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僕がママになる

作者: 是々非々

 しんしんと雪が降るのを曇りガラス越しに眺めつつ、私はすっかり大きくなったお腹を撫でた。時折私の意に反して揺れるお腹は、何度撫でてもいとおしい。

 薄い陽を白く跳ね返す景色に目を細めつつ、私は今までの半生を振り返った。


 そもそも私は僕だった。

 家のアルバムをひっくり返せば、理知的というよりは無知的な少年が絵本を持って写っている。それこそが僕、伏神壮太という人間だ。


 僕は生まれた当時、立派かどうかは定かではないが、確かに男の象徴たる剣を携え生まれ落ちた。成長した結果はどこにでもいる少年だったが、それでも少年だったのだ。

 そんな本の虫で大人しい弱虫だった僕に変化が起きたのは、中学校に上がって一年が経ってからのことだった。


「――いたっ!」


 朝、いつものように着替えていると、不意にちんこが痛くなった。おかしいなあと思ってぐにぐに摘まむと、なおのこと僕の息子は痛みを訴えた。

 ……頑張らせすぎたかな。僕は病気かもしれないと考えたけど、お母さんにちんこのことなんか聞けるわけもなく、寒々した怖さを感じながらも学ランに袖を通した。


 普段から小説や漫画ばかり読んでいる僕は、そこまで親しい友達が多いわけじゃない。おまけに身体も小さめで、特別頭が良いわけでもない。ただ読んだ本はたくさんあるので、国語の成績は褒められる。

 そんな僕にも無二の親友がいる。吹野広司という男だ。成績優秀スポーツ万能眉目秀麗三拍子揃ったスーパーマンだ。おまけに性格も優しい良いやつときたもんで、鼻持ちならないなんていう奴もいる。

 僕も昔はそうだった。小学生の頃、何度広司に敗北感を感じたかは数え切れない。体育の成績は広司はいつもトップなのに僕はドべ争いで、勉強も平均点ばかりの僕とは対照的に、広司は一番かどうかを気にしていた。


「……吹野くんはすごいよ」


「……すごくないよ」


「だって、君は頑張ってるじゃないか。僕みたいにゲームしたり本も読まずに勉強に運動なんて、すごいよ」


「…………知らないよ」


 僕が小学生時代に広司とまともに話したのは、彼が珍しく平均点より低い点を取って、体育の授業のサッカーで転んで泣いてしまった日だけだった。

 クラスメイトなのに遠いところにいた彼が失敗して、僕も親しみを覚えたんだと思う。保健委員の仕事で保健室まで付き添っていた僕は、泣いていた広司を励ましたくて、いつも思っていたことを打ち明けた。

 僕は根が弱い人間だから、隣で泣かれると弱ってしまうんだ。


 そんな僕たちは、揃って少し離れたお受験のいる中学校に進学した。僕はお受験ブームに浮かれたお母さんによって放り込まれた塾で手にマメができるほど勉強した。そして運よくその中学校に合格し、特待生合格した広司と一緒のクラスになった。


 電車に乗って五つも駅を移動した先にある中学校では、僕と広司はどういうわけか仲良くなった。


「特待生なんてすごいね吹野くんは。元からえらいのにあんなに頑張るんだもんなあ」


 僕がそう言うと、広司は口元を緩めて頬をかいた。


「へへ、ありがとな、壮太。同じ小学校だったんだし、壮太も俺のこと呼び捨てにしてくれよ!」


 広司はにっこりと笑った。僕はいきなり馴れ馴れしいなあと一瞬思ったけど、広司の人懐っこい笑顔にその感覚も薄れさせて「うん、よろしく広司」と返したのだった。


 そんな広司とはこの一年で随分仲が良くなった。どうしてか、広司は急にゲームを始めたり、柄にもなく小説を読んできたりした。僕らはそのたび面白かったゲームのシーンや、ワクワクした小説の場面について話したりした。僕は相も変わらずゲームや小説ばっかりの生活だったけど、広司はスポーツも続けていた。

 凄いやつは何でもできるんだなぁ。僕はそうとしか思わなかったけど、広司と話すのは楽しかった。


 そんな広司とは、中学二年生の今では一緒に登校する仲だ。駅のホームで立っている広司を見つけると、僕はこっそり近づいて広司の肩を叩いた。


「おはよ、広司」


「わっ……なんだ、壮太かよ、驚かせんなって。おはよ」


 僕たちは軽く笑いあうと、最近ハマっているRPGの話に花を咲かせた。


「――で、どこまで進めた?」


「あの緑の中ボスは倒したよ、あそこだけマルチ不可とか、ふざけてる強さだった」


「げー、まじ?今あんましレベル上げてないんだけど、上げとこっかなあ」


「その方が良いよ……と、電車きたね」


「座りてえなあ」


「通勤時間だぜ?」


 僕たちは揃っていつもの車両のいつもの場所に陣取った。珍しく春らしい過ごしやすい気温でありながら、僕は下腹部の鈍い痛みを密かに気にしていた。


 ーーー


「――痛いなあ」


 いつも通りの一日を過ごし、僕はさっさと家に帰ってきた。

 部屋のベッドの上で制服のまま寝転びつつ、僕は新たに痛み出した体の節々をかばうように丸くなった。体がギシギシと軋むような痛みは、まるで何かに押さえつけられているような感覚だった。


「……インフル?」


 僕はあまりにも痛いので、適当に思い当たる病気のことを思い返した。


「でも、熱はないんだよなあ……」


 おでこに手を置いても、僕の体温は平熱の域を出ないだろう。僕は訳も分からないまま、不調の身体を引きずってダイニングに降りた。ダイニングではネクタイを緩めるお父さんと、ご飯をよそうお母さんがいた。二人とも僕を見て「降りてきたんだね」と笑った。


「壮太、帰ってすぐ部屋に引き込んじゃったけど、どこか具合でも悪いの?」


 お母さんは席に着きながら言った。お父さんは少し目を見開いて「大丈夫か?」と言った。僕は体の不調を訴えることにした。


「うーん、なんかちょっと節々が痛いんだよね。熱はないんだけど」


 肩を回して見せると、お父さんは棚から体温計を取り出した。僕はそれを受け取って、試しに熱を測ってみた。


「……あれ、ちょっとあるや」


 体温計はしばらく脇に挟むと電子音を鳴らし、僕の体温が37度だと告げた。平熱が36度なので、僕は少し熱があるようだ。お母さんは僕の方に来ると、そのまま両肩を抱いて回転させた。


「無理するものじゃないわ、後でおにぎりとスープでも持っていくから、壮太は着替えて寝ておきなさい」


「はーい」


 昔から一人っ子の僕の病気には人一倍敏感だったお母さんの言うことは聞いておくに限る。僕は大人しくうなずくと、そのままお母さんの立会いの下でベッドに戻された。


 ――すべてはここから始まった。


 僕がベッドに入ってからしばらくすると、本格的に熱が出てきたようで、僕は季節外れの風邪でも引いたかなと思っていた。だんだん痛みを増してくる痛みと、それ以上に急激に上がりだした体温に眠りを妨げられながら、僕はしばらく唸っていた。

 だがしかし、しばらく寝返りをうったり寝苦しくしていると、次第に痛みが無視できないくらい酷くなってきた。増してくる鼓動は僕の体中を揺らし、全身から生み出される熱が僕の身を焦がした。全身が燃えるように熱く、滝のような汗が体の中から絞り出された。


「ハァーー……ッ!っ、はあっ…………!ぁっ……!」


 次第に意識はぼやけ、何も考えられなくなってくる。心臓の鼓動だけが僕に時間の経過を知らせ、体にへばりつく汗は体を冷やすことなく流れていく。僕のお腹の中に火山があって、マグマを吹いて爆発しているみたいだ。

 目先の痛みと苦しさしか分からなくなってくる。僕はどうしてこんなことになっているんだろう。


「――壮太!?どうしたの!?」


 ガシャンと何かが割れる音と共に、お母さんが僕の顔に手を置いた。お母さんの息は荒く、手はしきりに汗を拭っている。


「あなた来て!壮太が、壮太が大変!!」


 涙に濡れた瞳はお母さんの様子を写すことはなかったが、お母さんにも余裕がないことだけは分かった。僕はただやり過ごすしかない苦しみに耐えながら、瞼越しに部屋の電気がつけられたことを認識した。ドタドタと重たい足音が聞こえ、お父さんが野太い声で「どうしたっ!?」と叫んでいる。

 ぐらぐらする音を聞きながら、その音がお母さんとお父さんの会話なのだと僕はぼんやりと把握した。


「壮太、すぐ救急車が来るからね!もう少し我慢してね!」


「大丈夫だからな、お父さんがついてるからな!とにかく水を飲みなさい」


 お父さんはお母さんが枕元において行った水差しを僕の口に当てがった。僕は少しずつ水を飲んだが、体が受け入れずにすぐに吐いてしまった。その拍子に胃の中の液体が一緒にぶちまけられ、僕は混乱して息が止まってしまった。


「ア゛ーッ…………!!ハグッ……!!ア゛ァ……!!」


「何してるのあなた!?」


「ああああ、まさか飲めないなんて!?壮太、息だ、息してくれ!」


「ハウ゛っ……ッフっ……八っ……」


 僕は何とか気道を確保し、過呼吸気味になりながらも落ち着いた。

 これは救急搬送された後でも繰り返され、近くの病院で僕は意識を失った。


 僕が次に目を覚ましたのは、真っ白な壁に囲まれた、とある病室の中のベッドの上でだった。まず目に入ったのはしきりに僕の手をさするお母さん、次にお母さんに寄り添うように僕を見るお父さん、白衣を着たおじさんが順に見えた。


「…………お母さん?」


 随分久しぶりに出した気がする声は、酷く枯れていた。でもなんだか、いつもと違うような気もした。


「壮太、よね?」


 それに返る答えもおかしかった。僕は僕だ、伏神壮太だ。


「母さん、聞いただろう?……その子が壮太なんだ、僕たちは目の前で見たじゃないか」


「だけど……えぇ、そうね、そうなのよね」


「あの、お父さん、お母さん、どうしたの?」


 僕は大丈夫だと思って起き上がり、二人の顔を覗き込んだ。二人が答えるよりも早く、ベッドの反対側に立っていたお医者さんが口を開いた。


「伏神壮太君」


「はい」


 少し薄毛の目立つお医者さんは、僕の目を見てこう言った。


「性転換疾病って、知ってるかい?」


 僕はそこで、自分が女の子になったのだと知った。

 性転換疾病、通称『陰陽病』は、時に命に関わる病気らしい。国内でも数えるほどの件数しかないこの病気は、男女問わず別の性別に変えてしまうようだ。……不可逆に。

 そして僕は、訳も分からないままに色々聞かされ、その日のうちに診断書と共に家に帰された。

 お母さんとお父さんは僕のために動いてくれたり、慰めたりしてくれていたけど、僕はただただ部屋に籠ることしかしなかった。


 ーーー


 僕が女の子になってから一週間、僕は自分の行いを後悔していた。それも生半可な後悔じゃない。僕はネガティブになって二度とまともな生活を送れないんじゃないかと塞ぎ込んで、それすら自分が悪いからこうなったのだといじけている。

 何故かと言えば、僕は女の子になってしまったという負い目から、学校はおろか外にすら出れていないのだ。学校にはもう病気のことは知れ渡ってるみたいだけど、それがかえって行き辛さを増していた。でも僕の体自体は元気なので、ずる休みしてるみたいな罪悪感もあった。

 スマホを覗き込むと、そこには前髪に目元を隠されがちの、優しそうなたれ目と白い柔肌の丸顔の女の子が写った。これが新しい僕の顔だ。クラスでも低めだった身長は更に縮み、百五十センチを割ってしまった。胸元には慣れない感触が薄くあり、反して股間には何もない。僕はまだ違和感を拭えず、何度も寝返りをうった。


「……あー」


 少し間の抜けたような、柔い声が喉から出る。それは僕が欲しかった低いカッコいい声じゃない。僕はぐりぐりと額を枕に擦った。ヒリっとした感触が、硬い枕によって額に生まれる。

 そっか、女の子というのは肌が弱いんだな。そう思い、無意識にいつか恋人には優しくしようと心に決めたところで冷静になった。僕はこれから先はずっと女の子なのだと。


「もぉイヤだぁ」


 前は情けない声が出る感覚で、甘えたような声が出る。

 こんな状態で、みんなの前に出られる訳ないじゃないか。僕は大真面目に転校なんてことも考えつつ、未読のまま放置しているメッセージアプリを開いた。何件もの通知が来ている。クラスでもそんなに仲が良かったわけじゃない人からも来ていたりして、クラスの方針なんだろうなあと、罰当たりなことも考えた。

 その中でも最も多い通知が、広司からのものだ。すでにこの一週間で通知は三桁に届こうとしている。いつ見ても、トークルームの見出しに表示される最新のメッセージは「絶対見放さないから、待ってるぞ」という趣旨のものが表示されている。僕はそれでも返事するのが怖くて、既読を付けられない。広司が思っている以上に、僕はすっかり変わっているんだから。

 僕だって会って話したいが、今まで通りなんて夢物語のように思っていたのだ。


 今日も日がな一日寝転んだまま過ごす。気晴らしに本を読んだりゲームをクリアしたりしていると、「これ、広司に話そう」とか考えるときがある。僕はそのたびため息をついて顔を布団に埋めた。


「無理だよ……無理無理」


 僕はいじけてそう呟いた。

 その時、玄関の方でチャイムが鳴った。スマホで時間を見ると、午後四時だった。宅配便かなと思い、僕は部屋から出た。お母さんは買い物に行って家にいない。

 だぼだぼになったパジャマ姿だったけど、別に構わないと思った。どうせ宅配便の人なんて、一度会ってもそれきりなのだし。


「はぁい。なんでし……ょう……」


「……あの、伏神さんのお宅ですよね?壮太君、いませんか?」


 僕はのぞき穴からちゃんと来訪者を見るべきだったと後悔した。目の前には爽やかな顔を優しく微笑ませ、背の低い僕に身をかがませて目を合わせる広司がいる。彼はなんと、しびれを切らせて家までやってきたのだ。


「…………ぁ……う」


「どうかしたんですか?もしかして、壮太君は体調が悪いんでしょうか、それなら今日の所は帰ります」


「ぁ、ま、待って!」


 気が付くと、僕は礼儀正しく頭を下げて出ていこうとする広司の袖を引っ張っていた。自分でもよく分からないけど、何となく、このまま帰すのは僕はダメだと思ったのだ。


「ど、どうしたんですか?」


 広司は目を丸くして振り向いた。僕は深呼吸をして前髪の奥から彼の顔を見た。


「ぼ、僕は元気だよ……だから、上がって?」


「…………壮太?」


 広司は探るように僕の名前を呼んだ。僕は小さくうなずくと、彼の手を引いて強引に家に上げた。

 彼は大人しく僕に引かれるままに、僕の部屋へと入った。ぱち、と部屋の電気をつけると、安心したような彼の顔が浮かんだ。


「良かった、元気そうで」


 広司はそう言うと、そこいらの適当な場所を狙って腰を下ろした。本棚から引き出してそのままその辺に放置した書籍や、押し入れから引っ張り出したっきりのゲームが散乱しているので、足の踏み場もないのだ。

 僕は広司と向き合うように、本をどけて座った。狭いので三角座りだ。


「……ま、元気だったよ」


「みたいだな。なんか思ってたのと違って裏切られた感じだ」


 広司はきょろきょろ部屋を見回して言った。僕は思ってたのと違う、という言葉が気になって、「思ってたの?」と聞き返した。


「俺はてっきり変わった拍子に病気にでもなって寝込んでるのかと思ったよ。結構元気そうで良かった」


「……変わっただけだし」


 僕はそっちの話かと胸を撫で下ろした。広司に見放されるようなことが無さそうで安心した。

 広司はひとしきり部屋を眺めた後、僕のことを眺め始めた。


「てか、本当に変わってんじゃん」


「信じてなかったのかよ」


 僕は広司を睨んで抗議したが、広司は軽く手を振って否定した。


「改めて見たらマジなんだって思っただけだって。変わって心配してんのは元から本気だよ」


「まあ、そうだけどさ」


 じゃなけりゃわざわざ家になんて来ないだろう。僕は軽口を叩いてはいるけど、広司が来てくれて安心していた。


「言われてみれば壮太感ある気もするなぁ。ほとんど分かんねえけど」


「……っ、そう」


 広司は「おう」と頷いた。


「だからさ、学校来いよ。また遊ぼうぜ」


 広司はあっけらかんとそう言った。僕はその言葉が信じられなくて、目をぱちくりとさせた。


「……へ?」


「確かに女子になったけど、そんだけだろ?女になって大変なことだらけだろーけどよ、そんな時こそ友達頼れよな」


「あ……まぁ、そうかも?」


「そうなんだよ」


 広司は人懐っこい笑顔を浮かべた。


「明日、学校来いよ。……あ、もしかして制服ない?縮んでるもんな」


 広司は僕の頭をぽんぽんと軽く撫でるように叩いた。僕は頭を振って手を払った。


「あるよ、病院で体のサイズはかられたし。もう制服はある……着んのは抵抗あるけど」


 それも女子用のが。クローゼットにはおろしてもいないセーラー服が引っかかっている。

 僕がそれを着るというのは抵抗があるが。


「ん。安心しろって、俺が一緒に行くだろ?」


「……んだよ、それ」


 広司はどれだけ自分が頼りになると思っているのか。いや、事実僕は広司のこの一言で学校に行っても良いかななんて思えているわけなのだが。

 引きこもりの原因は、女になった僕への周囲の反応が怖かったから。だから、広司という親友がいれば怖くないと思えるのだ。


「分かった。……また、明日」


「おう」


 僕と広司は笑いあい、気分に任せてハイタッチした。僕の手は広司に比べてひどく小さかったけど、そんなことどうでもいいかと思えた。


「……ところでさ」


「うん?なんだよ」


 僕が広司の言葉を聞き返すと、広司は鼻を鳴らして言った。


「壮太、風呂入ってる?結構ニオイすんぜ?」


「なぁっ!?」


 確かにここ三日くらい、部屋から出てもいなかった。もちろんお風呂なんて自暴自棄になって入っていなかった僕の体は、結構ニオっているらしい。それに……それなら、僕の部屋だって結構な……。


「いや、別に良いけどな。俺別にこのニオイなら嫌いじゃねえし、サッカー部の部室に比べたら――」


「出てけーーー!!!」


 僕は強引に広司を部屋から追い出し、玄関に追い立て、「また明日っ!駅でっ!」と言い放って広司を帰らせた。


「――嫌いじゃないって……変態」


 か細く喉から漏れ出た声は、僕の動揺を表すように震えていた。


 ―


 次の日には僕は通学路を歩いていた。遠目に駅を確認し、憂鬱さにため息が漏れる。しかしお母さんに半泣きで見送られては、僕としては帰るわけにもいかなかった。

 駅のホームに着くと、いつもの場所で広司が立っていた。僕がゆっくり近づくと、広司は遠目でもすぐに気づいて手を振ってきた。手を振られた僕は、早足で彼に近づいた。


「おはよ」


「おう、おはよう。似合ってんな」


「からかうなって」


 僕が女になっても、広司はいつものような気軽さで接してきた。僕は自分だけ意識してるみたいで少し不満だったが、疎遠になられても困るのでよしとした。


 数週間後、壮太から壮という名前になった僕は、今日もまた女子に囲まれていた。

 女の子になって初めて教室に入ってより、僕はちみっこい女子としてやんわりと受け入れられた。興味半分不気味さ半分と言った感じだ。そして興味本位の女子たちが、今日も僕の読書を妨げた。


「伏神君可愛いねえ、小さくて」


 長髪ながら溌剌とした雰囲気のある女子が、僕のことを横に置いた椅子から肩抱きにしながら言った。この子は新田沙耶という。


「小さいは余計だって」


 僕がそう返すと、僕の机の上に尻を置いた頭の上のお団子に目が行く切れ長の三白眼の女の子が、僕の眉間を細い指でぐりぐりした。


「良いねえ、ダウナーな感じが」


 この子は松島結子という。

 主にこの二人が僕のことを気に入ったらしく、大抵僕の席にやって来る。いろんなところで僕のことを言いふらしているそうだし、遠慮して欲しいものだ。


「ねえさ、今日の帰りにカラオケ行かない?」


 新田が何か言いだした。学校帰りにそういうところに行くのは校則違反じゃないか?そう言おうとしたところで、松島が「いいね」とそれに乗った。


「伏神君もだかんね」


「なんでだよ」


「や、聞きたいし、歌。やさしーいい声してんじゃん?」


 松島はそう言うと、チャイムに従って席に戻って言った。新田は「拒否でも連行レッツゴー!みんなさーそお」なんて言いながら隣の椅子を戻していた。

 さて、僕はいよいよ頭を抱えて突っ伏した。


「……なんで寝てんの?」


「やむを得ないんだ」


 急いで教室に滑り込んだ広司は隣に座りながら不思議そうに声を上げた。僕は突っ伏したままぶっきらぼうに返し、広司は笑っていた。


 放課後、結局追加で一人を加えた四人でカラオケに行くこととなった。霧島妙という、クラスでも真面目で通っているショートカット眼鏡女子に観察されながら、僕たちは店に入った。

 指定された部屋に入っても、霧島は僕のことをずっと見ていた。席では左右を松島と新田に近すぎるくらい固められ、テーブルを挟んで反対側では霧島がにらみを利かせてくる。

 どんな状況だよと思いつつ、僕はドリンクバーで取ってきたオレンジジュースを口に含んだ。


「……うぅむ、女子だ」


 霧島がそう言った。両隣の新田と松島は声を揃えて「でしょ?」と言った。

 僕はオレンジジュースでのどを鳴らしながら、どういうことかと首を傾げた。


「伏神君て結構適応力高いわけ?」


 松島が肩を押し付けてきた。僕は肘の辺りにある柔らかな感触を感じて少し照れながら彼女を見上げた。


「どういう?」


 松島は「かわいいねえ」と言って僕の頭をこねた。


「いや、ふつーに女子出来てんじゃん」


 松島のその答えに、僕はうぅむと唸った。これでも結構悩んでいる。

 新田は「伏神君は趣味の人だもんね」と言ってお尻をくっつけてきた。両側から押さえつけられ、僕は苦しいと身じろぎした。


「ね、妙ちんも分かったでしょ?伏神君性欲皆無よこれ」


「はっ!?」


 新田があっけらかんにそう言い、霧島は「確かに……」と呟いた。後ろからは松島が「そーそー。ほーれ」とか言ってのしかかってきた。僕は背中に柔らかさを感じてドキドキした。性欲がどうかと言えば……どうだろうか。かつて持て余していた欲求に語り掛けたが、まるで欲にぽっかり穴が開いたように、僕に跳ね返ってくる気持ちは無かった。女子になって枯れたのだろうか。


「あり?耳赤いじゃん。照れてんの?」


 松島のけだるげな声が耳から抜けた。僕は今の感覚をまさに言い当てた彼女の言葉に、何度も何度も頷き返した。


「だからっ、早く退いて」


「……あーい」


 松島は体を離すと立ち上がり、反対側の霧島の横に座った。するとみんながにやにや笑っているのが分かった。


「なんだよ」


「ううん、男子の反応じゃないかもって」


 新田の言葉に、僕は不服を感じながら「じゃあ男子の反応はどうなんだよ」と悪態をついた。

 新田もみんなも「それもそうかあ」と言って和やかに曲を選択し始めた横で、僕は女子だから女子に欲情しなかったのかな、と自分の鼓動の原因を思案した。

 ……カラオケは、以前より女性ボーカルのアニソンが歌いやすくて楽しかった。新田と松島、そして霧島との仲が良くなった気がして、そういう意味でも良かったのかと思う。

 この日以来、僕のことを女子がマスコット扱いしてくるようになった。裏で僕と仲良くなったあの三人が流している噂話のせいだと思うが、僕は男の時よりもいじられる反面、友達が増えたようで面映ゆかった。


 ―――

 僕はこの日以来、ずっと「マスコット」として過ごした。

 中二の夏に初潮が来て、唯一「女」としての感覚に襲われたけど、それ以外は今までと大して変わらなかった。今まで通りずっと遊んで呑気に過ごすだけの日々だったし、広司はいつもみたいにつるんでくるし、何より新田や松島たちのする恋バナなんてのには興味すらないのだから。女の子としての生活に、新田や松島、霧島たちを通して慣れる反面、僕はいつしか恋なんてしなくなっていた。小学校の頃好きだった誰かしを最後に、僕が人に恋愛をすることは無くなったのだ。


 女になって二年、ボクは気分は宙ぶらりんな性別のまま、高校生になった。

 高校は少し離れたところにした。何故かははっきり分からないが、ボクはそうすべきだと思ったのだ。

 何故かついてきた新田と松島、そして広司との新生活は、ボクに未曽有の「事件」を巻き起こしたのだ。


「――っひゃぁ!?」


 普段の柔らかい声が高鳴り、ボクは自分が悲鳴を上げたんだと分かった。

 後ろを睨みつければ、「ごめん、当たった」と軽く笑う男がいた。何かのスポーツ推薦で入った、素行の悪い生徒たちの一人だ。拓原と言ったか、何やら入学式の時もよく目が合っていた気がする。

 こいつはどうやら、ボクに気があるらしい。入学してひと夏を越えた九月の今、とうとう拓原の接触はセクハラにまで発展している。


「げー、ソウちゃんも大変だねえ」


 新田――改め、沙耶がボクの肩を掴んで抱き寄せた。松島――改め、結子も頷いた。


「コラ拓原ァ。いい加減にしとけよ」


 結子がそう言うと、拓原はいつもみたく軽く手を上げてどこかに去って行った。広司がそれを追って教室を出た。広司と拓原は仲が悪い。友達のボクが嫌がらせを受けてるのだからなおさらのようだ。

 ボクは変に触られたことを意識しながら、初潮が来た時以来の、自分が女なのだという実感をかみしめていた。


「ボク、女なんだ」


「あったり前っしょ、ずっと言ってんじゃん?」


 ボクに後ろからもたれかかった結子は、やわやわとボクのこじんまりした胸を触った。

 拓原の時に感じた恥ずかしさみたいな感覚はない。ボクはあの感覚に寒々とした怖さを覚えつつ、何が原因なのかという考えを封じ込めた。


 女子高生というのは、甘いものが好きだ。かくいうボクも例外ではない。

 学校帰りにいつもの三人で、近所で噂のパンケーキ屋に乗り込めば、ボクはワクワクして鼻息を荒くした。


「ソウ、気合入ってんねえ」


 沙耶はそう言いながら、自慢の長髪を後ろで束ねた。本気で食べる腹積もりらしい。結子は頭の上のお団子を揺らしつつ、店の反対側の席を見て顔色を変えた。


「げっ」


 結子はすぐさま視線をこちらに戻すと、前かがみになって声を潜めた。


「最悪、拓原いる」


「はあぁっ?」


 ボクの口から思わず悲鳴じみた奇声が上がり、一瞬店内の視線を総なめにした。ボク自身、こんな声が上がるのはびっくりだった。

 しかしそれ以上に、こんな店に拓原がいるというのが信じられない。あの軽薄な不良顔が生クリームを頬張るのか。ボクは不気味で腕をさすった。


「なんか運動部の男子と、その彼女について来てるみたい。すごい機嫌悪そうな顔してたから静かにしよ」


「う、うん……」


 ボクは少し興が削がれつつ、いずれ運ばれてくるスイーツに気を移した。


「――あ、ちょっとトイレ」


「あーい、店の奥だってさ」


 ボクはパンケーキを食べる途中に催してしまい席を立った。沙耶が後ろでまとめた髪を振りながらトイレの場所を指した。ボクは確かに店内にいるという拓原に見つからないように、こそこそとトイレに向かった。


「……気にしすぎだよな、ボク」


 用を足し、鏡の前でそう呟く。

 高校生になってから調子が狂う。中学まで、それこそ性別なんて気にせずやってきたんだから。……みんな元男だからって分かってたからかもしれない。


「……そうだ、ボクは元男なんだもんな」


 そう説明すれば、あの拓原だって興味はなくなるはずだ。ボクはいくらか調子を取り戻し、普段通りの平静を装ってトイレを出た。


「――お」


「――は?」


 何という悲劇か、ボクが女子トイレを出るタイミングと拓原が男子トイレから出るタイミングは同時だった。


「偶然!やば、付き合いで来てたから伏神と会えてすげー嬉しいわ」


 拓原が弾んだ声で笑った。


「あぁ、そう」


 ボクはムスッとした顔でそう返したが、拓原は機嫌よくボクの肩を叩くばかりだった。


 拓原はボクが席に戻るのを見届けると、自分も席に戻っていった。

 あいつから目を放すと、沙耶も結子もボクの失敗を悟って苦笑いだった。


「……とりあえず、食べる」


「なんていうかさ、うん……」


 普段元気な沙耶も、今回は言葉を濁していた。


 すっかり気分も複雑になったボクたちは、食べ終えるとさっさと会計を済ませた。ボクのせいで引き上げることになったようで申し訳ない。ボクが謝ると、二人とも手を振って「なんでもないよ」と言った。


「――ごめん、ちょっといい?」


「あ?なんだよ」


 店の前で話していたボクの背後から、聞き覚えのある軽口が聞こえた。嫌気と共に振り向けば、なぜか拓原がそこにいた。


「二人には悪いんだけどさ、ちょっと伏神かしてくれない?」


 拓原はぱん、と両手を合わせて首から頭を下げた。結子も沙耶もすぐ反発しそうな不服そうな顔をしたけど、ボクは二人に笑いかけて止めた。


「――良いよ、拓原、行こう」


「え、マジ?」


 拓原はちょっと拍子抜けしたみたいな顔をして、沙耶と結子は信じられないものを見る目でボクを見た。

 思い切ってると思うけど、ボクには元男という切り札があるのだ。いい加減、この男の訳も分からない求愛を断ち切ってやるのだ。


「……ソウちゃんが良いなら良いけど、大丈夫なの?」


 沙耶が強気な目に力を込めた。ボクは苛烈な彼女の性格を思って内心びくっとしたが、何とか頷いて返せた。結子が沙耶の腕を掴んだ。


「ソウちゃんが良いんでしょ?なら、ね?」


「……わかった」


 二人はそれきりで帰っていった。

 残されたのは、ボクと拓原の二人だけだ。


「んじゃあ、ちょっと移動しよーぜ」


「わかった」


 拓原はおもむろにボクの腕を掴むと、長い脚を前後させて歩き出した。ボクは早足で付いて行きつつ、どこに向かうのか不安に駆られた。


「ここ、ここ」


「ここって……」


 拓原が足を止めたのは、何の変哲もない公園だった。ボクは何が良いのか分からなかったけど、拓原は満足げだ。


「あっちにベンチあるから、すわろーぜ」


 ボクはこいつに促されるまま、葉の密度の濃い木々をバックに鎮座するベンチに腰かけた。――あ、ここ昔広司ときたことあるなぁ。


「……なあ、いきなり素直について来てさ、どうしたん?」


 拓原は横に座るなりそう言った。ボクはそれなりの本気の目――ただし、威嚇の意味での――でこいつを見返した。


「まあ、ケリ付けとこうと思って」


「ケリねぇ」


 拓原は訝しげな目をしていたが、ボクは毅然だ。頷いて意を決した。


「拓原はどうしてボクを連れてきたの?」


 ボクがそう聞くと、拓原は「おっ?」と言って軽薄な笑顔を浮かべた。


「どうしてもこうしても、俺ケッコー分かりやすいと思うんだよね」


 分かりやすいも何も、小学生レベルのアピールばかりだったと思うのだが。この拓原というやつは結構顔が良いので、モテてはいるのだろう。噂では高校に入ってから三股がばれて、こっぴどく振られたらしい。


「分かりやすい?」


「うん。俺伏神のことケッコー好きなんよな。付き合ってくんね?」


「……結構、ね」


 ボクは薄く笑ってあっさりと告白する拓原が信じられなかったけど、少しも動揺しなかった。ボクには秘策があるのだから。


「告白は受けらんないな、ボクには理由がある」


「じゃあ、聞かせてよ。その理由」


 ボクは深く息を吸い込んだ。そういえば、このことを中学校の連中以外に言うのは初めてかもしれない。なぜかドキドキしてきた胸を抑えつつ、ボクは一度伏せた目を上げた。


「ボク、元男なんだ。病気で女の子になった、正真正銘男なんだ。信じられないかもしれないけど、本当に……」


 ボクが言い切る前に、拓原は言葉を遮るように、大きめに声を上げた。


「知ってたけど?」


「は?」


「知ってたよ、元男とか」


 拓原はそう言ってボクににじり寄った。

 ボクは言われた内容が衝撃すぎて、詰め寄られるままに拓原を見上げた。元男だけど、付き合える?想像もしなかった返答は、ボクから冷静さを取り除いた。


「な、なんで……」


「元男っていうけどさ、今は女子じゃん?じゃあ女子として付き合うのもできるよな?」


「あ……いや……」


「俺と付き合うの、元男だから無理なんだろ?でも俺は良いからさ」


 ボクは未だに頭がくらくらするような感覚に襲われて、まともに答えられなかった。


「で、でも……わかんないし」


「彼女らしさ的な?だいじょぶだいじょぶ、俺慣れてっからさ~、お試しで付き合っちゃおうよ」


「おためし……」


 拓原は混乱するボクの肩を抱いた。ゾクっとする感触が肩から全身を駆けた。


「そ。……何してんの?」


「……や、その……」


 思わず拓原の腕から逃げたのが気になったか、拓原は少し声を曇らせた。


「ダメな理由は元男だからなんだろ?それともなにか?好きな男でもいんの?あ、女子もあり得んのか」


 拓原は一層腕に力を込めて言った。

 ボクは、誰か好きなんだろうか?どれだけ考えても、沙耶や結子は好きじゃない。一瞬広司が浮かんだけど、そんなのあり得ないと首を振った。


「じゃ、いいじゃん?そんなに気にするんなら、どうでもよくなるくらいイイことしたげっけど?」


「……いいこと?」


 拓原の言葉に首を傾げると、拓原は囁くように言った。


「ここ、外からは見えないんだよね」


「――なぁっ!?」


 見渡せば、確かにここは公園の中でも奥ばった場所にあり、外の公道に面する箇所は木々で覆われほぼ見えない。横にはセクハラが日常茶飯事の男子、ボクが身の危険を感じたのは、呆けた頭でそのことに気づいてからだった。すでに首に回された腕は、ボクじゃ振りほどけないくらい力がこもっていた。


「男だったとか嫌なこと、忘れさせたげっから」


「い、嫌なんかじゃ……」


 ボクの男だった時の記憶は、間違いなく宝物だ。それを忘れるなんてとんでもない。素行不良のクソヤロウには関係ないのか、そっぽを向いたボクの顔を強引に自分に向けた。


「伏神ちゃんも悪いんだぜ?わざわざこんなとこ来るなんて」


「や、やめろって」


「いいじゃん、初カレとの初キスくらい」


 いいじゃんいいじゃんとやかましい。絶対キスだけじゃ済まないような雰囲気だけに、ボクは非力な腕で抵抗した。


「ゴージョーだなぁ。今までで一番かも」


「比べっ……んな!」


 ボクが肩を振って拘束から逃れると、拓原は得意げな顔をしていた。その手には、ボクのスマホと定期の入った財布が握られていた。どうやら掏られていたらしい。


「ほら、無駄だって。逃げんなよ」


 拓原は立ってボクに近寄ってきた。生憎にも、ボクが逃げたのは公園の木々がある方、八方ふさがりの場所だった。頑張ってあいつの横をすり抜けても、どうせ定期券がないのだ。ボクに活路は無かった。


「イライラしてきたし、罰な。付き合えよ伏神、じゃなきゃここですんぞ?」


 遂にボクの目の前にしゃがんだ拓原はそう言い放ち、ボクは足元がぐらりと揺れた。

 こんなバカげたこと……と思ったけど、遠い昔、まだ男だった時、広司に「ここ、夜になったらやべー声するらしいぜ」と言っていたのを思い出した。

 なんとなく、想像が行く。つまりこいつは最初からそのつもりでやって来たのだ。


「どうすんだよ?」


「や……やっ」


「無理とか言うなよ?好きな相手もいねーんだろ?」


 理不尽だ、でも世の中にはこんなやつもそれなりにいる。ボクがこんな奴の言葉に乗ったのも悪いのかもしれない。

 ……どうせ、元男だし。良いっていう奴なんかいないだろうし、ボク自身、気にする理由も無いし。


「――黙ってたらわかんねっ!?」


 ボクが頷きかけた時、拓原は目を丸くして後ろの木を見ていた。


「大丈夫か!?壮太!!」


 ボクも何事かと振り向けば、警察帽をかぶったおじさんと、鬼のような形相をした広司が枝を折りながら姿を見せた。


「……お、親父」


「はっ!?」


 拓原が言った言葉に、ボクは素っ頓狂な声を上げた。この状況で親父と言うと、つまり?


「遥人、話はすべて聞いたが、お前は出家でもしたいのか?」


 警察のおじさんが口を開いた。どうやら正真正銘警察官らしい。


「へ?」


 拓原はその言葉を最後に、親父さんの拳骨によって倒れ伏した。いや、痛がって悶絶し、まともに受け答えもできなくなっただけなのだろうが。


「うちのバカ息子が本当に申し訳ない。許してくれとは言いません、ですが私の目の黒いうちは、もう君に関わらせたりはしません」


「あ……いえ、そんな」


 深々と頭を下げる警察官に頭を下げられる女子高生という絵面に、ボクはいくらか頭を冷やされると、なんでもないと手を振った。親父さんはいくらか安堵したような顔をしたが、すぐさま眉尻を下げて謝罪した。

 後ろでは、その誠実な警察官から生まれた不埒者がゴロゴロと転がっていた。


「そこの彼が私に声をかけてくれて助かったよ。この公園に入ったと、近所の交番の私に言ってくれたんだからね」


 ボクが広司の方を見ると、広司は照れ臭そうにそっぽを向いた。


「……知ってただけっすから、親父さんがいるって」


「はは、女の子のために頑張ったんだろ?カッコいいじゃないか……さて、事情をお聞きしたいのですが、なにせ事が事です、落ち着く時間も必要でしょうし、後日またお話を伺っても構いませんか?」


「あ……はい」


 親父さんは何度も頷くと、学校には連絡しておくと言って、連絡先を渡して去って行った。拓原は首根っこを掴まれ、子猫のように無抵抗のまま運ばれていった。


「……はは」


 ボクは安心してしまって、へなへなとお尻を地べたにくっつけた。


「お、おい。大丈夫か?」


 広司が慌てたようにボクの肩を抱いた。今度は何も怖くない。そればかりか、ちょっと温かい気持ちになった。


「ん。安心したら腰抜けた」


 ボクがそう言うと、広司は「こんなとこじゃ汚れるだろ」と言って、お姫様だっこでボクをベンチに運んだ。


「さっきさ……名前、久々に呼んでくれたね」


「え、あ……あー、うん」


 ボクはさっきの広司の言葉を思い返した。

 広司はボクが女の子になってからというもの、名前で呼んでくれることが少なくなった。

 何故かはわかる。ボクは女の子になったので、きっと距離感がどこかで狂っていたんだ。

 でも、さっき大声で壮太と言ってくれて嬉しかった。ボクは試しによろけて広司の胸元に頭を預けた。

 やっぱり不安じゃない。安心する感じだ。


「……ありがと、広司。……かっこよかった」


「……新田とかに言われて、警察連れてきただけだ。でも…………無事でよかった」


「バカ、広司がしてくれたんじゃん」


「……おう」


 思えば、この時からだっただろうか。

 ボクは広司に恋をした。


 あの事件の後、拓原は退学させられた。あの親父さんが徹底的に教育し直すらしく、定時制に通わせながら何らかを目指させるらしい。まあ、ボクにはもう関係ない話だ。


「ソウちゃんほんっとにごめん!止めたら良かった!」


「……ごめん、退学野郎があんなにバカとは思わなかった」


 沙耶と結子が二人して謝ってきたけど、私には怒る気なんて無かった。

 もう、助かったのだし、何より――


「わ、私……は、気にしてないよ?それより、相談があるんだけどさ……」


 ボクは、私となり、そしてこのお姉さま女子二人の顔を、申し訳なさから好奇心へと変化させた。


「「へえ、好きなんだ」」


 私の恋は、こうして始まった。


 とはいえ、何もすぐに告ったわけじゃないし告れるわけでもない。

 最初は、お弁当を作ったり。次は、おもむろに手をつないでみたり。始めから距離の近かった私たちは、そう簡単には男女の距離が詰まらなかった。修学旅行とかでも、夜デートに誘っても、今まで通りの空気だったし。


 高三が近づいてきた春休み、いつも通り、広司はうちに遊びに来た。大学もサッカーで推薦合格が期待される彼は、何の気負いなく遊んでいる。


「なあ、前から気になってんだけどさ」


「う、うん」


 いつもみたいに、私の部屋の定位置で座ってゲームする広司が、隣で彼に肩を預ける私に声をかけた。私は薄着を揺らして彼の顔を見た。


「……その……壮はさ、男なのか?女なのか?」


「……もーいい」


「え?」


 私は立ち上がって上着を羽織り、戸惑う彼を部屋から追い出した。

 ドア越しに、広司が「どうしたんだよ?」と困惑した。私もこんなに感情的になるなんて自分でもびっくりだけど、この心は収まりそうになかった。


「知らない。自分で考えてみたら?」


 涙をぬぐうと、手の甲には薄く塗った化粧品が付いた。童顔で身長も低めな私だけど、結構頑張っておめかししたのだ。


「……今日は帰る」


 そう言い残して広司は歩み去って行く。やがて玄関の扉が閉められた音が響けば、私はへたり込んで泣いてしまった。

 鈍いやつ。それとも私に魅力がないのかな?なだらかな丘程度にしか育っていない胸を睨む。最近買った春物の服を睨む。沙耶と相談して買ったヘアピンをベッドに叩きつけた。


「ものに当たるとか、子供じゃん」


 私はベッドにうつぶせになると、そのまま朝まで寝入ってしまった。


 翌日、昨日睨んだ服を着て沙耶に結子、そして久々に会う霧島とショッピングに出かけた。霧島は私の変わりように驚いて、「すっかり女性的!」と言った。

 沙耶と結子は「あちゃー」と声に出して霧島に首を振った。


「妙ちん、今ソウちゃんにそれ禁句」


「え?どうして?こんなにきれいなのに」


 訳も分かっていない霧島に、沙耶が耳打ちで何か言った。まあ、おおよそ昨日の件だろうけど。広司は拓原の一件から、結子と沙耶とも連絡を交わすようになったのだ。あいつ、何か相談したらしい。


「……吹野君見る目ないわね……。伏神さんが頑張ってるなんて見たらわかりそうなのに」


「常に見てるもんね。目が肥えてんじゃないの?」


 沙耶が鼻を掻きながら言った。結子は「言えてんね~」と静かに言った。


「ま、吹野もいい加減腹くくるっしょ。それより、今日は今日で楽しもうよ」


「?まあ……そだね」


 結子がパンと手を鳴らしてこの話を終わらせた。

 私だって、楽しみな日を愚痴大会にする気はない。沙耶と結子のニヤッとした顔に違和感を覚えつつも、気にしないようにして新しい服を掴んだ。

 ……広司にこれ見せたら見返せるかな、なんて思った。


 後日、私が部屋でのんびりしていると、不意にインターホンが鳴った。さっきお母さんが出かけたので、私一人だ。誰が来たんだろうとのぞき穴を覗くと、短髪の青年がいた。俯きがちながらも、彼が広司なのだと分かった。

 私はリビングに行ってドアホンで彼に声をかけた。


「……なに?」


 広司はマイク越しに『……あのさ』と切り出した。


『……話すことがあるんだ』


「そう……どうぞ」


 私は改めて玄関に行ってドアを開けた。

 広司は少しばつが悪そうにしながらも、私の顔を見て微笑んだ。


「お邪魔します」


「どうぞ」


 広司と私は、いつもなら世話話をしながら上がる階段を無言で上がる。私がドアを開けると、広司は「ありがとう」とだけ言って部屋に入った。

 後ろ手にドアを閉めて彼を見ると、彼は座らずに立っていた。


「座ってよ」


「おう」


 広司はいつもの場所に腰を下ろした。私も彼と対面するように座ると、彼はおもむろに頭を下げた。


「ど、どしたん?」


「……この前は、ごめん」


 私は急な広司の謝罪に混乱し、少し怒りを覚えた。


「この前って、何?ちゃんと何を謝ってるのか言ってよ」


 私がちょっと語気を強めると、広司は「男か女か聞いて、怒らせただろ?」と言った。


「……うん」


 なんだか怒ったことを言われると、私も短気だったなあと思うけど、今謝るのは負けな気がした。

 広司は神妙な面持ちで語り始めた。


「……引かれるかもしれないけどさ」


「うん」


「俺お前のこと好きだわ」


「…………はひ?」


 私はポカンと彼を見つめた。こんな急に言われて、はいそうですかと返せる女子がどこにいるというんだ。

 広司は続けた。


「でもさ、俺がお前のこと好きだって思ってても、壮がそのつもりないなら黙っとこうって思ったんだよ。だって冷静に考えたらドン引きだろ?壮にそんなつもりがないならさ」


 広司が「な?」と言った。私はこくこくと頷くしかなかった。


「でも毎日会ってたら分かるんだよ、壮がすげえ可愛くなるの。拓原ん時とか、俺あいつのこと埋めてやろうとか思ったよ」


「や……埋めなくても……」


 広司は「分かってる分かってる、本気だけど」と言って続けた。


「それに、壮も距離感詰めてきてさ、もしかして両想いかもとか悩んでさ、でも壮は壮だし、スパッと告白もできなかったんだよ」


「そ……そーなんだ」


 私は次第に言葉に熱がこもり、私の方にグイッと寄ってきた広司に気圧された。広司は目と鼻の先まで寄っていた。


「俺、昨日松島に言われて情けなかった。親友同士、あの距離感でどっか満足してたんだな。男か女かとか聞く以前に、壮はすげえ頑張ってたもんな」


「お……おう」


 ニカっと広司が人懐っこい笑顔を浮かべると、私の胸は高鳴った。なんだか、頑張りが認められてたようで嬉しかった。


「壮、俺から見たら、壮は元気をくれる頑張り屋で、照れるくらい可愛くて、かけがえのない親友で、幸せにしたい女の子なんだ。壮が良ければ、俺と付き合って欲しい」


 手を伸ばさずとも触れ合えるくらいの距離感で、私は広司に告られた。色々みられる距離感なのに、そして私は涙を流しながら鼻をすすった。


「私もっ……この前きつく言ってごめんね……引かれるかもしんないけど……私もあなたが好きでしたぁっ!」


 ようやくと言うべきか早くもと言うべきか、女になって五年目に差し掛かろうとするこの日に、私は広司と付き合い始めた。


 ……まあ、別に意識が変わっただけで、やることは変わらない。告白を受けて三十分もすれば、私は広司とゲームをしていた。

 彼の膝の上を占拠して、という違いはあるが。


「なあ、これで晩飯賭けて勝負すんのは不公平じゃね?」


「なんだよ。私はこれしてみたかったんだし良いだろ~?」


「いや……まあ、良いけどよ……押し付けんなよ」


「知らんな」


 私は見事に広司にダブルスコアを付けて勝利し、二人してディナーに行ったという両親に対抗して彼氏と晩御飯を食べに行った。


「あ、壮の母さんに俺が頼んだんだよな、家を空けてもらうのは」


 広司は注文したハンバーグをつついて言った。


「……なんか、複雑。てか、親はもしかして私と広司のことは?」


「百も承知」


「……なんだかなぁ~」


 私が知らないところで、色々と筒抜けすぎじゃないか?いや、緊張しながら彼女になったとか言うくらいならその方が楽には違いないけど。

 私はサンドイッチをつまみながら、我ながらむすっとした顔で広司を睨むのだった。


 高三といえば、受験戦争が始まる。

 私はスポーツ推薦に胡坐をかく広司を睨みつけつつも、受験で彼と同じ大学に合格するために勉強を始めた。

 頑張りすぎたような気もするけど、おかげでグロッキーになりながらも彼と同じ大学に通うことができるようになった。

 沙耶と結子は短大に行ってしまうみたいだったけど、絶対連絡はしあおうという話をした。……後は、下衆の勘繰りも。


「――ま、カレシと同じとこ通えてよかったじゃん。寿退学なんてしないよーにね」


 私の合格を聞いた結子がこう言った。沙耶がそれに大うけし、私の肩をバンバン叩く。


「あははっ!でもそれでもお祝いはするかんね!」


 私は思い切り息を吸い込むと、「するか!!!そういうのは結婚した後にするの!」という宣言をクラス中に発表することとなったのだった。


 ……まあ、大学へ行って何度かヒヤヒヤすることになるんだけど。


 入学を控えた長い長い春休みのある日、私は広司の家に泊まった。今まで勉強で我慢していたことを、遂に実行しようとしたのだ。

 広司の両親が会社の勤続報酬だか何だかでいない夜、私は遂に広司にすべてをさらけ出した。顔が燃えるほど恥ずかしく、うれし涙が出るほど願った日であった。

 それからは、人によっては爛れすぎと怒られるような日々を送った。それは大学に通うことでいくらか収まったが、私たちの好奇心が収まることはなかった。


「さ、流石にこのペースはヤバい」


 寝転びながらそう言うと、汗を流した広司はばつが悪そうにそっぽを向いた。


「……そうかもな」


 あの日あの時冷静にならなかったら、いつまであんな日々を送っていたんだろう。私には想像もできない。


 ともあれ、私たちは平凡な大学生として過ごした。告白までの、そして告白の時みたいな緊張の瞬間なんてのはなかったけど、胸を張って幸せだったと言える。

 ……それを広司に言ったら、張る胸なんてないんだけどと言われたが。そのせいで彼に張り手の痕ができたのは言うまでもない。

 サークルでも有数のバカップルという私たちの噂は、笑い話として広まった。


 散漫に紹介したけど、私たちの関係は高校の時にか、それ以前に出来上がっていたのだ。

 それを語るのは、また違うお話だ。


 時は流れる。広司はそれなりの有名企業に、私は在学時からちょくちょく応募していた賞を受賞し、ちょっとした作家になった。本は好きだし、活字は得意だ。まさに天職ともいえる職に就けた。


「俺たちも生活落ち着いてきたなあ」


 広司は夕飯を食べ終えた後にそう言った。私は洗い物をしながら頷く。


「そだねえ。毎日エナドリ飲んでた時はどうなるのかなって思ってたけど」


 私は広司が一番参っていた時のことを思い出す。あの時は私に膝枕してだとか、抱きしめてとか言ってきて可愛かったものだが。

 広司は「やめろやめろ」と私の変な想像をかき消すように照れ笑いをした。


「……よし!」


「どったの?」


 私は広司の手招きに応じて手を拭きながら歩み寄る。すると広司は急に私を抱きしめて、耳元に口を持ってきた。


「壮、俺はお前を幸せにしたい」


「う、うん……」


 私はそれだけで今から臨むことに思い当たり、喜んでという覚悟を決めた。

 確かに、もう良い頃合いかもしれない。


「壮、もうお前無しじゃ生活できない。俺と結婚してください」


「――はい、喜んで」


 思ったより気負わず言えたけど、その言葉で堰を切ったように涙がぽろぽろ流れ出た。


「はは、壮はこういう時いつも泣いてるな」


「だっでぇ……うれじいだろ……」


 それまでは嗚咽か返事か分かんないけど返事できたけど、広司の取り出した指輪を見たらもうダメだった。しばらく感涙に溺れるほど泣いて、付けては感動して、何人子供が欲しいかで顔を真っ赤にした。


「――と、とりあえず、一人!」


「とりあえず生みたいに言うなっ……て、これじゃ意味深だなぁ」


 私たちは笑いあい、結局その日は式場を検索するうちに寝コケてしまっていた。


 ―――


「――結婚おめでとーっ!!」


「わは、ありがとう」


 沙耶が白いドレスを着た私を見るや否や弾けてこっちに来た。結子は妙を引き連れて歩いてきた。「皺になるから飛び掛からんぜ」という沙耶は、私の顔を見てにんまり笑った。


「大学の内は我慢したんだねえ、吹野壮太先生?」


「……まあ、ばれるよなあ」


 私は作家としてのペンネームを、結婚前より吹野壮太としていた。事実婚みたいなものだし、書いてるのは冒険ものだし良いよね、というわけだ。

 お父さんもお母さんも、このペンネームに喜んでたみたいだ。思えばあの時から結婚するんだろうなって見透かしていたのかもしれない。


「私結構読んでるわよ?この前の新作続き待ってるからね」


 妙はそう言ってよそ行きの眼鏡を掛けなおす。私は照れ臭くなって、「へへへ」と笑った。


「……ソウちゃん、頑張ったね」


「……うん」


 結子はそれだけ言って笑った。

 ちなみにブーケを勝ち取ったのは彼女だ。今の彼氏が弱腰で、交際三年目にして全くその気を見せないという。彼女はブーケを掲げ、「早くしろー!!」と叫んでいた。


 中学、高校の友人とも話したし、私が元男だと知っているみんなは口々に「頑張ったな、おい!」と騒いだ。広司はしばらくみんなに揉みくちゃにされてモノにならないだろう。

 呆れていると、お母さんがやって来た。


「壮、本当に、良かったね」


 涙の跡が見える顔でお母さんは笑い、


「うん。私は、幸せだよ」


 私はそう微笑んだ。お父さんは既に泣き崩れ、親戚のおじさんたちによって運び出されている。


 こうして私と広司は夫婦となった。まあ、やることは変わらない。強いて言うなら、「これでようやく後腐れがなくなった」と言うべきか。


「俺は、まだ我慢できる」


 広司は新婚旅行先で意地を張った。

 収入とか色々気にしてたし、私だって気持ちはわかるけど。


「この売れっ子作家様がついてるよ」


「新作ウケたもんなあ」


「それなら広司はこの前出世したじゃんか」


「いやいや」


「いやいやいや」


 そこまで言って、私たちは笑った。

 心配はない、きっとこの先も頑張ってみせる。


「……じゃあさ、良いよね?」


「あぁ、良いぞ」


 私たちは二人っきりで、子供を欲した。


 ……それが一撃で決まってしまうとは。

 広司も私も検査結果に口をあんぐり開けたが、結果は裏切らない。私はお腹を撫でて、次に広司を撫でた。


「私、頑張るね」


「無理はしないでくれよ、支えるから」


 そして月日は流れ、私はこうして産婦人科で外を眺めている。

 広司は今頃会社のデスクにいる。会社からは私に付き添えと言われたみたいだけど、私は仕事に行って来いと尻を叩いたのだ。

 陣痛が来たら来ることにはなってるけども。


「あなたはどんな子だろうね~」


 優しくお腹を撫でたら、お腹の子が答えるようにお腹を蹴った。その反応がおかしくて笑っていると、不意にその時は訪れた。


「――あ“ぅっ!?」


 私は咄嗟にナースコールを押した。

 痛い。今まで感じたことのない感覚が体中を駆け巡る。私の人生の大一番、陣痛が到来した。


「――吹野さん頑張って!ほら、母親になるんだから!ここで気張らないでどうするの!」


 助産師さんからの叱咤が飛び、私は何度目か分からない叫び声を上げる。いつの間にか手を握っていた広司の手を握りしめると、不思議と元気が湧いてきた。


「壮、もう少し、もう少しだから」


「――ゥン!うん!」


 覚えているのはそれくらい、気づけば、産婦人科の一室に大きな泣き声が木霊していた。


「吹野さん、吹野さん。よく頑張りましたね、すっごく元気な女の子ですよ!」


 助産師さんが取り上げた小さな人は、大事に布にくるまれ、私の胸元に抱き寄せられた。

 目もほとんど開いていないその子は、確かに私に答えてくれたあの子であり、元男の私が広司と成しえた我が子なのだ。


「――ありがとう」


 私はいろんな感情に包まれて、結局そうとしか言えなかった。隣の広司は赤ちゃんを満足そうに眺めている。


「壮、本当にありがとう。俺、すげー頑張るから」


 私は彼に笑いかけ、赤ちゃんに彼を紹介した。


「ほら、この人がパパよ~。いっぱい可愛がってもらおうね」


 まだ赤ちゃんは答えてくれないけど、広司の指を握りしめる様子は親子なんだと思わせた。


「それでは、お父さんは一時退出を……」


「え、あ、はい!それじゃな、壮、それに娘よ!」


「あは、なにそれ」


 広司はお医者さんに言われるまま、上機嫌で出て行った。

 出産を終えた妊婦というのは、赤ちゃん以外にもお腹から出てくるものがあるらしい。それがかなりグロテスクなので、男性は見ていられないとのことだ。


「――良かった、本当に」


 私は胸元の確かな重みを感じつつ、安心とも満足ともつかない、とても満ち足りた感覚に包まれるのだった。


 こうして、私は晴れて母親になった。

 思えば、あの日女にならなかったらこんな日は永遠に来なかった。

 最初はなんで自分が、と納得がいっていなかったけど、今となっては私で良かったと思う。

 きっと幸せになってみせると決意したのはいつだったか。いや、今日もまた新たに決意はしたと思う。

 新生児を連れて帰った家が、男手一つで管理されたがゆえに荒れ放題でなかったらもう少し気分は良かったと思うかもしれないけど。


「――もう、一緒に掃除しよ」


「ははは……悪い」


 私に抱かれた新生児は、私たち親を見て呆れたように笑った……気がする。

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― 新着の感想 ―
[一言] 男子やめました。の方も、この短編小説もですが自分も追体験してるような感じで幸せな気分にさせてくれるので最高です。次の小説は2つの作品の良いとこ取りで書いてみてほしいです。楽しみに待ってます!…
[良い点] 控えめに言って最高でした。 小学校から始まって波乱の一時があり、それでも周りの励ましでなんとか持ち直す。そこから高校で障害がありつつもそれを助けてくれる親友。そこから恋して、気づいてほしく…
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