序章〜 1
赤、朱、紅。滴り落ちていくのはその色の雫。
違う。違うの。欲しくない。欲しくないのに。……求めてしまうの。頭が、身体が。
「朝妃!」
横から悲鳴のような甲高い声で名前を呼ばれ、ふっと意識が現実側へ引き戻された。顔を向けると、お母さんが顔を蒼褪めさせながら駆け寄ってくる。お母さんは持っていた荷物を床に放り投げ、私の手を取った。
共働きの両親に代わってキッチンで夕ご飯の準備をしていた私は指を切ってしまっていた。傷は意外に深く、手を腕をつたってそこから流れ落ちる血。それをさっきまでどんな気持ちで見ていたか思い出した時、全身を悪寒が走った。
あれはまるで……そう、吸血鬼みたいに。
血を求める?そんなわけない。だって、私は吸血鬼でもなければ血を飲みたくなる病気でもない。
違う。違うの。
……なのに、どうしてそんなに慌てて傷を覆うの?
どうして泣いているの?
「……お母さん、なんで」
「朝妃、貴女は私達が守るから。ずっと一緒にいるんだから」
似たようなことを繰り返すだけで、私の話を聞こうともしてくれない。
なんでもテキパキとこなすお母さんが今までこんな風に情緒不安定になったことは、覚えている限り一度もない。
縋りつくように抱きしめられ、お母さんは僅かに震えていた。
「……お母さん?」
背をさすり、呼びかけても返事が上手く返ってこない。
どうしたものかと戸惑っていると、玄関の方からガチャガチャと音がする。お父さんは今日は夜遅くなるからと言って朝、仕事に出かけたから違う。
お母さんと顔を見合わせると、お母さんはキッチンを出てリビングのドアを開けようとして、火がついたかのように手を離した。それから引き返してきて、私の手を取ってキッチンにある裏口から飛び出した。
「お母さん?どうしたの?誰だったの?」
「いいから!走りなさい!」
家の敷地から出ると、駅の方へ行く道がのびている。その道を二人で走った。辺りは夕暮れ時で、これから家路につく人達でそれなりの人通りがあった。
キキキッと車のブレーキがかかる音が車道側の後ろからして、お母さんがサッと振り返ってすぐに足を止めた。
「沙羅!朝妃!」
「お父さん!」
「早く乗れ!」
さっきの家の玄関の物音はお父さんだったのか、なんて問いかけは必要ないことに気づいた。
だって、もしお父さんならこんな風に二人して慌ててたりしていない。それに、そもそもこうやって外に逃げ出すような真似しなくていいんだ。
だったら、あの時玄関にいたのは……ナニ?
分からないことが不安で仕方ない。
けれど、それを二人に聞けるような余裕は今はない。それに、きっと聞いても教えてくれないだろう。
言われるがままに車の後部座席に乗り込むと、周囲の確認もそこそこに発車した。
「アレが家に現れたの!どうして!?アレは村から出てこないはずでしょう!?」
「……落ち着け。朝妃も聞いてる」
お父さんの冷静な言葉を聞いてお母さんがハッとした顔で後ろにいる私を振り向いた。それから気まずそうに顔をそらした。
「今日はとりあえず念のためにホテルに泊まろう。そう長く留まりはしないと思うけど、念には念を」
「お父さん、前っ!」
「……っ!」
電柱のような何かが道の真ん中に立っていた。いや、私が見ていたのが確かならそれは突然現れた。
それを避けようとお父さんはハンドルを思い切りきった。
気づいたら病院のベッドの上に私はいた。
「……ここは」
すぐに看護師さんやお医者さんがやって来て、色々な質問をしていく。名前だったり、住所だったり、生年月日から家族構成まで。
そしてあらかた聞き終わったのか、お医者さんが看護師さんと目を合わせた。そして、お医者さんがこう告げた。
「貴女のお父さんとお母さん、そして君は交通事故に遭って、今朝方ご両親は共にお亡くなりになりました。手は尽くしましたが、至らず、申し訳ございませんでした」
すぐにはその言葉の羅列の意味を飲み込めず、お医者さんと看護師さんに頭を下げられたのを黙って見つめた。
徐々に頭にその言葉の意味するところが浸透していき、頭が理解しようと働き始める。でも、心は追いつかなかった。
「じ、こ?」
「無理に思い出す必要はないですよ。ゆっくり、時間をかけて」
「え、事故……うそ、そんな事故なんて」
だって、私は無傷なのに。
事故なんて信じられない。
だって、私、お父さんとお母さんが帰って来る前にって夕ご飯作ってて……作ってて、それで。
……それから、何してた?
私の様子がおかしい事に気づいたお医者さんがまた質問をして来た。
昨日は何をしていたか、お父さんとお母さんとどこに行こうとしていたのか、何時くらいに家を出たのか。直接的に事故とは関係ないようなことをいくつか。
そして念のためと色々な検査を受け、再び病室に戻った私を訪ねてきたお医者さんが出した診断。それは解離性健忘といういわゆる記憶喪失と呼ばれるもの。
事故の少し前から病室のベッドで目を覚ますまでの間の記憶が私の中から完全に消え失せていた。