贖罪編42 赤く咲く
扉の向こうに消える四人の後輩を見送り、雪村ましろは心の底から安堵した。
実力で自分よりはるかに劣る四人に、この事件の黒幕を任せた理由は四つ。
一つ、自分では八雲の姉である奈雲を殺してしまうかも知れないから。
二つ、事件の事後処理で自分や諏訪彩芽の関与を否定する必要があったから。
三つ、他でもない大地の手で、事件の解決を望んだから。
そして四つ、この鬼を倒すために全力を出せば、彼等を巻き込んでしまうから。
(まだ、近い)
四人の足音は、未だこの隠れ家の中から響いてくる。
同じ施設内に居れば、この部屋にいるのと同様に彼等を巻き込んでしまう。そう考えたましろは、しばらくの間防戦に徹した。
壊れてしまった異能具を投げて鬼を牽制し、可能な限り距離を取る。
鬼が標的を自分から彼等に移さない程度の距離で、回避を繰り返す。
(久しぶり、だな。これ、使うの……)
雪村ましろは、自身の異能を恐れていた時期があった。
半異能の人間は、肉体の成長と同じように体内の異能が急成長する時期があり、ましろの異能が成長したのは中等部の一年生の頃。クラスの女子と比べて若干遅かった。
成長を迎える前のましろの異能は、ジュースの温度を保ったり、グラスの結露した水滴を凍らせたりする程度のもので、今とは比べものにならないほど弱かった。
だからましろには、自覚が足りなかった。
事あるごとに母に言われていた、雪女の力の恐ろしさが、微塵も分かっていなかった。
十三歳になったましろが冬季休暇で自宅に帰ると、家族が一人増えていた。
黄金色の毛並みを持つ、手のひらに収まる大きさの毛玉。
好奇心にその目を輝かせて自分を見つめるゴールデンレトリバーの子犬は、両親から自分への誕生日プレゼントだった。
自宅の喫茶店で提供しているましろのお気に入りメニューと色合いが似ていたことから『はちみつ』と名付けたその子犬に、ましろはべったりになった。
率先して散歩に連れて行き、飲食店なのだからと両親に叱られることも厭わず店にまで連れ込み、弟のように可愛がった。
そして、短い冬季休暇の最終日に、事件は起こった。
明日から学校で、しばらくはちみつに会えなくなる。それを寂しがったましろは、自室にはちみつを連れ込んだ。
ましろの実家は一階が喫茶店、二階に両親の部屋とリビング、三階にましろの部屋があり、三階の部屋にはちみつを連れ込むことは禁止されていた。
理由を問うと、母はしかめ面をしながらこう言った。
「ましろもそろそろ異能が成長する時期なんだから、万が一異能が暴発したら大変でしょ?」
その言葉に、異能の恐ろしさを自覚していなかったましろは首を傾げた。
自分の異能は弱く、またその制御も自分では完璧に出来ていると思っていたからだ。
成長したところでたかが知れているし、暴発させるようなヘマはしない。
若さゆえの全能感と、若干の反抗期が相まって、ましろは言いつけを破り、布団の中ではちみつを抱きながら眠りについた。
そして翌朝、はちみつは冷たくなっていた。
何が起きたのか分からなかった。
揺すっても返事をしない小さな体に、この世の終わりのような絶望感を覚えた。
母があんなに怒ったのを初めて見た。
父に頬を叩かれたのは初めてだった。
自分の中には相手を死に至らしめる力があったのだと、初めて気付いた。
それからましろは、異能を使うことを恐れた。
この手から溢れる冷たい力が、隣にいる人を氷漬けにするかも知れない。
その事実に、ただただ怯えた。
雪女の里のしきたりにより、成長したましろは里を訪れることになった。
そこで初めて全力で異能を行使し、その凄まじさに身の毛がよだつ思いをした。
トラウマを克服するまでに一年掛かった。
霊官の資格を取った後も、全力で異能を行使することは数えるほどしかなかった。
しばらくしてましろは、自分の異能に一つの名前を付けることにした。
はちみつの冷たい体を忘れないために。
自分の中に流れる化け物の血を魂に刻むために。
このおぞましい力にふさわしい、地獄の名前を付けることにした。
「……そろそろ、いい、かな?」
四人の足音が聞こえなくなってから数分、彼等が十分に自分の射程距離から離れたことを確認したましろは、防戦をやめた。
足を止め、眼前の鬼を見据える。
地獄には鬼がいると言うが、ここで鬼を殺める自分は、きっと地獄に落ちるのだろう。
そこでたっぷり復讐して欲しい。
その時には甘んじて罰を受ける。
そう覚悟を決めながら、向かって来る鬼に向けてましろはゆっくりと両手を前に突き出した。
地獄には針山や血の池を有する八つの灼熱の地獄と、それと対を成す八つの氷の地獄があるという。
地獄の存在は異能の世界では否定されているが、そんなことはどうでもいい。
ただ今だけは、地獄の冷気の名を借りる。
ましろは突き出した手に意識を集中し、ゆっくりと口を開いた。
八つある氷の地獄の中で、最も罪が重い者が落ちる、極寒の地獄。
自らの異能に冠した、その名を呼ぶ。
「……摩訶鉢特摩」
ましろがその名を呼んだ途端、鬼は前のめりに倒れた。
床には先ほどまで体と一体だった両足が凍ってへばり付き、体は床に倒れるより前に粉々に砕けた。
鬼の肉や血が辺りに散乱し、赤い粉をばら撒いたように部屋の中を真っ赤に染めた。
摩訶鉢特摩、別名大紅蓮地獄。
別名の由来は、凍りついたことで罪人の体が弾け、周囲を血や肉が赤く染め上げることから。
先ほどまで戦闘が行われていた部屋は、温度が細菌や微生物まで活動を停止する限界点を遥かに下回り、水分が凝結した神秘的な白の世界となった。
白い氷のキャンバスに咲き誇る、赤い血肉の花。
美しく、幻想的な、死の世界。
地獄の住人であるはずの鬼を使い、ましろはこの地下室に地獄を再現した。
生きとし生けるもの全てが死に絶える世界にあって、彼女はただ、足元に広がる肉片を見下ろした。
「……寒い」
冷気に耐性のある雪女だが、それは凍死することはないが寒くない訳ではない。
下手な冷凍庫よりも冷たくなった部屋の中で、ましろは、はぁ、と白い息を吐いた。
「もうすぐ、夏休み。はちみつ、元気かな?」
余談だが、彼女の手の中で冷たくなった愛犬のはちみつは、両親と町の獣医の懸命な治療の末に一命を取り留めた。
今は立派な成犬に成長し、喫茶店の二階でましろの帰りを待っている。
異能を使うたびにはちみつのことを思い出し、早く会いたいと願うましろ。
犬好きであるましろがオオカミの異能混じりである大地を気に入るのも仕方ないことだった。
「頑張れ、ワンちゃん」
ましろは天井を見上げ、その向こうで懸命に戦っているであろう後輩にエールを贈る。
決着の時は、間近に迫っていた。




