場面10 長男へのSOS
日本の大手商社で常に多忙を極める兄に、いきなり電話するのは憚られた誠司はトークアプリを起動してメッセージを入力した。
『ちょっと話せないかな?』
急いではいないが、早めに連絡を貰いたいと考えた誠司は出来るだけ簡潔に書いたメッセージを送信した。
『どうした?誠司から連絡なんて珍しい。直接会って話したいのか?それとも通話か?』
忙しいヒロ兄なら遅くとも昼に連絡が貰えれば御の字だろうと思っていた誠司だったが、予想外に早い返信だった。
『通話で。いつなら都合良い?俺はいつでも大丈夫。』
トークアプリを表示していた誠司のスマホ画面が切り替わり、着信を知らせる画面になったタイミングで新之助が怒鳴り始めた。
「上等だ!イタズラで逮捕するっていうなら、さっき伝えた住所に来てみろ!バカ野郎!」
新之助は顔を真っ赤にしながら警察との通話を打ち切り、座卓にドカっと座ると、まったく舐めやがってとブツブツ言うだけだった。
そんな新之助を後目に、誠司は自分のスマホにかかってきた博史からの着信に通話ボタンと、スピーカーのボタンを押して、会話が父や姉にも聞こえるようにした。
「やあヒロ兄。仕事中だよね。大丈夫だった?」
必要となれば会社への泊まり込みや急な海外出張も日常茶飯事という、博史の仕事ぶりを知る誠司は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「なあに平気平気。今日の午前は新卒のお守りでな。気楽なもんさ。今も講習用の動画を見せてる裏でコーヒーブレイクだ。しかし日本の缶コーヒーは偉大だな!」
博史が居るのはリフレッシュルームと改名され、自販機が並ぶ元喫煙所で、どことなくタバコ臭かった。
今は他に誰も居なかったので、博史は大声で与太話混ぜて遠慮は無用と暗に伝えた。
「えっと、すごく言いにくいんだけど、単刀直入に言うと、俺ら異世界転移したみたいだ。」
弟から久しぶりの着信でどんな面倒事かと思えば、冗談としても全く面白くない話に博史の顔は真顔になった。
「なぁ。エイプリルフールはとっくに終わったぞ。早く要件を言ってくれ。」
今や電源も入っていないカウンター型の吸煙機に、飲んでいた缶コーヒーを置いた博史の表情は完全に仕事モードになっていた。
「誠司。ビデオ通話モードにしなさい。ヒロ兄は今から見せる光景だけ見てて。」
「芽衣子か?そっちの何を見ればいいんだ?」
スマホが震えたので、博史は耳から離して画面を見ると、そこには懐かしい実家の居間が映っていた。
とりあえず誰かが入ってきても画面を覗かれないように、部屋の隅に移動した博史はスマホの画面をもう一度確認した。
すると今度は見慣れない景色が映し出されていた。
芽衣子と誠司はどこか出先から通話してきたのかと考えた博史だったが、画面の中の景色がゆっくりとスライドすると建物が画面に入ってきた。
「実家だな――うん?」
博史が20年近く住んでいた実家だった。
見覚えのある縁側、そして仏間も映り、父と誠司が画面に入り、そして景色はまだスライドし続け、最初の見慣れない景色になった。
どうやら芽衣子が縁側でスマホを手に、クルクルと360度回転し続けていると分かったが、博史には理解不能な点が有った。
実家の周りの景色だ。
「待て待て。どういう事だ。まずは可能性を考えろ俺。」
博史は小さく声に出しながら情報を整理しだした。新人時代に先輩から教わった数少ない有益な工夫の中の一つだった。
「まずは一番有り得ない可能性から潰す。『実家の周りで開発が始まって、俺の知る景色から変わった。』」
スマホは現在実家とは反対の方向を映しているが、そこには博史の記憶では江戸川の堤防が見えたハズだった。
「江戸川の堤防をぶっ壊す開発なんて有り得ないな。よし、次は『実家を移築した』か」
しかし築30年以上の木造家屋を移築する話は博史も聞いていないし、メリットも思いつかなかった。
「これも無いな。次は『家の周りの景色だけをリアルタイムに別の景色と合成している』で、どうだ」
技術的に不可能ではないが、その技術を藤田家では誰も持っていない。
では外部の人間ならと考えが、労力の問題で難しいとの結論にしかならなかった博史は再びスマホを耳に当てて話し始めた。
「芽衣子もういいぞ。お手上げだ。どういう事か具体的に説明してくれ。」
家の外の異変が起きた事実を博史が受け入れたと分かり、芽衣子は縁側から居間に戻りつつ答える。
「具体も死体も無いのよねー。あたしらが朝起きたら家がどこか別のトコに有って困ってるナウ。SOSナウって感じナウ。」
「SOSって、だったら普通は警察に通報じゃないか?」
「いや、さっき通報したが、警察は全く信じてくれなかった。」
「父さんか?父さんが通報を?」
「ああ、そうだ。だから頼む。今すぐでなくて良い。明日は土曜だから明日で良い。我が家が有った場所に行って、どうなっているか見てきてくれないか。頼む。」
「ああ、分かったよ。どうせ車で2時間もかからないんだ。久しぶりにドライブついでに行くよ。」
父がこんな冗談を言える人間ではないのを知っていた博史は半信半疑だったが、翌日に実家へ帰省する事にした。
芽衣子は兄の博史との通話を終えてスマホを誠司に返すと、通話中に自分のスマホを取られていた誠司はムッとしながらも受け取り、残りの電池残量を確認した。
「まだ大丈夫か。」
モバイルバッテリーや、乾電池式の充電器も有るとは言え、電源は大事にしたい誠司に、芽衣子が追い打ちをかける。
「あんたも職場に連絡した方がいいんじゃないの?」
言われて職場への連絡を思い出した誠司は苦い顔をしながら、スマホのアドレス帳から上司を選択してコールのボタンを押し、数秒待った。
「あ、お疲れさまです。藤田誠司です。すいません。ちょっと父が倒れてしまって、申し訳有りませんが…2日か3日程度、お休みを頂きたく――はい、はい。ありがとうございます。失礼しますー。」
自身をダシに使われた父の新之助は微妙そうな顔をしていたが、新之助の職場への連絡にも同じ口上が使われた以上、口裏を合わせるしかなく、納得するしか無かった。
「しかし日本人ってホントに謝るわよねー。こっちで社会人経験ないから不思議だわ。なんで電話なのに二人とも頭を下げるの?テレパシーか何かで向こうに見えてんの?」
珍獣を見るような目で誠司を見る芽衣子に、新之助が説明する。
「通話相手に見せたいんじゃない。上司や同僚に見せる為だ。『電話でも頭を下げる』という姿勢を見せれば『それだけ私は真摯に仕事をしています』というアピールになるんだよ。」
姉に変な目で見られる誠司が不憫に思い、新之助は思わず擁護した。
「でもここには同僚も上司も居ないじゃない。」
両手を上に向けて、訳が分からないといったポーズをとる芽衣子。
「癖になるんだよ。ずっとやっていると上司や同僚が居ない場所でも、やってしまうんだ。そうか、いつの間にか誠司も立派に勤め人になっていたんだな。」
「何言ってんだよ。ただのクソ社畜だって。」
父からの急な温かい視線に戸惑った誠司は、つい憎まれ口をついていた。
「あ。雨が止んだ」
聞いたのは自分だが、即飽きた芽衣子は縁側から外に手を突き出し、雨が手に落ちてこないのを確認していた。
「それじゃメイ姉のスマホを探しにコンテナに戻るか」
このままでは事あるごとに自分のスマホを奪われると考えた誠司は一刻も早く姉のスマホの行方を捜索したかった。
「芽衣子のスマホが無いのか?そういえば庭にコンテナが有ったな。あれは何だ?」
日本に、そして博史に連絡がついて安心した新之助は、庭のコンテナを気にする余裕が出来ていた。
「あれは俺たちもまだよく分からないんだよなぁ。じゃあ雨もあがったし、みんなでコンテナ見に行くか。」
そう言って誠司がスマホをジーンズに仕舞うと、芽衣子は頷いて新之助を見た。
「このリングは俺が預かっておくぞ。博史から連絡があるかもしれないからな。」
新之助は座卓においてあったリングを手に取り、立ち上がると自分のポケットに入れた。
こうして3人は玄関から庭に向かいつつ、芽衣子と誠司はコンテナで何が起きたか新之助に説明を始めた。