄さんが動いたとわたしが認識した時には、もうその身体はわたしの頭上を飛び越え、その剣は振り下ろされていた。
これが雪風一族剣術筆頭、雪風今生之助の本気──
頭はバカだが、その動物的、本能的な強さは、本物だった。
「夏次郎くん!」
悲鳴を上げるようにその名を叫びながら、わたしは振り返った。
そこに夏次郎くんはいなかった。
ただ白い風が、小さく渦を巻いているだけだった。
その渦が、みるみる大きくなる──
「クッ……! 風になりおったか……。確かに風を剣で斬ることは出来んな」
すぐさま防御の体勢に入りながら、兄さんが言う。
「しかし攻撃の時には実体化する! その時が貴様の……」
「夏次郎くん、やめて!」
わたしは叫んだ。
「今生之助兄さんを剥かないで!」
遅かった。
今生之助兄さんは、あっという間に白い風に巻きつかれると、ぐるんぐるんときりもみ回転しながら、素っ裸に剥かれた。
赤いふんどしまで、一瞬でバラバラに斬り裂かれてしまった。
「キャー!」
天花さんが興奮した声を上げる。
「今生之助さまぁ〜!」
嬉しそうだ。
くるくるくると激しく横回転しながら今生之助兄さんは、大きな大浦ゴボウのように道に倒れた。夏次郎くんはすぐにわたしのところへ戻って来て、襟巻きに化けた。やっぱりこの子、物凄く強い!
わたしは和歌ちゃんの手を握ると、言った。
「に……、逃げよう!」
「えっ?」
見ると天花さんが今生之助兄さんを介抱している。
「み……、見ないで」
今生之助兄さんは涙目だ。
「ぽこも……見ないでくれ。こんな俺の恥ずかしいところ」
「キャー殿方の裸体ですわ!」
天花さんは興奮している。
「今生之助様、よい肉体!」
「天花殿……、見ないで」
「今生之助様! もっとしっかり見せて!」
「は、恥ずかしいでござる」
「助平なおねいさんは嫌いかえ?」
「え……。その……。す、好き」
見ちゃいられなかったので和歌ちゃんの手を引いて逃げ出した。あのままあの二人、結ばれてくれないかな。
海まで駆けて、振り返ると、松林から白粉を塗ったその顔を出すように、小田原城がぽこんと見えていた。
「ハアッ、ハアッ……!」
ずっと走ったので和歌ちゃんが息を切らしている。
「な……、何よ、ぽこ。あんだけ走ったのに息一つ切らしてないなんて……っ!」
「あー……。わたし、今生之助兄さんにも負けない体力バカですから」
軽くそう答え、キョロキョロすると、今まさに小舟で海へ出て行こうとしているお兄さんを見つけた。粋なふんどしをキュッと締めて銛を手に持った、いかにもデキる漁師さんといった感じのお兄さんだ。わたしは手を振り、声をかけた。
「お兄さんっ! 海へ出られるのですか?」
お兄さんは威勢のいい声で答えてくれた。
「おう。今からここいらを荒らしてるサメをコイツで突きに行くところでい」
「わたしたちも乗せて行ってはもらえませんか?」
笑われた。
「遊びに行くんじゃねえからよ。お嬢ちゃんたちはお家で魚釣りごっこでもやってなよ」
「もちろんただでとは申しません」
わたしは懐から雪風札を一枚取り出すと、お兄さんに差し出した。
「これで」
それを見た途端、お兄さんの表情が変わる。
「雪風一族なのかい……。じゃ、アレを退治してくれるのか?」
「海の上にあやかしが出る、という、そういう噂しか聞いていないのですが……」
わたしは聞いた。
「どんな妖怪なのですか?」
「俺は見たことがねぇんだ。ただ、多くの仲間が目撃してる」
お兄さんは聞いた話を教えてくれた。
「なんでもな、命を取られたやつはいねぇらしいが、とにかく見た目がとにかく気持ち悪いらしくてよ、見たら嫌な気持ちになるらしいんだ」
町で聞いた話と同じだ。もう少し詳しく聞きたかった。
しかし、お兄さんはそれ以上知らなかった。どんな見た目なのかも、目撃した人が二度と思い出したくないから詳しくは語れないらしく、具体的なことは何も聞けなかった。
「自分の目で見てみるしかなさそうだね」
わたしが言うと、和歌ちゃんもうなずいた。そして威勢よく、言った。
「うん! そのあやかし、このあたしが倒してあげよう」
「いえいえ! そのあやかしは、この旅でわたしが最初に倒す妖怪にするのですっ!」
「初めて? さっき、狸の妖怪を倒したって言ったじゃん?」
「あっ……」
嘘がばれた。
「嘘だったのね? あたしだってまだ一体も倒してないんだからっ! よ〜し、どっちが先に倒すか勝負だよっ!」
結局、和歌ちゃんに乗せられたような形で、勝負みたいなことになってしまった。
まぁ、好敵手がいると張り合いが出る。……あっ、そうだ。
わたしは襟巻きに化けている夏次郎くんに言った。
「今度は手を出しちゃだめだよっ? これはわたしの修行なんだから」
「夏くんっていうんだね、その子」
和歌ちゃんが白い襟巻きの背中をナデナデする。
「強いんだね〜、なっくん。あの今生之助様を剥いちゃうなんて」
「あ……、そうだ」
わたしはまた大事なことを思い出した。腰の『春才天児』の柄を握り、軽く抜いてみる。
ふつうに抜けた。
あの山で、変態宇宙人二人を相手にした時はなぜか抜けなかったのに……。まぁ、これで心配はなくなった。
「じゃ、お兄さん。お願いします」
わたしが言うと、漁師のお兄さんは今度はバカにすることなく、気前よく言ってくれた。
「おう! 乗んな、乗んな! あやかし退治に出航でい!」
「お兄さん! あたしもこれ、あげるっ!」
和歌ちゃんが、わたしに張り合うように『華夢札』を二枚、懐から取り出すとお兄さんに握らせた。
「うおお! お嬢ちゃんは華夢家のお人なのかい!? こりゃ、あやかしも災難だな! 天下に名の轟く雪風一族と華夢家の二大退魔師に狙われちゃ、今日が最期の日になるに違げぇねぇや!」
お兄さんはまだ知らない。
この二人が二人とも、名門退魔師一族とはいっても、まだ一度もあやかしを退治したことがないのを。