第2話 任務
今から13年前の晩秋。ヴィエトル公爵令嬢、ウィンディの2歳の誕生日が1ヶ月後に迫ってきていた頃だった。ジグ地区――サラチア王国の南西端、ダンナイト国との国境付近の町で比較的治安が悪い場所。月の無い闇夜の中、彼女はそこで産声をあげた。“夜の加護を受けしスパイ集団”ニュクスの女王の子、レイラとして。
ニュクス。この集団は、夜の女神の名のもとでスパイ活動、暗殺活動を行っている。今まで王家に牙を剥いたことはない、そして、王家周辺に危害を与えようと企てた者ばかり消してきている為、国には見て見ぬふりをされてきた。そんな秘密組織のトップに君臨するのは夫妻。そのニュクスの王、女王の間に生まれた娘は「レイラ」と名付けられ大切に育てられた。
日々は飛ぶように過ぎた。物心つくようになった時にはスパイとしての訓練を受け、スキルを磨く。そして7歳になる頃には、初任務も完璧にこなしていた。黒曜石のような黒髪に真紅の瞳。黒曜石、オブシディアンから取って「シディア」。それが彼女のコードネームだった。ニュクスの“プリンセス”でありながら、有能スパイで“美少年”。色々な任務を任されるのにも納得が行く。特に、幼馴染であるリュークとはニュクスの幼きエースとしてよく共に任務を果たした。
そして、男装ばかりさせられていたレイラをちゃんと女性として見てくれたのはリュークだけだった。無口な彼女を気味悪がることもなく優しく真剣に話してくれたのも彼だけだった。任務の邪魔になると分かっていても、リュークへの恋心が消えることはなく、募るばかりであった。
それを聞いてしまったときには、初めて枕を濡らす羽目になった。扉の向こうから聞こえてきた父親の冷たい声が耳から離れない。
「リューク、この任務に失敗すれば、現地でこれを使え」
「っこれは……」
「失敗したのにも関わらず、死という対価は払えないのか?」
リュークは押し黙ったままだった。
「せいぜい雪に美しい焦げ跡でも作るんだな」
それから、リュークがアノレミー国から帰ってくることは無かった。そして、レイラがリュークに会うことも二度と出来なくなった。
リュークが15歳、レイラが12歳になる頃。
任務に失敗した彼は、ニュクスのトップ――レイラの父親に自爆を命じられていたのだった。
数週間が経った後、レイラは父の部屋に呼ばれた。
「お呼びでしょうか、父様」
「ああ。…まず、リュークのことは本当に残念だったなァ。今回ばかりは失敗しないと思ったんだが…彼奴も取り乱すことはあったのだろう」
椅子にどかんと座り、口元を緩めてリュークの自業自得だと言うように喋る様子に気分が悪くなる。今まで父親にこんなに反発心を覚えたことなんて数える程しかないのに。
「……はい。彼にはご冥福をお祈りしています」
「はっは。此処で生まれ育ったお前にそこまで言わせるとは。リュークもいい仕事をしたもんだ」
レイラは心の中で笑った。
「っは、すまんすまん。…レイラ、次の任務だ」
父親は目の色を変える。
「中央南西部フィグの地主の2番目の弟を殺せ」
暗い部屋で、淡々と拳銃を磨いていく。頭の中で、あの時の父親の声と、先ほど聞いた声を比べる。リュークと話す時、彼は人間味の少しも感じられない冷たい声をしていた。なのに、今聞いてみればなんだか猫撫で声なのだ。実の娘には優しくしたがる父親の性なのだろうか、と納得したが、それと同時に寒気と罪悪感、無力感がレイラを襲った。
◯
エバーグリーンのドレスに身を包んだ彼女は、そのパーティーへと足を踏み入れた。久々に女性として参加したせいか、なんだか足がそわそわする。しかし、ここで失敗する訳には行かない。ここはのちに殺人の舞台となり得る場所なのだ。まずレイラは、フィグ領の地主へ挨拶をしに行った。
「ジーギア領主が娘、サンドラと申します。ぜひお見知り置きを」
ニュクスの本部のあるジグ地域を捩って「ジーギア」、男装時の名前アレキサンドルを捩って「サンドラ」。偽名だったとしてもここでは誰も気づかないだろう。
「私はフィグ領主ラッドだ。サンドラ嬢、よく来てくださった。……その、ジーギア領、というのはどこにあるのかい?無知で申し訳ないね」
「とても小さな村のような領地ですので無理はないかと。ここからもっと南西にいったところにございます」
「ほっほ、そうか。小さなパーティーだが、楽しんでくれ。あそこに私の娘たちがいるから、話してくるといいだろう」
「ありがとうございます。では」
親切そうだが少し胡散臭いラッドの指す方には、数名の少女と夫婦、1人の男性が居た。その濃い金髪を持った1人の男性が今回のターゲット、地主の2番目の弟、ライグランだ。
レイラ――いや、サンドラは口角を上げてその集団に近づいた。
計画では、このまま彼らに話しかけライグランを少し離れた所へ連れていく。そしてダンナイトから秘密裏に運ばれた拳銃で撃つこととなっている。
もうすぐ気づかれるような位置まで来た時、男性達の会話が耳に入ってきた。
「そういや兄さん、この間アノレミー国の方で人が亡くなったそうですね」
「らしいな、とても惨い死に方だったと聞いたよ」
「可哀想に…」
「でも、死んだのは『ニュクス』のメンバーだったんだと」
「あの犯罪集団の?…なら死んで良かったですね!」
「おっと、そんなこと言っていいのかい、ライグラン?」
「こんな話、誰も傷つきませんよ。むしろ皆賛同してくれるのでは?」
「それも…そうだな!」
「「はっはっは」」
自然に足が止まった。
言いようのない感情に瞳が、手が、心が、震えている。
ドレスのスリットに手を入れ、脚のガンホルダーに触れる。
するりと手の中に何かが滑り込んだ。
それを握り、彼らへ突きつけ、引き金を引く。
「キャァァ!!」
音もしないまま、少女の悲鳴が上がった。
レイラの右腕に重さが戻り、彼らの後ろの柱に今創られた銃痕から細い煙が立ち上った。
「このっ…!」
ライグランの怒号が飛ぶ。
大きな銃声に空気が揺れた。
弾丸がサンドラの結んだ髪に直撃し、色を変えた金の髪束が落ちる。
その感覚で我に返ったレイラはドレスの裾を翻し、会場から逃げ出した。
外に待たせた馬に乗り、手綱を鞭打って逃げ帰る。
幸い、追手を撒く技術を失いはしなかった。
背まであった髪は、顎のところでバラバラに風に吹かれていた。
◯
肩で息をしながら部屋の扉の裏に座り込む。
レイラは今起こったことが信じられなかった。
感情に逆らえずに目の前で撃った?
――今、私、感情があったの?
あまりの衝撃に弾を外した?
――銃は得意だったのに。
こんな単純な任務で、失敗、した?
ニュクスを悪く言われるのは構わない。けれど「リュークが死んでよかった」なんて、「誰も悲しまない」だなんて、言わせ、ない。
そして髪に触れる。
誰もが不吉なカラスのようだと笑った、この緑に光る黒髪。いつも男装のかつらで隠していたけれど、リュークだけがそれを嫌がって、褒めてくれた。
それを今、私は失った。リューク――『カイト』がいた頃の私はもう、居ない。
今まで押し殺してきたリュークを失った悲しみが、涙と共にどんどん溢れて止まらなくなった。同時に、ここまで恋い慕っていた事を改めて自覚する。
その想いが1つの決心になった時、外の街に朝日が差し込み始めた。
そして、父親が失敗した娘を責めることは無かった。
◯
「あ?レイラ、お前何言ってんのか分かって…」
「申し訳ありません。父様」
言葉を遮って謝罪をする。しかし頭は下げず、何の感情も出さない瞳――いや何も感じていない瞳で父親を見つめた。
此処を出ていく。そう言って、まっすぐ前を見る。そして深く紅い瞳を1度揺らした。板の打ち付けられた窓が激しく音を立てる。強い風がそこにだけ当たったかのようだ。隙間風が雑に切られたレイラの髪を巻き上げた。
「どうした?レイラ。この間のことも私は何も言っていないじゃないか。誰もお前を責めていない!またやり直せるんだ」
しばらくの沈黙。
「…今の風、お前の魔法だろう?どうしてコントロールしなかった?ここはダンナイトに近い上に、魔法痕跡が残るんだから、気をつけろと…」
銃声。レイラの撃った弾が父親のずっと横を通った。
「なっ…!?レイラ!!」
彼は勢いよく立ち上がる。怒鳴る父親の背後で、椅子が倒れる大きな音がした。
「あぁ……そうか。『カイト』…リュークか。なるほどな。それで…」
ふ、と顔を緩めて彼は笑った。まだ銃を構えたままのレイラにゆっくり近づく。
「確かに、幼い頃から一緒に居たあいつが死んだのは悲しいだろう…辛いだろう。俺もお前の母様を失ったときは辛かったさ。だが…もう気にすることでもない」
もう一度銃を握り直す。母は、レイラが初任務を終えて帰って来て直ぐに殺された。目の前の父親に。
「…さあレイラ、こちらへおいで。死んだやつなんか忘れよう、リュークの代わりなんて幾らでもいるんだ。なんならお前がなればいい。髪を切る手間も省けたしな」
このからからと笑う唯一の肉親は、彼女の全てを傷つけたように思えた。
「…分かった。何がしたい?」
「……あいつを、仕留めます」
「ぷはっ、お前の髪を撃ったあいつか?もっと違う奴かと思ったよ。あいつなら他のやつに任せようとしていたところだ。……万が一、失敗したらずっと此処に居てもらうからな?まあ、あの時から、銃の腕は大分落ちたみたいだが。言ったからには頑張れよ」
レイラは、1度頭を下げて、部屋を出ていった。
自室に入ると彼女は小さくため息をついた。自分が何をしたいのかが分からない。ただ、ただ悔しい。憎い。私の髪を奪ったあいつが、リュークを奪った父が、そんな父が自分だけにはチャンスを与えている事が、そして何も出来なくなってしまった自分が。
しかし、やることは決まった。ただ1つ、あいつを仕留めること。そして、必ず、ここから出ていく。
◯
さて、何を使おうか。
武器庫で1人佇む。隠密に優れる小刀、夜の女神の使い魔だったというカラスアゲハの飾りがついた仕込み杖、毒の小瓶と注射器…。目線を移していくとある物に釘付けになった。鎌だ。リュークの愛用品だった物と同じもの。鎌は隣のクナイに首を掛けていた。レイラはクナイを手に取り、眺める。
――これだ。
もしかしたら、リュークがあの世から見てくれているかもしれない。柄にもないそんな妄想じみたことを頭の片隅に置いて、クナイ片手に彼女は自分の部屋へ帰った。
そういえば、なぜあいつは銃を持っていたのだろうか。
第3話 12/22 20:00頃 予定